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三、
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大粒の雨がばたばたと音を立ててビニール傘の表面に激突しては滑り落ちて、地面に貼った水たまりの中に吸い込まれていく。ワイシャツの裾や通学カバンがいつの間にか湿っていて、青木は傘を投げ捨てて足蹴にし叩き折ってやりたくなったが、アパートがもうすぐそこに見えていたので衝動を殺してのろのろと歩いた。
灰色の空の下で大雨に打たれている二階建てのボロアパートは、人が住んでいるとは思えないほど禍々しく、廃墟と言われれば疑う間も無く納得できそうな出で立ちだ。階段に目を向けて、誰も座り込んでいないことを確認する。安堵と残念の狭間をぐらぐらと行き来する気持ちを抱えて十三段目を登りきった所で、部屋の戸の前に立っている見知らぬ女と目が合った。ピンク色のヒラヒラした生地の傘を腕にかけていて、もう季節は秋に移り変わっているというのに服の面積は少なく、肌色が多い。
「何か用ですか」
「あ、あんたが青木?うそ、本当に男の子だったんだ! あたし、木崎優美。ハジメマシテ」
甲高くて甘ったるい声でそう言った女は、両の手のひらをこちらに向けて小さく振った。傘と一緒に腕にかかっている赤いバッグに付いたストラップがジャラジャラと揺れる。
どこが、優しくて可愛くて繊細な女なんだ?図々しくて能天気でしたたかな女の間違いじゃないだろうか。青木の抱く偏見は、たいていの場合当たる。
「女かと思って鍵パクっちゃってさ、そのまんまじゃ悪いなぁと思って。ここの場所、前に聞いたことがあったから返しに来たの。でも、本当に男の子に合鍵もらってるとは思わなかったぁ」
木崎優美は愉快そうに笑って、バッグから諏訪の鍵をつまみ出し青木の手のひらに置いた。強い香水の匂いが鼻腔をつき、頭が痛くなる。
「すみません、諏訪は多分今仕事に行っていて」
「ああ、いいのいいの。もう会うつもりもないし、そういう時間を狙ってきたんだし」
そうか、じゃあ帰ってくれ。と胸の中で言ったが、木崎優美は動かなかった。興味深げに青木の頭のてっぺんからつま先までを見渡して「ねぇ、こんな犬小屋に男二人で住んでるの?あんた、高校生でしょ?」と投げかけてくる。犬小屋という単語は聞かなかったことにした。
「住んでるというか、諏訪は夜に寝に帰ってくるだけですよ。帰ってこない日もあるし」
「なんか聞いたなぁ、最近熱入れてる女がいるとか。別れて一ヶ月も経ってないのに、早くない?」
頬を膨らませて首を傾げる仕草が様になっていて、思わず感服した。
「でも、多分まだあなたの事が好きなんだと思います」
青木はできるだけ冷たく聞こえるように言った。お世辞でも何でもなく、ここ十数日間で嫌という程感じていたことだった。諏訪は未だ木崎優美に恋い焦がれていて、その隙間を埋めるために何人かの女に手を出してはいるが、それによって更に心を痛めているようだった。家族になれれば誰でもいいというわけでもなく、木崎優美と家族になることに意味があったのだろう。どうしようもない馬鹿だと笑ってやりたかったが、自傷にも似た行為を繰り返す諏訪が痛々しくて上手く笑えなかった。青木にはどうすることもできないと思い知らされたが、ただその様子を見ているだけというのはもどかしかった。
女は、青木の言葉を聞いても顔色一つ変えない。
「あたしも、本当に好きだったよ。でも分かるでしょう、愛だけじゃご飯食べられないし、生きていけないわけ」
「だったら、最初から諏訪なんか相手にしなきゃ良かったじゃないか」
思わず語気が強まる。まさか、金を持っていると思って近づいた訳でもあるまいし。言ってから、自分は馬に蹴られるんじゃないかと思った。
「あたしはあいつの人格に惚れたの。それで蓋を開けてみたら、びっくりしちゃった。家もないし、仕事も全然続かないんだもん。それでもいいやって思えてたのは何ヶ月かだけでさ、結局あたしが逃げちゃった。これでも気ぃ使ったんだよ、未来もないのに愛情だけでずるずる続けてちゃダメだなぁって。お互いのためにもさ」
木崎優美は相変わらず舌ったらずな喋り方でつらつらと語る。その顔には、諦めの色が滲んでいるように見えた。
「あたしはアイツのために生きるの無理だなって思っちゃったんだよね」
ざぁざぁとうるさい雨の音に溶けてしまいそうな声量だった。青木は何も言えなくなって受け取った鍵を握る。木崎優美は顔をほころばせて「じゃあ」と青木の肩を優しく叩き、ヒールをカツカツと鳴らして歩き出した。そして、階段に差し掛かったところで足を止める。
「青木くん、君、いいように使われる前に切っちゃった方がいいよ。アイツは君を大切にしてくれないよ」
肝が冷えて、全身の毛が逆立った気がした。振り向くともうそこに木崎優美の姿はなく、ヒールが鉄制の階段を踏みしめる音が響いているだけだった。
敗戦したような気持ちで鍵を回してから、紛れもなく惨敗だと確信する。
