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第三章 トロピカル・カタストロフィー
第21話 もたらされた事実
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八重子が目を通した守谷貴子からのメールによる情報は次のようだった。
酒々井甘枝が本来の異界貿易士とは別に裏稼業として行っていた『隠し屋』。
彼女へ依頼をするのは主に特殊な事情を抱えた客層だった。
被害者がドメスティック・バイオレンス(DV)やストーカー被害などから逃れて身を隠すための駆け込み寺としての機能を持つNPO法人に甘枝は所属しており、その中でも特に異質なケースを彼女は担当していた。
すなわち被害者を脅かす加害者が『人ならざるもの』である場合の案件だ。
悪魔、妖怪など呼び名はさまざまだったが、そうした『人ならざるもの』から身を隠そうとした場合、普通の避難用シェルター施設などでは十分に用を成さないことが多い。
そうした特殊な加害者から被害者を守るため、甘枝は自らの能力によって特別なシェルターを作り出して被害者を匿っていた。
文字通り『隠す』のだ。
「闇穴の中に人を隠すことは出来ない」
八重子はそうつぶやきを漏らす。
彼女の言う通り、闇穴の中は魔気の充満した危険な空間であり、人をその中に長期間、留め置くことは出来ない。
「なら一体どこに隠すというの?」
そう疑問を抱いた八重子だったが、メールの続きを読むにつれ、その表情は驚きの色に染まっていった。
そして先日の新宮総合病院において甘太郎の身に起きた奇妙な出来事についても、八重子には事の真相が見え始めていた。
「甘太郎は闇穴の中に溶けていくようにして消えたり、そこから現れたりした。それって甘枝さんが人を隠していた原理に近いものがあるんじゃないかしら。ただし、闇穴の中には人は隠せないから何か秘密があるんだわ」
カントルムの取調べによる氷上恭一の供述は恋華より聞かされて八重子も知っていた。
八重子はペンを手に取ると、守谷貴子からのメールに記された事柄をノートに整理していく。
★
・酒々井甘枝の依頼者は皆、隠されている間に同じ光景を目にしていた。
・隠し場所となっていたそこは不思議な庭園であり、様々な植物がみずみずしい輝きを放っていた。
・そして目に見える景色は鮮やかだった。
・遠くの山々。茂る森林地帯。世界はどこまでも広がっているようだった。
・依頼者の他に人や生き物の姿はなかったが、不思議と寂しさは感じず、追われる身であった頃の恐怖を忘れて依頼者たちはそこで穏やかな日々を過ごしていた。
・ただ、依頼者たちは皆一様に、自分がどうやってその場所に連れて来られたのかまるで覚えていなかった。
・甘枝に手を引かれた途端、気付くと不思議なその世界に身を置いていたのだという。
★
そこまで書いて八重子は手を止めると、その手を自分の顎にあてがいながら思案する。
「どこか人里離れた場所に連れて行ったか……いえ、そうじゃないわ」
八重子はわずかに首を横に振って、自らの疑問を否定した。
「物理的に離れた場所に逃げたとしても、追手が悪魔やら何やらだとしたらきっと逃れられないはず。ということは、その不思議な庭園は甘枝さんが作り出した異世界。闇穴と同様の場所……」
そう言うと八重子は再びペンを持つ手をノートの紙面に走らせた。
★
・やがて時が来るとその場所に甘枝が迎えに来る。
・来たときと同様にまったくその途中の経緯を覚えていないまま、依頼者はもともと自分がいた日常へと戻されていく。
・そして甘枝からすでに脅威は取り払われたと告げられ、依頼者たちはようやく自分が救われたことを実感しつつ、日常に戻っていく。
★
「ここまでが甘枝さんの仕事……」
そう言って八重子は手を止めると大きく息をついた。
そこで守谷貴子からもう一通のメールが届いた。
「追加情報かしら……」
そう言うと八重子はすぐにメールの内容に目を通す。
