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歩・五十一「静」
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扉が閉まる音は、静かだった。
けれど、その音が胸の奥に落ちるまでには、少し時間がかかった。
エンカイ子爵の一室を出て、廊下へと足を踏み出す。
室内に満ちていた決定と責任の気配が、背中からゆっくりと剥がれていく。
「……」
隣を歩くエリファスは、いつもと変わらぬ歩調で私の半歩後ろを進んでいた。
濃紺の衣装。余計な装飾はない。
彼女は伯爵家に仕える侍女であり、補佐であり、そして――私が最も多くの秘密を預けてきた人だ。
「アギ令嬢」
抑えた声で、エリファスが呼ぶ。
「お顔色が、あまりよろしいとは言えません」
「……そうかしら」
「ええ。お部屋にいらしたときより、強張っていらっしゃいます」
私は歩みを止めた。
廊下の窓から差し込む光が、床に細い線を描いている。
「エリファス。私は……」
言葉が続かない。
続けてしまえば、何かが零れる気がした。
エリファスは一歩前に出て、私と向き合う。
視線は低く、しかし逸らさない。
「令嬢。無理に整えた言葉は、今は必要ありません」
「……」
「正しさを選ばれたからといって、心まで従うとは限りません」
その声音は、あくまで穏やかだ。
だが、長年仕えてきた者だけが持つ確信が滲んでいた。
私は息を吐いた。
「……私が、父を差し出したのよ」
「はい」
「私の証言と、私が集めた事実で……父は捕らえられる」
「はい」
即答だった。
慰めも、否定もない。
「それなのに……胸が、軽くならない」
「当然でございます」
エリファスはそう言った。
「令嬢は“娘”でいらっしゃる。それは、どのような決断をされても消えません」
*
屋敷の窓から見えるダアトの街は、穏やかだった。
人々は日々の営みを繰り返し、誰もが自分の生活に集中している。
三日後、この街の外で何が起こるのかを、
知っている者は、ほんの一握りだ。
「……父は」
私は小さく口にした。
「父は、自分が捕らえられるとは思っていないわ」
「ええ」
エリファスも同意する。
「ネツァク・ホド伯爵は、ご自身を“裁かれる側”とは考えておられません」
「交渉できると?」
「はい。立場と肩書きがあれば、すべては取引になると」
それが父だ。
幼いころから、変わらない。
私は指先を握りしめた。
「……父は、私を襲わせた」
声が、わずかに震えた。
「自分の立場を守るために。自分の身が危ういと知った瞬間、娘を――私を、囮にした」
言葉にした途端、胸の奥が焼けるように痛む。
「憎いわ」
私ははっきりと言った。
「どうしようもなく、憎い。あの人が、私を“娘”ではなく“使える駒”として選んだことが」
エリファスは何も言わず、ただ静かに聞いている。
「それでも……」
言葉が、そこで詰まる。
「それでも、あの人は父なの」
喉が熱くなる。
「私を抱いたことのある人。名前を与え、教育を与えた人。……冷たくても、父だった」
「令嬢」
エリファスの声が、少しだけ低くなった。
「憎みきれぬことを、どうか恥じられませんよう」
「……」
「それは弱さではありません。人として、当然の情でございます」
私は唇を噛んだ。
「でも、その情が……父を生かしてしまう」
「いいえ」
エリファスは、きっぱりと言った。
「令嬢は、情に流されておりません。情を抱いたまま、決断なさった」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
*
しばらく歩いたあと、私たちは中庭に出た。
風が通り、草の匂いがわずかに漂う。
「三日後……」
私が呟く。
「父は、抵抗するでしょうね」
「はい」
「逃げようとするかもしれない。あるいは、誰かを盾にする」
私は、はっきりと続けた。
「……私を、再び」
エリファスの表情が、初めてわずかに歪んだ。
「その可能性は、否定できません」
「それでも」
私は背筋を伸ばす。
「逃げないわ。あの人が、私をどう扱おうと……私は、目を逸らさない」
「令嬢……」
「怖いわ」
率直に言う。
「でも、怖いからこそ、ここに立つ」
私は空を見上げた。
雲は薄く、光は淡い。
「父を裁くことは、私自身を裁くことでもある。それでも、進むしかないのね」
「はい」
エリファスは一歩下がり、深く一礼した。
「その覚悟に、私はお仕えいたします」
*
屋敷の廊下へ戻ると、遠くで人の声が聞こえた。
誰かが、アランの名を呼んでいる。
彼もまた、この渦の中心にいる。
私は足を止めた。
彼に声をかけることはできる。
だが、今はしない。
今、言葉を交わせば、私は自分の弱さを預けてしまう。
彼はそれを受け止めてしまうだろう。
それは、彼にとっての重荷になる。
「……行きましょう、エリファス」
「はい、令嬢」
私は自室へ戻る。
扉を閉め、椅子に腰を下ろす。
静かだ。
この静けさは、嵐の前のもの。
三日後は来る。
父は捕らえられる。
そして、私はその場に立つ。
令嬢としてではなく。
娘としてだけでもなく。
一人の人間として。