ノブに引っ掛けたビニール傘は、薄汚れたコンクリートに水たまりを作る。諏訪が置いているラバー素材のサンダルが濡れないように、しゃがんで端に寄せた際、ドアポストに一通の葉書を見つける。あの女が諏訪に別れの言葉でも書いて入れたのかと、留め具を外して手に取れば、葉書には母の名前が綴られていて思考が停止した。反対の面を見れば、「進路面談が年末にあるから、必ず来るように。成績も落とさないように頑張ってください。それと、ちゃんとご飯を食べていますか?お父さんも心配しています」と丸っこい字で書かれていて、青木は頬を引き攣らせた。
「ひとり立ちした息子を心配する心優しい両親ってところか、上手じゃないか」
演技というのは、第三者に見られている場合にするものだろうに、一体誰に披露しているつもりなのか。もしや、演じてるうちに役に飲まれて、本当に息子を心配する母親になったつもりでいるのかもしれない。
ハハハと笑い声が漏れた。香水のキツい香りと肌色が鮮明に蘇り、胃がひくつく。すぐに酸っぱい匂いがせり上がってきて、口元を抑えて足をもつれさせながらトイレまで駆け込む。便器に内容物を吐き出すも、大した物を食べていない青木の口からは少量の胃液が垂れるだけだ。肩で息をしながら便器に顔を突っ込んで嘔気が過ぎ去るのを待つ。金槌で殴られ続けているみたいな頭痛が起こった。玄関では、葉書が傘から滴り落ちる雫を受け止め、インクを滲ませている。
空がオレンジ色に焼けて青木がトイレから這い出しても、日が沈み布団の中に潜り込んでも、時計の短針が十二を過ぎても、諏訪は帰ってこなかった。
沈黙する扉を見つめるのにも飽きて、のそりと起き上がって冷蔵庫を開けようとすると、その上に小さな刃物を発見して手に取る。
何の躊躇いもなく瘡蓋だらけの腕に押し当ててスッと花柄のカミソリを引くと、ぶちぶちと皮膚が刃に引っかかって破ける音がして、ぷつぷつと血の玉が赤い線の間に浮かび上がってくる。握り締めていた掌の力を緩めると大量の汗が光っており、足の裏もじっとりとしていて不快な気持ちになった。
そうして青白い腕を伝ってボトリと血が垂れるのを見届けたら、全身はすっかり幼稚な高揚感に浮かされていて、何本も線を引いていった。
黙っていた痛みがちりちりと現れてくると、途端に滑稽に思えてきて肉片がこびりついたそれをぽいと放り投げる。かしゃんとチープな音が部屋の闇に溶けた。
青木は、どうしたらこの惨めで情けない気持ち大人しくしてやれるかを考えた。考えて、また絶望的な焦燥感に襲われて、副作用も知らずに集めた錠剤が突っ込んである紙袋の中から適当に薬を掴んで口に放り込み、ボリボリ音を立てて噛み砕いて嚥下した。布団に埋まると頭が混濁とし、シーツにじわじわと赤が広がっていく。
「諏訪」
自分のものじゃないような声でそれは確かに自分の口から出て行った。ぼうぼうと不愉快な耳鳴りでよく聞こえないが、かさついたみすぼらしい声音に聞こえる。苛立って腕を振り上げようとして、ドアノブにぶら下がっているであろう傘を思い出し、少し可笑しくなって息を吐いた。身体が地面に沈み込んでいくのが、重くて気持ちがいい。喉がからからと渇き、鼻の奥もつんと渇いている。
「諏訪は、どうなりたいの。ねぇ、諏訪の思い描く先に、僕はいる?」
青木は言って、おこがましいなとまた笑った。早く会わなきゃいけない気がして布団の上を泳いで、それは自分の思い過ごしかもしれないと気づいた。しかし、諏訪が寂しがっているかもしれないという心配がまた浮かび上がる。
「大丈夫、諏訪、大丈夫だから。長島はいなくなったけど、僕はまだここにいるから」
頭の中にまで、やかましい煙突の煙みたいな音が蔓延する。しだいに、さっきまでこもっていた耳がノイズを拾い始めた。降り続く雨の音、タイヤが水たまりを踏み潰す音、猫の鳴き声、自転車のベル。再び、胃がひっくり返るような嫌悪感が襲い掛かるが、青木は指先の一つ動かせないでいる。
僅かな尿意を感じ目を剥くと、心音で揺れる天井に星がきらきらと光っていた。瞼が降りる前に、青木は自分の笑い声を聞いた。
「お前、これ、どうしたんだよ」
我が物顔で青木の家の玄関をくぐった諏訪は、隣人が寝ているであろう時間帯だというのに大きな声で大袈裟に驚いてみせた。これというのは、布団に赤黒く広がった染みのことだ。昼に起きた青木は、後で新しいシーツを買いに行こうと思っていたのだが、すっかりこの時間まで寝入ってしまっていたのだ。
「来る時間考えてよ、眠いよ」
ドアを閉めて鍵をかけながらぼやく。
「いや、これ何だって、血か?大出血じゃねぇか」
「トマトケチャップを間違えてかけちゃったんだよ」
脳の回転が鈍く、また寝起きの頭で諏訪の相手をするのが面倒で、あまりにもひどい嘘を吐いた。酒でも飲んできたのか機嫌のいい諏訪は、にやにやした面で青木と布団を交互に見る。
「布団にケチャップをかける人間の心理ってやつは、恐ろしいと思わないか?俺は思う。絶対に病気だね、大病だ。医者に診てもらった方がいいぞ」
