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第九章 大敵の行方
9-8 伸びる光風、見送って
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さて、どうするか。
押し込まれる盾の圧力に抗いつつ、クラレンスは思考する。このまま押し合い・削り合いを続けるのはあまりに不毛だ。しかし槍を振るうには間合いが近すぎる。
ならば。
「お堅いやり取りは、ここまでにしよう」
言うが早いか、クラレンスの足元から砂煙が立ち上る。
術式なんて高度なものではなく、ただ風属性幻素で砂利を舞い上げただけ。だが前のめりになった相手をけん制するには十分だ。カミラの押しが弱まった瞬間に盾を払いのけ、半歩後退。
「逃がすか!」
一瞬は怯んだものの、攻めを繋げんとカミラが一層大きく踏み込んでくる。同時に足元に水を撒き、砂によるけん制も喰わない。いよいよか、と息をのむシェラが目を閉じようとした瞬間。
クラレンスはあえて盾を引き右半身、そこからさらに右肩を入れる。槍を持つ右手も可能な限り小さくたたみ、力を体幹に縛り付けた。
カミラの一瞬浮いた踏み込みを狙い、留めた力を風と共に解き放つ。
「天杭!」
「むっ?!」
首元を狙った渾身の穂先が、驚異的な反射速度で掲げられた盾を掠める。直撃こそ逃したが、不完全な防御は突き崩され、カミラの上体が完全に起こされた。
「よっし、それだクラレンス!」
「な、何がどうなって……」
「クラレンスが刷り込んだのさ。離れちゃ駄目だ、ってな」
一気呵成に前へ出たクラレンスの見事な立ち回りにオーガスタスは拍手を惜しまない。事態が飲み込めず、困惑するシェラに我が事のように誇る。
離れれば勝ち目はない。クラレンスはカミラを突き放し続けることで、そう誇示し続けた。
「一見カミラが押してたが、あれだけ強引に詰めりゃな。あんな攻め、カミラは普通しねえよ」
「普段しないことを、させた……?」
「そういうことだ」
少しでも距離を詰めたい。カミラの踏み込みは知らぬ間に少しずつ深く、大きくなっていた。
焦りと呼ぶにはあまりに些細な心理の変化。隙と呼ぶにはあまりに僅かな足運びの乱れ。そこを、風の十八番である術式のキレが切り裂いた。
盾を跳ね上げられ、姉が初めて隙をさらした。反撃は、ない。このまま盾を構え直す暇を与えず攻め潰す。
「とったぞ、カミラ!!」
姉ではなく、一人の幻導士として。初めてその名を口にした。がら空きの脇腹に向けて穂先を走らせ……しかし、手ごたえは芳しくない。鎧の硬さではなく、包み込み、押しとどめられるような感触が穂先から伝わる。
「ナメ、るなッ」
「──」
絶句するクラレンスの視線の先、カミラがのけ反ったまま歯を食いしばっていた。穂先はカミラが形成した水塊に埋まり、その勢いを失っている。
「無茶苦茶を……!」
「無茶も、苦茶も。啜るとも」
貴様に大人しく屈するよりマシだ! そんな叫びが聞こえそうな形相だった。
水の塊は勢いよく弾け、飛び散った雫がクラレンスを盛大に打ち据える。鎧越しとはいえ至近距離で胸を強打され、よろよろと後退するクラレンス。その表情は攻勢を寸断された悔しさや苛立ちなどではなく、そこまでするかという困惑に満ちていた。
「えぇ……」
カミラの切り返しはシェラでさえ引き気味になるほど強引で、オーガスタスも大きく溜め息をつく。
「後輩に見せたいモンじゃねえなあ。シェラは真似するなよ?」
「できませんよ……」
幻素を扱う際には二つの段階がある。まずは体内のエネルギーで、幻素を生成する。次に腕や足、武器を通して形を整え、術式として放出する。
大事なのは幻素の通り道を定めること。いかに幻素の制御に長ける幻導士であっても、術式を作るのは必ず攻撃態勢を整えてから。
だというのに。
「練り上げた水属性幻素を、一塊にして無理やり体表から打ち出すとは……血管や内臓を傷めても知らんぞ」
