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第5話
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異世界に来てすでに二回も意識を失った樹は、体調が万全でないこともあって、三日間の静養を要した。
どうやら早乙女は、虚弱体質な上に心臓も弱いらしい。樹がまだ山田樹だった頃は、風邪など滅多に引かない健康優良児だったので、体調が回復する遅さに驚いた。その上、通いの医者に、
「せっかく命拾いをしたのです。命が惜しければ、医者の言う事を聞いて安静にして下さい!」
と涙ながらに訴えられた。そうして樹は改めて、自分が山田樹ではなく、早乙女樹なのだという自覚を持ったのだった。
*
未だ本調子ではないが、ある程度回復した樹は、花ヶ前家――どうやら由緒ある公家華族の伯爵家ならしい――の本邸にいた。
頻繁に気を失ってしまう樹を心配した梗一郎が、花ヶ崎家当主……つまり父親に掛け合い、樹を本館に住めるようにしてくれた。使用人の中でも本邸に部屋を与えられているのは、今までは家令と執事長だけだったらしい。それを聞いて、どうして自分に良くしてくれるのかと梗一郎に訊ねると、驚きの事実が判明した。
「樹。そなたは画家としての才能を買われて、花ヶ崎家がパトロネスになったんだ。それでそなたは、数年前からうちに書生として住まい、使用人の仕事をしながら画塾に通っている」
なるほど、それで他の使用人よりも優遇されていたのか――梗一郎に気に入られているのも影響しているだろうが――と納得した樹は、恐縮しながらもご厚意に甘えることにしたのだ。
そういう理由で、使用人棟の江戸間6畳の部屋から、8畳の部屋に移動してきた樹なのだが……。
(こ、これは、いささか贔屓が過ぎるのでは?)
梗一郎が樹のために誂えさせたという室内の調度品の数々に、樹は思わず開いた口が塞がらない。
樹は見るからに高級そうな赤色の波斯絨毯を、恐る恐る踏み締めながら入室する。そうして、マホガニー製の西洋箪笥やその上に飾られたギヤマン陶の花瓶を眺めつつ、風呂敷包をベッドの上に置いた。
「ほえ~……金かかってるなぁ……」
それだけ梗一郎が樹のことを大切に想っているのだろう。そして、一見不必要に見える飾り物も、素描に適しているものばかりだ。
(あー、なんか描きたくなってきた!)
両親を亡くしてからは一度も触れていなかった鉛筆やケント紙に今すぐに触れたくて仕方がなかった。
しかし樹は、一度罹患すると助からないと恐れられているスペイン風邪から生還したばかりだ。身体のあちこちに後遺症が残っていて、無理は禁物だと、医者と梗一郎に言い含められている。それに――
「絵の世界に転生したんだもんな、俺」
そう言って、狭いバルコニーに続く薄いカーテンをシャッと開けた。すると柔らかな日差しが降り注ぎ、その心をほぐすような暖かさに、樹の顔は自然とほころんだ。
「マジで本物の太陽じゃん。ここが、俺が描いた絵の中だなんて信じらんねーわ」
窓辺で「ん~!」と伸びをした樹は、開けたカーテンはそのままに、陽光を浴びながら荷物の整理を始める。とはいえ、早乙女の持ち物が少なすぎて、片付けはあっという間に終わってしまった。ふぅ、と息を吐いてチェストの引き出しを閉める。それから立ち上がって部屋を見回した樹は、手持ち無沙汰にベッドへ寝転んだ。
「やることなくなっちまった~~。荷物少なすぎ。早乙女さんって、絵を描くためだけに生きてたのか? 娯楽本の一つも持ってないし。エロ本くらいあっても……」
と言って、樹は重大なことを思い出した。
「そういえば俺って多分、梗一郎さんの恋人なんだよな……」
今のところは記憶喪失ということで、恋人としての振る舞いをする必要はないが、いずれは元の関係に戻らなければならないだろう。
(つーか。男同士ってナニするわけ?)
