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未来への遺伝子編
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瑠城大学理学部の生物物理学の研究室ー。
教授の木下義男は夜遅くまで研究に没頭していた。彼の研究テーマは小児癌などで幼くして亡くなる子どもを少しでも減らすため、その治療に有効的な細胞を生成することだった。10年前、5歳だった息子を小児癌で亡くしてからずっと研究し続けていた成果が七夕のこの日ついに出たのだ。
「よし、ついに成功だ!」
まだラットを使った動物実験の段階だが、被験体から採取した健康な細胞に木下がある割合で配合した特殊な薬液を注入すると数分から数十分で細胞の自己免疫が活性化することがわかった。この細胞を癌細胞と一緒にして観察していたところ癌が綺麗さっぱり消え去ったのだ。そこで木下は実際に癌に侵されているラットから健康な細胞を採取し、生成した特殊な細胞をラットの体内に戻し数日経過をみていたのだが、つい先ほどの検査でこのラットの癌が完治していることがわかった。寛解ではなく完治だ。再発の可能性はない。
もしこれを人体実証するなら、患者本人の細胞を使うので移植手術で起きやすい拒絶反応も起こらず、癌の摘出と細胞移植の手術も人間の親指ほどの大きさの穴から器具とカメラを挿入して同時に行えるので患者への負担も少ない。
例えば乳癌なら、ステージがかなり進行していた場合今までは乳房や乳頭ごと乳腺を全摘出するのが一般的だったが、この細胞を移植する場合は約1立方センチメートルほどの癌細胞を摘出してそこにこの細胞を移植することで事足りるので乳房や乳頭を温存するということが可能なのだ。
今後の研究で癌以外の病気にも効果はあるのか、実証実験の結果人間にも効果はあるのかなど課題はまだあるが、結果次第では医療技術が大きく進歩する世紀の大発見に、木下の胸は高鳴った。
「これなら多くの人々の命を救えるかもしれないぞ…!!」
そう言って今までの研究内容が事細かに綴られた研究ノートに未来永劫という意味の「eternity」と書きつけた。未来永劫癌とおさらばできる細胞の名前にはふさわしいと言える。
木下教授はこの日を境に消息を絶った。携帯電話も翌日には解約されていた。
大学の近くの雑木林で身元不明の白骨遺体が発見されたのは木下教授と一切連絡が取れなくなってから約1年後のことだった。
山川敦は探偵の助手をしている。その日はカフェで依頼人への報告書をまとめていた。しかしどうしてこうも迷子のペット探しだとか浮気妻の身辺調査だとか、自分でどうにかしろと言いたくなるような案件ばかり舞い込むのか。もちろん仕事があるに越したことはないが、もっと、なんかこう、おもしろい案件はないのかと思いながらひたすらにキーボードを打ち込んでいた。
「あれ?山川くん?」
「お?小野さん!」
声を掛けてきたのは高校時代の同級生の小野遥花だった。遥花は現在瑠城大学の4年で生物物理学を専攻している。
「それ例のロシアンブルー探しの報告書?」
「うん。身体的特徴は一致するし、なによりチップは嘘をつかないのに飼い主は違うって言い張ってて…。まあ、どこかで種をもらって妊娠してたから認めたくないのはわかるけど…。小野さんは今日の講義もう終わったの?」
「うん。3限までだからもう終わり。ところでちょっと相談してもいい?」
「どうしたの?」
「実は生物物理学の木下義男っていう教授が1年前から行方不明なんだ。奥さんが捜索願を出したんだけど警察はなかなか動いてくれないし…。」
「もっと詳しく教えて。先輩にも話してみるから。」
1年前の7月7日、遥花を含むゼミ生に「もうすぐラット実験の結果がわかるから」と言い、予定していたゼミ生たちとの飲み会には参加せず1人研究室に残ったという。ゼミ生たちが研究室を出たのは18時。その後22時51分に妻に「ついに実験が成功した」というメールが送られたのを最後に連絡がつかなくなり、後から翌日には携帯は解約されていたと判明した。
朝イチで研究室を訪れたゼミ生の1人が見つけた教授の研究ノートには実験開始から結果が得られるまでの過程が事細かに記載されていたが、肝心の前日結果がわかったはずの実験についてはページがごっそり破り取られていた。
講義の時間になっても現れず、不審に思ったゼミ生たちは教授の妻に相談、一晩帰ってこなかったばかりか仕事にも行っていないなんてただ事ではないと感じた妻は警察に捜索願を提出したが、大の大人が一晩帰らなかったくらいで、とまともに取り合ってくれなかった。警察がやってくれたことといえば携帯が解約されていたことを突き止めたことと大学の勤怠記録の確認だけだった。
家族に黙って携帯を解約したり、どこかへ出掛けてしまうような人じゃないとどれだけ妻が言っても、23時30分にはちゃんと退勤をつけて大学を出た記録があるし、実験が成功したと連絡があったならそれを肴に1人で呑みに行ってどこかで酔いつぶれているのだろうの一点ばりで、それ以上のことはしてくれることのないまま1年が過ぎてしまった。
敦は遥花から聞いたこの話を高校時代の先輩で、上司の探偵でもある安斎貴晴に話した。
「この捜索願を担当したのは所轄署か?」
「ええ、飯陰署の伊井影造という古参の刑事です。」
「やはりか。所轄の古参の連中は事件に大小をつけて大きい方を優先して小さい方は後回しどころか手もつけないからな。」
「事件に大きいも小さいもないのに…。」
「1年以上前から連絡が取れず携帯も解約されていたとなると亡くなっている可能性が高い。よし、警視庁に知り合いがいるから確認してみる。」
貴晴はそう言うと、表向きはバーになっている探偵事務所を出て警視庁へ向かった。
1人残された敦はひとつため息をついてロシアンブルー探しの報告書の作成を再開させた。
警視庁捜査一課強行犯3係の綾瀬班のオフィスー。
警部の綾瀬雄悟は先日解決した事件の報告書を慣れないパソコン操作で作成していた。
「ああもう、なんで手書きじゃダメなんだよ!!」
「今はハイテクの時代ですからねぇ。」
「いいじゃないですか。事件の概要をデータで管理しておけば、未解決の事件に進展があったとき先輩が入庁した当時のように倉庫をひっくり返して資料探しする手間が省けるんですから。」
「竹田、もうお前が作れ!!」
「ええ!?なんで俺!?」
綾瀬が報告書の作成を部下の竹田正人に丸投げしたとき、綾瀬班のオフィスを訪ねてきた青年がいた。
「雄悟、いるか?」
「貴晴お前なぁ、俺は仮にもお前の元カノの親父で、お前より年上なんだ。呼び捨てにするな。」
雄悟の娘・美樹の元彼氏で自称探偵の安斎貴晴だった。高校時代の先輩後輩の間柄で、なんでも共通の趣味があったらしく意気投合して付き合いだしたが、ほんの数ヶ月で破局した。美樹の趣味といえば雄悟が知る限り大砲の写真集を見ることと市販の花火の火薬を調合し直してオリジナル花火を作ることだが、貴晴にまでそんな危ない趣味があるとは思えない。
娘がこの男を彼氏だと言って連れてきて、将来は結婚も視野に入れていると言われたときはぶん殴ってやろうかとも思ったが、いかんせん雄悟と美樹の母親は出来ちゃった結婚だったうえ仕事にかまけすぎて逃げられているのでそんな資格は無かった。破局したと知らされたときは心底嬉しかったものだ。
「じゃあお義父さんか?」
「今も昔もお前にそう呼ばれる筋合いはない。それより用件はなんだ?わざわざケンカ売りに来たのか?」
「ここ1年の間に発見された身元不明の遺体はいくつある?」
「なんなんだ急に?」
「いいから。」
「去年7月から今日現在までに見つかった遺体で身元不明なのは65人ですが?」
仕方ないといった様子でもう1人の部下である蜂須賀佳貴が身元不明者のデータベースを調べた。
「その内50代の男性は?」
「男性52人、内推定50代は33人ですね。」
「おい貴晴、いいかげんにしろ!一体なんなんだ!」
「この歯ブラシのDNAと一致する遺体があるか調べてくれ。歯科記録でも良かったんだが、DNAの方が確実だろう?詳しいことは結果が出たら話す。」
貴晴はそれきり頑なに口を開かないので仕方なく歯ブラシと遺体のDNA鑑定を依頼した。
