地獄行き

高下

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二、

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 ぬるまっこい風が吹いて、夏の終わりを予感させる九月。学校から帰った青木は、アパートの階段によく知っている人物が座り込んでいるのを見つけて、「あ、デジャヴ」と呟く。
 その人物、諏訪は空のペットボトルを手に項垂れていて、眠っているかのように見えたが青木の声を聞くと億劫そうにのそっと顔を上げた。
「なぁ、全てを失ったことがあるか?今まで大切に育ててきた全てを。何もなくなった、捨てられた人間は、その後どうやって生きていけばいいんだと思う」
「何言ってるの。っていうか何でいるの、仕事は?」
「彼女にフラれた」
 青木の問いかけを宙に浮かせたまま、笑えるほど憔悴しきった面で言った。ペットボトルが諏訪の手を離れて地面で数回跳ね、足元に転がってくる。赤茶色の髪の毛は、いつのまにか輪郭を覆うくらいに長くなっていて、根本から黒い地毛が覗いていた。そろそろ切ってやらなければと思いながら、ペットボトルを拾い上げる。
「彼女だけが諏訪の全てじゃないだろ。だからここに来たんじゃないの」
 自己暗示のような自分の言葉にわずかに悲しくなった。手を差し出すと諏訪が弱々しく握り返してきたため、力任せに引っ張って立ち上がらせる。
 手を離せば諏訪が鼻をすすり始めたため、身体の芯から凍りついたような心地になった。
「めそめそするのは部屋に入ってからにしてくれ」
 焦りを悟られないようにうんざりした声で言って自宅のドアを開け、ふらふらとおぼつかない足取りの諏訪を部屋に押し込んで鍵を閉める。気を抜けば膝から崩れ落ちそうなところをなんとか堪え、麦茶を注いだグラスを小さな机に二つ並べた。
 諏訪はそのどちらにも手をつけずに「好きだったんだよ、本当に」と聞いてもいないのに鼻声で話し出した。
「絶対に結婚するって決めてたんだ、俺は」
「この間まで、仲が良さそうだったじゃない」
 青木は、泣きじゃくる幼稚園児をなだめるような優しい声で言った。
「俺もそう思ってたよ、何も問題なんてないってな。だがそう思っていたのは俺だけで、彼女はずっと不満だったらしい。昨日急に『金もない男にこれ以上付き合っていられない』なんて言い出したんだ」
「分かりきったことを」
 その女も大概馬鹿だな、と思う。生きる上で金が重要なのは最もだし、男に金銭的な安定を求める女が悪いとは思わないが、だったら最初からこの男に近づかなければいい。勝手に期待して、期待通りにならないから離れるなんて酷だ。
「そんな女、早く忘れればいい話じゃないか」
「うるさいな、わかってる。でも何を言われてもまだ全然好きなんだよ。気が変になりそうだ。俺、おかしくなってんのかな」
「なってると思うって言ったら、怒るんでしょう」
「怒るに決まってるだろ」
 笑いながら煙草に火をつけて、二、三度煙を吐き出してからまたしくしくと泣き始める。煙草を吸いながら泣いている人間を初めて見た。阿呆らしいと呆れる反面、誰かを恋しいと言って諏訪が流す涙がこれ以上ないくらい綺麗に見えて、自分の手でそれを掬ってついでに抱きしめでもしてやりたかった。しかし、そんなことをしたらきっと本当に怒るだろうから、ただ膝を抱えて霧みたいに消えていく煙を見つめる。
「一曲弾いてくれ」
 涙をぼたぼたと畳に落としている諏訪が言う。青木は部屋を見渡した後、トイレからトイレットペーパーを一つ持ってきて渡してやった。
「今?」
「楽しくなれるような曲を弾いてくれよ、青木。今すぐ窓から飛び降りたい気分なんだ」
「ここは二階だし下は土だから、飛び降りても死ぬことはないよ」
 玄関の脇に立てかけてあるギターケースからアコースティックギターを取り出して、諏訪の正面に腰を下ろす。ペグを回して弦を一本ずつ弾き音を合わせて行きながら、脳みその中から楽しくなれる曲を探していくが『サライ』ぐらいしか見つからずに途方に暮れる。『サライ』を聴いて元気になる人間などいるのだろうか、少なくとも青木はならないし、なんなら腹が立ってくるぐらいだ。
 考えるのも面倒くさくなって、ついこの前練習した『ぼくと観光バスに乗ってみませんか』を弾き始めると、諏訪はマルボロを口に咥えたまま畳に横たわり、死体のように動かなくなる。
「悪い夢のようだ」
「それは、違う曲だよ」
 ゆったりと時間が流れる。いつもよりも上手く弾けた気がした。
 日が暮れてきて、青木は夕食の買い出しをするために諏訪を引きずって近所のスーパーに出向いた。と言っても、二人とも料理は全くできないので、惣菜をいくつかとカップ麺とチューハイを数本買い物カゴに投げ込むだけだが。
 レジへと歩いているとサンマが安く売っていて、二匹掴んでこれもカゴに入れる。前回は諏訪が全額払ってくれたから、今回は青木が会計を済ませた。
「サンマなんて買ってどうするんだ」
 食材と酒が入った買い物袋を一つずつ持ちながら、葉を茶色く染めた木々が立ち並ぶ道を歩く。普通に考えて焼くだろ、と平凡な返事をしようとしたが、諏訪は青木がわざわざ魚焼きグリルを使ってサンマを焼くという労働をするわけが無いと思い込んでいるようだったし、その通りだったので素直に「大家さんにあげるんだ、いつも何かと世話になってるから」と返した。
