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歩・十七「策」
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エンカイ子爵の名を耳にするたび、ホドの心臓はわずかに脈打つ。
それは恐れではない。いや、恐れの裏返しと言うべきか。
このダアトという港町で、自分の影が少しずつ薄れていることは否応なく理解していた。
子爵の統治は無難で清潔、無駄のない政治で知られている。
彼が冒険者ギルドを束ねてからというもの、無頼者たちの間にも規律が生まれ、港の秩序は目に見えて整ってきた。
その手腕に市民たちが感謝していることも、ホドは知っていた。
「ふん……」
ホド伯爵は豪奢な椅子に身を預け、細い指で肘掛けを撫でる。
エンカイに対しては、尊敬など微塵もなかった。ただ妬みと警戒、それだけで充分だ。
自分の立場を守るためには、あらゆる手を使わねばならぬ。
——アラン・ヴィルー。
その名が浮かんだ瞬間、ホドの指がぴたりと止まった。
あの男が、まさかこれほどまでに尾を引く存在になるとは思っていなかった。
そもそもは一人の下級貴族の娘――アギの証言と、一つの噂。
だが、アランを陥れるにはそれで十分だった。証言は作れる。噂は広げられる。
真実など、権威の前では形を変える。
アギ……
ホドは思い出す。
あの夜、涙を浮かべながらも震えて口を閉ざしていた娘の姿を。
彼女が襲われたことは事実だ。だが、犯人は誰か。それを決めるのは自分だ。
「あの子も、少しは役に立ったということだ」
冷たい言葉が空気を裂いたそのとき、扉がノックされた。
「入れ」
黒衣をまとった男が一人、静かに部屋へと足を踏み入れる。
ホドの右腕、サルヴァン。闇の仕事を一手に引き受ける冷酷な男。
「レミエル・シグ、件の薬師……殺害完了しました」
その報告を聞いた瞬間、ホドの唇がわずかに吊り上がった。
「そうか。思ったより早かったな」
「念のため、痕跡は残しておりません」
「必要ない。あの程度の女が何を暴こうと、もはや意味はない。だが……」
ホドは立ち上がり、窓際へと歩み寄った。
夕刻の陽が、海を赤く染めている。
その穏やかな光景に、彼の心は微塵も動かされない。
「次だ。……ベン・クラマックス」
「……例の盾使い、ですか?」
「そうだ。あの男が生きている限り、アランに希望は残る。レミエルを失った今、カサレアだけなら追い詰められる。だが、ベンが残っていれば、どこかで立ち上がってしまうかもしれん」
ホドの声は冷え切っていた。
それは戦場で剣を振るう兵士の声ではなく、
他者の運命を指先ひとつで操ろうとする貴族の声だった。
「闇ギルドに連絡を。ベンの始末を依頼しろ。方法は問わん。ただし……見えすいた手口ではなく、“事故”に見せかけろ」
「……承知いたしました」
サルヴァンが頭を垂れ、部屋を後にする。
その背を見送りながら、ホドは薄く笑った。
「これで……駒は二つ減る。あとは、あの娘か……カサレア」
呟きながら椅子に戻り、赤ワインをグラスに注ぐ。
深紅の液体を見つめながら、彼はその香りを嗅いだ。
「美しい夜になりそうだ……」
やがて訪れる嵐の前に、ホドは悠然と杯を傾ける。
その胸のうちにあるのは勝利の確信か、あるいは焦燥の裏返しか。
それは、彼自身すらも気づいていない“朧”のような影だった。
それは恐れではない。いや、恐れの裏返しと言うべきか。
このダアトという港町で、自分の影が少しずつ薄れていることは否応なく理解していた。
子爵の統治は無難で清潔、無駄のない政治で知られている。
彼が冒険者ギルドを束ねてからというもの、無頼者たちの間にも規律が生まれ、港の秩序は目に見えて整ってきた。
その手腕に市民たちが感謝していることも、ホドは知っていた。
「ふん……」
ホド伯爵は豪奢な椅子に身を預け、細い指で肘掛けを撫でる。
エンカイに対しては、尊敬など微塵もなかった。ただ妬みと警戒、それだけで充分だ。
自分の立場を守るためには、あらゆる手を使わねばならぬ。
——アラン・ヴィルー。
その名が浮かんだ瞬間、ホドの指がぴたりと止まった。
あの男が、まさかこれほどまでに尾を引く存在になるとは思っていなかった。
そもそもは一人の下級貴族の娘――アギの証言と、一つの噂。
だが、アランを陥れるにはそれで十分だった。証言は作れる。噂は広げられる。
真実など、権威の前では形を変える。
アギ……
ホドは思い出す。
あの夜、涙を浮かべながらも震えて口を閉ざしていた娘の姿を。
彼女が襲われたことは事実だ。だが、犯人は誰か。それを決めるのは自分だ。
「あの子も、少しは役に立ったということだ」
冷たい言葉が空気を裂いたそのとき、扉がノックされた。
「入れ」
黒衣をまとった男が一人、静かに部屋へと足を踏み入れる。
ホドの右腕、サルヴァン。闇の仕事を一手に引き受ける冷酷な男。
「レミエル・シグ、件の薬師……殺害完了しました」
その報告を聞いた瞬間、ホドの唇がわずかに吊り上がった。
「そうか。思ったより早かったな」
「念のため、痕跡は残しておりません」
「必要ない。あの程度の女が何を暴こうと、もはや意味はない。だが……」
ホドは立ち上がり、窓際へと歩み寄った。
夕刻の陽が、海を赤く染めている。
その穏やかな光景に、彼の心は微塵も動かされない。
「次だ。……ベン・クラマックス」
「……例の盾使い、ですか?」
「そうだ。あの男が生きている限り、アランに希望は残る。レミエルを失った今、カサレアだけなら追い詰められる。だが、ベンが残っていれば、どこかで立ち上がってしまうかもしれん」
ホドの声は冷え切っていた。
それは戦場で剣を振るう兵士の声ではなく、
他者の運命を指先ひとつで操ろうとする貴族の声だった。
「闇ギルドに連絡を。ベンの始末を依頼しろ。方法は問わん。ただし……見えすいた手口ではなく、“事故”に見せかけろ」
「……承知いたしました」
サルヴァンが頭を垂れ、部屋を後にする。
その背を見送りながら、ホドは薄く笑った。
「これで……駒は二つ減る。あとは、あの娘か……カサレア」
呟きながら椅子に戻り、赤ワインをグラスに注ぐ。
深紅の液体を見つめながら、彼はその香りを嗅いだ。
「美しい夜になりそうだ……」
やがて訪れる嵐の前に、ホドは悠然と杯を傾ける。
その胸のうちにあるのは勝利の確信か、あるいは焦燥の裏返しか。
それは、彼自身すらも気づいていない“朧”のような影だった。
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