身元不明者のDNAはデータベースに記録されているので歯ブラシからDNAを採取出来れば照合するのは簡単らしく、ものの数時間で結果が出た。今年の7月3日に瑠城大学そばの雑木林で発見された遺体のDNAと一致したとのことだった。
「さあ貴晴、結果が出たんだ。話してくれ。」
「その歯ブラシは瑠城大学の木下義男という教授のものだ。うちの助手が教授のゼミ生から教授が1年前から行方不明になっていると相談を受けて、教授が研究室で使っていた歯ブラシを借りてきた。」
「じゃあ無事1人身元が割れましたね。」
「教授の死因や死亡時期を梨沙子に確認してもらって事件性がなければ遺族にお返ししよう。」
梨沙子のラボー。
「貴晴、なんでお前までついてきた?」
「ゼミ生から依頼を受けたのは私だ。私にも彼の死因を知る権利がある。そしてそれを依頼人に伝えなければならない。」
「ああもう、わかった。その代わり大人しくしてろよ。」
「報告書によると発見者は犬の散歩の老人で、いつもの散歩コースが工事で通行止めになっていたため迂回して普段はあまり人の通らない雑木林の方へ行ったら犬が急に走り出し、林に入っていって何かの骨に夢中になっていたため近寄って確認すると人骨のようであり、傍の木の根元に寄りかかった状態の白骨化した遺体を発見。人通りの少ない道の脇にある雑木林に遺体が放置されていた点、衣服や所持品が全くない点から事件性有りと判断し現在身元確認中、だそうです。」
「遺体の発見から1週間で身元が割れたんだ。早い方だろう?あとは死因だな。」
「報告書には頭を鈍器で殴打されたことによる脳挫傷とありますが…。」
「梨沙子はまだか!?早く特定してくれ!」
綾瀬班は報告書に目を通しながら監察医の並木梨沙子の到着を待っていたが、当の本人は急なエレベーターの故障に見舞われ中に閉じ込められていた。
「なんで!?緊急電話も繋がらないんだけど!?」
身元不明の遺体は普通、捜査の進捗に関わらず発見からおおむね1週間ほどで火葬され遺骨として保管される。さらに発見から1年たっても身元不明のままなら無縁仏として埋葬される。
木下教授の場合発見から2週間ほど経過しているが、白骨化しており残っている組織が少なかったため、検査用のサンプルとして採取してしまえばほぼ残らず、わずかに残っていた組織や土汚れを洗浄して綺麗になった骨が完全な状態で保管されていた。洗浄されたおかげで骨折や異常が見分けやすくなっていた。
「確かに検死報告書通り頭蓋骨の後方側面に殴られた跡がある。陥没骨折の具合からみて球形の何かで後ろから殴られたんだね。記録によるとこの傷からガラス片が採取されてる。彼が生物物理の教授だったことを考えると凶器は丸底フラスコかもね。でもこの程度なら脳震盪を起こすくらいで、報告書の死因になってる脳挫傷で死ぬなんてないはずだけど…。」
「梨沙子先輩、これを見てください!舌骨が折れています!!」
「ホントだ!これは明らかな死因だよ。彼は首を絞められて殺された。確かに殺人だけどこの検死報告書は間違ってるよ!!よくやったね一真!」
「これ書いたの薮井静雄ですよ!?」
「なんであいつに検死なんてさせたの?バカなの?バカだった!道理で見逃すはずだよ!!遺体発見時犬が腕を咥えてて、右の尺骨と橈骨にくっきり歯形が付いてるのに報告書にはなんにも書いてないし!」
薮井静雄は同業者が認めるヤブ医者で、医師会がなぜ免許を発行したのか謎なほどである。そんな男に検死をさせた捜査員に対し怒りを顕にする梨沙子。
「おい梨沙子、とりあえず落ち着け。教授は結局どうやって殺されたんだ?」
「まず後ろから丸底フラスコのようなもので殴られて、倒れこんだところを正面からこうやって手のひらで押さえつけるようにして首を絞められた。」
「ちょ、おい、俺で実践するな!!」
梨沙子は綾瀬相手に犯人が取ったであろう行動を再現した。
「彼の身長はおよそ188㎝ですから傷の角度からみて犯人の身長は150~160㎝ですね。」
「つまり私と綾瀬さんくらいの身長差があったってこと。」
「かなり小柄だな。抵抗されそうだが…。」
「殴られたときは後ろからだったし、首を絞められたときは殴られたせいで脳震盪を起こしてただろうからたいして抵抗できなかったんだろうね。」
「報告書によると死亡時期は遺体発見の1年ほど前、とかなりざっくりしてますが?」
「腐敗が進んでるどころかほぼ骨だけになってたから具体的な死亡日を割り出すのは難しいね。」
「そうですか。」
「おい貴晴、分かったか?これは殺人事件、ここから先は警察の仕事だ。お前は依頼人のゼミ生とやらに教授が見つかったと報告したら大人しくしてるんだ。いいか?分かったらさっさと帰れ!」
「ふっ、いいだろう。」
そう言って貴晴は帰っていった。
貴晴を追い払った綾瀬は梨沙子と助手の石原一真に礼を言って、ひとまず木下教授の妻に話を聞くべく竹田と蜂須賀を連れて梨沙子のラボをあとにした。
「妻のところに行く前に飯陰署に行くぞ。一言文句でも言わなきゃ気が済まん。」
「「了解。」」
飯陰署で木下教授の捜索願と白骨遺体の検死依頼を担当した伊井影造という警部補に文句と説教をたれた綾瀬はどこか幾分かスッキリした面持ちをしていた。影造は自分より年下の綾瀬からの説教に最初こそ怒りを顕にさせていたが、あんたが事件に大小をつけずきちんと捜査していれば少なくとも教授は白骨化する前に見つけられたはずだし、薮井静雄に検死させたのは予算削減のつもりだろうが警視庁管内で発生した事件において所轄の案件だとしても今後薮井を使えば処分の対象にする、との言葉にはぐうの音も出ないようであった。
さて、スッキリした綾瀬は教授の自宅を訪ね、妻から話を聞いていた。
「主人は何の連絡もなく長期間家を空けるような人ではないので覚悟はしてました。」
「遺体の状況からみてご主人が殺害されたことは確かです。犯人に心当たりはありませんか?」
「さあ…。10年前に息子を亡くしてから、同じように早くに子供を亡くす親が少しでも少なくなればと遅くまで研究するようになりましたから親戚やご近所の方との付き合いもほとんどなくなって…。娘も小さい頃は構ってもらえなくて寂しがってましたが高校に入ってからは父親の話をすると素っ気なくなって。ですから付き合いがあるとすれば大学の同僚とか学生さんくらいかと。」
妻の話を聞いていた一同だが蜂須賀が綾瀬に耳打ちしてきた。
「先輩、幼少期に構ってもらえなかったことがストレスになって溜まっていて何かの切欠で爆発したとしたら動機になります。」
「うむ。わかりました。何か思い出されたら、どんなに些細なことでもいいのでご連絡お願いします。」
綾瀬たちが連絡用に名刺を置いて腰を上げようとしたところで学校に行っていた娘が帰宅した。
「ただいま…って何この人たち?」
「警視庁の刑事さんたちよ。この間大学の近くで見つかった白骨遺体がお父さんだったって知らせに来てくれたの。」
「ふーん、パパ死んだんだ…。」
「あんまり悲しくなさそうだな。」
「別に。」
「傷の角度からみて犯人の身長は150~160㎝、お母さんはそれより大きいが君は当てはまるんじゃないかな?」
「何それ。私がパパを殺して林に棄てたっていうの?冗談言わないで。何をするにもお姉ちゃんお姉ちゃんって私の後をついてきてた弟が死んで辛かった。子供ながらにもうあんな思いはしたくないし誰にもしてほしくないって思ってた。確かに会えなくて寂しかったけどパパの研究には賛成してたし、高校を卒業したらパパの大学に行って一緒に研究するつもりだった。」
涙を浮かべながらそう話した彼女がバッグから取り出したのは瑠城大のパンフレットや入試の過去問題集、生物物理に関する資料だった。
「具体的に何を研究していたかわかりますか?」
「いえ。成果が出たら教えると言っていたのでいなくなった日に送られてきた『ついに実験が成功した』というメッセージを見てやっと教えてもらえるのかと娘と2人帰りを待っていたんですが…。」
「私も詳しくは知らない。ただ、癌を完治させる方法を探してるって言ってた。」
「そうですか。」
「大学に行けば詳しく分かるかもしれません。」
「わかりました。行ってみます。」
綾瀬たちは妻と娘に礼を言って木下家を後にし、瑠城大学に向かった。
瑠城大学理学部のキャンパスにやってきた文次郎たちは木下教授のゼミ生の案内で生物物理学の研究室に向かっていた。
「私は4年の夏藤麻紀です。木下先生は見た目が強面だから誤解されがちだけど根はすごく優しい人で、頼れるお父さんみたいな人でした。殺されるほど誰かに恨まれてたなんて信じられません。」
