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第二章 クレイジー・パーティー・イン・ホスピタル
第7話 八重子の想い
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早朝の談合坂医院。
庭では医院のひとり娘である八重子が縁側に腰掛けて英語の辞書をめくっていた。
ひんやりとした清々しい空気の中で行う早朝勉強は彼女にとって日課だった。
ふいに庭と塀を挟んだ向かいのアパートの扉が開け放たれる音がして八重子は顔を上げた。
「おはよう。早いね。八重子ちゃん」
八重子の予想と違い、アパートの二階の廊下に立っていたのは昨日から談合坂医院を訪れている恋華だった。
思わず自分の心の内に湧き上がる落胆を顔に出さずに八重子は彼女に声をかけた。
「おはようございます。ゆうべはよく眠れましたか?」
「うん。ずっとバタバタだったから疲れてたみたい。時差ボケを忘れるくらいぐっすり寝てスッキリしたよ。ああ、私には敬語は使わなくていいよ。同世代みたいなもんだし、とか言ったら八重子ちゃんに失礼か」
そう言って恋華は笑顔を浮かべた。
自分より3つも年上とは思えないほど、あどけない笑みだと八重子は思った。
自分はああいう風には笑えない、とも。
「昨日はジャージありがどう。洗濯しておいたよ。今、干してるから乾いたら返すね」
そう言う恋華の顔を複雑そうな面持ちで見つめながら八重子は頷いた。
「どうも。いよいよ今夜……ですね。」
そう言う八重子に恋華は落ち着いた笑みを見せ、頷きを返す。
夕べ、日付が変わる頃の夜更けに恋華が受け取った予言は、今夜21時に新宿区内にある総合病院に感染者が出現するというものだった。
「ええ。とりあえず昼間の間は準備して待機しておくわ」
昨夜の夕飯の席で聞いた恋華の話によると予言には本予言と仮予言があり、本予言の前にもたらされる仮予言にて事件の起こるだいたいの日時と場所が指定される。
たとえばもし事件が数日のうちに北海道で起こるとしたら、恋華はもうすでに東京から北海道に移動しておくよう本部から連絡を受けているはずである。
そうしなければ、いざ予言を受けても指定時刻までに現場に駆けつけることが出来ないためだ。
「とにかく少しの間、よろしくね。八重子ちゃん」
にこやかにそう言う恋華に八重子は軽く会釈をし、恋華は再び部屋に戻っていった。
恋華の身の上に起こったことは八重子も聞いている。
両親の病状と妹の死。
家族離散という辛い経験をしても、恋華はああして他人に暖かな笑顔を向ける。
それは人としての芯の強さ、やさしさの両方を持ち合わせていなければなかなか出来ることではない。
もし自分が同じ目に遭っていたら、きっと誰とも口をきかずに全てを投げ出し引きこもってしまっていただろうと八重子は思う。
とても笑顔になどなれはしない。
「あの人は強いんだろうな……」
八重子がポツリとそうつぶやくと今度は恋華の部屋のひとつ隣の扉が開いた。
そこから顔を出した甘太郎は八重子の姿に気がついた。
八重子は甘太郎を見上げて声をかける。
「おはよう。甘太郎」
「おう。おはよう。また英語の辞書を読んでるのか。辞書って読むものだっけか?」
そう言って甘太郎は苦笑する。
八重子にとって英語の辞書をAからZまで読むという作業を繰り返すのは日々のルーティンワークだった。
何と言っても彼女は通訳の仕事で英語を使うのだ。
それも今現在である。
仕事で即必要になる英語を学ぶ八重子の姿勢は普通の高校生の比ではなく、彼女はもはや本場のアメリカ人よりも正しいビジネス英語を駆使するレベルにあった。
「これでもプロよ。そんなことより甘太郎。ゆうべ、ベランダで恋華さんと何を話したのよ」
八重子にそう言われ、甘太郎はゆうべ見た恋華の涙を思い返した。
そのことについて恋華からの言及はなかったが、軽々しく他言すべきことではないと思い、甘太郎はお茶を濁す。
「別に。明日からがんばろうとかそんな他愛もない話だ」
気のない返事をする甘太郎に、八重子は黙ったまま【J】のページの半ばにある辞書の紙面に目を落とす。
そこには【Jealousy:嫉妬】と記されていた。
「……ふうん。よかったじゃない。かわいい女性とおしゃべり出来て」
口ごもるようにボソリとそう言う八重子の言葉が聞き取れず、甘太郎は首を傾げた。
「ん? 何だって?」
そう聞き返す甘太郎に八重子は辞書をパタリと閉じた。
そして辞書を手に立ち上がると、神妙な顔で甘太郎を見上げた。
「甘太郎。あんたのことだから心得てると思うけど、フィールドワークは危険が伴うわ。いつも以上に準備万端、用意周到にしてなおかつ用心を怠らないこと」
そう言う八重子の言葉に甘太郎は素直に頷いた。
「おう。しとけ。カントルムから色々とご注文もらえることになったから、八重子にもまた色々頼むことになるぞ。忙しくなるな」
「そう。期待してるわよ」