「へぇ、青木はあの婆ちゃんのことが好きなのか」
「馬鹿言うな」
 擦りすぎて目を充血させている諏訪がケラケラと笑う。酒が入っている方の袋を振り回すものだから、きっと缶を開けた時に中身が噴き出すだろう。自分が酒が入っている方の袋を持つべきだったと反省する。
「お前は彼女を作らないのか?顔は綺麗で家も金持ち。頭もいいときてるんだから、モテないことはないだろ。まぁ、もう少し愛想を良くする必要はあるかもしれないが」
「嫌だ、面倒くさい。それに女って苦手なんだ、いや女だけじゃないけれど」
「人間が嫌いなんじゃねぇか」
 諏訪は呆れたように言う。
「俺も結構皆嫌いだけどな、でも、優美……彼女は違ったんだよ。優しくて可愛くて、気が強いように見えて本当は繊細な奴なんだ。ずっと一緒にいたいと思ってたし、いるつもりだった。俺が幸せにしてやりたかったんだ」
 この男の思考は、すぐに元彼女の回路へと繋がってしまうらしい。また泣き出すんじゃないかと横顔を見れば、渇いた目でアスファルトに伸びる影をじっと凝視していた。そして「家族になりたかった」と聞こえるか聞こえないかの声量で言って、それは確かに青木の耳に届いた。
 諏訪は自分の家族の話を不自然なほどにした事がなかったが、代わりに「家族が欲しい」とよく口にする。
「一人の家に帰るのはもう嫌なんだ。寂しいし、何の音も匂いもしない空間でむっつりと黙ってると、おかしくなるんじゃないかって思う」
 以前、並べた布団の端っこで諏訪はそう言った。確か前の彼女と別れた後だったと思う。
「誰にも干渉されない空間っていうものは、いいものじゃないか」
 青木がそう返すと、彼はゆるく首を振って「そうじゃない」と枕に向かって喋った。布に吸収された諏訪の声はくぐもっている。青木が首を傾げていると、流水音が響いてトイレから長島が出てきた。
「諏訪は、愛に飢えてるわけだね」
 眠たそうな声で目を擦って、長島は二人の間に滑り込んで毛布を引き寄せる。諏訪は嫌そうな目つきで隣に寝そべる男をじとっと睨んだ。
「何だよ、悪いか」
「いや、普通じゃないかな。人間誰しも愛されたいと思ってるはずだよ、多分」
「てきとうだなぁ、お前は」
「昔、愛されたければ自分から愛すべきだってうちの母が言ってたなぁ」
「愛してたけどふられた場合はどうする」
「重すぎたんじゃないの」
 諏訪が嘆いて、長島が笑った。夜が老けていく中で、青木は二人の軽快なやりとりを聞きながら十数年かけて刺々しく硬化した心がほぐれていくのを感じていた。そうして、自分の両親を思い出して、どうしてこんなものを欲しがるんだろうと疑問を抱いていたのだ。
 しかし最近になって、きっとお互いの思い描く「家族」の形に齟齬があるのだろうと、やっと気づいた。
 もしかすると、諏訪は無条件に愛されたいだけのではないかと青木は考える。何の理由もなく一緒にいて、お互いを愛し合える関係を望んでいて、それに相応しい形を探してみたら「家族」という名前を見つけたのではないか。
 そうだとしたら、
「僕がずっと一緒にいるのじゃ、ダメなの」
 思わず言葉が口からこぼれ出していて青木は驚いたが、一度外に出たものは取り消すことができなかった。
 戸籍上家族にはなれなくとも、それ以外の条件を青木は満たしている。愛し“合える”かは別として、無償の愛を捧げることなんていとも容易いことのように思えたし、今後諏訪がどうなろうとも諏訪の元を離れないと言い切れる確固たる自信があった。
 足を止めて反応を伺っていると、諏訪も立ち止まる。片手で器用にマルボロのパッケージから煙草を一本取り、かさかさと皮が剥けている唇で咥え、火をつけた。
「それこそ、馬鹿言うなよ。何でお前が俺のために人生棒にふるんだよ」
 眉を八の字にして、困ったようにぎこちなく笑う。まるで、青木の人生に価値があると信じて疑わないとでもいうような口ぶりだった。何か言葉を返そうとしたが、脳の言語中枢は何を言っても意味がないことを理解して押し黙ってしまっていた。
「吸うか?」
 無駄な肉が付いていない無骨な人差し指と中指で挟まれた吸いさしの煙草は、吸い口が変色し始めている。丸っこい諏訪の爪の形を目だけでなぞって、唾液で湿っている先端に唇で触れる。諏訪が帰った後青木の部屋に漂っている香りが、すぐそこにあった。骨張った手に細くて青白い手が重なり、接触部から熱がじんわりと伝わって、血中で混ざり合った気がした。
「ボクちゃん、思いっきり吸うなよ、むせるから。ゆっくりな」
 からかうような言い方にムッとしたが、言われた通りにそおっと吸い込むと、重たくて苦い煙が肺に侵入する。咳き込みたかったがそんな事をすると格好がつかないと思って、何とでもないフリをして息を吐く。白いモヤがゆらゆらと目の前でくゆってすぐに消える。もう一度吸おうとすると、諏訪はさっさと手を引っ込めて自分の口元に持っていってしまったため、抗議する。
「ねぇ、まだ吸いたいんだけど」
「俺といると、お前はどんどん汚れていく気がするよ」
「そんなの、今更だろ。肺なんて副流煙でとっくに真っ黒になってるさ」
「だろうな」
 紫煙を立ち上らせて、諏訪は歩き出す。青木もそれに続く。口内から中々消えてくれない苦味を少しずつ飲み込んでいく。そこら中に散らばっている落ち葉は、二人に踏み潰されてペシャンコになって地面に張り付いている。
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