甘×恋クレイジーズ

枕崎 純之助

文字の大きさ
上 下
81 / 105
最終章 モール・イン・ザ・ダーク・ウォーター

第8話 心象世界

しおりを挟む
 木漏こもれ日がやさしく降りそそいでいた。
 ふと気が付くと甘太郎あまたろうは木製のベンチにこしをかけて、目の前に広がる緑豊かな景色けしきながめていた。

「あれ……? 俺は何をしていたんだっけ」

 そうつぶやきをらしてふと周囲を見回すと、そこは多くの木々やしばしげる美しい庭園だった。

「ここって……」

 見慣れない光景だったが、それでも甘太郎あまたろうは何か引っかかるものを感じて自分の記憶の中を探った。

「思い出せませんか? 母君ははぎみとの思い出の場所を」

 そう声をかけられ、ふととなりを見ると、そこには黒い背広に身を包んだ初老の男性の姿があった。
 彼は甘太郎あまたろうのすぐとなりこしを下ろし、目を細めて庭園の様子をながめていた。

「来訪者……」

 甘太郎あまたろうは見覚えのあるその男をそうんだ。

「ここはかつてあなたの母君ははぎみである甘枝あまえ様がたった一度だけ、おさなきあなたを連れて帰郷ききょうした、彼女の故郷こきょうです」

 おそらく甘太郎あまたろう自身は幼過おさなすぎてハッキリとは覚えていないが、それでもどこか見たことのある風景だと思っていた。
 甘太郎あまたろうは母親の生まれについてあまり聞かされたことはなく、母の故郷こきょうの場所も、そこがどんなところであるのかもよく知らなかった。
 母の両親はすでに他界し、兄弟もないため、母は天涯てんがい孤独こどくだった。
 甘太郎あまたろうが生まれてすぐに夫すなわち甘太郎あまたろうの父親がくなってしまった母の人生を思うと、甘太郎あまたろうはいつも言いようのないさびしさに見舞みまわれる。
 そんな気持ちを押し殺し、甘太郎あまたろうとなりこしかけている来訪者に声をかけた。

「どうして俺とあんたが今ここでこうしてるんだ?」

 そうたずねる甘太郎あまたろうだったが、来訪者はこれには答えずスッと手をかざして、甘太郎あまたろうひたいれた。
 それはかつて母の葬儀そうぎの日に甘太郎あまたろうに能力を受けがせた時と同じ行為であり、甘太郎あまたろうは来訪者がれるままに任せていた。
 すると彼の頭の中に甘枝あまえについて知らなかった様々な情報がインプットされていく。
 甘枝あまえの能力とかくし屋としての稼業かぎょう
 そしてこの庭園がどのような場所であるのか。

「この庭園は母ちゃんの……」
心象しんしょう風景です。故郷こきょうのご実家を思い返してのことでしょう」

 母がかくし屋として依頼者をかくまうために使っていたこの庭園は、彼女の思い出の中にある実家の庭園だった。
 そのことを知り、甘太郎あまたろう感傷かんしょうひたるような表情で来訪者にたずねた。

「今になってこれを教えてくれる理由は何だ?」
「これはあなたのご友人である八重子やえこ様が苦心して調べられた情報です。私がお預かりしてまいりました」
八重子やえこが?」

 八重子やえこ甘太郎あまたろうの体内にある暗黒炉あんこくろについての研究をしてくれていることは甘太郎あまたろうももちろん知っているし、何だかんだと厳しいことを言いながらも自分を助けてくれている八重子やえこには甘太郎あまたろうも頭が上がらない。
 しかしまさか母のことについて八重子やえこが調べているとは甘太郎あまたろうも思わなかった。

八重子やえこのやつ……」

 それでも長い付き合いの甘太郎あまたろう八重子やえこがどうしてそのようなことをしていたのか、何となく理解していた。

「母親の暗黒炉あんこくろを受けいだ俺にもこういう世界があるってことだな?」

 そう問いかける甘太郎あまたろうに来訪者はだまってうなずいた。

八重子やえこ様はすでにその世界がどのようなものか、想像がついておられたようです」

 来訪者の言葉に甘太郎あまたろうは今いる庭園の中を見回した。
 緑豊かではあるものの、草木は整然としてしばも適度な長さを保っている。
 そこかしこに人の手が入れられていることがうかがえた。

