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最終章 モール・イン・ザ・ダーク・ウォーター
第8話 心象世界
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木漏れ日がやさしく降り注いでいた。
ふと気が付くと甘太郎は木製のベンチに腰をかけて、目の前に広がる緑豊かな景色を眺めていた。
「あれ……? 俺は何をしていたんだっけ」
そうつぶやきを漏らしてふと周囲を見回すと、そこは多くの木々や芝の茂る美しい庭園だった。
「ここって……」
見慣れない光景だったが、それでも甘太郎は何か引っかかるものを感じて自分の記憶の中を探った。
「思い出せませんか? 母君との思い出の場所を」
そう声をかけられ、ふと隣を見ると、そこには黒い背広に身を包んだ初老の男性の姿があった。
彼は甘太郎のすぐ隣に腰を下ろし、目を細めて庭園の様子を眺めていた。
「来訪者……」
甘太郎は見覚えのあるその男をそう呼んだ。
「ここはかつてあなたの母君である甘枝様がたった一度だけ、幼きあなたを連れて帰郷した、彼女の故郷です」
おそらく甘太郎自身は幼過ぎてハッキリとは覚えていないが、それでもどこか見たことのある風景だと思っていた。
甘太郎は母親の生まれについてあまり聞かされたことはなく、母の故郷の場所も、そこがどんなところであるのかもよく知らなかった。
母の両親はすでに他界し、兄弟もないため、母は天涯孤独だった。
甘太郎が生まれてすぐに夫すなわち甘太郎の父親が亡くなってしまった母の人生を思うと、甘太郎はいつも言いようのない寂しさに見舞われる。
そんな気持ちを押し殺し、甘太郎は隣に腰かけている来訪者に声をかけた。
「どうして俺とあんたが今ここでこうしてるんだ?」
そう尋ねる甘太郎だったが、来訪者はこれには答えずスッと手をかざして、甘太郎の額に触れた。
それはかつて母の葬儀の日に甘太郎に能力を受け継がせた時と同じ行為であり、甘太郎は来訪者が触れるままに任せていた。
すると彼の頭の中に甘枝について知らなかった様々な情報がインプットされていく。
甘枝の能力と隠し屋としての稼業。
そしてこの庭園がどのような場所であるのか。
「この庭園は母ちゃんの……」
「心象風景です。故郷のご実家を思い返してのことでしょう」
母が隠し屋として依頼者を匿うために使っていたこの庭園は、彼女の思い出の中にある実家の庭園だった。
そのことを知り、甘太郎は感傷に浸るような表情で来訪者に尋ねた。
「今になってこれを教えてくれる理由は何だ?」
「これはあなたのご友人である八重子様が苦心して調べられた情報です。私がお預かりしてまいりました」
「八重子が?」
八重子が甘太郎の体内にある暗黒炉についての研究をしてくれていることは甘太郎ももちろん知っているし、何だかんだと厳しいことを言いながらも自分を助けてくれている八重子には甘太郎も頭が上がらない。
しかしまさか母のことについて八重子が調べているとは甘太郎も思わなかった。
「八重子のやつ……」
それでも長い付き合いの甘太郎は八重子がどうしてそのようなことをしていたのか、何となく理解していた。
「母親の暗黒炉を受け継いだ俺にもこういう世界があるってことだな?」
そう問いかける甘太郎に来訪者は黙って頷いた。
「八重子様はすでにその世界がどのようなものか、想像がついておられたようです」
来訪者の言葉に甘太郎は今いる庭園の中を見回した。
緑豊かではあるものの、草木は整然として芝も適度な長さを保っている。
そこかしこに人の手が入れられていることが窺えた。
「母ちゃんはこの庭園を自分で生み出したのか?」
そう尋ねる甘太郎に来訪者は首を横に振った。
「心象世界は心から自然に生まれ出るものです。ただ、生まれてからはご自身で育てていくものでもあります。甘枝様は年月をかけてこのように美しい庭園に育てあげたのですよ」
八重子が調べてくれた情報により、ここが外界から隔絶された空間であることは甘太郎にも分かっている。
草木の萌える香りを嗅ぎながら深呼吸をすると、空気は神気と魔気がほどよく混じっていることが甘太郎にもよく分かった。
「俺も……そうなのか? こういう世界を作るのか」
それは来訪者に向けた問いではなく、自分自身への問いだった。
来訪者は静かに頷くとゆっくりと庭園の中を見回して、最後に天頂を見上げながら答えた。
「必ず。暗黒炉がある限り」
