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歩・五十「令」
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港の匂いが変わった、と気づいたのは昼前だった。
潮の湿り気に混じって、金属と革の匂いが流れてくる。護衛の鎧、馬具、道を急ぐ集団の気配――あれは帰還の匂いだ。
宿の階段を上がる足音が、いつもより硬い。
扉の前で止まり、短くノックが鳴った。
「入るぞ、アラン」
エンカイ子爵の声。
その背後に、別の足音が重なっている。
扉が開く。
先頭にエンカイ子爵。外套の縁に砂埃が薄く残り、目の奥に長旅の疲れが沈んでいる。
その横にアギ令嬢。今日は品のある外套を羽織り、髪はまとめられていた。目だけが妙に澄んでいる。
最後にエリファス・レヴィ。鞄を抱え、無駄な動きがない。
「戻った。話がある」
エンカイ子爵はそれだけ言って、椅子を指した。
「座れ。……アギ令嬢、エリファスも」
アギ令嬢が軽く頷く。
「エンカイ子爵様、失礼いたします。アラン様も、お時間を頂戴いたしますね」
“様”が自然に混じる。
だが距離を詰めすぎない、柔らかい声だった。
俺は椅子に腰を下ろす。三人も向かいに座る。
部屋の空気が、目に見えないほど張りつめた。
エンカイ子爵が口を開く。
「王都ダレットにて、国王へ謁見した。証拠品もすべて提示した」
エリファスが鞄から封蝋のある書状を取り出し、机の上に置いた。さらに、別の小箱――印章が入っているのだろう――を静かに添える。
「提示した証拠品は三つだ」
エンカイ子爵が指を折る。
「闇ギルドへの依頼書。ネツァク・ホド伯爵の印章。そして、闇ギルド所属の人物への支払証明書」
「依頼書には受領者として“バラキエル”の名も記されていた」
俺は喉の奥で息を飲む。
あの名が、公の場で“文字”になった。それだけで意味が変わる。
「国王は判断を下した」
エンカイ子爵は視線を外さず、淡々と言う。
「まず――アラン、お前の保護が決定した」
「保護?」
「そうだ。王国の名で、お前の身柄と安全を保証する。今後、お前に手を出す者は王国への反逆に等しい扱いになる」
言葉が冷たいほど、重い。
それは救いでもあり、鎖でもある。
アギ令嬢が静かに補足する。
「アラン様。……簡単に言えば、もう誰も、軽い気持ちで手を出せません。手を出せば、国が動きます」
エリファスが、机の書状を指先で押さえた。
「正式な通達文はこれだ。内容は概ね三点」
エンカイ子爵が続きを言う。
「一つ。ホド伯爵領に対する王国の監査と、軍の介入権を即時に発動」
「二つ。闇ギルドの活動制限。具体的には取引経路の封鎖と、関係者の拘束を進める」
「三つ。ネツァク・ホド伯爵の爵位剥奪と、身柄の拘束――逮捕だ」
胸の奥が、硬く鳴った。
逮捕という単語が、現実として落ちてくる。
「……いつだ」
「三日後」
エンカイ子爵は即答した。
「準備が整い次第、王国の兵が動く。こちらも連動する」
三日。
短い。だが短いほど危険も濃くなる。
俺の沈黙を、アギ令嬢が優しい声で埋める。
「ホド伯爵は……抵抗いたします。きっと。ですから、王国も三日という短期で決めたのでしょう」
「抵抗?」
「ええ。冒険者を雇うでしょうし、闇ギルドの残党も動かすでしょう。……父は、追い詰められるほど卑怯になります」
父、と言う声が揺れていない。
もう情は切っている。その強さが、逆に痛々しい。
エンカイ子爵が机を軽く叩く。
「重要なのはここからだ。バラキエルについて」
俺の背中に、冷たいものが走った。
「バラキエルは王国指名手配――賞金首になった。懸賞金も付いた」
「額は伏せるが、並の冒険者が人生を投げるには十分だ」
エリファスが淡々と告げる。
「つまり、今後は闇ギルドだけでなく、金に釣られた連中も動く。お前の周囲はさらに荒れる」
俺は頷いた。
予想できる。嫌というほど。
*
言うべきことがある。言わなければならない。
「……子爵。報告がある」
エンカイ子爵の眉が僅かに動く。
「言え」
「子爵が王都へ向かった後、訓練場で襲撃を受けた。闇ギルドだ。先頭にバラキエルがいた」
アギ令嬢の目が細くなる。
エリファスの指先が一瞬止まる。
だがエンカイ子爵だけは、表情を崩さなかった。
「被害は」
「護衛の冒険者に負傷者が出た。死者は出ていない」
「奴は途中で戦闘を止めて引いた。……目的が別にあったような退き方だった」
エンカイ子爵が低い声で言う。
「なるほどな。王都からの動きを嗅ぎ取ったか、あるいは……」
視線が一瞬、アギ令嬢へ向く。