「母ちゃんはこの庭園ていえんを自分で生み出したのか?」

 そうたずねる甘太郎あまたろうに来訪者は首を横に振った。

心象しんしょう世界は心から自然に生まれ出るものです。ただ、生まれてからはご自身で育てていくものでもあります。甘枝あまえ様は年月をかけてこのように美しい庭園に育てあげたのですよ」

 八重子やえこが調べてくれた情報により、ここが外界から隔絶かくぜつされた空間であることは甘太郎あまたろうにも分かっている。
 草木のえる香りをぎながら深呼吸をすると、空気は神気じんき魔気まきがほどよくじっていることが甘太郎あまたろうにもよく分かった。

「俺も……そうなのか? こういう世界を作るのか」

 それは来訪者に向けた問いではなく、自分自身への問いだった。
 来訪者は静かにうなずくとゆっくりと庭園の中を見回して、最後に天頂を見上げながら答えた。

「必ず。暗黒炉あんこくろがある限り」

 まるで世界を見回すかのような来訪者の態度に甘太郎あまたろうはハッと直感した。

「もしかしてここは……暗黒炉あんこくろの中なのか?」

 来訪者はだまって微笑ほほえむと、背筋せすじばして甘太郎あまたろうに一礼した。

「では、私に出来ることはここまでです。あとはあなたのご決断にお任せします」

 来訪者がそう言うと世界は不意ふい暗転あんてんした。
 緑のえる美しい庭園も、草木の香りも消え去り、漆黒しっこくやみが支配する奇妙きみょうな浮遊空間に甘太郎あまたろうは身を置いていた。
 急転する状況の中で甘太郎あまたろう不意ふいに思い出した。
 自分がフランチェスカに殺されかけ、意識を失ったこと。
 そして恋華れんかを助けにいかなければならないことも。

「そうだ。恋華れんかさんを待たせてるんだ。俺は行かないと……」

 き上がる焦燥感しょうそうかんに顔色を変える甘太郎あまたろうだったが、彼の言葉をさえぎって来訪者は悠然ゆうぜんと言う。

「今のままでは無理です。あなたは自分の肉体を失っている」
「そ、そんな……」

 来訪者の言葉に甘太郎あまたろう愕然がくぜんとした。
 自分が死んでしまったのではないかという疑念ぎねんが彼を押しつぶそうとする。
 しかし来訪者は整然とげた。

「取りもどすのです」
「えっ?」

 来訪者は振り返ろうとする甘太郎あまたろうの背をそっと押すと、慣性かんせいによって降下していく彼に向けて言葉をおくった。

「ご自身のあるべき姿を取りもどす。そのためにはご自身の思いを取りもどすことです」

 甘太郎あまたろうはその言葉を聞きながら自分が降下していくその先に漆黒しっこくの地面が存在し、その地面の上に不思議ふしぎ建造物けんぞうぶつが建てられているのを知り、その目を見張った。
 近づくにつれ、その建物が何であるのかが甘太郎あまたろうにも理解できた。

「あれは……商店街?」

 アーケードの屋根。
 そして一部がガラス張りになっているその屋根の先に見えるのは、いくつのもの店舗てんぽが立ちならぶ商店街だった。
 だが、その建物に近づけば近づくほど、自分の中で何かがけていき、多くのものがこぼれ落ちていくのを感じて甘太郎あまたろうあせりを感じてしまう。

「お、俺は……」

 不安げにそう言って振り返ると、来訪者はすでに遠ざかっていき、やみ彼方かなたへと消えていく様子が見えた。
 そのうちに自分が何を振り返ったのかをわすれ、甘太郎あまたろうは再び商店街を見下ろした。

「あれ……何だったのかな」

 何か大事なことを、大事な人を忘れてしまったような気がしたが、甘太郎あまたろうはそれが何であるのかを思い出すことが出来ないまま、目の前にせまる商店街を見つめていた。
しおりを挟む

処理中です...