双五、空と地を結ぶ

皐月 翠珠

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影すらも消えた

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 冷たい金属の扉ががしゃん、と音を立てて閉まる。典祓庁てんぱつちょうの隔離区画は、外界から窓だけでなく音さえ遮断された無機質な空間だ。
 仁梧は椅子に腰かけたまま、ぼんやりと両手を見つめていた。小さな霊力の光が、血の気の失せた指先でぽうっと光っては消える。いつもの力強さがないのは、嵌められた手枷が霊力を抑えているからか。
(違う)
 仁梧はわかっていた。ほしみの裏切り。自分を切り捨てる父の言葉。自分に向けられる嫌悪と非難の目。その全てが自身を否定している事で、今まで以上に自分で自分が信じられなくなっているのだと。
 がちゃん、と重く硬い音が響き、ぎい、と扉が軋みながら開いた。かと思えば、対照的にこつこつと軽い足取りが迷いなく入ってくる。その足音の持ち主を見た仁梧の目が微かに見開かれる。
「よお。どうよ、罪人扱いの気分は?」
 深緑色の目が興味深そうに細められる。その色に、今までの優しさはない。何度となく見てきた黒いスーツの肩に見慣れた灰色はなく、代わりに冷たい紫色が鎮座していた。
「とお、さん…?」
 弱々しく名を呼ぶ仁梧に薄い笑みだけを返し、彼女の正面に机越しに腰かける。
「改めてご挨拶だ。典祓庁てんぱつちょう諜報局所属、界野透典監てんかん。これより、祓戸仁梧に対する証人尋問を開始する」
「諜報局…?だって、透さんは庶務局所属じゃ…」
「理解が遅いな。自分から諜報員ですって名乗る馬鹿がいると思うか?」
 冷えた声が、動揺を一刀両断する。
 何も言えないでいる仁梧を一瞥すると、透は極めて事務的な手つきでタブレット端末を取り出した。
「じゃ、尋問を始める。最初に確認だ。隠星いんせいを長期間にわたり匿っていた事実は認めるか?」
「…匿っていた、つもりは…ありません。ただ…」
「ただ?」
 平坦な声色が静かに続きを促す。
「…一緒に…いてほしかっただけ、で……」
 そう答えた瞬間、透の目が一層細くなる。そこにあるのは怒りでも軽蔑でもない、尋問官としての姿だ。
「理由は?」
「…寂しく、て……ほしみがいてくれたから、私、は…」
「成程ね」
 淡々とタブレットに記録を残していく透。それが仁梧の胸を抉る。
 透は一緒に来ていた補佐官から受け取った資料に目を落としたまま、感情のない声で続ける。
「君はほしみに餌を与え、屋敷内に住まわせ、霊力を分け与えていた。これについては?」
「…事実、です」
「つまり君自身に自覚があったかどうかは関係なく、君は大いなる災厄隠星いんせいを育て、守り、力を与え続けていたというわけだ」
「…っ」
 自分でもわかっていた事だというのに、他でもない透に言われるとずきりと胸の奥が疼く。
「なぁ、仁梧。君、本当は気づいていたんじゃないのか?ほしみの妖気が濃くなっていた事に」
 これ見よがしに穏やかな声が、蛇のように仁梧の鼓膜に絡みつく。
「…気づ、いて……」
「ほしみは溜めていたんだよ、ずっと。君が力を伸ばせば伸ばすほど、あいつは吸い、蓄え、熟し…そして覚醒したんだ。自分でも言ってたじゃないか。力を暴走させそうで怖い、って」
 息ができなかった。透の見せる微笑みはどこまでも空虚で、だからこそわかってしまった。
「………一つ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「以前、私が尋ねた事を覚えていますか?」
─透さん、は…どうしてそんなに私に良くしてくれるんですか?
「…ああ、覚えてるよ」
、優しかったんですか…?」
「…」
「私を利用して、祓戸家の弱みを握る為に…あんなに優しく…」
 沈黙が続く。微笑みがほんの少しだけ深くなるのが見えた。
「…そうだよ」
「…!」
「何驚いてんだよ。そっちだって俺から情報を引き出す算段だったんだろ?」
「っ、どうして…」
「舐めんなよ。こちとら大人の汚い世界に何年いると思ってんだ。世間知らずのお嬢様の企み一つ見抜けねぇ間抜けだとでも?」
「…っ」
「おいおい、そこで傷ついた顔をするのは違うだろ。お互い様、そんで俺の方が上手うわてだったってだけの事だ」
 ぱきん、と心が折れる音がした。ひび割れたそこから溢れてくるのは、初めて会った時からの優しい言葉の数々。
─君に足りないのはとにかく自信だ。環境がそうさせた事には同情をせざるを得ないけど、異能者としてこれからを生きていくつもりがあるならもっと自己肯定感上げねぇと妖に付け込まれるぜ
─俺は好きだぜ?仁梧って名前
─自分を信じる事が難しいなら、君を信じる俺を信じてみろよ
─俺は君だからこうして誘いをかけてるし、君に楽しい体験をしてほしいと思ってるよ
─じゃあ、これは今日の記念な
(ああ…)
 これは罰なのだ、と仁梧は思った。
 ほんの一瞬でも、自分にも穏やかな何かを望んでいいのではないかと錯覚してしまった。露払いに分不相応なものを夢見てしまった罪が、孤独という形で返ってきたのだと。
 まるで思い出が零れ落ちるように、静かにぽろぽろと涙を流す仁梧から視線を外し、透はすっと立ち上がった。
「査問は行うまでもなさそうだな。追って処分は伝えさせるよ」
 そう言って向けられた背中は、部屋を後にするまで振り向く事はなかった。