クラレンスの突きを受け止めるほど大量の幻素を、整流もせず体外に放つ。水の入った袋を、口を閉じたまま押し潰して無理やり排水するようなものだ。内にかかる負荷は計り知れない。
「言ったろう、舐めるな。あれしき凌げぬようでは、麗銀が務まるはずも……っ」
言い終わる前にカミラの体が傾ぐ。そもそも天杭からして防ぎきれていたわけでなし、さらに水球の爆発は自身もろとも。ダメージがないはずもなかった。
一方のクラレンスは意表こそ突かれたものの、大きな損傷を負ったわけではない。まとわりついた水を風で払い、攻撃を再開しようとして──
「ここまでだ。ぶっ倒れるまでやらせるわけにはいかねえよ」
オーガスタスが、二人の間にずかずかと割り込んでいた。戦闘の続行は可能だが、クラレンスの有利は明らか。
一瞬は不思議そうな顔をしたものの、納得した様子でクラレンスは武器を引く。
「……そうか。そうだな、今は街の復興もある」
「見事だったぜクラレンス。期待はしてたが、こうまで一気に押し込むとはよ」
「あんたのおかげさ。初めて変に気負わず、俺のままで戦えた気がするよ」
そう言ったクラレンスの視線の先には、忌々し気に二人を見つめるカミラの姿があった。シェラに駆け寄られると流石に表情を和らげたものの、受け答えする口元は強張っている。
「さて、オーガスタス。姉貴を宥めるのは任せたぞ」
「えっ」
「えっ、じゃないが。そもそもあんたが焚きつけた勝負だ。俺は出発の準備もしなきゃならん」
そう言って、さっさと修練場を後にするクラレンス。
「待ってくださいクラレンスさん! まだカミラさんの治療が――」
「いえ、シェラ殿。ご自身の準備を優先してください。魔竜を追討する貴方こそ、体調を万全に」
引き留めようとしたシェラを逆に制し、カミラが無理やり背筋を伸ばす。自爆の傷が疼くが、気づかないふりをする。
「お医者さんには必ず行ってくださいね? 左の脇腹、結構ひどいですから」
「む、バレてしまいますか……よく見ていらっしゃる」
「分かっちゃいますよ。いっぱい怪我をする人の隣にいますから」
えっへん、と胸を張るシェラ。
テレザの隣で培った観察眼は伊達ではないらしい。思わず互いに笑ってしまう。
「じゃあ、私も行きます。お大事にしてください」
「はい。巻き込む形になってしまいましたね」
「とんでもないです、勉強になりました」
駆け足で闘技場をシェラの背中を見届けたカミラは、ようやく体に入れていた力を抜く。天を仰いで息を大きく吐き出すと、敗北に等しい引き分けが一層身に沁みた。
「どうだった? 弟の成長ぶりは」
「わざわざ聞くな。見ていたくせに」
歩み寄ってきたオーガスタスに、ついついつっけんどんな返しをしてしまう。
カミラが決定的に負ける前に、あるいはさらに無茶な反撃をして文字通りの痛み分けになってしまう前に、勝負を止めてくれたのは分かっている。
彼にそんな気遣いをさせるほど、劣勢に追い込まれた。そんな自分が、カミラには許しがたかった。
「あいつが強くなったのは、先の戦いで分かっていたさ。……自惚れだな。どうせ自分に敵いはしないと思っていた」
「そこはあいつの頑張りを喜ぶべきだろうよ」
「貴様は勝ったからそう言えるのだ」
勝っていれば弟の成長を称えることもできただろうが、負けたとなればそれどころではない。一見理性的なようで、超の付く負けず嫌いがカミラの根底にも棲みついている。
「そうかい。まあ何にせよ、結果は結果だ」
オーガスタスがカミラの肩に手をやる。
「あいつはどこに出しても恥ずかしくない、立派な幻導士。だろ?」
「……分かっている。今更、文句は付けんよ」
悔しさを振り切るカミラの頬を、慰めるように風が撫でる。同時に微かな足音と、ローブが静かに地面を擦る音が聞こえてきた。
不気味にも思えるそれは、二人にとっては聞きなれた音。
「サイラス。貴様、今まで何をしていた?」
修練所に姿を現したのは、枯れ木のように細身の男。旧知の中であるオーガスタスとカミラは慣れっこだが、そのあまりに希薄な存在感は知らぬ者が見れば亡霊と錯覚するほど。
「──」