「教授は癌を完治させる方法を研究していたそうですが、具体的にどういったことをしていたんですか?」
「ゼミ生といっても私は木下先生とは別に蚊に刺されにくくなる研究をしているので詳しくは…。私より小野遥花の方が詳しいですよ。彼女は先生の右腕的な存在でしたから。ここが研究室です。遥花もいると思いますよ。」
「どうも。」
麻紀に案内されてやってきたのはキャンパスの一番奥の建物の3階南端の研究室だった。理系の研究室らしく様々な実験器具が並んでおり、ゼミ生たちが熱心に研究していた。
「先輩、これは怨恨より衝動殺人の可能性の方が高そうですね。」
「ああ。」
「夏藤さん、こちらの方々は?」
研究室の奥から40~50代の女性が現れた。
「警視庁の警部さんたちです。潮江さん、こちらは准教授の加賀先生です。」
「本庁の綾瀬と、部下の蜂須賀と武田です。」
「加賀紅乃子です。ご用件は?」
「木下教授の件で来ました。科学の子?アトムか?」
「今どきアトムなんて古いですよ先輩。」
「木下は1年ほど前から所在不明です。ここには…。」
「いえ、加賀先生、今月の初めにそこの雑木林で見つかった遺体が木下先生だったそうです。」
「えっ!?だってあの遺体、白骨化してて身元不明だったんじゃ…。木下さんが死んだ?」
「教授のDNAが遺体のものと一致しました。間違いありません。遺体の状況からみて失踪直後に殺されたようです。」
「奥様が捜索願を出したときに担当してくれた人は心配いらないって…。」
「彼ら所轄の職務怠慢です。最初から本庁が担当していればとっくに解決していた事件だ!」
「先輩落ち着いて。加賀先生、木下先生に危害を加えそうな人の心当たりはありませんか?」
所轄の話を持ち出されて憤りを顕にする綾瀬を押さえながらの竹田の問いに、加賀は愛用しているとみえるガラス製のマグカップを大切そうに抱き込みながら答えた。
「さあ…。ああでも、失踪前にゼミ生の小野遥花さんと不倫していて妊娠させたらしいという噂がありました。まあ、今あの子に子供はいないようなのでただの噂ですね。でも不倫が本当なら別れ話が縺れてとか、奥さんとなかなか別れてくれないとか、動機はありそうですけど。」
「その小野さんというのは?」
「ええと、あの子です。小野さん!ちょっといいかしら?」
「加賀先生、なんでしょうか?」
「こちら警視庁の綾瀬さんと部下の方よ。木下先生の件でいらしたの。それじゃあ私は仕事があるので。」
そう言うと加賀は研究室の奥にあるらしい自分のオフィスに入っていった。
「あの、木下先生の件って?」
「先日そこの雑木林で見つかった遺体が木下教授だと判明しました。」
「それでしたら安斎先輩から聞いています。実はおじいさんが遺体を見つけたときたまたま通りがかって少しだけ遺体を確認したんです。ああ、もちろん素手で触ったりはしてませんよ。骨格を見てなんとなく、ああこれは木下先生だって思ったんです。」
「貴晴が言ってたゼミ生って君か!」
「でも報告書には現場におじいさん以外がいたなんて書いてませんでしたよね?」
「こんなにいい加減な報告書なのによく書き直しさせなかったな。」
「木下先生がいなくなってから先生のオフィスは私が管理しています。提供した歯ブラシもそこで使っていたものです。こちらへ。」
そう言って微かに微笑んだ遥花に、蜂須賀は不覚にもときめいてしまった。
「佳貴?どうした?」
「え?ああ、なんでもない。」
竹田に声を掛けられて我に返った蜂須賀は慌ててついて行こうとして、派手に転んだ。
遥花に連れられ木下教授のオフィスにやってきた綾瀬班の面々。
「ここです。散乱した書類とか机の中身とか、全ていなくなったときのままになっています。」
「教授の失踪当時警察はここを調べましたか?」
「いいえ。あの刑事さんたち警察署から一歩も出てません。」
「ったくあいつら…。失踪後無くなったものはありますか?」
「えっと、これ、先生の研究ノートなんですけど…。」
「先輩、これ見てください!」
「なんだ?」
急に声をあげた蜂須賀が示したのはキャビネットの下だった。覗き込んでみると乾いた血痕が確認できた。
「床の継ぎ目まで綺麗に掃除されてるのにこのキャビネットの下は忘れていたようですね。」
「犯行現場はここか。鑑識を呼べ。」
綾瀬は竹田に鑑識を呼ぶように指示を出すと遥花に向き直った。
「小野さん、実はさっきあなたが木下教授と不倫していたらしいと聞いたんですが?それと、教授は頭を殴られていて、傷口の角度から割り出した犯人の身長はあなたにも当てはまる。」
「不倫なんてしてないし殺してもいません!!彼は私の実の父親なんです!」
「「「えっ!?」」」
「教授は君のお母さんと不倫してたのか?」
「いえ、今の奥さんと結婚する前に私の母と付き合っていたんです。先生は生き物が大好きで、デートはいつも動物園とか水族館とか、そういうところばっかりだったそうです。生き物が苦手な母はそれが嫌で手酷く振ったらしいんですがその後に妊娠が判って、認知はさせたそうですが以来ずっと女手ひとつで私を育ててくれました。ここの入学式の日に母と先生が再会して先生が父親だと知りました。」
「そのこと教授の家族は知っているのか?」
「ええ。性別は知らないけど元カノとの子供がいるって結婚前に話してたみたいだし、先生が父親だと知ってから何度か母と先生の家に遊びに行ってます。奥さんも良くしてくれるし、妹も姉ができたって慕ってくれてます。弟が5歳で亡くなったのを知って、先生と一緒に研究するようになったんです。写真でしか会えない家族なんて悲しすぎる…。」
遥花はそう言って涙ぐみながら机の上に飾られた教授の息子の写真を撫でた。
5歳の少年の死は直接会ったことのない腹違いの姉の心さえも動かしたのだ。
「その研究について詳しく教えていただけますか?」
「患者の身体から健康な細胞を採取して薬液を注入し、その細胞を患者に戻すんです。ラットを使った動物実験では細胞を戻した後の経過を観察してましたが、先生がいなくなった夜に全てのラットが寛解ではなく完治したってメールがきました。細胞を戻す場所の違いで治癒の度合いを観ていたんですが、健康な場所に戻すより癌細胞を一部摘出してそこに移植する方が早く治ることがわかっていました。先生は自分が行った実験の経過を事細かに全部この研究ノートに書き込んでいたんですが、この研究に関する部分だけがごっそり破りとられているんです。」
「薬液って?」
「コロイド、オルガネラ、アセトンの三種類を混ぜたものです。これを注入すると細胞の自己免疫が活性化するんですが、混合の比率は先生にしかわかりません。ノートにも書いてなかったし、全部の結果が出たら教えるって言われてたけど聞く前に亡くなってしまったので…。」
「なるほど、動機はその研究の可能性が高いな…。ノートが破り取られてから研究のことで不振な言動をとった人はいますか?」
すると遥花は少し考える素振りを見せたが、やがて口を開いた。
「加賀先生が、木下先生の意思を引き継いでこの研究の成果を論文にして発表するって…。加賀先生の専門は地質学でこの研究には一切関わっていないのに。」
「なるほど。ご協力感謝します。」
やがて到着した鑑識員たちに現場を引き継いで遥花に礼を言い、本庁を戻ることにした綾瀬。
去り際に蜂須賀は遥花に名刺を渡した。
「何か思い出したらいつでも連絡ください!!」
「雄悟いるか?」
「おう奈緒、どうした?」
綾瀬班のオフィスに鑑識の新藤奈緒がやってきた。木下教授のオフィスの鑑識結果を報告するためだ。
「鑑識で調べた結果キャビネットの下以外にも本棚の下、机の脚の下、壁と床の継ぎ目なんかから血液反応が出た。机の側の床から微量だがアミラーゼとかプロテアーゼとかの消化酵素の成分が検出されたから大根おろしの汁で掃除したんだろう。大根おろしの消化酵素で血液反応を消せることは知ってるのにキャビネットや本棚の下を見落とすなんてまぬけな犯人だな。」
「大根おろしで血液反応が消せるんですか?」
「ああ、血液中のたんぱく質を消化酵素が分解するからルミノールを使っても反応が出ないんだ。洗剤や漂白剤の成分も検出されないからごまかすにはもってこいだな。あと、研究室から押収した丸底フラスコは遺体の傷とも、遺体から出たガラス片の成分とも一致しなかった。遺体のガラス片には微量だが磁器も含まれていて、引張り強度も違った。傷口を見るに凶器のガラスは完全な球体じゃない。」