 その頃、全国の典祓庁てんぱつちょう支部から報告が上がった。
 "邪気濃度の異常上昇を確認。大量のあやの出現あり"、と。
 とりわけ異常な数値を示したのが、富士山の山腹だった。空を裂くような轟音ごうおんと共に、噴き出した黒い渦。隠星いんせいだった。
「討伐隊を派遣します!動ける者は今すぐに準備を!」
 一報を聞いた和梧は、怒鳴るように叫んだ。泣き腫らしたようなその朱色の瞳は、いつもよりも赤く見える。
「待て、御前」
 それを止めたのは父椋礼だった。
「今のお前に一族を動かす権限はない」
「何故です⁉」
「片割れをなくし、冷静さを欠いたお前に指揮が執れるとは思えん。あの場は上手く収まったが、一つ間違えばお前まで疑いをかけられかねなかった事を自覚しろ」
「っ…仁梧を…影前を差し出して助けた恩を忘れるなという事ですか?」
「あれは露払いとしての役目を果たした。それだけの事だ」
「…父上のお考えはよくわかりました」
 ぎゅっと拳を握り締めた和梧は、黙って父から背を向ける。トラ、と呼び出した自らの式神の背に乗る和梧に椋礼は声をかける。
「どこへ行く気だ」
「一族を動かす権限はなくとも、私自身を縛る事はできない筈です」
「私がそれを許すと思うか」
「ならば、祓戸の姓を返上させて頂きます」
 強く言い放ったその一言が、初めて椋礼の挙動に動揺を与えた。
「…何を言っている」
「私は本気です。宿命さだめを果たす為に祓戸の家が邪魔をするのなら、私は喜んでその姓を捨ててみせる。本望でしょう?使命を果たせる上に、忌み子がどちらもいなくなるのですから」
 一陣の風がごおっと巻き起こる。それが止んだ後に、和梧の姿はどこにもなかった。



「多少の誤算はあったが、よくぞ祓戸の双子の片割れを取り込んでくれた」
 満足げに笑む上官に、透は無表情で肩を竦める。
「別に、これが俺の仕事ですから。まあ、あれこれうるさかったあの人が隠星いんせいの器に選ばれちまったのには驚きましたけどね。これも因果応報ってやつでしょ」
「これで祓戸家に手を出す口実は手に入れた。祓戸仁梧にはその身を以てでも隠星いんせいを封じてもらい、その後は我が庁が異能者の覇権を握る。素晴らしい成果だよ。祓戸家を完全に支配下に置いた暁には、今以上の地位を約束しよう」
「…とっておきのボーナス、期待しておきますよ」
 口端だけを吊り上げる透の目には、くらい影がゆらゆらと哀しげに揺れていた。
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