「――余計なものを消しに来たか」
アギ令嬢が静かに言った。
「父の焦りです。父は自分の手が届くうちに、状況をねじ曲げようとします」
俺は拳を握り込んだ。
「バラキエルは……エノクを殺した」
部屋の空気が一段冷えた。
アギ令嬢の睫毛が僅かに震え、エリファスは目を伏せる。
エンカイ子爵だけが、まっすぐ俺を見る。
「アラン」
「俺は、バラキエルに復讐する」
言葉は、口の外へ落ちた瞬間に硬く固まった。
「必ずだ」
エンカイ子爵は否定しない。だが、釘を刺す。
「私怨で動くな。王国の方針と噛み合う形で動け。でなければ、ただの殺しになる」
その言葉は正しい。
俺も分かっている。分かっているから、胸が痛む。
「分かってる。……だから待ってる」
俺は続けた。
「子爵が戻るのを待っていた。意味のある形で終わらせたい」
アギ令嬢が、柔らかく頷いた。
「アラン様。今のお言葉、嬉しく思います。……復讐は、正しさを失うと飲み込まれます。アラン様がそれを分かっているなら、まだ壊れません」
エリファスが小さく息を吐く。
「それでも危険は増えた。懸賞金が付いた以上、バラキエルは“獲物”になった。獲物を狙う者は群れる」
「だからこそ、王国の決定が必要だった」
エンカイ子爵は言い切った。
「お前を表に引きずり出させない。勝手に殺させない。勝手に死なせない」
その語尾に、珍しく感情が滲んだ。
*
エンカイ子爵は椅子から立ち上がる。
窓際へ歩き、外の通りを一度だけ見下ろした。そこから振り返る。
「アラン。すぐに私の屋敷へ来い」
「今からか」
「今だ」
「王国の決定事項を、細部まで叩き込む。ここから三日が山だ。理解が曖昧だと死ぬ」
アギ令嬢が立ち上がり、静かに頭を下げる。
「アラン様。屋敷でお待ちしております。……必要なことは、すべてお伝えします」
エリファスも鞄を持ち直す。
「通達文の写しは屋敷で確認させる。余計な写しは持ち歩かないほうがいい」
エンカイ子爵が最後に言った。
「三日後、ホド伯爵を捕らえる。王国が動く。闇ギルドも動く。懸賞金目当ても動く」
「その中心に、お前がいる」
俺は立ち上がり、頷いた。
「分かった」
エンカイ子爵の目が、ほんの僅かに細くなる。
「よし。来い、アラン。これからが本番だ」
俺はその背中を追った。
部屋を出る直前、ふと胸の奥が熱を帯びる。復讐の炎ではない。――決めるべきものが、目の前に来た熱だ。
潮の湿り気に混じって、金属と革の匂いが流れてくる。護衛の鎧、馬具、道を急ぐ集団の気配――あれは帰還の匂いだ。
宿の階段を上がる足音が、いつもより硬い。
扉の前で止まり、短くノックが鳴った。
「入るぞ、アラン」
エンカイ子爵の声。
その背後に、別の足音が重なっている。
扉が開く。
先頭にエンカイ子爵。外套の縁に砂埃が薄く残り、目の奥に長旅の疲れが沈んでいる。
その横にアギ令嬢。今日は品のある外套を羽織り、髪はまとめられていた。目だけが妙に澄んでいる。
最後にエリファス・レヴィ。鞄を抱え、無駄な動きがない。
「戻った。話がある」
エンカイ子爵はそれだけ言って、椅子を指した。
「座れ。……アギ令嬢、エリファスも」
アギ令嬢が軽く頷く。
「エンカイ子爵様、失礼いたします。アラン様も、お時間を頂戴いたしますね」
“様”が自然に混じる。
だが距離を詰めすぎない、柔らかい声だった。
俺は椅子に腰を下ろす。三人も向かいに座る。
部屋の空気が、目に見えないほど張りつめた。
エンカイ子爵が口を開く。
「王都ダレットにて、国王へ謁見した。証拠品もすべて提示した」
エリファスが鞄から封蝋のある書状を取り出し、机の上に置いた。さらに、別の小箱――印章が入っているのだろう――を静かに添える。
「提示した証拠品は三つだ」
エンカイ子爵が指を折る。
「闇ギルドへの依頼書。ネツァク・ホド伯爵の印章。そして、闇ギルド所属の人物への支払証明書」
「依頼書には受領者として“バラキエル”の名も記されていた」
俺は喉の奥で息を飲む。
あの名が、公の場で“文字”になった。それだけで意味が変わる。
「国王は判断を下した」
エンカイ子爵は視線を外さず、淡々と言う。
「まず――アラン、お前の保護が決定した」
「保護?」
「そうだ。王国の名で、お前の身柄と安全を保証する。今後、お前に手を出す者は王国への反逆に等しい扱いになる」
言葉が冷たいほど、重い。
それは救いでもあり、鎖でもある。
アギ令嬢が静かに補足する。
「アラン様。……簡単に言えば、もう誰も、軽い気持ちで手を出せません。手を出せば、国が動きます」
エリファスが、机の書状を指先で押さえた。
「正式な通達文はこれだ。内容は概ね三点」