「完全な球体じゃないってどういうことだ?」
「こんな形だ。」
奈緒は手近にあった竹田の手帳を手に取ると、胸ポケットに入れていたペンで凶器の形を描いた。
「全体的に丸みを帯びてはいるが平らな面もある。ああ、守李とおそろいで買ったマグカップみたいな形だな。」
「ガラスのマグカップ?」
「だとしたら持ち手に使ったと思われた注ぎ口の分が引かれるから犯人の身長は当初の見立てより高い、だいたい165㎝くらいになる。…良かった!雷花ちゃんは160㎝ないから犯人じゃない!!」
「佳貴?」
「「蜂須賀?」」
「あ、いや…。」
「でもガラスのマグカップなんてありますかね?」
「待てよガラスのマグカップ…。」
何かに気付いた綾瀬は苦手なパソコンと向き合い何かを調べ始めた。しばらくしてようやく目当てのページを見つけたらしい。
「これだ!これを持ってたヤツがいたぞ。」
そう言って綾瀬が見せたのは某通販サイトのページだった。
「ああ!!このマグカップ、あの人が持ってましたよ!!」
「ああ!だがこれだけではあの人が教授を殴ったことが証明出来たとしても、その後に首を絞めて殺した証拠にはならない…。」
「お?ちょっと待て、遺体発見時の報告書に右の第三指、つまり中指に残った微量の組織から遺体とは別人の皮膚片が見つかったとある。皮膚片そのものは当時サンプルを取るのに使ってもう残っていないがDNAデータはデータベースにあるはずだ。…あった!」
奈緒が鑑識のデータベースにアクセスして、遺体から見つかった皮膚片のDNAデータが登録されていることを確認した。
「梨沙子は頭を殴られたせいで抵抗らしい抵抗は出来なかったはずだと言っていたが…。」
「身長の差は約20㎝、教授は体格も良かったから犯人とはかなりの体格差があったんでしょう。」
「それで朦朧とする意識の中最後の抵抗で犯人を引っ掻いたんですね…。」
「あの人のDNA取れますかね?」
「任意じゃ取れないだろうな…。」
「そうだろうと思って持ってきてやったぞ!」
「貴晴!?」
いつの間にオフィスに入ってきたのか、貴晴がいた。手には誇らしげに歯ブラシ入りのチャック袋が掲げられている。
「その歯ブラシはなんだ?」
「あの人が不要になってゴミ箱に捨てたものを久々知に回収してもらった。」
「なぜお前があの人のことを知っている!?」
「雄悟、今度から私と会った後はシャツを変えることをオススメしよう。」
そう言うと貴晴は綾瀬のワイシャツの襟をめくり、襟の裏から盗聴器を回収した。
「くそっ!!」
「新藤先輩、DNA鑑定お願いします!」
「おう、すぐやる!!」
貴晴から歯ブラシを受け取った奈緒はすぐに鑑定すべく綾瀬班のオフィスをあとにした。
「これでDNAが一致すれば逮捕状が取れるな雄悟!!」
「ええい、お前は事件に関わるなと言ったはずだ!さっさと帰れ!!」
綾瀬がそう言うと貴晴は悪びれる様子のないままオフィスをあとにした。直後、ネズミ花火が3人の足もとを縦横無尽に駆け回り、オフィスはプチパニックになった。
「貴晴!このやろー!!」
「警視庁の綾瀬です。加賀さんはいますか?」
綾瀬は2人の部下や鑑識員数名と共に瑠城大学の加賀を訪ねた。
「あら綾瀬さん。何かわかったんですか?」
「ええ、あなたが木下教授を殺害した犯人だということがね。」
「ええ!?」
「あなたのオフィスを調べさせてもらいます。」
「待ってください、任意ですよね?オフィスには公開出来ない資料がたくさんあります!」
「悪いが捜査令状があるんだ。行くぞ。」
「「はい。」」
加賀の答えを聞く前からオフィスに入って作業していた鑑識員に続いて綾瀬たちも手袋を着けてオフィスに入る。するとさっそく蜂須賀が何かを見つけた。
「綾瀬先輩、これ。」
「教授の研究ノートから破り取られた部分だな。」
「それは木下先生から預かったんです!」
「預かった?ならノートごと渡すか、もっとキレイな切り口で渡すはずだ。あんたこの研究の論文を出そうとしてただろ?もし学会で認められればあんたは准教授から教授に格上げだ。これは立派な殺しの動機になる。」
「だからって、殺すだなんてそんなことしません!」
否認を続ける加賀だったが、追い討ちをかけるように証拠を見つけた奈緒がやってきた。
「雄悟、例のガラスのマグカップだ。見た目にはキレイだがルミノール反応が出た。」
このマグカップは中に注いだ飲み物の温度を一定に保つため二重構造になっている。取っ手の反対側の底にわずかなヒビ割れがあり、そこから二重構造の内側に入り込んだ血痕は見逃していたようだ。
「詳しくは鑑定待ちだが、教授を殴った凶器はこのマグカップで間違いないだろう。」
「だそうだ。これはあんたのマグカップだ。あんたが殺した。」
「確かに木下先生を殴ったけど殺してはいません!あのときは俺は石頭だからって平気そうな顔をしていたんです。だからその後誰かに首を…。」
「なんであんたがそれを知っている?」
「だって最初にここへ来たとき言っていたでしょう?」
「俺たちはあんたに会ってから一度も教授の死因は絞殺だとか扼殺だとか言ってないぞ。」
「それは言葉のアヤで…。」
「いい加減にしろ!少しでも罪が軽くなるように自供させようとしたがもういい。こっちには決定的な物証がある。あんたのDNAが教授の指に残っていた組織から見つかった皮膚片のDNAと一致したんだ。あんたを木下教授の殺害と死体遺棄で逮捕する!!」
「なんで私のDNAがわかるんですか!?」
「匿名の情報提供者がいたんだ。」
綾瀬は加賀に手錠をかけた。加賀は綾瀬と両サイドを押さえていた蜂須賀、竹田を振り切り、机のペン立てにあったカッターナイフを手に取り自らの首を切ろうとしたが、綾瀬がカッターナイフを握りこんで阻止した。
「自分の罪から逃げるな!」
「はあ!?どうせ生きてたって死刑でしょう?だったら自分で死んでやる!それが罪の償いよ!」
自棄になっている加賀だったが、綾瀬は加賀の手からカッターナイフを奪い取って続けた。
「いいか?俺は死刑には反対だ。これは俺の持論だが極刑ってのはずっと牢屋に閉じ込めておくことをいうんだ。本人にとっちゃ自殺は罪の償いになるんだろうが俺に言わせりゃそんなのは逃げだ!殺人犯には一生暗くて冷たい監獄の中で反省させる方が死刑よりずっといい。だからお前も、自分が犯した罪としっかり向き合って一生消えない十字架を背負い続けるんだ!逃げるなんて俺は許さない!!」
「彼女を連れていけ!」
蜂須賀に言われて竹田と女性警官が加賀を連行していった。綾瀬はカッターナイフを蜂須賀に渡したが、その掌はざっくり切れていた。
加賀が連行されたあと、綾瀬は奈緒から傷の手当てを受けていた。
「仮にも科学者、知識はあるのに焦って見落とした。地雷を踏んだな。これでよしっと。」
「イテッ!!傷口を叩くな!」
「戦士の勲章、ってか。」
「うるさい!」
「…でもカッコよかった。」
「ん?なんか言ったか?」
「別に?」
奈緒の言葉はあまりに小さく、綾瀬には聞こえていなかった。
庁内では不仲が噂される2人だが、この時の2人にはなんだかいいムードが漂っていた。
数ヶ月後ー。
綾瀬班のオフィスにて。
「今日蜂須賀は非番か?」
「はい。なんでも今日は小野さんとデートらしくて、昨日から張り切ってましたよ。」
「まったく…。」
本来自分が担当する事件の関係者とそういう関係を持つことは服務規程違反として処分の対象になるが、この件はもう解決済みだ。綾瀬も大目に見ることにした。
「ああ、そうそう。木下教授の研究ですが、例の混合液の割合がわかったそうですよ。」
「そうなのか?」
「教授の娘さんによると、教授は三種類あるものを3:2:1の分量で混ぜるとき数式を省略して物質名だけ3:2:1の順に書くのが楽だと言っていたそうです。研究ノートにはアセトン、コロイド、オルガネラの順に書いてあったのでその順に3:2:1で配合した薬液でラット実験をしたらノートにあったメモと同じ結果が得られたそうです。」
「それはよかった。」
「それで、ノートの最後に書き付けてあった“eternity”から取ってエタニティ細胞と名付けて小野さんと娘さんの連名で学会に論文を発表するそうですよ。」