樹はガバっと上体を起こして宙を見つめた。
「俺、彼女すらいたことねーのに。男同士もキスとかするんかな? ……いやいや。想像するだけでちょっと……おえっ」
何故か、友人とのキスシーンを想像してしまった樹が気持ち悪さに悶えていると、部屋のドアがノックされた。
「樹。梗一郎だ」
「!」
樹はベッドから飛び降り乱れた衣服を整えると、病人のフリをして咳き込み、部屋のドアを開けた。
「こ、梗一郎さま。どうなさいましたか……?」
病弱な早乙女の儚げな雰囲気を意識しながら、上目遣い――梗一郎の身長が高いので自然とそうなる――で首を傾ける。すると梗一郎は、頬を薄く染めて、
「……まだ病み上がりで辛いかも知れないが、樹さえよければ、気分転換に庭園を散歩しないか?」
と言って、こほん、と照れたように空咳をしてみせた。そんな梗一郎の姿を見た樹は、嫌悪感が全く沸かず、むしろキュンとしてしまった自分に驚く。
(な、なんだこの胸の高鳴りは……? かお……顔か? 相手が超絶イケメンすぎるとこうなるのか!?)
樹は着物の襟合わせをぎゅっと掴んで動揺を抑えると、ふわりと微笑んだ。
「いいですね。ちょうど気が滅入っていたところだったんです」
「む。部屋の設えが気に入らなかったか? 樹は美的感覚が優れているから、私なりに頑張ってみたのだが……」
「いっ、いいえ! そうではなく! お部屋はとても気に入りました。ただ、ずっと臥せっていたので……」
樹がしゅんと俯いて言うと、梗一郎は秀眉をハの字にした。
「樹……。本当に良く耐えきってくれた。そなたにもしものことがあったら私は……っ」
そう言って、ぎゅっと目をつぶった梗一郎の姿に、樹の胸がぎゅうっと重くなる。そうして自然と梗一郎の顔に手を伸ばした樹は、青白くなってしまった頬に手を当てた。するとその手を梗一郎が握り、自分の口元へ移動させて、やわい手のひらに口づけた。その瞬間――
ぞわぞわぞわ~~!
と、背筋がゾクゾクした。
(や、やっぱり無理ーー!)
梗一郎の唇の感触に鳥肌を立てたまま、樹は掴まれている自分の手を、挙手するようにバッと上にあげた。それに驚いたのか、目を丸くした梗一郎が、
「い、樹? ……ああ、そうか。まだ記憶が……」
と言い、自分を責めるように深いため息をついて、扉の枠にもたれかかってしまった。
(か、勝手に誤解してくれてる……!?)
梗一郎に悪いと思いながらも、樹は記憶喪失であるという設定を前面に押し出すことにする。
樹は挙手していた腕をゆるゆると落とし、困惑した表情をつくって、口元に手を当てた。
「梗一郎さま、すみません。お……僕、男の人にこういうことをされたのが初めてで。凄く驚いてしまいました……」
そう言って、チラリと梗一郎を見上げると、梗一郎は顔を手で覆って何かを口走りながら、もだもだと悶えていた。
「こっ、梗一郎さま……? あのぅ、大丈夫ですか?」
樹が――若干、引き気味に――問いかけると、梗一郎はピタッと動きを止めて、いつもの凛とした佇まいに戻った。
「樹、すまない。そなたは記憶を失っているというのに、無体を働いてしまった。……安心してくれ、樹。忘れてしまったのなら、また恋に落ちればいいのだから」
(いや、全然、安心できないんですけど!?)