「うるさいなぁ、早く寝てくれ」
「俺はトマトに抱かれる夢なんか、見たくはないな」
「だったら畳で寝ればいいよ、台所の床もトイレの床も空いてる」
諏訪はまだにやにやしている。
電気の紐を三回引いて灯を消し、倒れるように布団に身を投げた。昨晩、ワタに血を吸わせたせいか、全身がだるくて立っているのも苦痛に感じるほどだった。
すぐに諏訪が隣に寝そべった。畳がみしりと音を立てる。知らないシャンプーの香りが鼻をくすぐる。わずかに触れている背中がぬくい。
一式の布団に男二人が収まるはずもなく、お互いがちょっとずつ畳にはみ出すが、文句は言わない。以前はもう一式あったのだが、酔い潰れた長島が盛大に嘔吐したためおじゃんになったのだ。二つの布団を敷いて三人で寝転がった頃を想起するが、何を話したのかは全く思い出せなかった。
「あ、もしかしてお前、ついに初潮を迎えたのか?」
「面白いことを言うね、諏訪。外で寝たってまだ死なない季節で良かったな」
もぞもぞと起き上がって玄関を親指で指すと、諏訪は笑いを噛み殺した声で「風邪をひくから、嫌だ」と言った。しばらく一人で笑っていたと思えば、ぐぅぐぅと憎たらしいいびきをかきはじめた。
青木は大きくため息をついて、諏訪を起こさないように身を寄せ、まぶたを下ろす。頭に血が集まっていくのがわかり、眼球の奥がじくじくと痛んだ。痛みに意識を集中させていると、次第にとろけはじめてゆるゆると底に落ちていく。
いつの間にか、青木はあたたかい光に包まれて立っていた。あたり一面、大きな葉っぱをつけた稲がそびえ立っていてぎょっとする。風が吹くたびに黄緑色の細い紐の束がそよぎ、木崎優美の金色の長い髪を彷彿とさせる。無数の稲は、全てトウモロコシを実らせているらしかった。
「ほら、食えよ」
それが当たり前であるかのように青木と肩を並べていた諏訪が、ぎっしりと実が詰まったトウモロコシを差し出してくる。規則正しく並ぶ四角くて黄色い粒を見て嫌な気持ちになった。
「いらない、嫌いなんだ」
「どうして」
「ぷちゅっと潰れて甘い汁が飛び出るところが気持ち悪い。実がぐにゅぐにゅしてるのも嫌だ」
「農家の人に謝れ!!」
素直に答えたのに、ものすごい力で後頭部を鷲掴みにされて、トウモロコシのヒゲが付いていない方を口に押し込まれる。声は怒っているが、諏訪はにこにこと楽しそうに笑っている。抵抗しようにも力が全く入らないため、恐る恐る齧り付くとグミのような人工的な甘さが舌に伝わった。こんな味だったか?なんだ、意外と悪くないじゃないかと思い直していると、トウモロコシは緑色の芋虫に変わっていた。噛み潰せば噛み潰すほど甘い液体が溢れ出し、ぐねぐねと動き回るので、青木は笑った。諏訪はもうずっと笑っている。
トウモロコシ畑だと思っていたそこは、ごみ処分場になっていた。扉が外れかかっている冷蔵庫や電子レンジ、水浸しの洗濯機や錆だらけの自転車などが所狭しと積み重なっている。青木は飛び上がるほど嬉しくなって「ここで暮らすのはどうだろう」と言う。
「ここになら何でもあるよ、酷いことを言う人もいない。仕事も勉強もしなくていいんだ。ねぇ諏訪、どうかな」
「名案じゃないか、やっぱりお前は頭がいいなぁ」
諏訪に褒められた青木はその場でくるくると回った。ごみの山のあちこちに丸っこい電飾が散りばめられていて、それがついたり消えたりする。幼い頃に一度だけ乗ったメリーゴーランドから見た景色が脳裏に蘇る。色とりどりの風船が空高くへ向かって飛んでいき、薔薇にガーベラ、パンジー、チューリップなどの小ぶりな花が宙を舞う。
これはハッピーエンドだ、完璧な幸せだ。ああ、なんて素晴らしい世界なんだ!青木が歓喜に震えていると、パァンと軽い音が響いた。祝福のクラッカーかと思い音のした方を見れば、諏訪が銃口を向けて、煙を立ち上らせている。腹があたたくなり、足が萎える。撃たれたのだと理解した時には、ガラクタだらけの地面に頭をつけていた。
「いつの間にそんなものを」
「運よくトウモロコシ畑になっていたから収穫したんだよ」
そうだったのかと青木は納得する。諏訪が無邪気な子供のような笑顔を浮かべて慣れた動作で銃のスライドを引く。
「青木、お前は必要ないんだよ」
トリガーに人差し指をかけるのが見えて、これ以上ないくらい幸せな気分で目を閉じた。
瞬間、ビクンと身体が大きく揺れて暗闇の中に放り出される。殺風景な部屋の中で、布団からほとんど全身をはみ出した状態の青木は汗にまみれていた。自分と、寝床を占領しているもう一人の息遣いだけが聞こえ、どこからが夢だったのかと混乱する。そして、腹にずっしりと乗っかっている諏訪の足を見て、どこからも何も全て夢であったとわかった。
指先だけが極端に冷たい足を掴んでどけようとした時、酸っぱい匂いがふわふわと鼻をくすぐった。潰れた梅干しが脳内に映し出されたが、すぐにそれではないとわかった。畳の上に、注射器が転がっていたからだ。
慌てて起き上がって、手探りで紐を探して引っ張る。ぐわんぐわんと目が回り、蛍光灯が何度か点滅して部屋が明るくなった。