普段通りの無言でサイラスが差しだしたのは、重ねられた数枚の葉。大きく厚手だが柔らかな質感で、しっとりと水を含んでいる。
鼻を抜ける薬くささは、カミラにも馴染みのあるものだった。
「クォーレルの葉か」
王国に広く分布している樹木で、人の手により街や村に植えられることも多い。独特の匂いは虫除けのためと考えられているが、その主成分に鎮痛作用があるらしい。
「姿が見えなかったのは、これか。助かる」
「ありがとよ、サイラス」
「……『順風』」
ゆっくり頷いたサイラスは、ローブをはためかせて風を呼ぶ。既にどこかから頼まれ事があるのかもしれない。砂地にローブの跡だけを残し、彼はいずこへと消えていった。
「私達もすぐに動こう。私闘にかまけてばかりは……っ、フー……」
カミラは武器置き場で腰を下ろし、上を脱いでクォーレルの葉を脇腹に押し当てる。青黒く変色した患部が脈打つような熱と痛みを発し、食いしばった歯の間から息が漏れた。
「無理すんなよ。その痣、応急処置だけじゃ──」
「何を見ている?」
「あ、すまん。思わずな」
純粋に心配しただけである。オーガスタスがクルっと背を向け、会話が途切れた。
自爆とも言える負傷をし、あげくオーガスタスに当たってしまったことをカミラは恥じる。素直に弟の成長を認められれば、最初から全て丸く収まっていた話なのに。
「……すまない。私情で、要らぬ迷惑をかけた」
「いいさ。他でもない、お前ら姉弟のためだ。成果はあったんだろ?」
「ああ。本当に、感謝している」
痣の発する熱とは違う、包み込まれるような温もりを感じた。俯いていた顔を上げると、低く傾きつつある日差しが武器置き場の屋根をすり抜けて差し込んでいる。思っていたよりも時間が経ってしまっているらしい。
「よし、行こう」
「もう良いのか?」
「ひとまず動ける。ここで座っているよりは、役に立てるさ」
立ち上がったカミラは鎧を着け直し、普段通り姿勢よく歩き出す。
十余年のありったけをぶつけられた痛みは、今しばらく消えそうにない。しかしカミラの足取りは、修練場に入る時よりもずっと軽いものになっていた。
押し込まれる盾の圧力に抗いつつ、クラレンスは思考する。このまま押し合い・削り合いを続けるのはあまりに不毛だ。しかし槍を振るうには間合いが近すぎる。
ならば。
「お堅いやり取りは、ここまでにしよう」
言うが早いか、クラレンスの足元から砂煙が立ち上る。
術式なんて高度なものではなく、ただ風属性幻素で砂利を舞い上げただけ。だが前のめりになった相手をけん制するには十分だ。カミラの押しが弱まった瞬間に盾を払いのけ、半歩後退。
「逃がすか!」
一瞬は怯んだものの、攻めを繋げんとカミラが一層大きく踏み込んでくる。同時に足元に水を撒き、砂によるけん制も喰わない。いよいよか、と息をのむシェラが目を閉じようとした瞬間。
クラレンスはあえて盾を引き右半身、そこからさらに右肩を入れる。槍を持つ右手も可能な限り小さくたたみ、力を体幹に縛り付けた。
カミラの一瞬浮いた踏み込みを狙い、留めた力を風と共に解き放つ。
「天杭!」
「むっ?!」
首元を狙った渾身の穂先が、驚異的な反射速度で掲げられた盾を掠める。直撃こそ逃したが、不完全な防御は突き崩され、カミラの上体が完全に起こされた。
「よっし、それだクラレンス!」
「な、何がどうなって……」
「クラレンスが刷り込んだのさ。離れちゃ駄目だ、ってな」
一気呵成に前へ出たクラレンスの見事な立ち回りにオーガスタスは拍手を惜しまない。事態が飲み込めず、困惑するシェラに我が事のように誇る。
離れれば勝ち目はない。クラレンスはカミラを突き放し続けることで、そう誇示し続けた。
「一見カミラが押してたが、あれだけ強引に詰めりゃな。あんな攻め、カミラは普通しねえよ」
「普段しないことを、させた……?」
「そういうことだ」
少しでも距離を詰めたい。カミラの踏み込みは知らぬ間に少しずつ深く、大きくなっていた。
焦りと呼ぶにはあまりに些細な心理の変化。隙と呼ぶにはあまりに僅かな足運びの乱れ。そこを、風の十八番である術式のキレが切り裂いた。
