甘×恋クレイジーズ

枕崎 純之助

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第三章 トロピカル・カタストロフィー

第22話 来訪者

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『お願いしたいことがあります』

 八重子やえこは確かにその声を聞いた。
 だが、違和感いわかんを感じたのはその声が耳で聞いた声ではなく、頭の中でささやかれるような不思議ふしぎな声だったためだ。

「……だれ?」

 八重子やえこつとめて落ち着いた口調でそうたずねる。
 すると八重子やえこの部屋のかべから一人の男がスッと姿を現し、八重子やえこの前に立った。
 それは黒い礼服に身を包んだ初老の男だった。
 黒いネクタイをキッチリ結び、白髪を丁寧ていねいで付けたその男は、こしを折って八重子やえこ丁重ていちょうに頭を下げた。

「夜分に突然の訪問、非礼をおゆるし下さい」

 さすがに面食らった八重子やえこだったが、彼女も霊医師として非日常の世界を垣間かいま見る立場の人間であるため、その来訪者に落ち着いた口調でたずねた。

端的たんてきに教えてもらいたいんだけど、あなたは悪魔とかばれる存在?」

 来訪者はゆっくりとうなづいた。

『そうした存在でしたが、随分ずいぶんと前に命を終えて、今は実体のない意識のみの存在となっております』

 そう言う男の言葉を疑う素振そぶりも見せずに、八重子やえこはあっさりとうなづいた。

「なるほど。悪魔の幽霊ゆうれいってわけ。喪服もふくってところがなかなかユーモラスね」
迅速じんそくなご理解、助かります』
「急ぎの話かしら?」

 八重子やえこの問いに来訪者は悠然ゆうぜんうなづく。

酒々井しすい甘太郎あまたろう殿どののことで』
 
 それから来訪者は手短てみじかに自分と甘太郎あまたろうとの関係について八重子やえこに聞かせた。
 甘枝あまえ暗黒炉あんこくろ甘太郎あまたろうに引きいだのはこの男であることも八重子やえこはじっとだまって聞いていた。

談合坂だんごうざか八重子やえこさま。あなたは酒々井しすい甘枝あまえ殿どのの心象世界である庭園のことを知った。そこまでご存知ぞんじならば今後、甘太郎あまたろう殿どのの身に起きることが予想できるはず』

 来訪者の言葉が八重子やえこ思考しこうの中から言葉をみちびき出した。

甘枝あまえさんのかくし場所である庭園は、彼女の心象風景ってことか。そして甘太郎あまたろうにも同じような心象世界があるってことね?」

 八重子やえこの言葉にうなづくと、来訪者は自分の考えをげた。

『私はこれから彼のところへ出向き、暗黒炉あんこくろ変革へんかくうながさなければなりません。あなたもご存知ぞんじの通り、彼の持つ暗黒炉あんこくろは今まさに変革へんかくの時をむかえています。このままいけば彼は甘枝あまえ殿どのと同じく魔気まきを用いた心象世界の生成をするようになります。本人が望むと望まぬのにかかわらず。そうなる前に手を打たねばなりません』

 来訪者の言葉は八重子やえこにとって納得できることだった。
 八重子やえこも最近の甘太郎あまたろうの体調の変化に気付いていたからだ。

「私はあなたに何を答えればいいの?」
『彼が心にめている心象風景。それがあなたには分かりますか?』
甘太郎あまたろうの心象風景……」

 八重子やえこは来訪者の言葉をり返し、じっと考え込む。

おさなころより甘太郎あまたろう殿どのを良く知るあなたならば、何か思いいたるかと』

 そう言う来訪者の言葉を受けて、八重子やえこは静かに思いをめぐらせた。
 やがて彼女は来訪者を見つめて質問を投げる。

「ひとつ聞きたいのだけれど、あなたがそんなことをする理由は何?」

 来訪者はその問いによどみのない答えを返した。

甘太郎あまたろう殿どのの身に宿る暗黒炉あんこくろは、元々は私の体内にあったものでした。私の命が終わる時、百年と少し前、甘太郎あまたろう殿どのから数えて5代前の祖先の方が私の制御下せいぎょかを離れた暗黒炉あんこくろが暴走しないよう、自分の身に収めて押しとどめて下さったのです』

 来訪者の言葉を一言いちごん一句いっく聞きのがさないよう、八重子やえこはその話に聞き入っている。

『以来、私は彼らの血族けつぞく脈々みゃくみゃく暗黒炉あんこくろが受けがれるのを見守り、時に手を貸してきました』
甘太郎あまたろうの祖先に借りがあるから、甘太郎あまたろうを助けるということ?」

 八重子やえこは来訪者から視線をそらさずにそう言う。
 来訪者はわずかにやわらかな微笑びしょうを浮かべると、これに答えた。

『それはもちろん。恩義も感じております。ただ、それだけではなく暗黒炉あんこくろが暴走しないよう見守り続けていくために、このような姿でこの世にとどまり続けているのです。暗黒炉あんこくろが暴走すれば全てを飲み込む不幸の源となりますので』

 来訪者の存在理由、そして自分の元を訪れた理由を理解した八重子やえこは少しリラックスした表情を見せる。
 甘太郎あまたろうを救うために必要なことだと直感的に感じ取った八重子やえこは、来訪者に向けて自分の考えを話すことに決めた。

「話は分かったわ。甘太郎あまたろうの心象風景なら心当たりがある。私にとっても同じようなものだから」

 そう言うと八重子やえこおさなころの思い出を来訪者に話して聞かせた。
 十数分の後、来訪者は八重子やえこに礼を述べると、来たときと同じようにかべの中へと消えていくのだった。
 八重子やえこはその姿を見送りながら、甘太郎あまたろうが無事にもどることをいのり、一人部屋で静かに目を閉じるのだった。
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