大の字になった諏訪が眩しそうに腕で顔を覆う。その肘付近からは赤い線が流れていて、耳かきやスプーン、ライターといった道具が乱雑に置かれている。そして、灰色の粉がアルミ箔の上で散乱していた。
「えぇ、ちょっと待て、嘘。嘘だろ」
青木は一旦、明かりを落としてみた。何も見なかったことにしたいと思ったからだ。これも夢の続きであってくれと願ったが、足元に転がる針が赤く濡れた注射器は紛れもなく現実の一部だった。
足と腕を投げ出し、だらしなく開けた口からよだれを垂らしている諏訪は、僅かに胸を上下させ、月の明かりを受けて深い闇の中で生を主張していた。
重力が倍にでもなったみたいな身体を操縦しアルミ箔を掬い上げて、まるで害のないようなフリをして乗っかっているヘロインの粉を流しに捨て、蛇口を捻る。シンクに水がドボドボとぶつかり、粉と溶けて排水溝へ流れてゆく。やけに大きな音に感じて耳を塞ぎたくなった。
「馬鹿だろ。いや、わかっていたけれど、ここまでの馬鹿だったなんて。よりにもよって、タチの悪い女に捕まりやがって」
逆流したのであろう血がゆらゆらと泳ぐ注射器を踏みつけて、萎びた諏訪の元へ向かう。机の上で倒れているグラスからは透明な液体が吐き出され、その中で一匹の羽虫が死んでいた。
「聞いてる、聞いてるぞ、違う。あの女のことを悪く言うなよ、青木。柔らかくて締まりが良い綺麗な女なんだ。俺を救ってくれると言った、証拠に俺は今すごく気持ちがいいんだ。優美のことなんかもうすっかり忘れちまったんだ、本当だ、本当なんだよ。あの女とヤるとな、頭が吹っ飛びそうなくらい気持ちがいいんだ」
眠ったと思っていた諏訪が突然、破裂したように喋り出す。呂律が回っておらず聞き取りにくい長台詞が耳に届き、それが段々と冷え切った心の奥底を火照らせる。衝動的に諏訪の肩を右足の指で蹴り上げるように押すと、ごろりと半回転。燦燦とした瞳で青木を見上げているのが、まっ暗闇の中で明確に映し出されている。
「悪かった、怒るなよ、本当はこの家でする気は無かったんだ。でも我慢ができなかった、女は悪くないんだよ。お前も会ったら気にいると思うね、賢いやつなんだ。あぁでもお前にこんなことを教えられたら困るから、やめておいた方がいいな。女は、俺と結婚したいと言ったんだ。今度こそ俺は幸せになれるんだよ、青木」
諏訪が歌うように言葉を紡ぐ。開けっ放しの口からは絶え間なく笑い声が漏れている。青木はたまらなくなって、諏訪の電源を落としてしまいたくなった。昔よく遊んでいたひとりでに喋り続ける人形は、背中のスイッチを切れば大人しくなった。でも諏訪の背中にスイッチがない事は知っているし、そう考えてる間も諏訪は壊れたままだ。
「あんまり喋るなよ、舌を噛むよ」
「何も心配することはないぜ、青木。こんなに気分が良いのは生まれた時以来だ、俺にはわかる、ハッピーエンドがすぐそこに見えているからな」
青木は、トウモロコシ畑の夢を思い出した。
「諏訪にとっての幸せって、どういうものなの。どうなれば、諏訪は幸せになれるの」
「決まってるだろ、好きな女と結婚して、子供を産むんだ。俺のことを愛する家族と暮らすんだよ。そのために、沢山金を稼がなきゃなぁ。大きい家を建てるんだ。俺は家族っていうものがずっといなかったから、欲しくて欲しくてたまらないんだよ。最初から持っているお前には、きっとわからないだろうが」
柔らかい声を聞いて、冷水を浴びせられたような心地になって立ち尽くす。独りよがりな感情が次から次へと湧いてくるので、それらをひとつずつ確実に潰していった。夢の続きの二発目を青木はしっかりと受け取って、ささくれ立っていた心が穏やかなものになる。
「そうか、うん、上手くいくと良いね」
「俺は大丈夫だよ、今度こそな。それよりも、お前はどうなんだ。俺はお前が心配だよ、お前はどういう風に生きていきたいんだ?良い大学に行って、大企業にでも入るのかな。ギターは続ける?」
「僕はいいんだ、今だけでいい。もう少しだけ今が続いてくれれば、それでもういい」
「お前、変わってるよな」
そう言う諏訪の声はすっかりいつもの調子に戻っていて、不自然な笑い声もやんでいた。青木は喉に痛みを覚えるほど乾いていたことに気づき、相変わらず全身を伸ばしきって寝っ転がっている男を跨いで流しの前に立ち、グラスに水道水を溜めて喉を潤す。冷たい塊が身体の中心を通っていくのがわかる。
諏訪も飲むだろうと冷蔵庫を開けてポッドを掴んだ青木に「お前、何の夢を見てたんだ?」とのそっと半身を起こした諏訪が聞いま。
「ずっと笑ってたから気味が悪くてさ、蹴って起こしてやっただろ。どんな幸せな夢を見てたんだよ」
「トウモロコシが芋虫になって、僕がごみ処分場でメリーゴーランドになって、諏訪に撃ち殺される夢」
「はぁ?」
断片的に説明すると間抜けな声をあげて、次いでゲタゲタと笑い出す。
「お前、危ない薬でもやってるんじゃないのか?」
「本物のヤク中に言われたくないよ」
