幸い(さきはひ)

白木 春織

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第七章

第十三話

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 純粋に千鶴に喜んでもらいたいと考えたとき、苦しく悲しい思い出よりも先に、ここで過ごした幼い頃の楽しかった思い出が|蘇(よみがえ)った。

 ここは幼い頃、毎年家族で訪れる場所だった。

 珍しい植物が植えられた温室とバラ園では、父と母がたくさんの草花の名前を桐秋に教えてくれた。

 庭にある西洋風の池では、何もいなくて寂しいといった桐秋のために、宝玉ほうぎょくの様な可愛らしい金魚を放してくれた。

 紅葉が美しい散策道では、桐秋を挟んで親子三人、手をつないで歩いた。

 千鶴を楽しませたいという願いは、悲しい思い出に塗り替えられていた桐秋の記憶の中から、大切な心温まる思い出をすくい取ってくれた。

 ここは唯一千鶴を連れ出せる場所であり、なにより共に訪れたい場所だったのだ。

「ここには、母と過ごした大切な思い出がたくさんあった。

 それを思いださせてくれたのは君だ。

 ありがとう。

 そして、今、こうして君と共に過ごすことができて、大切な思い出は、上書きされている。

 ・・・君といると私は幸せになれる。」

 最後の言葉を、ことさら優しく微笑み、告げる桐秋に、千鶴は、胸をきゅっと絞り取られる感覚を味わう。

 そこからあふれてくるのは、桐秋への想い。

 いとしさを大きくはらんだ・・・。

――君といると私は幸せになれる

 言葉の意味をかみしめるたび、痛いほどに千鶴の心から想いが絞り取られていく。

 それはどんどんと千鶴の心の下にある器へとたまり、やがては満々と水をたたえて、ぷつりとこぼれゆく。

 あふれた出た想いは行き場をなくし、瞳から光る雫として身体の外に流れ出る。

 初めて千鶴に想いを告げた時の桐秋と同じ。

 自然にこぼれ出たもの。

 千鶴が流す涙は桐秋への想いの結晶。

 次から次に湧き出てくる。

 そんな千鶴の姿に桐秋は泣かせるつもりは無かったと苦く微笑み、ハンカチで、千鶴の頬の涙をぬぐってくれる。

 さらに抱きしめてくれる。

 桐秋の前では、千鶴はすっかり泣き虫になってしまった。

 桐秋もそれを心得ていて、千鶴の涙を拭うのが仕事になっている。

 早く涙を止めなければと千鶴は思う。

 それでも、涙を拭う桐秋の顔があまりにも優しいから、千鶴はそれに甘え、桐秋の胸の中でしばし想いの雫をこぼす。

 二人を囲む幸せのそのは、かさりかさりとその葉を落とす。

 確実に季節が巡る音がする。

 でも今は、今だけは、く秋の音に耳を塞ぎ、ただ、このとき、この瞬間の幸せに二人、心を寄せるのだった。


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