幽刀星

氷翠

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歩・五十二「断」

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最後の足音が、廊下の奥へと消えていった。
扉の前に残ったのは静寂だけだ。
屋敷の一室は、つい先ほどまで人で満ちていたというのに、今は広すぎるほどに感じられる。
私は椅子に腰を下ろし、机の上に積まれた書類へと視線を落とした。
どれも王国の印が押された正式文書だ。
その中から一枚を取り上げ、指先で紙の縁をなぞる。

――三日後。

その日付が、はっきりと記されている。
ネツァク・ホド伯爵、身柄拘束。
領地の一時管理は王国直轄へ移行。
抵抗があった場合、必要最小限の実力行使を許可。
戦争ではない。
だからこそ、曖昧さは許されない。
私は椅子の背に身を預け、目を閉じた。
三日後という猶予は、伯爵にとって準備の時間でもある。
逃走、籠城、あるいは……人質。
あの男が何を選ぶかは、ある程度予測がつく。
自分が裁かれるなど、最後まで信じない。
交渉できると考え、脅せると踏み、切れる札はすべて切る。
その札の中に、娘が含まれている可能性を、私は否定できない。
書類を机に戻し、別の文書へ目を移す。
配置表だ。
今回集めた兵は、王国正規兵だけではない。
人間だけでもない。
背の低い獣人の斥候。
鱗を持つ亜人の盾兵。
魔術適性を持つ者もいれば、純粋な力を誇る者もいる。
多様な種族を混成させるのは、統率が難しい。
だが今回は戦争ではない。
迅速で、正確で、過剰でない拘束が求められる。
命令は単純だ。

――捕らえる。
――殺さない。

それが、最も難しい。
私は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
ダアトの街は、いつも通りに息づいている。
冒険者ギルドの建物も見える。
今日も人の出入りは多い。
……気になるのは、あそこだ。
伯爵が動くとすれば、あの場を使わないはずがない。
金で雇える腕は、すべて雇うだろう。
ギルドが意図せず火種になる可能性もある。

「……巻き込みたくはないがな」

独り言が、部屋に落ちる。
冒険者は兵ではない。
だが、戦場に立つ覚悟は持っている。
だからこそ、利用されやすい。
私は書類の端に、短く注記を書き込んだ。
ギルド周辺の警戒。
衝突を避けるための連絡役を一人置く。
力を持つ者ほど、正しさよりも先に動く。
それは人間の性だ。
ふと、アラン・ヴィルーの顔が浮かんだ。

……いや。

彼は、今は危うい。
理性はあるが、血が上っている。
バラキエルの名を出せば、剣を抜く可能性がある。
それを責めるつもりはない。
だが、今は“動かしてはならない駒”だ。
彼を守るためでもあり、彼に余計な罪を背負わせないためでもある。
私は机に戻り、再び書類を手に取った。
日付を確認する。
三日後。
その日までに、こちらは万全を整える。
伯爵が何を準備していようと、上回る必要はない。
ただ、確実に捕らえる。
正しさだけでは足りない。
感情だけでも足りない。
国家の決定とは、いつもそうだ。
私はペンを置き、深く息を吸った。
この判断が正しいかどうかは、後になってしか分からない。
だが、判断しないという選択肢だけは、最初から存在しない。
三日後。
すべてが動く。
それまでの静けさを、私は無駄にしない。

――この件は、戦ではない。

だが、剣を抜かずに終わる保証もない。
その覚悟だけは、すでにできている。
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