諏訪は小刻みに震える手でグラスを受け取り、苦しそうに笑い続ける。青木は全然笑えないなと思ったが、諏訪があまりにも楽しそうだから釣られて笑ってしまった。物憂げな夜の中に二人の歪な笑い声が沈殿していく。
朝になったら、諏訪がこの会話を全部忘れていればいいなと思った。
灰色の空の下で大雨に打たれている二階建てのボロアパートは、人が住んでいるとは思えないほど禍々しく、廃墟と言われれば疑う間も無く納得できそうな出で立ちだ。階段に目を向けて、誰も座り込んでいないことを確認する。安堵と残念の狭間をぐらぐらと行き来する気持ちを抱えて十三段目を登りきった所で、部屋の戸の前に立っている見知らぬ女と目が合った。ピンク色のヒラヒラした生地の傘を腕にかけていて、もう季節は秋に移り変わっているというのに服の面積は少なく、肌色が多い。
「何か用ですか」
「あ、あんたが青木?うそ、本当に男の子だったんだ! あたし、木崎優美。ハジメマシテ」
甲高くて甘ったるい声でそう言った女は、両の手のひらをこちらに向けて小さく振った。傘と一緒に腕にかかっている赤いバッグに付いたストラップがジャラジャラと揺れる。
どこが、優しくて可愛くて繊細な女なんだ?図々しくて能天気でしたたかな女の間違いじゃないだろうか。青木の抱く偏見は、たいていの場合当たる。
「女かと思って鍵パクっちゃってさ、そのまんまじゃ悪いなぁと思って。ここの場所、前に聞いたことがあったから返しに来たの。でも、本当に男の子に合鍵もらってるとは思わなかったぁ」
木崎優美は愉快そうに笑って、バッグから諏訪の鍵をつまみ出し青木の手のひらに置いた。強い香水の匂いが鼻腔をつき、頭が痛くなる。
「すみません、諏訪は多分今仕事に行っていて」
「ああ、いいのいいの。もう会うつもりもないし、そういう時間を狙ってきたんだし」
そうか、じゃあ帰ってくれ。と胸の中で言ったが、木崎優美は動かなかった。興味深げに青木の頭のてっぺんからつま先までを見渡して「ねぇ、こんな犬小屋に男二人で住んでるの?あんた、高校生でしょ?」と投げかけてくる。犬小屋という単語は聞かなかったことにした。
「住んでるというか、諏訪は夜に寝に帰ってくるだけですよ。帰ってこない日もあるし」
「なんか聞いたなぁ、最近熱入れてる女がいるとか。別れて一ヶ月も経ってないのに、早くない?」
頬を膨らませて首を傾げる仕草が様になっていて、思わず感服した。
「でも、多分まだあなたの事が好きなんだと思います」
青木はできるだけ冷たく聞こえるように言った。お世辞でも何でもなく、ここ十数日間で嫌という程感じていたことだった。諏訪は未だ木崎優美に恋い焦がれていて、その隙間を埋めるために何人かの女に手を出してはいるが、それによって更に心を痛めているようだった。家族になれれば誰でもいいというわけでもなく、木崎優美と家族になることに意味があったのだろう。どうしようもない馬鹿だと笑ってやりたかったが、自傷にも似た行為を繰り返す諏訪が痛々しくて上手く笑えなかった。青木にはどうすることもできないと思い知らされたが、ただその様子を見ているだけというのはもどかしかった。
女は、青木の言葉を聞いても顔色一つ変えない。
「あたしも、本当に好きだったよ。でも分かるでしょう、愛だけじゃご飯食べられないし、生きていけないわけ」
「だったら、最初から諏訪なんか相手にしなきゃ良かったじゃないか」
思わず語気が強まる。まさか、金を持っていると思って近づいた訳でもあるまいし。言ってから、自分は馬に蹴られるんじゃないかと思った。
「あたしはあいつの人格に惚れたの。それで蓋を開けてみたら、びっくりしちゃった。家もないし、仕事も全然続かないんだもん。それでもいいやって思えてたのは何ヶ月かだけでさ、結局あたしが逃げちゃった。これでも気ぃ使ったんだよ、未来もないのに愛情だけでずるずる続けてちゃダメだなぁって。お互いのためにもさ」
木崎優美は相変わらず舌ったらずな喋り方でつらつらと語る。その顔には、諦めの色が滲んでいるように見えた。
「あたしはアイツのために生きるの無理だなって思っちゃったんだよね」
ざぁざぁとうるさい雨の音に溶けてしまいそうな声量だった。青木は何も言えなくなって受け取った鍵を握る。木崎優美は顔をほころばせて「じゃあ」と青木の肩を優しく叩き、ヒールをカツカツと鳴らして歩き出した。そして、階段に差し掛かったところで足を止める。
「青木くん、君、いいように使われる前に切っちゃった方がいいよ。アイツは君を大切にしてくれないよ」
肝が冷えて、全身の毛が逆立った気がした。振り向くともうそこに木崎優美の姿はなく、ヒールが鉄制の階段を踏みしめる音が響いているだけだった。
敗戦したような気持ちで鍵を回してから、紛れもなく惨敗だと確信する。
ノブに引っ掛けたビニール傘は、薄汚れたコンクリートに水たまりを作る。諏訪が置いているラバー素材のサンダルが濡れないように、しゃがんで端に寄せた際、ドアポストに一通の葉書を見つける。あの女が諏訪に別れの言葉でも書いて入れたのかと、留め具を外して手に取れば、葉書には母の名前が綴られていて思考が停止した。反対の面を見れば、「進路面談が年末にあるから、必ず来るように。成績も落とさないように頑張ってください。それと、ちゃんとご飯を食べていますか?お父さんも心配しています」と丸っこい字で書かれていて、青木は頬を引き攣らせた。
