幽刀星

氷翠

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歩・六「影」

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へー村を出て、もう何日が経っただろう。
 日付の感覚が薄れていく。朝と夜と、それをつなぐ移動の繰り返し。
 ただ一つ言えるのは、体の重さが確実に増しているということ。
 食料はまだ持っている。だが、それも時間の問題だ。
 疲労を引きずったままの移動は、判断を鈍らせる。だから、なるべく戦闘は避けた。
 魔物の気配を感じたら、迂回する。風向きと匂いで察知し、できるだけ関わらない。
 だが、それでも―― 避けきれない場面というのは、必ずある。
 二日目の夕方、渓谷沿いの獣道。突如として飛び出してきた鹿型の魔物に、反射的に刀を抜いた。

《踏星・反脚》

 一撃。
 血飛沫が視界を染める。
 生温かい臭気。
 魔物は絶命したが、その後の立ちくらみが酷かった。
 体力が底をつきかけている。自分でも、それはわかっていた。
 だが、それ以上に、気になることがあった。

……気配。

 最初は気のせいかと思った。 風の向きや鳥の鳴き方。足音の響き。
 誰かが、俺の後ろにいる。
 ただの旅人かもしれない。
 けれど、偶然にしては、行動が一致しすぎていた。
 休むときには距離を取られる。再び動き出すと、気配がじわりと戻ってくる。
 見間違いではない。
 “誰かが、俺を尾行している。”
 敵意はない。今のところは。
 だが、視線が肌に刺さる。 振り返っても、誰もいない。だが、確かに“誰かがいる”という実感だけが残る。

……俺は、追われているのか?

 罪人として? それとも、別の理由で?
 ダアトからの命か。ホド伯爵の部下か。

 あるいは――
 いや、考えすぎだ。まだ何もされていない。
 ただ、見られている。
 その“ただ”が、どれだけ神経を削るか。
 視線というのは、武器になる。相手の顔が見えなくても、見られていると分かるだけで、心が疲弊する。
 俺は、疲れていた。心も、体も。
 五日目の昼過ぎ。
 ようやく、小さな村の輪郭が見えてきた。
 ヴァブ。
 人口八百ほどの、小さな村。川沿いに家が並び、中央には市場がある。
 歩きながら、村をひと回りしてみた。
 誰も、俺に声をかけてこない。だが、視線も感じない。
 ……まだ、この村には噂が届いていないようだ。
 それだけで、少しだけ呼吸が深くなった。
 宿を見つけた。
 二階建ての木造建築。小さな看板に「トーヴ宿」と書かれていた。
 女将に名を名乗ると、特に反応はなかった。

「一泊かい? 食事は夜と朝に出すけど、質は保証しないよ」
「それで構わない」

 銀貨一枚を払い、鍵を受け取る。
 部屋は簡素だったが、清潔だった。窓がある。そこから見えるのは、村の背後に続く小さな森。
 荷物を下ろし、腰を下ろす。
 ふ、と肩の力が抜けた。
 気を張り続けていたせいか、今になってようやく、体が重力を思い出したように沈んでいく。
 ……視線は、もうない。
 そう思った矢先、何かが胸に引っかかった。
 “本当に、ないのか?”
 今の俺は、疑うことが習慣になっている。信じたいのに、信じられない。
 部屋の隅。窓の隙間。扉の下。気配が入り込める隙間がないか、無意識に視線を走らせていた。
 結局、その日は誰に声をかけるでもなく、誰に声をかけられるでもなく。ただ、寝床を確保し、干し肉を口にし、水を飲んだ。
 “生きている”というだけで、精一杯だった。
 夜。
 寝台に横になって、目を閉じる。
 耳が、風の音を拾う。軋む木の音。
 そして――また、あの感覚。
 “誰かが見ている”
 背筋に冷たいものが這った。
 窓の外には、何もいなかった。
 だが、確かに視線があった。
 心が、それを告げていた。
 俺は、誰かに見られている。
 敵か、味方か。 それすらも分からない。
 ただ、確かなのは。
 “俺は、ひとりではない”
 ……その事実だけが、眠りを遠ざけた。
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