まるで世界を見回すかのような来訪者の態度に甘太郎はハッと直感した。
「もしかしてここは……暗黒炉の中なのか?」
来訪者は黙って微笑むと、背筋を伸ばして甘太郎に一礼した。
「では、私に出来ることはここまでです。あとはあなたのご決断にお任せします」
来訪者がそう言うと世界は不意に暗転した。
緑の映える美しい庭園も、草木の香りも消え去り、漆黒の闇が支配する奇妙な浮遊空間に甘太郎は身を置いていた。
急転する状況の中で甘太郎は不意に思い出した。
自分がフランチェスカに殺されかけ、意識を失ったこと。
そして恋華を助けにいかなければならないことも。
「そうだ。恋華さんを待たせてるんだ。俺は行かないと……」
湧き上がる焦燥感に顔色を変える甘太郎だったが、彼の言葉を遮って来訪者は悠然と言う。
「今のままでは無理です。あなたは自分の肉体を失っている」
「そ、そんな……」
来訪者の言葉に甘太郎は愕然とした。
自分が死んでしまったのではないかという疑念が彼を押し潰そうとする。
しかし来訪者は整然と告げた。
「取り戻すのです」
「えっ?」
来訪者は振り返ろうとする甘太郎の背をそっと押すと、慣性によって降下していく彼に向けて言葉を贈った。
「ご自身のあるべき姿を取り戻す。そのためにはご自身の思いを取り戻すことです」
甘太郎はその言葉を聞きながら自分が降下していくその先に漆黒の地面が存在し、その地面の上に不思議な建造物が建てられているのを知り、その目を見張った。
近づくにつれ、その建物が何であるのかが甘太郎にも理解できた。
「あれは……商店街?」
アーケードの屋根。
そして一部がガラス張りになっているその屋根の先に見えるのは、いくつのもの店舗が立ち並ぶ商店街だった。
だが、その建物に近づけば近づくほど、自分の中で何かが溶けていき、多くのものが零れ落ちていくのを感じて甘太郎は焦りを感じてしまう。
「お、俺は……」
不安げにそう言って振り返ると、来訪者はすでに遠ざかっていき、闇の彼方へと消えていく様子が見えた。
そのうちに自分が何を振り返ったのかを忘れ、甘太郎は再び商店街を見下ろした。
「あれ……何だったのかな」
何か大事なことを、大事な人を忘れてしまったような気がしたが、甘太郎はそれが何であるのかを思い出すことが出来ないまま、目の前に迫る商店街を見つめていた。
ふと気が付くと甘太郎は木製のベンチに腰をかけて、目の前に広がる緑豊かな景色を眺めていた。
「あれ……? 俺は何をしていたんだっけ」
そうつぶやきを漏らしてふと周囲を見回すと、そこは多くの木々や芝の茂る美しい庭園だった。
「ここって……」
見慣れない光景だったが、それでも甘太郎は何か引っかかるものを感じて自分の記憶の中を探った。
「思い出せませんか? 母君との思い出の場所を」
そう声をかけられ、ふと隣を見ると、そこには黒い背広に身を包んだ初老の男性の姿があった。
彼は甘太郎のすぐ隣に腰を下ろし、目を細めて庭園の様子を眺めていた。
「来訪者……」
甘太郎は見覚えのあるその男をそう呼んだ。
「ここはかつてあなたの母君である甘枝様がたった一度だけ、幼きあなたを連れて帰郷した、彼女の故郷です」
おそらく甘太郎自身は幼過ぎてハッキリとは覚えていないが、それでもどこか見たことのある風景だと思っていた。
甘太郎は母親の生まれについてあまり聞かされたことはなく、母の故郷の場所も、そこがどんなところであるのかもよく知らなかった。
母の両親はすでに他界し、兄弟もないため、母は天涯孤独だった。
甘太郎が生まれてすぐに夫すなわち甘太郎の父親が亡くなってしまった母の人生を思うと、甘太郎はいつも言いようのない寂しさに見舞われる。
そんな気持ちを押し殺し、甘太郎は隣に腰かけている来訪者に声をかけた。
「どうして俺とあんたが今ここでこうしてるんだ?」
そう尋ねる甘太郎だったが、来訪者はこれには答えずスッと手をかざして、甘太郎の額に触れた。
それはかつて母の葬儀の日に甘太郎に能力を受け継がせた時と同じ行為であり、甘太郎は来訪者が触れるままに任せていた。
すると彼の頭の中に甘枝について知らなかった様々な情報がインプットされていく。
甘枝の能力と隠し屋としての稼業。
そしてこの庭園がどのような場所であるのか。
「この庭園は母ちゃんの……」
「心象風景です。故郷のご実家を思い返してのことでしょう」
母が隠し屋として依頼者を匿うために使っていたこの庭園は、彼女の思い出の中にある実家の庭園だった。
