幽刀星

氷翠

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歩・四十六「滲」

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刃が擦れ合う音は、もう音楽じゃない。
鼓膜の奥に貼りつく、金属の悲鳴だ。
訓練場は、いつの間にか“戦場”として完成していた。
地面は踏み荒らされ、血が細い線になって走り、折れた木杭が転がる。壁際には倒れた闇ギルドの男がうずくまり、別の男は歯を食いしばりながら立ち上がろうとしている。
護衛の冒険者たちは、誰も逃げていない。
傷を負っても、その場に踏みとどまる。
対して闇ギルドは倍以上。倒れても次が詰め、隙を埋め、声もなく囲い直す。
数が正義だと信じている連中。
だが、その正義の中心には――奴がいる。

バラキエル。

俺の目の前で、笑っている。
戦いの只中に立っているくせに、まるで“何かを確かめるだけ”の顔だ。

「悪くない」

バラキエルが言った。

「その動き。踏み込み。目の焦点。……練れてる」

褒め言葉の形をした刃。
俺は返さない。返す価値がない。
剣を返し、間合いを詰める。
踏星で一歩、二歩。重心を低く、刃先を相手の中心へ落とす。
バラキエルは半歩も引かない。引かずに、こちらの刃を“ずらす”。剣の腹で受けるのではなく、刃の角度を変えて、俺の力を空へ逃がす。
空振り。
その瞬間、喉元に冷たい線が走った。
避けた。
紙一枚。
風が首筋を舐めた程度なのに、背筋が凍る。

「……っ」

俺は刃を引き戻し、腕を返し、もう一度斬る。
今度は縦。踏星の踏み込みを深くし、体重を一気に乗せる。剣が落ち、空気が裂ける。
バラキエルは笑いながら、最小で避ける。
剣先が髪を僅かに撫でただけで終わる。

「殺気が強いな」
「黙れ」

短く言って、次の手へ入る。



背後で、盾が鳴った。
ベンだ。
あいつは最後まで“盾役”に徹している。
前に出て戦うより、他の冒険者を生かすために動いている。
盾は壁であり、合図でもある。
盾を打ち鳴らせば、味方が息を合わせる。
盾を斜めに差し込めば、矢も短槍も逸れる。
盾を押し当てれば、敵の踏み込みは死ぬ。

「固めすぎるな!! 左右に逃がせ!!」

ベンの声が飛ぶ。
冒険者たちが散り、闇ギルドの包囲が一瞬だけ乱れる。
そこへ別の冒険者が技で割り込む。火花が散り、地面が抉れ、血が飛ぶ。
派手だ。
だが派手なだけじゃない。
一つの動きに、必ず理由がある。
闇ギルドの連中も同じだった。
誰かが囮になり、誰かが脚を狙い、誰かが背を取る。
連携の形が、いやに整っている。指揮者がいる。
それがバラキエルなのは、疑う余地もない。

「余裕かよ……」

唇の内側を噛む。
俺はバラキエルの目を見た。
そこに映っているのは、戦場じゃない。
“実験台”だ。



俺は技を重ねた。
これまで身につけたものを惜しまず吐き出す。
踏星で死角へ滑り、刃を当て、引く。
踏み込みと同時に柄で押し、相手の重心を崩し、切り返す。
受ければ、返す。返されれば、外す。
呼吸を短く刻み、視界を狭めず、相手の肩と腰だけを見る。
一瞬でも“考える”と遅れる。
バラキエルはそれを知っている。

「いい」

バラキエルが呟いた。

「もっと出せ。……もっと」

俺は苛立ちを噛み殺した。
この男は、俺を殺しに来たんじゃない。
俺を“壊す”ために来た。
いや。
正確に言えば――俺の中にある何かを引きずり出すために。
それが何かは分からない。
だが、そういう確信だけが胸の奥に残る。



刃が交わる音の合間、バラキエルが妙に穏やかな声で言った。

「お前は、まだ“それ”を飼ってる」
「……何の話だ」
「分からない? なら、分からないままでいい」

笑う。
その笑みが、ひどく不快だった。
俺の足が止まりそうになる。
止まれば負ける。
俺は踏星で横へ滑り、刃を振る。バラキエルの脇腹を狙う。
だが、その刃はまた“空へ逃がされる”。

「お前の怒りは、正しい」

バラキエルは言った。

「仲間を殺され、疑われ、追われる。……正しい。美しい」
「美しい?」

思わず声が荒れた。
胸の奥が燃える。
怒りが、腹の底からせり上がってくる。

「レミエルも、カサレアも、エノクも!! お前らにとっては――何だ!? 数字か!? 遊びか!?」

言葉が止まらない。
止められない。

「エノクは!! 名前も知らない場所で、誰にも見られず死んだ!! レミエルは!! 笑ってたんだぞ!! カサレアは!! 最後まで仲間を守ろうとして――!!」

喉が熱い。
視界が揺れる。
怒りが、身体を支配する。
バラキエルは、その怒りを眺めるように目を細めた。

「そうだ」

と、奴は頷いた。

「それだ。……それが欲しかった」

その瞬間、ぞっとした。
欲しかった?
何を?

「お前は何を言ってる」

俺が吐き捨てると、バラキエルの目が少しだけ濁った。
いや、濁ったんじゃない。
“ずれていった”。
思考の歯車が、正常な位置から外れていくのが見えるようだった。

「死は、終わりじゃない」

バラキエルは言う。

「死は、門だ。……門が開く。開いた瞬間、内側の“器”が変わる。お前は、その器として優秀だ。だから――」
「だから?」
「壊して、確かめる」

淡々と言った。
呼吸の調子も変えずに。
人を斬ることと同じ温度で。
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが切れた。
怒りじゃない。
怒りの次の段階。
熱が一気に引く。
血が冷える。

「……お前、狂ってるな」

自分でも驚くほど、声が低かった。
怒鳴る気が失せていた。
目の前の男が、突然“理解不能な物”に見えた。
バラキエルは笑った。
だが、その笑いはさっきまでと違う。
どこか、焦点が合っていない。

「狂い? 違う。これは合理だ。お前は、まだ分からない。分からないから、壊す。壊せば、分かる」
「分かるわけがない」

俺は剣を構え直した。
怒りじゃない。
冷えた感情で刃を立てる。
バラキエルの目が、俺の刃を追う。
追いながら、どこか嬉しそうだ。

「その温度だ」

バラキエルが呟いた。

「熱が引いた。いい。……滲んでくる」
「……何を言ってる」

その瞬間だった。
胸の奥が、軋んだ。
さっきまでの怒りでも、恐怖でもない。
もっと深い場所が“割れる”感覚。
背中が冷える。
胃の裏がひっくり返るみたいに、内側が蠢く。

それでも――

その制約の中で、あり得ない形が起きた。
俺の身体の内側から、黒いものが――
まるで“滲む”ように、薄く漏れ出した。
背中の縁。
肩甲骨のあたり。
皮膚の下から煙が染み出すみたいに、静かに。
誰にも見えないはずのそれが、今だけは“形”になりかけている。
バラキエルの笑みが、ゆっくり深くなった。
黒が、俺の影から離れずに、確かに外へ滲み出ていた。
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