「ひとり立ちした息子を心配する心優しい両親ってところか、上手じゃないか」
演技というのは、第三者に見られている場合にするものだろうに、一体誰に披露しているつもりなのか。もしや、演じてるうちに役に飲まれて、本当に息子を心配する母親になったつもりでいるのかもしれない。
ハハハと笑い声が漏れた。香水のキツい香りと肌色が鮮明に蘇り、胃がひくつく。すぐに酸っぱい匂いがせり上がってきて、口元を抑えて足をもつれさせながらトイレまで駆け込む。便器に内容物を吐き出すも、大した物を食べていない青木の口からは少量の胃液が垂れるだけだ。肩で息をしながら便器に顔を突っ込んで嘔気が過ぎ去るのを待つ。金槌で殴られ続けているみたいな頭痛が起こった。玄関では、葉書が傘から滴り落ちる雫を受け止め、インクを滲ませている。
空がオレンジ色に焼けて青木がトイレから這い出しても、日が沈み布団の中に潜り込んでも、時計の短針が十二を過ぎても、諏訪は帰ってこなかった。
沈黙する扉を見つめるのにも飽きて、のそりと起き上がって冷蔵庫を開けようとすると、その上に小さな刃物を発見して手に取る。
何の躊躇いもなく瘡蓋だらけの腕に押し当ててスッと花柄のカミソリを引くと、ぶちぶちと皮膚が刃に引っかかって破ける音がして、ぷつぷつと血の玉が赤い線の間に浮かび上がってくる。握り締めていた掌の力を緩めると大量の汗が光っており、足の裏もじっとりとしていて不快な気持ちになった。
そうして青白い腕を伝ってボトリと血が垂れるのを見届けたら、全身はすっかり幼稚な高揚感に浮かされていて、何本も線を引いていった。
黙っていた痛みがちりちりと現れてくると、途端に滑稽に思えてきて肉片がこびりついたそれをぽいと放り投げる。かしゃんとチープな音が部屋の闇に溶けた。
青木は、どうしたらこの惨めで情けない気持ち大人しくしてやれるかを考えた。考えて、また絶望的な焦燥感に襲われて、副作用も知らずに集めた錠剤が突っ込んである紙袋の中から適当に薬を掴んで口に放り込み、ボリボリ音を立てて噛み砕いて嚥下した。布団に埋まると頭が混濁とし、シーツにじわじわと赤が広がっていく。
「諏訪」
自分のものじゃないような声でそれは確かに自分の口から出て行った。ぼうぼうと不愉快な耳鳴りでよく聞こえないが、かさついたみすぼらしい声音に聞こえる。苛立って腕を振り上げようとして、ドアノブにぶら下がっているであろう傘を思い出し、少し可笑しくなって息を吐いた。身体が地面に沈み込んでいくのが、重くて気持ちがいい。喉がからからと渇き、鼻の奥もつんと渇いている。
「諏訪は、どうなりたいの。ねぇ、諏訪の思い描く先に、僕はいる?」
青木は言って、おこがましいなとまた笑った。早く会わなきゃいけない気がして布団の上を泳いで、それは自分の思い過ごしかもしれないと気づいた。しかし、諏訪が寂しがっているかもしれないという心配がまた浮かび上がる。
「大丈夫、諏訪、大丈夫だから。長島はいなくなったけど、僕はまだここにいるから」
頭の中にまで、やかましい煙突の煙みたいな音が蔓延する。しだいに、さっきまでこもっていた耳がノイズを拾い始めた。降り続く雨の音、タイヤが水たまりを踏み潰す音、猫の鳴き声、自転車のベル。再び、胃がひっくり返るような嫌悪感が襲い掛かるが、青木は指先の一つ動かせないでいる。
僅かな尿意を感じ目を剥くと、心音で揺れる天井に星がきらきらと光っていた。瞼が降りる前に、青木は自分の笑い声を聞いた。
「お前、これ、どうしたんだよ」
我が物顔で青木の家の玄関をくぐった諏訪は、隣人が寝ているであろう時間帯だというのに大きな声で大袈裟に驚いてみせた。これというのは、布団に赤黒く広がった染みのことだ。昼に起きた青木は、後で新しいシーツを買いに行こうと思っていたのだが、すっかりこの時間まで寝入ってしまっていたのだ。
「来る時間考えてよ、眠いよ」
ドアを閉めて鍵をかけながらぼやく。
「いや、これ何だって、血か?大出血じゃねぇか」
「トマトケチャップを間違えてかけちゃったんだよ」
脳の回転が鈍く、また寝起きの頭で諏訪の相手をするのが面倒で、あまりにもひどい嘘を吐いた。酒でも飲んできたのか機嫌のいい諏訪は、にやにやした面で青木と布団を交互に見る。
「布団にケチャップをかける人間の心理ってやつは、恐ろしいと思わないか?俺は思う。絶対に病気だね、大病だ。医者に診てもらった方がいいぞ」
「うるさいなぁ、早く寝てくれ」
「俺はトマトに抱かれる夢なんか、見たくはないな」
「だったら畳で寝ればいいよ、台所の床もトイレの床も空いてる」
諏訪はまだにやにやしている。
電気の紐を三回引いて灯を消し、倒れるように布団に身を投げた。昨晩、ワタに血を吸わせたせいか、全身がだるくて立っているのも苦痛に感じるほどだった。