論文が認められれば、人体による実証実験を経て実用化される未来もそう遠くはないだろう。木下教授の熱い思いは2人の娘たちへとしっかり受け継がれていた。
教授の木下義男は夜遅くまで研究に没頭していた。彼の研究テーマは小児癌などで幼くして亡くなる子どもを少しでも減らすため、その治療に有効的な細胞を生成することだった。10年前、5歳だった息子を小児癌で亡くしてからずっと研究し続けていた成果が七夕のこの日ついに出たのだ。
「よし、ついに成功だ!」
まだラットを使った動物実験の段階だが、被験体から採取した健康な細胞に木下がある割合で配合した特殊な薬液を注入すると数分から数十分で細胞の自己免疫が活性化することがわかった。この細胞を癌細胞と一緒にして観察していたところ癌が綺麗さっぱり消え去ったのだ。そこで木下は実際に癌に侵されているラットから健康な細胞を採取し、生成した特殊な細胞をラットの体内に戻し数日経過をみていたのだが、つい先ほどの検査でこのラットの癌が完治していることがわかった。寛解ではなく完治だ。再発の可能性はない。
もしこれを人体実証するなら、患者本人の細胞を使うので移植手術で起きやすい拒絶反応も起こらず、癌の摘出と細胞移植の手術も人間の親指ほどの大きさの穴から器具とカメラを挿入して同時に行えるので患者への負担も少ない。
例えば乳癌なら、ステージがかなり進行していた場合今までは乳房や乳頭ごと乳腺を全摘出するのが一般的だったが、この細胞を移植する場合は約1立方センチメートルほどの癌細胞を摘出してそこにこの細胞を移植することで事足りるので乳房や乳頭を温存するということが可能なのだ。
今後の研究で癌以外の病気にも効果はあるのか、実証実験の結果人間にも効果はあるのかなど課題はまだあるが、結果次第では医療技術が大きく進歩する世紀の大発見に、木下の胸は高鳴った。
「これなら多くの人々の命を救えるかもしれないぞ…!!」
そう言って今までの研究内容が事細かに綴られた研究ノートに未来永劫という意味の「eternity」と書きつけた。未来永劫癌とおさらばできる細胞の名前にはふさわしいと言える。
木下教授はこの日を境に消息を絶った。携帯電話も翌日には解約されていた。
大学の近くの雑木林で身元不明の白骨遺体が発見されたのは木下教授と一切連絡が取れなくなってから約1年後のことだった。
山川敦は探偵の助手をしている。その日はカフェで依頼人への報告書をまとめていた。しかしどうしてこうも迷子のペット探しだとか浮気妻の身辺調査だとか、自分でどうにかしろと言いたくなるような案件ばかり舞い込むのか。もちろん仕事があるに越したことはないが、もっと、なんかこう、おもしろい案件はないのかと思いながらひたすらにキーボードを打ち込んでいた。
「あれ?山川くん?」
「お?小野さん!」
声を掛けてきたのは高校時代の同級生の小野遥花だった。遥花は現在瑠城大学の4年で生物物理学を専攻している。
「それ例のロシアンブルー探しの報告書?」
「うん。身体的特徴は一致するし、なによりチップは嘘をつかないのに飼い主は違うって言い張ってて…。まあ、どこかで種をもらって妊娠してたから認めたくないのはわかるけど…。小野さんは今日の講義もう終わったの?」
「うん。3限までだからもう終わり。ところでちょっと相談してもいい?」
「どうしたの?」
「実は生物物理学の木下義男っていう教授が1年前から行方不明なんだ。奥さんが捜索願を出したんだけど警察はなかなか動いてくれないし…。」
「もっと詳しく教えて。先輩にも話してみるから。」
1年前の7月7日、遥花を含むゼミ生に「もうすぐラット実験の結果がわかるから」と言い、予定していたゼミ生たちとの飲み会には参加せず1人研究室に残ったという。ゼミ生たちが研究室を出たのは18時。その後22時51分に妻に「ついに実験が成功した」というメールが送られたのを最後に連絡がつかなくなり、後から翌日には携帯は解約されていたと判明した。
朝イチで研究室を訪れたゼミ生の1人が見つけた教授の研究ノートには実験開始から結果が得られるまでの過程が事細かに記載されていたが、肝心の前日結果がわかったはずの実験についてはページがごっそり破り取られていた。
講義の時間になっても現れず、不審に思ったゼミ生たちは教授の妻に相談、一晩帰ってこなかったばかりか仕事にも行っていないなんてただ事ではないと感じた妻は警察に捜索願を提出したが、大の大人が一晩帰らなかったくらいで、とまともに取り合ってくれなかった。警察がやってくれたことといえば携帯が解約されていたことを突き止めたことと大学の勤怠記録の確認だけだった。
家族に黙って携帯を解約したり、どこかへ出掛けてしまうような人じゃないとどれだけ妻が言っても、23時30分にはちゃんと退勤をつけて大学を出た記録があるし、実験が成功したと連絡があったならそれを肴に1人で呑みに行ってどこかで酔いつぶれているのだろうの一点ばりで、それ以上のことはしてくれることのないまま1年が過ぎてしまった。
敦は遥花から聞いたこの話を高校時代の先輩で、上司の探偵でもある安斎貴晴に話した。
「この捜索願を担当したのは所轄署か?」
「ええ、飯陰署の伊井影造という古参の刑事です。」
「やはりか。所轄の古参の連中は事件に大小をつけて大きい方を優先して小さい方は後回しどころか手もつけないからな。」
「事件に大きいも小さいもないのに…。」
「1年以上前から連絡が取れず携帯も解約されていたとなると亡くなっている可能性が高い。よし、警視庁に知り合いがいるから確認してみる。」
貴晴はそう言うと、表向きはバーになっている探偵事務所を出て警視庁へ向かった。
1人残された敦はひとつため息をついてロシアンブルー探しの報告書の作成を再開させた。
警視庁捜査一課強行犯3係の綾瀬班のオフィスー。
警部の綾瀬雄悟は先日解決した事件の報告書を慣れないパソコン操作で作成していた。
「ああもう、なんで手書きじゃダメなんだよ!!」
「今はハイテクの時代ですからねぇ。」
「いいじゃないですか。事件の概要をデータで管理しておけば、未解決の事件に進展があったとき先輩が入庁した当時のように倉庫をひっくり返して資料探しする手間が省けるんですから。」
「竹田、もうお前が作れ!!」
「ええ!?なんで俺!?」
綾瀬が報告書の作成を部下の竹田正人に丸投げしたとき、綾瀬班のオフィスを訪ねてきた青年がいた。
「雄悟、いるか?」
「貴晴お前なぁ、俺は仮にもお前の元カノの親父で、お前より年上なんだ。呼び捨てにするな。」
雄悟の娘・美樹の元彼氏で自称探偵の安斎貴晴だった。高校時代の先輩後輩の間柄で、なんでも共通の趣味があったらしく意気投合して付き合いだしたが、ほんの数ヶ月で破局した。美樹の趣味といえば雄悟が知る限り大砲の写真集を見ることと市販の花火の火薬を調合し直してオリジナル花火を作ることだが、貴晴にまでそんな危ない趣味があるとは思えない。
娘がこの男を彼氏だと言って連れてきて、将来は結婚も視野に入れていると言われたときはぶん殴ってやろうかとも思ったが、いかんせん雄悟と美樹の母親は出来ちゃった結婚だったうえ仕事にかまけすぎて逃げられているのでそんな資格は無かった。破局したと知らされたときは心底嬉しかったものだ。
「じゃあお義父さんか?」
「今も昔もお前にそう呼ばれる筋合いはない。それより用件はなんだ?わざわざケンカ売りに来たのか?」
「ここ1年の間に発見された身元不明の遺体はいくつある?」
「なんなんだ急に?」
「いいから。」
「去年7月から今日現在までに見つかった遺体で身元不明なのは65人ですが?」
仕方ないといった様子でもう1人の部下である蜂須賀佳貴が身元不明者のデータベースを調べた。
「その内50代の男性は?」
「男性52人、内推定50代は33人ですね。」
「おい貴晴、いいかげんにしろ!一体なんなんだ!」
「この歯ブラシのDNAと一致する遺体があるか調べてくれ。歯科記録でも良かったんだが、DNAの方が確実だろう?詳しいことは結果が出たら話す。」
貴晴はそれきり頑なに口を開かないので仕方なく歯ブラシと遺体のDNA鑑定を依頼した。
身元不明者のDNAはデータベースに記録されているので歯ブラシからDNAを採取出来れば照合するのは簡単らしく、ものの数時間で結果が出た。今年の7月3日に瑠城大学そばの雑木林で発見された遺体のDNAと一致したとのことだった。
「さあ貴晴、結果が出たんだ。話してくれ。」