『なかなか連絡がつかなかった最後の1人とようやく連絡が取れたわよ。彼女は甘枝さんの直接の顧客ではないんだけど、依頼者の近親の人で、依頼者が「隠される」ところを目撃したらしいわ。私が得た限りの情報ではそんな人は他には1人もいない』
守谷貴子からの追加情報に八重子は目を見開いた。
彼女の頭の中で、結論にけていくつものピースがはまっていく。
「やっぱり。そういうことか」
そう言うと八重子はさらにノートにペンを走らせる。
★
・依頼者の手を握った途端、甘枝の体はまるで全身に黒いペンキをかぶったように黒く染まり、その体表は大海原のように波打っていた。
・甘枝の体はほとんど液体化しているようだった。
・そして甘枝に手を引かれた依頼者は彼女の体に飲み込まれるようにして消えていったという。
・以降、依頼者は姿を消し、一定期間の経過後に無事に帰還を果たした。
★
メールの内容をまとめると、そんな感じだった。
「甘太郎が病院で魔気を振りまきながら氷上を闇穴に取り込んだときと状況はよく似ている。ということは今の甘太郎にもおそらく同じことが出来るはずだわ」
八重子は想像した。
もし甘太郎が闇穴の中に滞在可能な自分自身の空間を構築することが出来れば、その場に身を隠して難を逃れることも出来るだろうし、逆に相手をそこに閉じ込めることも可能だと言える。
八重子は焦れる思いを心の中に静かに押し留めるように、ノートをそっと閉じた。
「甘太郎。早く帰ってきなさい。あんたがちゃんと暗黒炉と付き合って生きていけるように私が何とかしてあげるから」
今、甘太郎の窮地を救うことは八重子には出来ない。
彼女に出来ることといえば、甘太郎の今後の人生のために準備を整えておくことだけだった。
「私にも……私にも恋華さんみたいな力があれば」
八重子は恋華をうらやましいと思った。
甘太郎の側で彼とともに戦うことの出来る恋華を。
だが、八重子は腐らずに自分のやれることに集中した。
それが甘太郎のためになると思って。
『談合坂八重子さま。折り入ってお願いしたいことがあります』
八重子が頭の中に響くような不思議な声を聞いたのはその時だった。
酒々井甘枝が本来の異界貿易士とは別に裏稼業として行っていた『隠し屋』。
彼女へ依頼をするのは主に特殊な事情を抱えた客層だった。
被害者がドメスティック・バイオレンス(DV)やストーカー被害などから逃れて身を隠すための駆け込み寺としての機能を持つNPO法人に甘枝は所属しており、その中でも特に異質なケースを彼女は担当していた。
すなわち被害者を脅かす加害者が『人ならざるもの』である場合の案件だ。
悪魔、妖怪など呼び名はさまざまだったが、そうした『人ならざるもの』から身を隠そうとした場合、普通の避難用シェルター施設などでは十分に用を成さないことが多い。
そうした特殊な加害者から被害者を守るため、甘枝は自らの能力によって特別なシェルターを作り出して被害者を匿っていた。
文字通り『隠す』のだ。
「闇穴の中に人を隠すことは出来ない」
八重子はそうつぶやきを漏らす。
彼女の言う通り、闇穴の中は魔気の充満した危険な空間であり、人をその中に長期間、留め置くことは出来ない。
「なら一体どこに隠すというの?」
そう疑問を抱いた八重子だったが、メールの続きを読むにつれ、その表情は驚きの色に染まっていった。
そして先日の新宮総合病院において甘太郎の身に起きた奇妙な出来事についても、八重子には事の真相が見え始めていた。
「甘太郎は闇穴の中に溶けていくようにして消えたり、そこから現れたりした。それって甘枝さんが人を隠していた原理に近いものがあるんじゃないかしら。ただし、闇穴の中には人は隠せないから何か秘密があるんだわ」
カントルムの取調べによる氷上恭一の供述は恋華より聞かされて八重子も知っていた。
八重子はペンを手に取ると、守谷貴子からのメールに記された事柄をノートに整理していく。
★
・酒々井甘枝の依頼者は皆、隠されている間に同じ光景を目にしていた。