樹は心の中で盛大にツッコミを入れながら、意味がわかりません、という風を装う。
「? 僕は気にしていませんから、庭園に参りましょうか。高貴な身分の梗一郎さまにお願いするのは気が引けるのですが……。僕、記憶が曖昧なので、案内をしていただけると助かります」
「……ああ。もちろんだ。そなたは庭園のバラを美しく咲かせる名人だったんだ。そなたが倒れてからは、私が代わりに手入れをしていた。樹ほど上手く世話を出来ていないだろうが、私の頑張りを見てほしくてね」
「そうでしたか。僕、バラの花が大好きなんです。元気になったら、デッサンがしたいです! 早く見にいきましょう」
なんとか危機を脱した樹は、必死に微笑みを浮かべながら、庭園へと向かったのだった。
どうやら早乙女は、虚弱体質な上に心臓も弱いらしい。樹がまだ山田樹だった頃は、風邪など滅多に引かない健康優良児だったので、体調が回復する遅さに驚いた。その上、通いの医者に、
「せっかく命拾いをしたのです。命が惜しければ、医者の言う事を聞いて安静にして下さい!」
と涙ながらに訴えられた。そうして樹は改めて、自分が山田樹ではなく、早乙女樹なのだという自覚を持ったのだった。
*
未だ本調子ではないが、ある程度回復した樹は、花ヶ前家――どうやら由緒ある公家華族の伯爵家ならしい――の本邸にいた。
頻繁に気を失ってしまう樹を心配した梗一郎が、花ヶ崎家当主……つまり父親に掛け合い、樹を本館に住めるようにしてくれた。使用人の中でも本邸に部屋を与えられているのは、今までは家令と執事長だけだったらしい。それを聞いて、どうして自分に良くしてくれるのかと梗一郎に訊ねると、驚きの事実が判明した。
「樹。そなたは画家としての才能を買われて、花ヶ崎家がパトロネスになったんだ。それでそなたは、数年前からうちに書生として住まい、使用人の仕事をしながら画塾に通っている」
なるほど、それで他の使用人よりも優遇されていたのか――梗一郎に気に入られているのも影響しているだろうが――と納得した樹は、恐縮しながらもご厚意に甘えることにしたのだ。
そういう理由で、使用人棟の江戸間6畳の部屋から、8畳の部屋に移動してきた樹なのだが……。
(こ、これは、いささか贔屓が過ぎるのでは?)
梗一郎が樹のために誂えさせたという室内の調度品の数々に、樹は思わず開いた口が塞がらない。
樹は見るからに高級そうな赤色の波斯絨毯を、恐る恐る踏み締めながら入室する。そうして、マホガニー製の西洋箪笥やその上に飾られたギヤマン陶の花瓶を眺めつつ、風呂敷包をベッドの上に置いた。
「ほえ~……金かかってるなぁ……」
それだけ梗一郎が樹のことを大切に想っているのだろう。そして、一見不必要に見える飾り物も、素描に適しているものばかりだ。
(あー、なんか描きたくなってきた!)
両親を亡くしてからは一度も触れていなかった鉛筆やケント紙に今すぐに触れたくて仕方がなかった。
しかし樹は、一度罹患すると助からないと恐れられているスペイン風邪から生還したばかりだ。身体のあちこちに後遺症が残っていて、無理は禁物だと、医者と梗一郎に言い含められている。それに――
「絵の世界に転生したんだもんな、俺」
そう言って、狭いバルコニーに続く薄いカーテンをシャッと開けた。すると柔らかな日差しが降り注ぎ、その心をほぐすような暖かさに、樹の顔は自然とほころんだ。
「マジで本物の太陽じゃん。ここが、俺が描いた絵の中だなんて信じらんねーわ」
窓辺で「ん~!」と伸びをした樹は、開けたカーテンはそのままに、陽光を浴びながら荷物の整理を始める。とはいえ、早乙女の持ち物が少なすぎて、片付けはあっという間に終わってしまった。ふぅ、と息を吐いてチェストの引き出しを閉める。それから立ち上がって部屋を見回した樹は、手持ち無沙汰にベッドへ寝転んだ。
「やることなくなっちまった~~。荷物少なすぎ。早乙女さんって、絵を描くためだけに生きてたのか? 娯楽本の一つも持ってないし。エロ本くらいあっても……」
と言って、樹は重大なことを思い出した。
「そういえば俺って多分、梗一郎さんの恋人なんだよな……」
今のところは記憶喪失ということで、恋人としての振る舞いをする必要はないが、いずれは元の関係に戻らなければならないだろう。
(つーか。男同士ってナニするわけ?)