盾を跳ね上げられ、姉が初めて隙をさらした。反撃は、ない。このまま盾を構え直す暇を与えず攻め潰す。
「とったぞ、カミラ!!」
姉ではなく、一人の幻導士として。初めてその名を口にした。がら空きの脇腹に向けて穂先を走らせ……しかし、手ごたえは芳しくない。鎧の硬さではなく、包み込み、押しとどめられるような感触が穂先から伝わる。
「ナメ、るなッ」
「──」
絶句するクラレンスの視線の先、カミラがのけ反ったまま歯を食いしばっていた。穂先はカミラが形成した水塊に埋まり、その勢いを失っている。
「無茶苦茶を……!」
「無茶も、苦茶も。啜るとも」
貴様に大人しく屈するよりマシだ! そんな叫びが聞こえそうな形相だった。
水の塊は勢いよく弾け、飛び散った雫がクラレンスを盛大に打ち据える。鎧越しとはいえ至近距離で胸を強打され、よろよろと後退するクラレンス。その表情は攻勢を寸断された悔しさや苛立ちなどではなく、そこまでするかという困惑に満ちていた。
「えぇ……」
カミラの切り返しはシェラでさえ引き気味になるほど強引で、オーガスタスも大きく溜め息をつく。
「後輩に見せたいモンじゃねえなあ。シェラは真似するなよ?」
「できませんよ……」
幻素を扱う際には二つの段階がある。まずは体内のエネルギーで、幻素を生成する。次に腕や足、武器を通して形を整え、術式として放出する。
大事なのは幻素の通り道を定めること。いかに幻素の制御に長ける幻導士であっても、術式を作るのは必ず攻撃態勢を整えてから。
だというのに。
「練り上げた水属性幻素を、一塊にして無理やり体表から打ち出すとは……血管や内臓を傷めても知らんぞ」
クラレンスの突きを受け止めるほど大量の幻素を、整流もせず体外に放つ。水の入った袋を、口を閉じたまま押し潰して無理やり排水するようなものだ。内にかかる負荷は計り知れない。
「言ったろう、舐めるな。あれしき凌げぬようでは、麗銀が務まるはずも……っ」
言い終わる前にカミラの体が傾ぐ。そもそも天杭からして防ぎきれていたわけでなし、さらに水球の爆発は自身もろとも。ダメージがないはずもなかった。
一方のクラレンスは意表こそ突かれたものの、大きな損傷を負ったわけではない。まとわりついた水を風で払い、攻撃を再開しようとして──
「ここまでだ。ぶっ倒れるまでやらせるわけにはいかねえよ」
オーガスタスが、二人の間にずかずかと割り込んでいた。戦闘の続行は可能だが、クラレンスの有利は明らか。
一瞬は不思議そうな顔をしたものの、納得した様子でクラレンスは武器を引く。
「……そうか。そうだな、今は街の復興もある」
「見事だったぜクラレンス。期待はしてたが、こうまで一気に押し込むとはよ」
「あんたのおかげさ。初めて変に気負わず、俺のままで戦えた気がするよ」
そう言ったクラレンスの視線の先には、忌々し気に二人を見つめるカミラの姿があった。シェラに駆け寄られると流石に表情を和らげたものの、受け答えする口元は強張っている。
「さて、オーガスタス。姉貴を宥めるのは任せたぞ」
「えっ」
「えっ、じゃないが。そもそもあんたが焚きつけた勝負だ。俺は出発の準備もしなきゃならん」
そう言って、さっさと修練場を後にするクラレンス。
「待ってくださいクラレンスさん! まだカミラさんの治療が――」
「いえ、シェラ殿。ご自身の準備を優先してください。魔竜を追討する貴方こそ、体調を万全に」
引き留めようとしたシェラを逆に制し、カミラが無理やり背筋を伸ばす。自爆の傷が疼くが、気づかないふりをする。
「お医者さんには必ず行ってくださいね? 左の脇腹、結構ひどいですから」
「む、バレてしまいますか……よく見ていらっしゃる」
「分かっちゃいますよ。いっぱい怪我をする人の隣にいますから」
えっへん、と胸を張るシェラ。
テレザの隣で培った観察眼は伊達ではないらしい。思わず互いに笑ってしまう。
「じゃあ、私も行きます。お大事にしてください」
「はい。巻き込む形になってしまいましたね」