・隠し場所となっていたそこは不思議な庭園であり、様々な植物がみずみずしい輝きを放っていた。
・そして目に見える景色は鮮やかだった。
・遠くの山々。茂る森林地帯。世界はどこまでも広がっているようだった。
・依頼者の他に人や生き物の姿はなかったが、不思議と寂しさは感じず、追われる身であった頃の恐怖を忘れて依頼者たちはそこで穏やかな日々を過ごしていた。
・ただ、依頼者たちは皆一様に、自分がどうやってその場所に連れて来られたのかまるで覚えていなかった。
・甘枝に手を引かれた途端、気付くと不思議なその世界に身を置いていたのだという。
★
そこまで書いて八重子は手を止めると、その手を自分の顎にあてがいながら思案する。
「どこか人里離れた場所に連れて行ったか……いえ、そうじゃないわ」
八重子はわずかに首を横に振って、自らの疑問を否定した。
「物理的に離れた場所に逃げたとしても、追手が悪魔やら何やらだとしたらきっと逃れられないはず。ということは、その不思議な庭園は甘枝さんが作り出した異世界。闇穴と同様の場所……」
そう言うと八重子は再びペンを持つ手をノートの紙面に走らせた。
★
・やがて時が来るとその場所に甘枝が迎えに来る。
・来たときと同様にまったくその途中の経緯を覚えていないまま、依頼者はもともと自分がいた日常へと戻されていく。
・そして甘枝からすでに脅威は取り払われたと告げられ、依頼者たちはようやく自分が救われたことを実感しつつ、日常に戻っていく。
★
「ここまでが甘枝さんの仕事……」
そう言って八重子は手を止めると大きく息をついた。
そこで守谷貴子からもう一通のメールが届いた。
「追加情報かしら……」
そう言うと八重子はすぐにメールの内容に目を通す。
『なかなか連絡がつかなかった最後の1人とようやく連絡が取れたわよ。彼女は甘枝さんの直接の顧客ではないんだけど、依頼者の近親の人で、依頼者が「隠される」ところを目撃したらしいわ。私が得た限りの情報ではそんな人は他には1人もいない』
守谷貴子からの追加情報に八重子は目を見開いた。
彼女の頭の中で、結論にけていくつものピースがはまっていく。
「やっぱり。そういうことか」
そう言うと八重子はさらにノートにペンを走らせる。
★
・依頼者の手を握った途端、甘枝の体はまるで全身に黒いペンキをかぶったように黒く染まり、その体表は大海原のように波打っていた。
・甘枝の体はほとんど液体化しているようだった。
・そして甘枝に手を引かれた依頼者は彼女の体に飲み込まれるようにして消えていったという。
・以降、依頼者は姿を消し、一定期間の経過後に無事に帰還を果たした。
★
メールの内容をまとめると、そんな感じだった。
「甘太郎が病院で魔気を振りまきながら氷上を闇穴に取り込んだときと状況はよく似ている。ということは今の甘太郎にもおそらく同じことが出来るはずだわ」
八重子は想像した。
もし甘太郎が闇穴の中に滞在可能な自分自身の空間を構築することが出来れば、その場に身を隠して難を逃れることも出来るだろうし、逆に相手をそこに閉じ込めることも可能だと言える。
八重子は焦れる思いを心の中に静かに押し留めるように、ノートをそっと閉じた。
「甘太郎。早く帰ってきなさい。あんたがちゃんと暗黒炉と付き合って生きていけるように私が何とかしてあげるから」
今、甘太郎の窮地を救うことは八重子には出来ない。
彼女に出来ることといえば、甘太郎の今後の人生のために準備を整えておくことだけだった。
「私にも……私にも恋華さんみたいな力があれば」
八重子は恋華をうらやましいと思った。
甘太郎の側で彼とともに戦うことの出来る恋華を。
だが、八重子は腐らずに自分のやれることに集中した。
それが甘太郎のためになると思って。
『談合坂八重子さま。折り入ってお願いしたいことがあります』
八重子が頭の中に響くような不思議な声を聞いたのはその時だった。
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