幽刀星

氷翠

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歩・五十四「待」

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朝は、いつだって容赦がない。
目が覚めるだけで、昨日の続きが始まる。
宿の天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。体は休んでいるはずなのに、心が休んでいない。頭の中で同じ映像が何度も回る。エノクの顔、レミエルの声、カサレアの横顔。思い出すたびに、胸の奥で小さな火が起きる。その火が、怒りなのか、悲しみなのか、もう区別がつかない。
起き上がる。床板が小さく鳴った。部屋の隅に立てかけた刀が目に入る。あれを抜けば、少しは楽になるだろうか。そんな考えがよぎって、すぐに打ち消す。
抜ける。いつでも抜ける。
だが、抜いていいわけじゃない。
そういう時間が、この世にはあるらしい。
納得できないが、今はそれを噛み砕くしかない。



部屋の中で身体を動かそうとした。腕立て、素振り、足運び。だがこの狭さでは、どうにもならない。半歩踏み込むだけで椅子に膝が当たり、刀を振れば壁に当たる未来しか見えない。
俺は苛立って、枕を掴んで壁に投げそうになった。投げたところで何も変わらないのに、手が先に動きそうになる。
堪える。深く息を吸う。吐く。

「……落ち着け」

声にしても、落ち着かない。
自分の声が自分を煽る。
それでも、とにかく外に出ることにした。空気を吸わないと、頭の中が腐っていく。
扉に手をかけた瞬間、外で気配が動いた。

「おはようございます、アラン殿」

扉を開けた先に、見張り――いや護衛の冒険者がいた。二人。知らない顔。だが気配は鍛えられている。エンカイ子爵が手配した連中だろう。

「……おはよう」

返事はした。したが、口の中に石を含んだみたいな感触が残る。

「外出なさいますか?」
「少し歩く」
「恐れ入ります。同行いたします」
「……ついてくるな、と言ったら?」
「その場合も同行いたします」

言い方が丁寧なだけで、断る余地はない。
俺は鼻で笑いそうになって、やめた。

「分かった。勝手にしろ」



宿の階段を降りると、主人が帳場から顔を出した。妙に明るい笑顔を作っているのが逆に痛々しい。

「お、おはようございます、アラン様。ええと、朝餉など……」
「いらない」
「そ、そう言わず……。ほら、今日は魚の塩焼きが……」

腹は減っていない。減っていないはずなのに、魚の匂いがやけに強く鼻に刺さった。
俺は小さく舌打ちして、立ち止まる。

「……食う」

主人がぱっと顔を明るくした。

「はいっ。すぐに!」

俺は自分の単純さに嫌気が差した。
空腹ですら、感情の堤防を薄くする。
席につくと、護衛の二人も少し離れた場所に腰を下ろした。見張る気満々だが、目線は露骨に合わせない。仕事としてやっているのが分かる。
料理が運ばれてくる。魚、汁物、硬めのパン。
俺はパンを手に取って、眉をひそめた。

「……これ、石か?」

主人が慌てて手を振る。

「い、いえっ。石ではございません。ええと、少し焼きが強かっただけで……!」

俺は思わず笑いそうになった。
笑う資格なんてない、と言い聞かせているのに、口角がほんの少し上がりそうになる。

「……噛めばいける」
「はいっ。噛めばいけます!」

主人が同じ言葉を繰り返して、俺はとうとう小さく笑ってしまった。
笑い声は短く、すぐに消えた。だが、胸の中の火が一瞬だけ、別の形に揺れた気がした。



朝餉を終えて宿の外に出ると、街はいつも通り動いていた。
人間だけじゃない。亜人もいる。背丈の低い者、耳や角のある者、肌の色が違う者。露店の準備をする者もいれば、荷を担いで走る者もいる。
この街には、こんなにも多くの種族が混じって生きている。
今まで気づかなかったのは、俺が“見る余裕”を持っていなかったからだ。

――余裕。

その言葉が腹の底に落ちて、苦くなる。
余裕なんて、奪われた。奪われ続けている。
俺は歩きながら考える。
復讐。
それは、したい。心の底から。
だが、ネツァク・ホド伯爵に刃を向けた瞬間、俺はただの人殺しになる。
その線を越えれば、レミエルやカサレアに顔向けできない――そう思いたい。思いたいのに、心のどこかで別の声が囁く。

「それでも、殺せ」

そう囁く声を、噛み潰す。
噛み潰しても、舌の上に血が残る。
結局、待つしかない。
エンカイ子爵が戻る。王国が動く。決定が実行される。
それまで俺は、剣を鞘に収めたまま、息をしていなければならない。
それが一番、難しい。