樹はガバっと上体を起こして宙を見つめた。
「俺、彼女すらいたことねーのに。男同士もキスとかするんかな? ……いやいや。想像するだけでちょっと……おえっ」
何故か、友人とのキスシーンを想像してしまった樹が気持ち悪さに悶えていると、部屋のドアがノックされた。
「樹。梗一郎だ」
「!」
樹はベッドから飛び降り乱れた衣服を整えると、病人のフリをして咳き込み、部屋のドアを開けた。
「こ、梗一郎さま。どうなさいましたか……?」
病弱な早乙女の儚げな雰囲気を意識しながら、上目遣い――梗一郎の身長が高いので自然とそうなる――で首を傾ける。すると梗一郎は、頬を薄く染めて、
「……まだ病み上がりで辛いかも知れないが、樹さえよければ、気分転換に庭園を散歩しないか?」
と言って、こほん、と照れたように空咳をしてみせた。そんな梗一郎の姿を見た樹は、嫌悪感が全く沸かず、むしろキュンとしてしまった自分に驚く。
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樹は着物の襟合わせをぎゅっと掴んで動揺を抑えると、ふわりと微笑んだ。
「いいですね。ちょうど気が滅入っていたところだったんです」
「む。部屋の設えが気に入らなかったか? 樹は美的感覚が優れているから、私なりに頑張ってみたのだが……」
「いっ、いいえ! そうではなく! お部屋はとても気に入りました。ただ、ずっと臥せっていたので……」
樹がしゅんと俯いて言うと、梗一郎は秀眉をハの字にした。
「樹……。本当に良く耐えきってくれた。そなたにもしものことがあったら私は……っ」
そう言って、ぎゅっと目をつぶった梗一郎の姿に、樹の胸がぎゅうっと重くなる。そうして自然と梗一郎の顔に手を伸ばした樹は、青白くなってしまった頬に手を当てた。するとその手を梗一郎が握り、自分の口元へ移動させて、やわい手のひらに口づけた。その瞬間――
ぞわぞわぞわ~~!
と、背筋がゾクゾクした。
(や、やっぱり無理ーー!)
梗一郎の唇の感触に鳥肌を立てたまま、樹は掴まれている自分の手を、挙手するようにバッと上にあげた。それに驚いたのか、目を丸くした梗一郎が、
「い、樹? ……ああ、そうか。まだ記憶が……」
と言い、自分を責めるように深いため息をついて、扉の枠にもたれかかってしまった。
(か、勝手に誤解してくれてる……!?)
梗一郎に悪いと思いながらも、樹は記憶喪失であるという設定を前面に押し出すことにする。
樹は挙手していた腕をゆるゆると落とし、困惑した表情をつくって、口元に手を当てた。
「梗一郎さま、すみません。お……僕、男の人にこういうことをされたのが初めてで。凄く驚いてしまいました……」
そう言って、チラリと梗一郎を見上げると、梗一郎は顔を手で覆って何かを口走りながら、もだもだと悶えていた。
「こっ、梗一郎さま……? あのぅ、大丈夫ですか?」
樹が――若干、引き気味に――問いかけると、梗一郎はピタッと動きを止めて、いつもの凛とした佇まいに戻った。
「樹、すまない。そなたは記憶を失っているというのに、無体を働いてしまった。……安心してくれ、樹。忘れてしまったのなら、また恋に落ちればいいのだから」
(いや、全然、安心できないんですけど!?)
樹は心の中で盛大にツッコミを入れながら、意味がわかりません、という風を装う。
「? 僕は気にしていませんから、庭園に参りましょうか。高貴な身分の梗一郎さまにお願いするのは気が引けるのですが……。僕、記憶が曖昧なので、案内をしていただけると助かります」
「……ああ。もちろんだ。そなたは庭園のバラを美しく咲かせる名人だったんだ。そなたが倒れてからは、私が代わりに手入れをしていた。樹ほど上手く世話を出来ていないだろうが、私の頑張りを見てほしくてね」
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