そのことを知り、甘太郎は感傷に浸るような表情で来訪者に尋ねた。
「今になってこれを教えてくれる理由は何だ?」
「これはあなたのご友人である八重子様が苦心して調べられた情報です。私がお預かりしてまいりました」
「八重子が?」
八重子が甘太郎の体内にある暗黒炉についての研究をしてくれていることは甘太郎ももちろん知っているし、何だかんだと厳しいことを言いながらも自分を助けてくれている八重子には甘太郎も頭が上がらない。
しかしまさか母のことについて八重子が調べているとは甘太郎も思わなかった。
「八重子のやつ……」
それでも長い付き合いの甘太郎は八重子がどうしてそのようなことをしていたのか、何となく理解していた。
「母親の暗黒炉を受け継いだ俺にもこういう世界があるってことだな?」
そう問いかける甘太郎に来訪者は黙って頷いた。
「八重子様はすでにその世界がどのようなものか、想像がついておられたようです」
来訪者の言葉に甘太郎は今いる庭園の中を見回した。
緑豊かではあるものの、草木は整然として芝も適度な長さを保っている。
そこかしこに人の手が入れられていることが窺えた。
「母ちゃんはこの庭園を自分で生み出したのか?」
そう尋ねる甘太郎に来訪者は首を横に振った。
「心象世界は心から自然に生まれ出るものです。ただ、生まれてからはご自身で育てていくものでもあります。甘枝様は年月をかけてこのように美しい庭園に育てあげたのですよ」
八重子が調べてくれた情報により、ここが外界から隔絶された空間であることは甘太郎にも分かっている。
草木の萌える香りを嗅ぎながら深呼吸をすると、空気は神気と魔気がほどよく混じっていることが甘太郎にもよく分かった。
「俺も……そうなのか? こういう世界を作るのか」
それは来訪者に向けた問いではなく、自分自身への問いだった。
来訪者は静かに頷くとゆっくりと庭園の中を見回して、最後に天頂を見上げながら答えた。
「必ず。暗黒炉がある限り」
まるで世界を見回すかのような来訪者の態度に甘太郎はハッと直感した。
「もしかしてここは……暗黒炉の中なのか?」
来訪者は黙って微笑むと、背筋を伸ばして甘太郎に一礼した。
「では、私に出来ることはここまでです。あとはあなたのご決断にお任せします」
来訪者がそう言うと世界は不意に暗転した。
緑の映える美しい庭園も、草木の香りも消え去り、漆黒の闇が支配する奇妙な浮遊空間に甘太郎は身を置いていた。
急転する状況の中で甘太郎は不意に思い出した。
自分がフランチェスカに殺されかけ、意識を失ったこと。
そして恋華を助けにいかなければならないことも。
「そうだ。恋華さんを待たせてるんだ。俺は行かないと……」
湧き上がる焦燥感に顔色を変える甘太郎だったが、彼の言葉を遮って来訪者は悠然と言う。
「今のままでは無理です。あなたは自分の肉体を失っている」
「そ、そんな……」
来訪者の言葉に甘太郎は愕然とした。
自分が死んでしまったのではないかという疑念が彼を押し潰そうとする。
しかし来訪者は整然と告げた。
「取り戻すのです」
「えっ?」
来訪者は振り返ろうとする甘太郎の背をそっと押すと、慣性によって降下していく彼に向けて言葉を贈った。
「ご自身のあるべき姿を取り戻す。そのためにはご自身の思いを取り戻すことです」
甘太郎はその言葉を聞きながら自分が降下していくその先に漆黒の地面が存在し、その地面の上に不思議な建造物が建てられているのを知り、その目を見張った。
近づくにつれ、その建物が何であるのかが甘太郎にも理解できた。
「あれは……商店街?」
アーケードの屋根。
そして一部がガラス張りになっているその屋根の先に見えるのは、いくつのもの店舗が立ち並ぶ商店街だった。
だが、その建物に近づけば近づくほど、自分の中で何かが溶けていき、多くのものが零れ落ちていくのを感じて甘太郎は焦りを感じてしまう。
「お、俺は……」
不安げにそう言って振り返ると、来訪者はすでに遠ざかっていき、闇の彼方へと消えていく様子が見えた。
そのうちに自分が何を振り返ったのかを忘れ、甘太郎は再び商店街を見下ろした。
「あれ……何だったのかな」
何か大事なことを、大事な人を忘れてしまったような気がしたが、甘太郎はそれが何であるのかを思い出すことが出来ないまま、目の前に迫る商店街を見つめていた。
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