「その歯ブラシは瑠城大学の木下義男という教授のものだ。うちの助手が教授のゼミ生から教授が1年前から行方不明になっていると相談を受けて、教授が研究室で使っていた歯ブラシを借りてきた。」
「じゃあ無事1人身元が割れましたね。」
「教授の死因や死亡時期を梨沙子に確認してもらって事件性がなければ遺族にお返ししよう。」
梨沙子のラボー。
「貴晴、なんでお前までついてきた?」
「ゼミ生から依頼を受けたのは私だ。私にも彼の死因を知る権利がある。そしてそれを依頼人に伝えなければならない。」
「ああもう、わかった。その代わり大人しくしてろよ。」
「報告書によると発見者は犬の散歩の老人で、いつもの散歩コースが工事で通行止めになっていたため迂回して普段はあまり人の通らない雑木林の方へ行ったら犬が急に走り出し、林に入っていって何かの骨に夢中になっていたため近寄って確認すると人骨のようであり、傍の木の根元に寄りかかった状態の白骨化した遺体を発見。人通りの少ない道の脇にある雑木林に遺体が放置されていた点、衣服や所持品が全くない点から事件性有りと判断し現在身元確認中、だそうです。」
「遺体の発見から1週間で身元が割れたんだ。早い方だろう?あとは死因だな。」
「報告書には頭を鈍器で殴打されたことによる脳挫傷とありますが…。」
「梨沙子はまだか!?早く特定してくれ!」
綾瀬班は報告書に目を通しながら監察医の並木梨沙子の到着を待っていたが、当の本人は急なエレベーターの故障に見舞われ中に閉じ込められていた。
「なんで!?緊急電話も繋がらないんだけど!?」
身元不明の遺体は普通、捜査の進捗に関わらず発見からおおむね1週間ほどで火葬され遺骨として保管される。さらに発見から1年たっても身元不明のままなら無縁仏として埋葬される。
木下教授の場合発見から2週間ほど経過しているが、白骨化しており残っている組織が少なかったため、検査用のサンプルとして採取してしまえばほぼ残らず、わずかに残っていた組織や土汚れを洗浄して綺麗になった骨が完全な状態で保管されていた。洗浄されたおかげで骨折や異常が見分けやすくなっていた。
「確かに検死報告書通り頭蓋骨の後方側面に殴られた跡がある。陥没骨折の具合からみて球形の何かで後ろから殴られたんだね。記録によるとこの傷からガラス片が採取されてる。彼が生物物理の教授だったことを考えると凶器は丸底フラスコかもね。でもこの程度なら脳震盪を起こすくらいで、報告書の死因になってる脳挫傷で死ぬなんてないはずだけど…。」
「梨沙子先輩、これを見てください!舌骨が折れています!!」
「ホントだ!これは明らかな死因だよ。彼は首を絞められて殺された。確かに殺人だけどこの検死報告書は間違ってるよ!!よくやったね一真!」
「これ書いたの薮井静雄ですよ!?」
「なんであいつに検死なんてさせたの?バカなの?バカだった!道理で見逃すはずだよ!!遺体発見時犬が腕を咥えてて、右の尺骨と橈骨にくっきり歯形が付いてるのに報告書にはなんにも書いてないし!」
薮井静雄は同業者が認めるヤブ医者で、医師会がなぜ免許を発行したのか謎なほどである。そんな男に検死をさせた捜査員に対し怒りを顕にする梨沙子。
「おい梨沙子、とりあえず落ち着け。教授は結局どうやって殺されたんだ?」
「まず後ろから丸底フラスコのようなもので殴られて、倒れこんだところを正面からこうやって手のひらで押さえつけるようにして首を絞められた。」
「ちょ、おい、俺で実践するな!!」
梨沙子は綾瀬相手に犯人が取ったであろう行動を再現した。
「彼の身長はおよそ188㎝ですから傷の角度からみて犯人の身長は150~160㎝ですね。」
「つまり私と綾瀬さんくらいの身長差があったってこと。」
「かなり小柄だな。抵抗されそうだが…。」
「殴られたときは後ろからだったし、首を絞められたときは殴られたせいで脳震盪を起こしてただろうからたいして抵抗できなかったんだろうね。」
「報告書によると死亡時期は遺体発見の1年ほど前、とかなりざっくりしてますが?」
「腐敗が進んでるどころかほぼ骨だけになってたから具体的な死亡日を割り出すのは難しいね。」
「そうですか。」
「おい貴晴、分かったか?これは殺人事件、ここから先は警察の仕事だ。お前は依頼人のゼミ生とやらに教授が見つかったと報告したら大人しくしてるんだ。いいか?分かったらさっさと帰れ!」
「ふっ、いいだろう。」
そう言って貴晴は帰っていった。
貴晴を追い払った綾瀬は梨沙子と助手の石原一真に礼を言って、ひとまず木下教授の妻に話を聞くべく竹田と蜂須賀を連れて梨沙子のラボをあとにした。
「妻のところに行く前に飯陰署に行くぞ。一言文句でも言わなきゃ気が済まん。」
「「了解。」」
飯陰署で木下教授の捜索願と白骨遺体の検死依頼を担当した伊井影造という警部補に文句と説教をたれた綾瀬はどこか幾分かスッキリした面持ちをしていた。影造は自分より年下の綾瀬からの説教に最初こそ怒りを顕にさせていたが、あんたが事件に大小をつけずきちんと捜査していれば少なくとも教授は白骨化する前に見つけられたはずだし、薮井静雄に検死させたのは予算削減のつもりだろうが警視庁管内で発生した事件において所轄の案件だとしても今後薮井を使えば処分の対象にする、との言葉にはぐうの音も出ないようであった。
さて、スッキリした綾瀬は教授の自宅を訪ね、妻から話を聞いていた。
「主人は何の連絡もなく長期間家を空けるような人ではないので覚悟はしてました。」
「遺体の状況からみてご主人が殺害されたことは確かです。犯人に心当たりはありませんか?」
「さあ…。10年前に息子を亡くしてから、同じように早くに子供を亡くす親が少しでも少なくなればと遅くまで研究するようになりましたから親戚やご近所の方との付き合いもほとんどなくなって…。娘も小さい頃は構ってもらえなくて寂しがってましたが高校に入ってからは父親の話をすると素っ気なくなって。ですから付き合いがあるとすれば大学の同僚とか学生さんくらいかと。」
妻の話を聞いていた一同だが蜂須賀が綾瀬に耳打ちしてきた。
「先輩、幼少期に構ってもらえなかったことがストレスになって溜まっていて何かの切欠で爆発したとしたら動機になります。」
「うむ。わかりました。何か思い出されたら、どんなに些細なことでもいいのでご連絡お願いします。」
綾瀬たちが連絡用に名刺を置いて腰を上げようとしたところで学校に行っていた娘が帰宅した。
「ただいま…って何この人たち?」
「警視庁の刑事さんたちよ。この間大学の近くで見つかった白骨遺体がお父さんだったって知らせに来てくれたの。」
「ふーん、パパ死んだんだ…。」
「あんまり悲しくなさそうだな。」
「別に。」
「傷の角度からみて犯人の身長は150~160㎝、お母さんはそれより大きいが君は当てはまるんじゃないかな?」
「何それ。私がパパを殺して林に棄てたっていうの?冗談言わないで。何をするにもお姉ちゃんお姉ちゃんって私の後をついてきてた弟が死んで辛かった。子供ながらにもうあんな思いはしたくないし誰にもしてほしくないって思ってた。確かに会えなくて寂しかったけどパパの研究には賛成してたし、高校を卒業したらパパの大学に行って一緒に研究するつもりだった。」
涙を浮かべながらそう話した彼女がバッグから取り出したのは瑠城大のパンフレットや入試の過去問題集、生物物理に関する資料だった。
「具体的に何を研究していたかわかりますか?」
「いえ。成果が出たら教えると言っていたのでいなくなった日に送られてきた『ついに実験が成功した』というメッセージを見てやっと教えてもらえるのかと娘と2人帰りを待っていたんですが…。」
「私も詳しくは知らない。ただ、癌を完治させる方法を探してるって言ってた。」
「そうですか。」
「大学に行けば詳しく分かるかもしれません。」
「わかりました。行ってみます。」
綾瀬たちは妻と娘に礼を言って木下家を後にし、瑠城大学に向かった。
瑠城大学理学部のキャンパスにやってきた文次郎たちは木下教授のゼミ生の案内で生物物理学の研究室に向かっていた。
「私は4年の夏藤麻紀です。木下先生は見た目が強面だから誤解されがちだけど根はすごく優しい人で、頼れるお父さんみたいな人でした。殺されるほど誰かに恨まれてたなんて信じられません。」
「教授は癌を完治させる方法を研究していたそうですが、具体的にどういったことをしていたんですか?」
