真実の愛

しろみ

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 そして俺はいつも通り出勤した。今の職場は繁忙期で、書類整理に終われる日々だ。加えて後輩の教育指導も任されている俺は慌ただしくコーヒー缶のみの昼休憩を過ごしていた。その時だった。陽太から一通のチャットがあった。


《ごめん》


 最初に目に入ったのは、その文字だった。


《突然の連絡になって本当にごめん。でも僕にとってこれは最後のチャンスなんだ。雪なら分かってくれるよね。僕頑張る。今までありがとう。元気でね。》


 それは別れの言葉だった。コンテストで落選した陽太の絵がたまたま海外の大富豪に気に入られ、専属画家として契約を結んだそうだ。契約条件は、2つ。与えられた屋敷に住み込むこと、そして、その国でのみ活動すること――


「―…陽太……!」


 俺は慌てて玄関のドアを開き、叫ぶように陽太を呼んだ。仕事なんかどうでも良かった。チャットを見た俺はすぐにタクシーに乗り込み、俺たちの部屋に走った。
 しかし、陽太は俺のいない間に荷物をまとめて出て行ってしまったらしい。部屋は静まり返っていた。いつも帰宅したら玄関にある陽太の使い古されたスニーカーはどこにもない。


「そんな………」


 俺はふらりと眩暈がした。

 これは悪夢だろうか。

 だったら早く覚めて欲しい。


《陽太、待って》
《今どこにいる?》
《行かないで》
《別れたくない》
《会って話がしたい》
《せめてどの国に行くのか教えてくれ》
《俺も行く》
《離れたくないんだ》
《陽太》
《陽太》
《陽太》……


 俺は一心不乱にチャットを投げ続ける。しかしいつまで経ってもそこに“既読”が表示されることはない。


「なんで……なんで……」


 震える唇から漏れる言葉はそれだけだった。だってそうだろう。こんなの辛すぎる。せめてどの国に行くのか教えてくれてもいいじゃないか。俺は陽太と恋人でいられるなら、どんなに遠い国でも行く。なんならすぐにでも今の仕事を辞めて、その国の言葉を猛勉強して、現地で働くことだってする。

 なのに――

 その瞬間だった。
 
 ――部屋の奥から、一つの気配がふらりと現れた。


「あ、おかえりなさい、雪さん」


 リビングから顔を出したのは、李海だった。


「気付くのが遅くなってすみません、ゴミの整理をしてました」


 李海はいつもと変わらない穏やかな微笑みを浮かべながら、俺の方へ歩み寄ってくる。その手はゴミ袋を提げていた。
 いつもなら陽太がいる景色に、李海がいる。そのことに強い吐き気がした。


「……お前、陽太に何をした…?」


 声が掠れる。陽太を失った喪失感で、胸が締めつけられるように痛い。

 李海はゴミ袋をそっと玄関脇に置きながら、俺の問いに悪びれる様子もなく答える。


「何の話でしょう?」
「とぼけるな!今朝、陽太の様子がおかしいと思ったんだ。お前、陽太に何を吹き込んだ!?」


 思わず荒い口調になる。他人にこんな物言いをするのは初めてだ。しかし俺はなりふり構っていられなかった。
 

「僕はただ助言しただけです。陽太くんはご自分の意思で出ていったんですよ」


 その言葉の裏に、何かとてつもなく冷たいものを感じた。


「……助言?」
「はい。僕の知り合いを紹介したんです。陽太くんは画家として成功したいようでしたからね、彼に連絡するよう助言した。それだけです」


 李海の声色は気持ち悪いほどに弾んでいる。


「彼って―…ッ、彼って誰だ!?」


 その様子に俺はかっとなって李海に詰め寄った。しかし、李海は一歩も引かない。むしろ嬉しそうに目を細めるだけだ。


「それを知ったところでどうするんです?安心なさってください。彼はかなりの芸術愛好家でしてね、作り手その人まで芸術品として扱いたがるんです。故に陽太くんは贅沢な暮らしができ、豊富なサポートを受けることができる。芸術家であれば夢のような日々を送ることができるでしょう。まあ―…」


 李海は口元をおさえて上品に笑うが、その目は見下す存在を嘲笑うように細まる。


「当然“対価”は求められますがね。それに少々飽き性なところが彼の欠点だ。しかし陽太くんなら上手くやれるでしょう。なんて言ったって、雪さんをこんなにも夢中にさせたのですから」


 すると李海の瞳が甘く染まり、まっすぐに俺を射抜く。その目には、狂気めいた執着が宿っていた。


「…対価ってなんだ、まさか……」
「恐らくご想像の通りかと。というか、あんな貧乏人が差し出せるものなど、身体それしかありませんしね」


 俺が言葉を失っていると、李海は微笑んだまま囁いた。


「さあ、これでようやく、雪さんは一人になりました。ねえ、もう僕の方を見てくれるでしょう?――今度こそ、ちゃんと」


 俺の心に、薄氷が割れるような音がした。

 …陽太が…他の男に……

 反射的にこの部屋から飛び出ようとした。陽太が他の男に体を売るなんて絶対に許せないからだ。

 しかし――

 玄関の扉に手をかけた瞬間、外から何者かの足音が聞こえた。まさか陽太!?そう思い、勢いよく扉を開けた時、俺は何者かに引き摺り込まれるように腕を掴まれた。そのまま視界がぐらりと傾き、薬品臭い布が口元を覆う。


「っ……!」
『素手で触れるなよ。この御方に直接触れて良いのは、これから僕だけだ』


 最後に聞こえたのは、やけに冷たい李海の声だ。しかしその声は異国の言葉を紡ぎ、何を言ったのか理解できなかった。

 そうして意識が、闇に溶けた。

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