すぐに諏訪が隣に寝そべった。畳がみしりと音を立てる。知らないシャンプーの香りが鼻をくすぐる。わずかに触れている背中がぬくい。
一式の布団に男二人が収まるはずもなく、お互いがちょっとずつ畳にはみ出すが、文句は言わない。以前はもう一式あったのだが、酔い潰れた長島が盛大に嘔吐したためおじゃんになったのだ。二つの布団を敷いて三人で寝転がった頃を想起するが、何を話したのかは全く思い出せなかった。
「あ、もしかしてお前、ついに初潮を迎えたのか?」
「面白いことを言うね、諏訪。外で寝たってまだ死なない季節で良かったな」
もぞもぞと起き上がって玄関を親指で指すと、諏訪は笑いを噛み殺した声で「風邪をひくから、嫌だ」と言った。しばらく一人で笑っていたと思えば、ぐぅぐぅと憎たらしいいびきをかきはじめた。
青木は大きくため息をついて、諏訪を起こさないように身を寄せ、まぶたを下ろす。頭に血が集まっていくのがわかり、眼球の奥がじくじくと痛んだ。痛みに意識を集中させていると、次第にとろけはじめてゆるゆると底に落ちていく。
いつの間にか、青木はあたたかい光に包まれて立っていた。あたり一面、大きな葉っぱをつけた稲がそびえ立っていてぎょっとする。風が吹くたびに黄緑色の細い紐の束がそよぎ、木崎優美の金色の長い髪を彷彿とさせる。無数の稲は、全てトウモロコシを実らせているらしかった。
「ほら、食えよ」
それが当たり前であるかのように青木と肩を並べていた諏訪が、ぎっしりと実が詰まったトウモロコシを差し出してくる。規則正しく並ぶ四角くて黄色い粒を見て嫌な気持ちになった。
「いらない、嫌いなんだ」
「どうして」
「ぷちゅっと潰れて甘い汁が飛び出るところが気持ち悪い。実がぐにゅぐにゅしてるのも嫌だ」
「農家の人に謝れ!!」
素直に答えたのに、ものすごい力で後頭部を鷲掴みにされて、トウモロコシのヒゲが付いていない方を口に押し込まれる。声は怒っているが、諏訪はにこにこと楽しそうに笑っている。抵抗しようにも力が全く入らないため、恐る恐る齧り付くとグミのような人工的な甘さが舌に伝わった。こんな味だったか?なんだ、意外と悪くないじゃないかと思い直していると、トウモロコシは緑色の芋虫に変わっていた。噛み潰せば噛み潰すほど甘い液体が溢れ出し、ぐねぐねと動き回るので、青木は笑った。諏訪はもうずっと笑っている。
トウモロコシ畑だと思っていたそこは、ごみ処分場になっていた。扉が外れかかっている冷蔵庫や電子レンジ、水浸しの洗濯機や錆だらけの自転車などが所狭しと積み重なっている。青木は飛び上がるほど嬉しくなって「ここで暮らすのはどうだろう」と言う。
「ここになら何でもあるよ、酷いことを言う人もいない。仕事も勉強もしなくていいんだ。ねぇ諏訪、どうかな」
「名案じゃないか、やっぱりお前は頭がいいなぁ」
諏訪に褒められた青木はその場でくるくると回った。ごみの山のあちこちに丸っこい電飾が散りばめられていて、それがついたり消えたりする。幼い頃に一度だけ乗ったメリーゴーランドから見た景色が脳裏に蘇る。色とりどりの風船が空高くへ向かって飛んでいき、薔薇にガーベラ、パンジー、チューリップなどの小ぶりな花が宙を舞う。
これはハッピーエンドだ、完璧な幸せだ。ああ、なんて素晴らしい世界なんだ!青木が歓喜に震えていると、パァンと軽い音が響いた。祝福のクラッカーかと思い音のした方を見れば、諏訪が銃口を向けて、煙を立ち上らせている。腹があたたくなり、足が萎える。撃たれたのだと理解した時には、ガラクタだらけの地面に頭をつけていた。
「いつの間にそんなものを」
「運よくトウモロコシ畑になっていたから収穫したんだよ」
そうだったのかと青木は納得する。諏訪が無邪気な子供のような笑顔を浮かべて慣れた動作で銃のスライドを引く。
「青木、お前は必要ないんだよ」
トリガーに人差し指をかけるのが見えて、これ以上ないくらい幸せな気分で目を閉じた。
瞬間、ビクンと身体が大きく揺れて暗闇の中に放り出される。殺風景な部屋の中で、布団からほとんど全身をはみ出した状態の青木は汗にまみれていた。自分と、寝床を占領しているもう一人の息遣いだけが聞こえ、どこからが夢だったのかと混乱する。そして、腹にずっしりと乗っかっている諏訪の足を見て、どこからも何も全て夢であったとわかった。
指先だけが極端に冷たい足を掴んでどけようとした時、酸っぱい匂いがふわふわと鼻をくすぐった。潰れた梅干しが脳内に映し出されたが、すぐにそれではないとわかった。畳の上に、注射器が転がっていたからだ。
慌てて起き上がって、手探りで紐を探して引っ張る。ぐわんぐわんと目が回り、蛍光灯が何度か点滅して部屋が明るくなった。
大の字になった諏訪が眩しそうに腕で顔を覆う。その肘付近からは赤い線が流れていて、耳かきやスプーン、ライターといった道具が乱雑に置かれている。そして、灰色の粉がアルミ箔の上で散乱していた。
「えぇ、ちょっと待て、嘘。嘘だろ」