昼前、護衛の一人が遠回しに言った。

「アラン殿。少し、広い場所で身体を動かされては」
「……同じこと考えてた」

部屋の中で暴れれば、宿を壊す。壊したところで、エノクは戻らない。
なら、せめて身体を動かす。そうしないと、俺の中の火が別の場所へ燃え移る。

「ベンは?」
「近くにおります。呼びましょうか」
「……いや」

自分でも意外だった。
ベンに会えば、何かが動く気がした。良い方向か、悪い方向か分からない。分からないから、怖い。
だが、逃げてばかりもいられない。

「呼んでくれ」

護衛が頷いて、去った。



しばらくして、ベンが宿に現れた。
でかい。いつ見ても、部屋が狭くなる。盾を持っていないのに、そこに“盾”があるみたいな存在感だ。

「よう」
「……来たか」

言葉がぶつかる。硬い。
だが、ベンはそれを気にしていないように見えた。

「顔、ひでぇな」
「お前もな」
「俺は元からこういう顔だ」
「それは否定しない」

俺が言うと、ベンが鼻で笑った。
ほんの一瞬、空気が緩む。こういうときのベンは、妙にありがたい。

「で、どうした」
「身体を動かしたい」
「部屋じゃ無理だろ」
「ああ。だから、広い場所を探してる」

ベンは少し考えてから言った。

「ギルドの訓練場はどうだ?」
「……ギルド」

その言葉が喉に引っかかる。
俺は今、ギルドに近づけない。除名された身だ。だが、訓練場は“裏”だ。

「問題あるか?」

ベンが俺を見る。目が鋭い。だが敵意じゃない。

「……目立ちたくない」
「目立つ」

即答だった。

「お前は歩いてるだけで目立つ」
「……そうか」
「そうだ」

ベンが言い切って、俺は苦笑した。
否定できないのが腹立たしい。

「なら、目立たないようにする」
「どうやって」
「……知らん」

俺が言うと、ベンが肩を揺らして笑った。

「その返し、嫌いじゃない」



結局、護衛の冒険者たちが段取りを組んだ。
一斉に動かず、道を分けて移動する。俺とベンも少し時間をずらして出る。

「逃げるみたいだな」

俺が呟くと、ベンが言った。

「逃げじゃない。守りだ」

その言葉が、胸に刺さった。
守り。盾。
“盾”は、ベンだけじゃない。俺も、何かを守ろうとしている。守り方が分からないだけで。

「……守ってるのか」
「当たり前だろ」

ベンは平然と言った。

「お前が暴れたら、皆が困る」
「俺が困る」
「俺も困る」
「……最後は自分か」
「そうだ」

ベンは悪びれない。
俺は笑ってしまった。今度はさっきより、少し長く。



草が伸び、柵は古い。だが、足場は悪くない。ここなら、素振りも踏み込みもできる。
俺は刀を抜いた。
金属の音が乾いて響く。
その音だけで、頭の中の霧が少し薄くなる。
身体が動く。
呼吸が整う。
足が地面を掴む。

――生きている。

その当たり前が、今は重い。
ベンは少し離れた場所で、腕を組んで見ていた。
他の冒険者たちも、黙って見守る。誰も茶化さない。茶化せない空気がある。
俺は剣を振りながら、思う。
もしエノクがここにいたら、何を言っただろう。
レミエルなら、きっと呆れて笑っただろう。
カサレアなら、面倒くさそうに頬を膨らませながらも、最後は見守ったかもしれない。
胸が痛くなる。
痛みが、動きを少しだけ狂わせる。

「……っ」

刃が空を切る。
自分の呼吸が荒い。

「力むな」

ベンの声が飛んだ。

「分かってる」
「分かってない」
「うるさい」
「うるさいのはお前の呼吸だ」

俺は舌打ちして、わざと大きく息を吐いた。
ベンが、ほんの少しだけ笑った。
……こういうやりとりは、悪くない。
悪くないのに、すぐに思い出してしまう。
もう二度と戻らないものがあることを。



夕方、宿へ戻る道すがら、街の空気がわずかに変わっているのを感じた。
ざわめきが増えている。視線が増えている。噂が、音もなく地面を這っている。
三日後。
その言葉が、また頭の中で響く。
ベンが隣を歩いている。
護衛の冒険者が少し離れてついてくる。
俺はふと思った。
――守られている。
そう口に出せば簡単だ。
だが、認めるのは難しい。
守られるということは、俺が“自由じゃない”ということでもある。
それでも、今は――。

「ベン」
「なんだ」
「……明日も、やる」
「訓練か」
「ああ」
「好きにしろ」

言い方は乱暴だが、拒んでいない。
俺は小さく頷いた。
宿の灯りが見えてくる。
夜が来る。
剣は、鞘に収めたままだ。
だが、心の中で刃はずっと鳴っている。
三日後。
その日が近づくほど、静けさが重くなる。
俺はその重さを背負ったまま、扉をくぐった。
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