そう言って互いに見合うと甘太郎はニコリと笑い、八重子は微笑を返した。
庭では医院のひとり娘である八重子が縁側に腰掛けて英語の辞書をめくっていた。
ひんやりとした清々しい空気の中で行う早朝勉強は彼女にとって日課だった。
ふいに庭と塀を挟んだ向かいのアパートの扉が開け放たれる音がして八重子は顔を上げた。
「おはよう。早いね。八重子ちゃん」
八重子の予想と違い、アパートの二階の廊下に立っていたのは昨日から談合坂医院を訪れている恋華だった。
思わず自分の心の内に湧き上がる落胆を顔に出さずに八重子は彼女に声をかけた。
「おはようございます。ゆうべはよく眠れましたか?」
「うん。ずっとバタバタだったから疲れてたみたい。時差ボケを忘れるくらいぐっすり寝てスッキリしたよ。ああ、私には敬語は使わなくていいよ。同世代みたいなもんだし、とか言ったら八重子ちゃんに失礼か」
そう言って恋華は笑顔を浮かべた。
自分より3つも年上とは思えないほど、あどけない笑みだと八重子は思った。
自分はああいう風には笑えない、とも。
「昨日はジャージありがどう。洗濯しておいたよ。今、干してるから乾いたら返すね」
そう言う恋華の顔を複雑そうな面持ちで見つめながら八重子は頷いた。
「どうも。いよいよ今夜……ですね。」
そう言う八重子に恋華は落ち着いた笑みを見せ、頷きを返す。
夕べ、日付が変わる頃の夜更けに恋華が受け取った予言は、今夜21時に新宿区内にある総合病院に感染者が出現するというものだった。
「ええ。とりあえず昼間の間は準備して待機しておくわ」
昨夜の夕飯の席で聞いた恋華の話によると予言には本予言と仮予言があり、本予言の前にもたらされる仮予言にて事件の起こるだいたいの日時と場所が指定される。
たとえばもし事件が数日のうちに北海道で起こるとしたら、恋華はもうすでに東京から北海道に移動しておくよう本部から連絡を受けているはずである。
そうしなければ、いざ予言を受けても指定時刻までに現場に駆けつけることが出来ないためだ。
「とにかく少しの間、よろしくね。八重子ちゃん」
にこやかにそう言う恋華に八重子は軽く会釈をし、恋華は再び部屋に戻っていった。
恋華の身の上に起こったことは八重子も聞いている。
両親の病状と妹の死。
家族離散という辛い経験をしても、恋華はああして他人に暖かな笑顔を向ける。
それは人としての芯の強さ、やさしさの両方を持ち合わせていなければなかなか出来ることではない。
もし自分が同じ目に遭っていたら、きっと誰とも口をきかずに全てを投げ出し引きこもってしまっていただろうと八重子は思う。
とても笑顔になどなれはしない。
「あの人は強いんだろうな……」
八重子がポツリとそうつぶやくと今度は恋華の部屋のひとつ隣の扉が開いた。
そこから顔を出した甘太郎は八重子の姿に気がついた。
八重子は甘太郎を見上げて声をかける。
「おはよう。甘太郎」
「おう。おはよう。また英語の辞書を読んでるのか。辞書って読むものだっけか?」
そう言って甘太郎は苦笑する。
八重子にとって英語の辞書をAからZまで読むという作業を繰り返すのは日々のルーティンワークだった。
何と言っても彼女は通訳の仕事で英語を使うのだ。
それも今現在である。
仕事で即必要になる英語を学ぶ八重子の姿勢は普通の高校生の比ではなく、彼女はもはや本場のアメリカ人よりも正しいビジネス英語を駆使するレベルにあった。
「これでもプロよ。そんなことより甘太郎。ゆうべ、ベランダで恋華さんと何を話したのよ」
八重子にそう言われ、甘太郎はゆうべ見た恋華の涙を思い返した。
そのことについて恋華からの言及はなかったが、軽々しく他言すべきことではないと思い、甘太郎はお茶を濁す。
「別に。明日からがんばろうとかそんな他愛もない話だ」
気のない返事をする甘太郎に、八重子は黙ったまま【J】のページの半ばにある辞書の紙面に目を落とす。
そこには【Jealousy:嫉妬】と記されていた。
「……ふうん。よかったじゃない。かわいい女性とおしゃべり出来て」
口ごもるようにボソリとそう言う八重子の言葉が聞き取れず、甘太郎は首を傾げた。
「ん? 何だって?」
そう聞き返す甘太郎に八重子は辞書をパタリと閉じた。
そして辞書を手に立ち上がると、神妙な顔で甘太郎を見上げた。
「甘太郎。あんたのことだから心得てると思うけど、フィールドワークは危険が伴うわ。いつも以上に準備万端、用意周到にしてなおかつ用心を怠らないこと」
そう言う八重子の言葉に甘太郎は素直に頷いた。
「おう。しとけ。カントルムから色々とご注文もらえることになったから、八重子にもまた色々頼むことになるぞ。忙しくなるな」
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そう言って互いに見合うと甘太郎はニコリと笑い、八重子は微笑を返した。
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