私は目を閉じ、静かに呼吸を整えた。
けれど、その音が胸の奥に落ちるまでには、少し時間がかかった。
エンカイ子爵の一室を出て、廊下へと足を踏み出す。
室内に満ちていた決定と責任の気配が、背中からゆっくりと剥がれていく。
「……」
隣を歩くエリファスは、いつもと変わらぬ歩調で私の半歩後ろを進んでいた。
濃紺の衣装。余計な装飾はない。
彼女は伯爵家に仕える侍女であり、補佐であり、そして――私が最も多くの秘密を預けてきた人だ。
「アギ令嬢」
抑えた声で、エリファスが呼ぶ。
「お顔色が、あまりよろしいとは言えません」
「……そうかしら」
「ええ。お部屋にいらしたときより、強張っていらっしゃいます」
私は歩みを止めた。
廊下の窓から差し込む光が、床に細い線を描いている。
「エリファス。私は……」
言葉が続かない。
続けてしまえば、何かが零れる気がした。
エリファスは一歩前に出て、私と向き合う。
視線は低く、しかし逸らさない。
「令嬢。無理に整えた言葉は、今は必要ありません」
「……」
「正しさを選ばれたからといって、心まで従うとは限りません」
その声音は、あくまで穏やかだ。
だが、長年仕えてきた者だけが持つ確信が滲んでいた。
私は息を吐いた。
「……私が、父を差し出したのよ」
「はい」
「私の証言と、私が集めた事実で……父は捕らえられる」
「はい」
即答だった。
慰めも、否定もない。
「それなのに……胸が、軽くならない」
「当然でございます」
エリファスはそう言った。
「令嬢は“娘”でいらっしゃる。それは、どのような決断をされても消えません」
*
屋敷の窓から見えるダアトの街は、穏やかだった。
人々は日々の営みを繰り返し、誰もが自分の生活に集中している。
三日後、この街の外で何が起こるのかを、
知っている者は、ほんの一握りだ。
「……父は」
私は小さく口にした。
「父は、自分が捕らえられるとは思っていないわ」
「ええ」
エリファスも同意する。
「ネツァク・ホド伯爵は、ご自身を“裁かれる側”とは考えておられません」
「交渉できると?」
「はい。立場と肩書きがあれば、すべては取引になると」
それが父だ。
幼いころから、変わらない。
私は指先を握りしめた。
「……父は、私を襲わせた」
声が、わずかに震えた。
「自分の立場を守るために。自分の身が危ういと知った瞬間、娘を――私を、囮にした」
言葉にした途端、胸の奥が焼けるように痛む。
「憎いわ」
私ははっきりと言った。
「どうしようもなく、憎い。あの人が、私を“娘”ではなく“使える駒”として選んだことが」
エリファスは何も言わず、ただ静かに聞いている。
「それでも……」
言葉が、そこで詰まる。
「それでも、あの人は父なの」
喉が熱くなる。
「私を抱いたことのある人。名前を与え、教育を与えた人。……冷たくても、父だった」
「令嬢」
エリファスの声が、少しだけ低くなった。
「憎みきれぬことを、どうか恥じられませんよう」
「……」
「それは弱さではありません。人として、当然の情でございます」
私は唇を噛んだ。
「でも、その情が……父を生かしてしまう」
「いいえ」
エリファスは、きっぱりと言った。
「令嬢は、情に流されておりません。情を抱いたまま、決断なさった」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
*
しばらく歩いたあと、私たちは中庭に出た。
風が通り、草の匂いがわずかに漂う。
「三日後……」
私が呟く。
「父は、抵抗するでしょうね」
「はい」
「逃げようとするかもしれない。あるいは、誰かを盾にする」
私は、はっきりと続けた。
「……私を、再び」
エリファスの表情が、初めてわずかに歪んだ。
「その可能性は、否定できません」
「それでも」
私は背筋を伸ばす。
「逃げないわ。あの人が、私をどう扱おうと……私は、目を逸らさない」
「令嬢……」
「怖いわ」
率直に言う。
「でも、怖いからこそ、ここに立つ」
私は空を見上げた。
雲は薄く、光は淡い。
「父を裁くことは、私自身を裁くことでもある。それでも、進むしかないのね」
「はい」
エリファスは一歩下がり、深く一礼した。
「その覚悟に、私はお仕えいたします」
*
屋敷の廊下へ戻ると、遠くで人の声が聞こえた。
誰かが、アランの名を呼んでいる。
彼もまた、この渦の中心にいる。
私は足を止めた。
彼に声をかけることはできる。
だが、今はしない。
今、言葉を交わせば、私は自分の弱さを預けてしまう。
彼はそれを受け止めてしまうだろう。
それは、彼にとっての重荷になる。
「……行きましょう、エリファス」
「はい、令嬢」
私は自室へ戻る。
扉を閉め、椅子に腰を下ろす。
静かだ。
この静けさは、嵐の前のもの。
三日後は来る。
父は捕らえられる。
そして、私はその場に立つ。
令嬢としてではなく。
娘としてだけでもなく。
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私は目を閉じ、静かに呼吸を整えた。
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