「とんでもないです、勉強になりました」
駆け足で闘技場をシェラの背中を見届けたカミラは、ようやく体に入れていた力を抜く。天を仰いで息を大きく吐き出すと、敗北に等しい引き分けが一層身に沁みた。
「どうだった? 弟の成長ぶりは」
「わざわざ聞くな。見ていたくせに」
歩み寄ってきたオーガスタスに、ついついつっけんどんな返しをしてしまう。
カミラが決定的に負ける前に、あるいはさらに無茶な反撃をして文字通りの痛み分けになってしまう前に、勝負を止めてくれたのは分かっている。
彼にそんな気遣いをさせるほど、劣勢に追い込まれた。そんな自分が、カミラには許しがたかった。
「あいつが強くなったのは、先の戦いで分かっていたさ。……自惚れだな。どうせ自分に敵いはしないと思っていた」
「そこはあいつの頑張りを喜ぶべきだろうよ」
「貴様は勝ったからそう言えるのだ」
勝っていれば弟の成長を称えることもできただろうが、負けたとなればそれどころではない。一見理性的なようで、超の付く負けず嫌いがカミラの根底にも棲みついている。
「そうかい。まあ何にせよ、結果は結果だ」
オーガスタスがカミラの肩に手をやる。
「あいつはどこに出しても恥ずかしくない、立派な幻導士。だろ?」
「……分かっている。今更、文句は付けんよ」
悔しさを振り切るカミラの頬を、慰めるように風が撫でる。同時に微かな足音と、ローブが静かに地面を擦る音が聞こえてきた。
不気味にも思えるそれは、二人にとっては聞きなれた音。
「サイラス。貴様、今まで何をしていた?」
修練所に姿を現したのは、枯れ木のように細身の男。旧知の中であるオーガスタスとカミラは慣れっこだが、そのあまりに希薄な存在感は知らぬ者が見れば亡霊と錯覚するほど。
「──」
普段通りの無言でサイラスが差しだしたのは、重ねられた数枚の葉。大きく厚手だが柔らかな質感で、しっとりと水を含んでいる。
鼻を抜ける薬くささは、カミラにも馴染みのあるものだった。
「クォーレルの葉か」
王国に広く分布している樹木で、人の手により街や村に植えられることも多い。独特の匂いは虫除けのためと考えられているが、その主成分に鎮痛作用があるらしい。
「姿が見えなかったのは、これか。助かる」
「ありがとよ、サイラス」
「……『順風』」
ゆっくり頷いたサイラスは、ローブをはためかせて風を呼ぶ。既にどこかから頼まれ事があるのかもしれない。砂地にローブの跡だけを残し、彼はいずこへと消えていった。
「私達もすぐに動こう。私闘にかまけてばかりは……っ、フー……」
カミラは武器置き場で腰を下ろし、上を脱いでクォーレルの葉を脇腹に押し当てる。青黒く変色した患部が脈打つような熱と痛みを発し、食いしばった歯の間から息が漏れた。
「無理すんなよ。その痣、応急処置だけじゃ──」
「何を見ている?」
「あ、すまん。思わずな」
純粋に心配しただけである。オーガスタスがクルっと背を向け、会話が途切れた。
自爆とも言える負傷をし、あげくオーガスタスに当たってしまったことをカミラは恥じる。素直に弟の成長を認められれば、最初から全て丸く収まっていた話なのに。
「……すまない。私情で、要らぬ迷惑をかけた」
「いいさ。他でもない、お前ら姉弟のためだ。成果はあったんだろ?」
「ああ。本当に、感謝している」
痣の発する熱とは違う、包み込まれるような温もりを感じた。俯いていた顔を上げると、低く傾きつつある日差しが武器置き場の屋根をすり抜けて差し込んでいる。思っていたよりも時間が経ってしまっているらしい。
「よし、行こう」
「もう良いのか?」
「ひとまず動ける。ここで座っているよりは、役に立てるさ」
立ち上がったカミラは鎧を着け直し、普段通り姿勢よく歩き出す。
十余年のありったけをぶつけられた痛みは、今しばらく消えそうにない。しかしカミラの足取りは、修練場に入る時よりもずっと軽いものになっていた。
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