「ゼミ生といっても私は木下先生とは別に蚊に刺されにくくなる研究をしているので詳しくは…。私より小野遥花の方が詳しいですよ。彼女は先生の右腕的な存在でしたから。ここが研究室です。遥花もいると思いますよ。」
「どうも。」
麻紀に案内されてやってきたのはキャンパスの一番奥の建物の3階南端の研究室だった。理系の研究室らしく様々な実験器具が並んでおり、ゼミ生たちが熱心に研究していた。
「先輩、これは怨恨より衝動殺人の可能性の方が高そうですね。」
「ああ。」
「夏藤さん、こちらの方々は?」
研究室の奥から40~50代の女性が現れた。
「警視庁の警部さんたちです。潮江さん、こちらは准教授の加賀先生です。」
「本庁の綾瀬と、部下の蜂須賀と武田です。」
「加賀紅乃子です。ご用件は?」
「木下教授の件で来ました。科学の子?アトムか?」
「今どきアトムなんて古いですよ先輩。」
「木下は1年ほど前から所在不明です。ここには…。」
「いえ、加賀先生、今月の初めにそこの雑木林で見つかった遺体が木下先生だったそうです。」
「えっ!?だってあの遺体、白骨化してて身元不明だったんじゃ…。木下さんが死んだ?」
「教授のDNAが遺体のものと一致しました。間違いありません。遺体の状況からみて失踪直後に殺されたようです。」
「奥様が捜索願を出したときに担当してくれた人は心配いらないって…。」
「彼ら所轄の職務怠慢です。最初から本庁が担当していればとっくに解決していた事件だ!」
「先輩落ち着いて。加賀先生、木下先生に危害を加えそうな人の心当たりはありませんか?」
所轄の話を持ち出されて憤りを顕にする綾瀬を押さえながらの竹田の問いに、加賀は愛用しているとみえるガラス製のマグカップを大切そうに抱き込みながら答えた。
「さあ…。ああでも、失踪前にゼミ生の小野遥花さんと不倫していて妊娠させたらしいという噂がありました。まあ、今あの子に子供はいないようなのでただの噂ですね。でも不倫が本当なら別れ話が縺れてとか、奥さんとなかなか別れてくれないとか、動機はありそうですけど。」
「その小野さんというのは?」
「ええと、あの子です。小野さん!ちょっといいかしら?」
「加賀先生、なんでしょうか?」
「こちら警視庁の綾瀬さんと部下の方よ。木下先生の件でいらしたの。それじゃあ私は仕事があるので。」
そう言うと加賀は研究室の奥にあるらしい自分のオフィスに入っていった。
「あの、木下先生の件って?」
「先日そこの雑木林で見つかった遺体が木下教授だと判明しました。」
「それでしたら安斎先輩から聞いています。実はおじいさんが遺体を見つけたときたまたま通りがかって少しだけ遺体を確認したんです。ああ、もちろん素手で触ったりはしてませんよ。骨格を見てなんとなく、ああこれは木下先生だって思ったんです。」
「貴晴が言ってたゼミ生って君か!」
「でも報告書には現場におじいさん以外がいたなんて書いてませんでしたよね?」
「こんなにいい加減な報告書なのによく書き直しさせなかったな。」
「木下先生がいなくなってから先生のオフィスは私が管理しています。提供した歯ブラシもそこで使っていたものです。こちらへ。」
そう言って微かに微笑んだ遥花に、蜂須賀は不覚にもときめいてしまった。
「佳貴?どうした?」
「え?ああ、なんでもない。」
竹田に声を掛けられて我に返った蜂須賀は慌ててついて行こうとして、派手に転んだ。
遥花に連れられ木下教授のオフィスにやってきた綾瀬班の面々。
「ここです。散乱した書類とか机の中身とか、全ていなくなったときのままになっています。」
「教授の失踪当時警察はここを調べましたか?」
「いいえ。あの刑事さんたち警察署から一歩も出てません。」
「ったくあいつら…。失踪後無くなったものはありますか?」
「えっと、これ、先生の研究ノートなんですけど…。」
「先輩、これ見てください!」
「なんだ?」
急に声をあげた蜂須賀が示したのはキャビネットの下だった。覗き込んでみると乾いた血痕が確認できた。
「床の継ぎ目まで綺麗に掃除されてるのにこのキャビネットの下は忘れていたようですね。」
「犯行現場はここか。鑑識を呼べ。」
綾瀬は竹田に鑑識を呼ぶように指示を出すと遥花に向き直った。
「小野さん、実はさっきあなたが木下教授と不倫していたらしいと聞いたんですが?それと、教授は頭を殴られていて、傷口の角度から割り出した犯人の身長はあなたにも当てはまる。」
「不倫なんてしてないし殺してもいません!!彼は私の実の父親なんです!」
「「「えっ!?」」」
「教授は君のお母さんと不倫してたのか?」
「いえ、今の奥さんと結婚する前に私の母と付き合っていたんです。先生は生き物が大好きで、デートはいつも動物園とか水族館とか、そういうところばっかりだったそうです。生き物が苦手な母はそれが嫌で手酷く振ったらしいんですがその後に妊娠が判って、認知はさせたそうですが以来ずっと女手ひとつで私を育ててくれました。ここの入学式の日に母と先生が再会して先生が父親だと知りました。」
「そのこと教授の家族は知っているのか?」
「ええ。性別は知らないけど元カノとの子供がいるって結婚前に話してたみたいだし、先生が父親だと知ってから何度か母と先生の家に遊びに行ってます。奥さんも良くしてくれるし、妹も姉ができたって慕ってくれてます。弟が5歳で亡くなったのを知って、先生と一緒に研究するようになったんです。写真でしか会えない家族なんて悲しすぎる…。」
遥花はそう言って涙ぐみながら机の上に飾られた教授の息子の写真を撫でた。
5歳の少年の死は直接会ったことのない腹違いの姉の心さえも動かしたのだ。
「その研究について詳しく教えていただけますか?」
「患者の身体から健康な細胞を採取して薬液を注入し、その細胞を患者に戻すんです。ラットを使った動物実験では細胞を戻した後の経過を観察してましたが、先生がいなくなった夜に全てのラットが寛解ではなく完治したってメールがきました。細胞を戻す場所の違いで治癒の度合いを観ていたんですが、健康な場所に戻すより癌細胞を一部摘出してそこに移植する方が早く治ることがわかっていました。先生は自分が行った実験の経過を事細かに全部この研究ノートに書き込んでいたんですが、この研究に関する部分だけがごっそり破りとられているんです。」
「薬液って?」
「コロイド、オルガネラ、アセトンの三種類を混ぜたものです。これを注入すると細胞の自己免疫が活性化するんですが、混合の比率は先生にしかわかりません。ノートにも書いてなかったし、全部の結果が出たら教えるって言われてたけど聞く前に亡くなってしまったので…。」
「なるほど、動機はその研究の可能性が高いな…。ノートが破り取られてから研究のことで不振な言動をとった人はいますか?」
すると遥花は少し考える素振りを見せたが、やがて口を開いた。
「加賀先生が、木下先生の意思を引き継いでこの研究の成果を論文にして発表するって…。加賀先生の専門は地質学でこの研究には一切関わっていないのに。」
「なるほど。ご協力感謝します。」
やがて到着した鑑識員たちに現場を引き継いで遥花に礼を言い、本庁を戻ることにした綾瀬。
去り際に蜂須賀は遥花に名刺を渡した。
「何か思い出したらいつでも連絡ください!!」
「雄悟いるか?」
「おう奈緒、どうした?」
綾瀬班のオフィスに鑑識の新藤奈緒がやってきた。木下教授のオフィスの鑑識結果を報告するためだ。
「鑑識で調べた結果キャビネットの下以外にも本棚の下、机の脚の下、壁と床の継ぎ目なんかから血液反応が出た。机の側の床から微量だがアミラーゼとかプロテアーゼとかの消化酵素の成分が検出されたから大根おろしの汁で掃除したんだろう。大根おろしの消化酵素で血液反応を消せることは知ってるのにキャビネットや本棚の下を見落とすなんてまぬけな犯人だな。」
「大根おろしで血液反応が消せるんですか?」
「ああ、血液中のたんぱく質を消化酵素が分解するからルミノールを使っても反応が出ないんだ。洗剤や漂白剤の成分も検出されないからごまかすにはもってこいだな。あと、研究室から押収した丸底フラスコは遺体の傷とも、遺体から出たガラス片の成分とも一致しなかった。遺体のガラス片には微量だが磁器も含まれていて、引張り強度も違った。傷口を見るに凶器のガラスは完全な球体じゃない。」
「完全な球体じゃないってどういうことだ?」
「こんな形だ。」