エンカイ子爵が続きを言う。
「一つ。ホド伯爵領に対する王国の監査と、軍の介入権を即時に発動」
「二つ。闇ギルドの活動制限。具体的には取引経路の封鎖と、関係者の拘束を進める」
「三つ。ネツァク・ホド伯爵の爵位剥奪と、身柄の拘束――逮捕だ」
胸の奥が、硬く鳴った。
逮捕という単語が、現実として落ちてくる。
「……いつだ」
「三日後」
エンカイ子爵は即答した。
「準備が整い次第、王国の兵が動く。こちらも連動する」
三日。
短い。だが短いほど危険も濃くなる。
俺の沈黙を、アギ令嬢が優しい声で埋める。
「ホド伯爵は……抵抗いたします。きっと。ですから、王国も三日という短期で決めたのでしょう」
「抵抗?」
「ええ。冒険者を雇うでしょうし、闇ギルドの残党も動かすでしょう。……父は、追い詰められるほど卑怯になります」
父、と言う声が揺れていない。
もう情は切っている。その強さが、逆に痛々しい。
エンカイ子爵が机を軽く叩く。
「重要なのはここからだ。バラキエルについて」
俺の背中に、冷たいものが走った。
「バラキエルは王国指名手配――賞金首になった。懸賞金も付いた」
「額は伏せるが、並の冒険者が人生を投げるには十分だ」
エリファスが淡々と告げる。
「つまり、今後は闇ギルドだけでなく、金に釣られた連中も動く。お前の周囲はさらに荒れる」
俺は頷いた。
予想できる。嫌というほど。
*
言うべきことがある。言わなければならない。
「……子爵。報告がある」
エンカイ子爵の眉が僅かに動く。
「言え」
「子爵が王都へ向かった後、訓練場で襲撃を受けた。闇ギルドだ。先頭にバラキエルがいた」
アギ令嬢の目が細くなる。
エリファスの指先が一瞬止まる。
だがエンカイ子爵だけは、表情を崩さなかった。
「被害は」
「護衛の冒険者に負傷者が出た。死者は出ていない」
「奴は途中で戦闘を止めて引いた。……目的が別にあったような退き方だった」
エンカイ子爵が低い声で言う。
「なるほどな。王都からの動きを嗅ぎ取ったか、あるいは……」
視線が一瞬、アギ令嬢へ向く。
「――余計なものを消しに来たか」
アギ令嬢が静かに言った。
「父の焦りです。父は自分の手が届くうちに、状況をねじ曲げようとします」
俺は拳を握り込んだ。
「バラキエルは……エノクを殺した」
部屋の空気が一段冷えた。
アギ令嬢の睫毛が僅かに震え、エリファスは目を伏せる。
エンカイ子爵だけが、まっすぐ俺を見る。
「アラン」
「俺は、バラキエルに復讐する」
言葉は、口の外へ落ちた瞬間に硬く固まった。
「必ずだ」
エンカイ子爵は否定しない。だが、釘を刺す。
「私怨で動くな。王国の方針と噛み合う形で動け。でなければ、ただの殺しになる」
その言葉は正しい。
俺も分かっている。分かっているから、胸が痛む。
「分かってる。……だから待ってる」
俺は続けた。
「子爵が戻るのを待っていた。意味のある形で終わらせたい」
アギ令嬢が、柔らかく頷いた。
「アラン様。今のお言葉、嬉しく思います。……復讐は、正しさを失うと飲み込まれます。アラン様がそれを分かっているなら、まだ壊れません」
エリファスが小さく息を吐く。
「それでも危険は増えた。懸賞金が付いた以上、バラキエルは“獲物”になった。獲物を狙う者は群れる」
「だからこそ、王国の決定が必要だった」
エンカイ子爵は言い切った。
「お前を表に引きずり出させない。勝手に殺させない。勝手に死なせない」
その語尾に、珍しく感情が滲んだ。
*
エンカイ子爵は椅子から立ち上がる。
窓際へ歩き、外の通りを一度だけ見下ろした。そこから振り返る。
「アラン。すぐに私の屋敷へ来い」
「今からか」
「今だ」
「王国の決定事項を、細部まで叩き込む。ここから三日が山だ。理解が曖昧だと死ぬ」
アギ令嬢が立ち上がり、静かに頭を下げる。
「アラン様。屋敷でお待ちしております。……必要なことは、すべてお伝えします」
エリファスも鞄を持ち直す。
「通達文の写しは屋敷で確認させる。余計な写しは持ち歩かないほうがいい」
エンカイ子爵が最後に言った。
「三日後、ホド伯爵を捕らえる。王国が動く。闇ギルドも動く。懸賞金目当ても動く」
「その中心に、お前がいる」
俺は立ち上がり、頷いた。
「分かった」
エンカイ子爵の目が、ほんの僅かに細くなる。
「よし。来い、アラン。これからが本番だ」
俺はその背中を追った。
部屋を出る直前、ふと胸の奥が熱を帯びる。復讐の炎ではない。――決めるべきものが、目の前に来た熱だ。
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