青木は一旦、明かりを落としてみた。何も見なかったことにしたいと思ったからだ。これも夢の続きであってくれと願ったが、足元に転がる針が赤く濡れた注射器は紛れもなく現実の一部だった。
足と腕を投げ出し、だらしなく開けた口からよだれを垂らしている諏訪は、僅かに胸を上下させ、月の明かりを受けて深い闇の中で生を主張していた。
重力が倍にでもなったみたいな身体を操縦しアルミ箔を掬い上げて、まるで害のないようなフリをして乗っかっているヘロインの粉を流しに捨て、蛇口を捻る。シンクに水がドボドボとぶつかり、粉と溶けて排水溝へ流れてゆく。やけに大きな音に感じて耳を塞ぎたくなった。
「馬鹿だろ。いや、わかっていたけれど、ここまでの馬鹿だったなんて。よりにもよって、タチの悪い女に捕まりやがって」
逆流したのであろう血がゆらゆらと泳ぐ注射器を踏みつけて、萎びた諏訪の元へ向かう。机の上で倒れているグラスからは透明な液体が吐き出され、その中で一匹の羽虫が死んでいた。
「聞いてる、聞いてるぞ、違う。あの女のことを悪く言うなよ、青木。柔らかくて締まりが良い綺麗な女なんだ。俺を救ってくれると言った、証拠に俺は今すごく気持ちがいいんだ。優美のことなんかもうすっかり忘れちまったんだ、本当だ、本当なんだよ。あの女とヤるとな、頭が吹っ飛びそうなくらい気持ちがいいんだ」
眠ったと思っていた諏訪が突然、破裂したように喋り出す。呂律が回っておらず聞き取りにくい長台詞が耳に届き、それが段々と冷え切った心の奥底を火照らせる。衝動的に諏訪の肩を右足の指で蹴り上げるように押すと、ごろりと半回転。燦燦とした瞳で青木を見上げているのが、まっ暗闇の中で明確に映し出されている。
「悪かった、怒るなよ、本当はこの家でする気は無かったんだ。でも我慢ができなかった、女は悪くないんだよ。お前も会ったら気にいると思うね、賢いやつなんだ。あぁでもお前にこんなことを教えられたら困るから、やめておいた方がいいな。女は、俺と結婚したいと言ったんだ。今度こそ俺は幸せになれるんだよ、青木」
諏訪が歌うように言葉を紡ぐ。開けっ放しの口からは絶え間なく笑い声が漏れている。青木はたまらなくなって、諏訪の電源を落としてしまいたくなった。昔よく遊んでいたひとりでに喋り続ける人形は、背中のスイッチを切れば大人しくなった。でも諏訪の背中にスイッチがない事は知っているし、そう考えてる間も諏訪は壊れたままだ。
「あんまり喋るなよ、舌を噛むよ」
「何も心配することはないぜ、青木。こんなに気分が良いのは生まれた時以来だ、俺にはわかる、ハッピーエンドがすぐそこに見えているからな」
青木は、トウモロコシ畑の夢を思い出した。
「諏訪にとっての幸せって、どういうものなの。どうなれば、諏訪は幸せになれるの」
「決まってるだろ、好きな女と結婚して、子供を産むんだ。俺のことを愛する家族と暮らすんだよ。そのために、沢山金を稼がなきゃなぁ。大きい家を建てるんだ。俺は家族っていうものがずっといなかったから、欲しくて欲しくてたまらないんだよ。最初から持っているお前には、きっとわからないだろうが」
柔らかい声を聞いて、冷水を浴びせられたような心地になって立ち尽くす。独りよがりな感情が次から次へと湧いてくるので、それらをひとつずつ確実に潰していった。夢の続きの二発目を青木はしっかりと受け取って、ささくれ立っていた心が穏やかなものになる。
「そうか、うん、上手くいくと良いね」
「俺は大丈夫だよ、今度こそな。それよりも、お前はどうなんだ。俺はお前が心配だよ、お前はどういう風に生きていきたいんだ?良い大学に行って、大企業にでも入るのかな。ギターは続ける?」
「僕はいいんだ、今だけでいい。もう少しだけ今が続いてくれれば、それでもういい」
「お前、変わってるよな」
そう言う諏訪の声はすっかりいつもの調子に戻っていて、不自然な笑い声もやんでいた。青木は喉に痛みを覚えるほど乾いていたことに気づき、相変わらず全身を伸ばしきって寝っ転がっている男を跨いで流しの前に立ち、グラスに水道水を溜めて喉を潤す。冷たい塊が身体の中心を通っていくのがわかる。
諏訪も飲むだろうと冷蔵庫を開けてポッドを掴んだ青木に「お前、何の夢を見てたんだ?」とのそっと半身を起こした諏訪が聞いま。
「ずっと笑ってたから気味が悪くてさ、蹴って起こしてやっただろ。どんな幸せな夢を見てたんだよ」
「トウモロコシが芋虫になって、僕がごみ処分場でメリーゴーランドになって、諏訪に撃ち殺される夢」
「はぁ?」
断片的に説明すると間抜けな声をあげて、次いでゲタゲタと笑い出す。
「お前、危ない薬でもやってるんじゃないのか?」
「本物のヤク中に言われたくないよ」
諏訪は小刻みに震える手でグラスを受け取り、苦しそうに笑い続ける。青木は全然笑えないなと思ったが、諏訪があまりにも楽しそうだから釣られて笑ってしまった。物憂げな夜の中に二人の歪な笑い声が沈殿していく。
朝になったら、諏訪がこの会話を全部忘れていればいいなと思った。
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