奈緒は手近にあった竹田の手帳を手に取ると、胸ポケットに入れていたペンで凶器の形を描いた。
「全体的に丸みを帯びてはいるが平らな面もある。ああ、守李とおそろいで買ったマグカップみたいな形だな。」
「ガラスのマグカップ?」
「だとしたら持ち手に使ったと思われた注ぎ口の分が引かれるから犯人の身長は当初の見立てより高い、だいたい165㎝くらいになる。…良かった!雷花ちゃんは160㎝ないから犯人じゃない!!」
「佳貴?」
「「蜂須賀?」」
「あ、いや…。」
「でもガラスのマグカップなんてありますかね?」
「待てよガラスのマグカップ…。」
何かに気付いた綾瀬は苦手なパソコンと向き合い何かを調べ始めた。しばらくしてようやく目当てのページを見つけたらしい。
「これだ!これを持ってたヤツがいたぞ。」
そう言って綾瀬が見せたのは某通販サイトのページだった。
「ああ!!このマグカップ、あの人が持ってましたよ!!」
「ああ!だがこれだけではあの人が教授を殴ったことが証明出来たとしても、その後に首を絞めて殺した証拠にはならない…。」
「お?ちょっと待て、遺体発見時の報告書に右の第三指、つまり中指に残った微量の組織から遺体とは別人の皮膚片が見つかったとある。皮膚片そのものは当時サンプルを取るのに使ってもう残っていないがDNAデータはデータベースにあるはずだ。…あった!」
奈緒が鑑識のデータベースにアクセスして、遺体から見つかった皮膚片のDNAデータが登録されていることを確認した。
「梨沙子は頭を殴られたせいで抵抗らしい抵抗は出来なかったはずだと言っていたが…。」
「身長の差は約20㎝、教授は体格も良かったから犯人とはかなりの体格差があったんでしょう。」
「それで朦朧とする意識の中最後の抵抗で犯人を引っ掻いたんですね…。」
「あの人のDNA取れますかね?」
「任意じゃ取れないだろうな…。」
「そうだろうと思って持ってきてやったぞ!」
「貴晴!?」
いつの間にオフィスに入ってきたのか、貴晴がいた。手には誇らしげに歯ブラシ入りのチャック袋が掲げられている。
「その歯ブラシはなんだ?」
「あの人が不要になってゴミ箱に捨てたものを久々知に回収してもらった。」
「なぜお前があの人のことを知っている!?」
「雄悟、今度から私と会った後はシャツを変えることをオススメしよう。」
そう言うと貴晴は綾瀬のワイシャツの襟をめくり、襟の裏から盗聴器を回収した。
「くそっ!!」
「新藤先輩、DNA鑑定お願いします!」
「おう、すぐやる!!」
貴晴から歯ブラシを受け取った奈緒はすぐに鑑定すべく綾瀬班のオフィスをあとにした。
「これでDNAが一致すれば逮捕状が取れるな雄悟!!」
「ええい、お前は事件に関わるなと言ったはずだ!さっさと帰れ!!」
綾瀬がそう言うと貴晴は悪びれる様子のないままオフィスをあとにした。直後、ネズミ花火が3人の足もとを縦横無尽に駆け回り、オフィスはプチパニックになった。
「貴晴!このやろー!!」
「警視庁の綾瀬です。加賀さんはいますか?」
綾瀬は2人の部下や鑑識員数名と共に瑠城大学の加賀を訪ねた。
「あら綾瀬さん。何かわかったんですか?」
「ええ、あなたが木下教授を殺害した犯人だということがね。」
「ええ!?」
「あなたのオフィスを調べさせてもらいます。」
「待ってください、任意ですよね?オフィスには公開出来ない資料がたくさんあります!」
「悪いが捜査令状があるんだ。行くぞ。」
「「はい。」」
加賀の答えを聞く前からオフィスに入って作業していた鑑識員に続いて綾瀬たちも手袋を着けてオフィスに入る。するとさっそく蜂須賀が何かを見つけた。
「綾瀬先輩、これ。」
「教授の研究ノートから破り取られた部分だな。」
「それは木下先生から預かったんです!」
「預かった?ならノートごと渡すか、もっとキレイな切り口で渡すはずだ。あんたこの研究の論文を出そうとしてただろ?もし学会で認められればあんたは准教授から教授に格上げだ。これは立派な殺しの動機になる。」
「だからって、殺すだなんてそんなことしません!」
否認を続ける加賀だったが、追い討ちをかけるように証拠を見つけた奈緒がやってきた。
「雄悟、例のガラスのマグカップだ。見た目にはキレイだがルミノール反応が出た。」
このマグカップは中に注いだ飲み物の温度を一定に保つため二重構造になっている。取っ手の反対側の底にわずかなヒビ割れがあり、そこから二重構造の内側に入り込んだ血痕は見逃していたようだ。
「詳しくは鑑定待ちだが、教授を殴った凶器はこのマグカップで間違いないだろう。」
「だそうだ。これはあんたのマグカップだ。あんたが殺した。」
「確かに木下先生を殴ったけど殺してはいません!あのときは俺は石頭だからって平気そうな顔をしていたんです。だからその後誰かに首を…。」
「なんであんたがそれを知っている?」
「だって最初にここへ来たとき言っていたでしょう?」
「俺たちはあんたに会ってから一度も教授の死因は絞殺だとか扼殺だとか言ってないぞ。」
「それは言葉のアヤで…。」
「いい加減にしろ!少しでも罪が軽くなるように自供させようとしたがもういい。こっちには決定的な物証がある。あんたのDNAが教授の指に残っていた組織から見つかった皮膚片のDNAと一致したんだ。あんたを木下教授の殺害と死体遺棄で逮捕する!!」
「なんで私のDNAがわかるんですか!?」
「匿名の情報提供者がいたんだ。」
綾瀬は加賀に手錠をかけた。加賀は綾瀬と両サイドを押さえていた蜂須賀、竹田を振り切り、机のペン立てにあったカッターナイフを手に取り自らの首を切ろうとしたが、綾瀬がカッターナイフを握りこんで阻止した。
「自分の罪から逃げるな!」
「はあ!?どうせ生きてたって死刑でしょう?だったら自分で死んでやる!それが罪の償いよ!」
自棄になっている加賀だったが、綾瀬は加賀の手からカッターナイフを奪い取って続けた。
「いいか?俺は死刑には反対だ。これは俺の持論だが極刑ってのはずっと牢屋に閉じ込めておくことをいうんだ。本人にとっちゃ自殺は罪の償いになるんだろうが俺に言わせりゃそんなのは逃げだ!殺人犯には一生暗くて冷たい監獄の中で反省させる方が死刑よりずっといい。だからお前も、自分が犯した罪としっかり向き合って一生消えない十字架を背負い続けるんだ!逃げるなんて俺は許さない!!」
「彼女を連れていけ!」
蜂須賀に言われて竹田と女性警官が加賀を連行していった。綾瀬はカッターナイフを蜂須賀に渡したが、その掌はざっくり切れていた。
加賀が連行されたあと、綾瀬は奈緒から傷の手当てを受けていた。
「仮にも科学者、知識はあるのに焦って見落とした。地雷を踏んだな。これでよしっと。」
「イテッ!!傷口を叩くな!」
「戦士の勲章、ってか。」
「うるさい!」
「…でもカッコよかった。」
「ん?なんか言ったか?」
「別に?」
奈緒の言葉はあまりに小さく、綾瀬には聞こえていなかった。
庁内では不仲が噂される2人だが、この時の2人にはなんだかいいムードが漂っていた。
数ヶ月後ー。
綾瀬班のオフィスにて。
「今日蜂須賀は非番か?」
「はい。なんでも今日は小野さんとデートらしくて、昨日から張り切ってましたよ。」
「まったく…。」
本来自分が担当する事件の関係者とそういう関係を持つことは服務規程違反として処分の対象になるが、この件はもう解決済みだ。綾瀬も大目に見ることにした。
「ああ、そうそう。木下教授の研究ですが、例の混合液の割合がわかったそうですよ。」
「そうなのか?」
「教授の娘さんによると、教授は三種類あるものを3:2:1の分量で混ぜるとき数式を省略して物質名だけ3:2:1の順に書くのが楽だと言っていたそうです。研究ノートにはアセトン、コロイド、オルガネラの順に書いてあったのでその順に3:2:1で配合した薬液でラット実験をしたらノートにあったメモと同じ結果が得られたそうです。」
「それはよかった。」
「それで、ノートの最後に書き付けてあった“eternity”から取ってエタニティ細胞と名付けて小野さんと娘さんの連名で学会に論文を発表するそうですよ。」
論文が認められれば、人体による実証実験を経て実用化される未来もそう遠くはないだろう。木下教授の熱い思いは2人の娘たちへとしっかり受け継がれていた。
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