幽刀星

氷翠

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歩・四十四「動」

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宿の部屋は、思った以上に狭かった。
剣を振ろうとすれば天井に当たり、足を踏み込めば壁が近い。
腕立て伏せをすれば床板が軋み、呼吸を整えるだけで、妙に苛立ちが募っていく。

「……くそ」

無意識に、拳を壁に叩きつけそうになって、寸前で止めた。
意味のない破壊は、何の役にも立たない。
身体を動かしたい。

いや――動かさなければならない。

エンカイ子爵が戻るまで、まだ長い時間がある。
待つだけで、何もせずにいられるほど、俺は器用じゃない。
扉を開け、廊下に出ると、護衛の冒険者たちが一定の距離を保って配置についていた。
その中に、ベンの姿がある。

「ベン」

声をかけると、すぐにこちらを向いた。

「どうした」
「……身体を動かしたい。このまま部屋に籠もってるのは、正直きつい」

ベンは少し考えるように顎に手を当てた。

「分かる。お前みたいな奴が、大人しくしてられるわけねぇよな」
「護衛の条件に反するなら、諦める」
「いや」

ベンは即答した。

「条件は“安全を確保すること”だ。動くな、じゃねぇ。なら、ちゃんと場所を選べばいい」

少し間を置いて、ベンは続けた。

「このダアトで、広くて人目が少ねぇ場所……あるっちゃある」
「どこだ?」
「ギルドの裏手だ。使われなくなった訓練場がある」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。

「そこへ行こう」
「待て」

ベンは周囲を見回した。

「この人数でぞろぞろ歩くのは目立つ。念のため、移動経路を分けるぞ」

集まっていた護衛の冒険者は、全部で十人。
ベンと俺を含めて十二人。

「三人ずつ、時間をずらして動く。道も分ける。十二人が固まって歩いたら、逆に“何かあります”って言ってるようなもんだ」
「分かった」

指示は的確だった。
さすが、長く前線にいた男だ。
こうして、俺たちはバラバラに宿を出た。



訓練場は、ギルドの裏手、倉庫街のさらに奥にあった。
石で囲まれた、広い空間。
地面は踏み固められ、ところどころに古い木杭や、壊れかけた標的が残っている。
ここなら、思い切り身体を動かせる。
到着するなり、俺は剣を抜いた。

「まずは、一人でやる」

誰に言うでもなく、そう告げて、呼吸を整える。
一歩、踏み出す。
二歩、踏み込み、斬る。
剣が空を切る音が、乾いた訓練場に響いた。
最初はゆっくり。
型を確認するように、確実に。
だが、次第に速度を上げていく。
身体が熱を帯び、思考が研ぎ澄まされていく感覚。

――これだ。

しばらくして、ベンが前に出てきた。

「俺も混ざるぞ」
「望むところだ」

木剣を手にしたベンが構える。
次の瞬間、ぶつかり合った。
重い。
だが、速い。
盾戦士としての動きとは思えないほど、踏み込みが鋭い。
剣と剣がぶつかるたび、金属音が弾ける。
周囲で見ていた冒険者たちが、思わず息を呑むのが分かった。

「……なんだ、あれ」
「化け物同士だろ……」

そんな声が漏れる。
俺も、ベンも、手を抜かない。
訓練だからこそ、遠慮はしない。
何合打ち合ったか分からない。
汗が額を伝い、呼吸が荒くなる。
それでも、身体は止まらなかった。



――その時だった。

訓練場の入口が、ざわりと騒がしくなった。
視線を向けると、数十人の男たちが、なだれ込むように入ってきていた。
武装はまちまち。
だが、全員が“場慣れ”している。
冒険者とは違う。
もっと、生臭い気配。
ベンが低く唸った。

「……来やがったか」

そして、その先頭。
一歩前に出てきた男を見た瞬間、背筋が、凍りついた。
長い髪。
刃物のような視線。
薄く笑う口元。

――間違いない。

「……バラキエル」

男は、こちらを見据え、まるで訓練の続きを眺めるかのように、楽しげに笑った。

「へぇ……噂以上だな」

その声が、訓練場に静かに響く。
周囲の冒険者たちが、構えを取り、息を詰める。
俺は剣を握り直した。

――動いた。
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