幸い(さきはひ)

白木 春織

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第五章

第十三話

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「何より、私には心に想う方がいます」

 力強い口調から一転、ぽつりと空気に吐かれた、千鶴のつぶやきともとれる小さな声。

 普通ならば、隣室にいる自分には聞こえないであろう声。

 けれども、それはあまりに揺るぎないものとして桐秋の胸に突き刺さる。

 そうか、その可能性もあるのかと桐秋は思う。

 まさに青天の霹靂へきれきだった。

 自惚うぬぼれているわけではないが、千鶴に想っている人間がいることなど考えもしなかった。

 普通、想う相手がいるなら、休みを取って会いに行ったり、手紙の一つでもやり取りするだろう。

 だが、千鶴はここに来てから、そういう素振りも見せていない。

 だから勝手に千鶴のすべてを独占できているような気がしていた。

 桐秋の頭に千鶴が語った初恋の話が思い出される。

 千鶴の想う相手がそこにいる気がしたのだ。

 桐秋が目には見えない千鶴の想い人のことを考えている間に、洋間では千鶴が絞り出すように中路に最後の断りを告げていた。

「申し訳ありません。いただいたお話はお受けできません」

 静寂せいじゃくな時が続く。

 しかし、千鶴の姿に決心が硬いことを知ったのだろう、中路の声がひびく。

「分かった。君にも譲れない想いがあるんだね。

 そういうところも千鶴ちゃんらしくて僕は好きだったんだ。

 一生懸命考えてくれてありがとう。

 お元気で。

 後は頼みます」

 中路は最後にそう言うと、想いを置いて、部屋を静かに後にした。

 玄関の扉が閉まる音がしてしばらくすると、隣室からはすすり泣く声が聞こえてきた。

 桐秋は現実に意識を戻す。

 優しい彼女のことだ、中路のことを思って泣いているのだろう。

 自分がどう思っている相手であれ、人を傷つけたことに傷つく、細やかで憐れみ深い女性だから。

 終わりに中路が放った言葉は、千鶴にとっては、桐秋のことを看護婦として頼むという意味に捉えたかもしれない。

 が、実際は隣で聞いていた桐秋に向けられた言葉。

 彼はこうなることが分かっていたのではないかと桐秋は思う。

 好きだったからこそ、こうして彼女が泣いてしまうことも分かっていたのだ。

 そのために隣に自分を待機させていた。 

 千鶴の発した言葉で中路は振られ、桐秋は心乱された。

 それでも、一人の乙女に振り回された二人の男が祈ることは一つ。

――柔らかな乙女の心に、一秒でも早く平穏が訪れますように。

 桐秋は隣の部屋から願うことしかできない。

 千鶴は自分が傷つき泣いていても、桐秋がこのことに介入することを望んでいない。

 背中を預けている薄い壁がなければ、彼女のことを抱きしめられる距離。たった幾寸いくすんかの距離だ。 

 でもそれはできない。

 だが、泣いている千鶴を独りにはしたくない。

 ならば彼女が泣き止むまではと、桐秋はその場にとどまり、天井の雫のようにも見える木目もくめを静かに見上げるのだった。
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