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第六話 吸血
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不可解な気持ちばかりが湧く。
フィンのそばにいるといつも。
落ち着いたり、安らいだり、あたたかい気持ちが湧いたり、そのくせひどく苦しくなったり苛立ったりして。
自分の胸の最奥にある感情の正体がわからないんだ。
リュシアンの来訪から数日が経った日、レンドーサは一人街を歩いていた。
空は宵闇に覆われている。天上に昇る青白い月が道を照らした。
「あれ、あんた。
神父さまのとこの」
不意に近くの酒場から出て来た中年の男に声をかけられ、レンドーサは足を止める。
「あんた、神父さまのとこの居候だろ?」
「ああ、…まあ」
「旅人だって聞いたが、行く当てはあるのかい?」
「えー、…ない、から、まあ、いる。
居候兼、用心棒的な…」
男がただの純粋な疑問で尋ねているのはわかったから、レンドーサはそう答えた。
この街の住民はフィンに対しひどく好意的で、それ故にフィンが教会に置いているレンドーサに対してもやさしい。
「そいつぁよかった。
神父さまになにかあったら一大事だからな。
こんな辺鄙な街でもたまに強盗とか出るしよ。
あんたが神父さまを守ってくれるなら安心だ」
男は安堵したように息を吐いて笑う。
「…慕われてんだな。
あのひと」
「そりゃそうだ。
この街の人間にとったら、あのひとが神様みたいなもんだ」
男は迷いのない口調で答えて、それから少し話すと去って行った。
レンドーサは道の途中に立ち止まったまま、フィンのあの侘しげな微笑を思い出す。
いくら慕われて感謝されていても、あのひとの孤独は埋められなかった。
あのひとのほんとうを、知らなかったから。
あのひとのほんとうを知って、それでもそばにいられるのは自分だけだと思っていた。
無意識のうちにでも、そう。
それがちがうかもしれないと思っただけで、ひどく苦しくなった。
なのに、フィンはそれを否定した。
それで安心出来るはずなのに、なぜか苦しい。
フィンを傷つけたようで、その胸にナイフを突き立てたかのように。
なんか、喉の辺りが苦しい。
喉元を締め上げられたように
せり上がってくるこの苦しさの正体を、自分は知らない。
はじめて味わうものだ。
リュシアンに会ったあの日からずっと苦しくて、フィンと二人で過ごすのも妙に息苦しくてこうして街に出てきた。
フィンから感じるあの甘い香り。そのたびに喉元が締め上げられたような心地になる。
彼の笑顔を見ると、以前は胸の辺りがあたたかくなったはずなのに、今はなぜか痛くて。
不意に意識に触れた感覚にレンドーサはバッと振り返る。
思案に沈んでいたから反応がわずかに遅れた。
いつの間にかそこに立っていたのは鮮血のような真紅の髪のうつくしい青年だ。
「やあ、久しぶり。
レンドーサ」
彼は誰もが見惚れるような麗しい微笑を浮かべて、親しげにレンドーサを呼んだ。
「…ファンティア?」
レンドーサは身体から力を抜くと、安堵の混じった声で彼を呼ぶ。
「…久しぶりだな。
なんでこんなとこに」
「いや、たまたま立ち寄っただけだったんだが、そうしたらおまえの気配がしたから」
黒いズボンとYシャツとジャケットを身に纏った姿は、その美貌と品のある佇まいも相まって貴族の子息のように見えるがそうでないことはよく知っている。
ファンティア。
レンドーサと同じ、悪魔だ。
もっともレンドーサと異なり、彼は吸血鬼ではないが。
レンドーサは周囲から寄せられる視線に気づいて、ファンティアに「ひとまず移動しようぜ」と言った。
こんな見目の整った目立つ男と話していたら注目されるに決まっている。
ファンティアは異を唱えることもなく、レンドーサについてきた。
そのまま二人で教会のほうに歩いて行きながら、ファンティアがレンドーサの顔を見て、
「しかし、ずいぶん顔色が良いね。
いつも餓え渇いて貧血気味だったおまえが」
とずっと気になっていた風に言った。
周囲に人の姿が見えなくなったことを確認してから口にしたのだろう。
人通りの多い道を過ぎて、教会に続く細道に行けばこの夜の時間帯、道を歩く人間などほぼいなくなる。
「…あー、まあ」
「もしかしておまえの口に合う血の持ち主がやっと現れたのかい?」
「………いねーよんなもん」
ファンティアは自分の古い友人のようなものだ。
当然、レンドーサの偏食体質も知っている。
レンドーサはなんと答えるべきかわからず、つい素っ気なく返した。
「なら、なんでそんな調子が良さそうなんだい?」
「それは…」
「レンくん?」
ファンティアの当然の疑問にレンドーサが返答に窮したときだ。
レンドーサを探しに来たのか、道の向こうに立っていたフィンがこちらを見て自分を呼んだので焦った。
「バッ、来んな…!」
「え」
反射的にフィンをかばうように、隠すようにその前に立つ。
フィンは戸惑ったものの、ファンティアが悪魔であることは気配でわかったのか口を閉じた。
それを見てファンティアはふっと優美に笑う。
「安心しろ。
レンドーサ。
おまえの大事な獲物にちょっかいを出すほどバカじゃないさ」
「ちげえよ」
思わずレンドーサの口からこぼれたドスの利いた声にファンティアが目を瞠る。
「獲物とか言うな」
ひどく怒ったような、殺気立った表情は精悍な顔立ちも相まって獣のように獰猛だ。
ファンティアは更に驚いたように目を丸くすると、ちいさく笑みを漏らして「それはすまない」と謝罪した。
「あなたはレンドーサの友人かな?
オレはファンティア。
彼の同胞のようなものだ」
「フィン・レンドフルール。
神父です。
…きみはレンドーサくんの友人のようですね。
ここで立ち話もなんですから、うちにいらっしゃいますか?」
おだやかな口調で自己紹介したファンティアに、フィンもゆるく口元をゆるませてそう返した。
レンドーサは「おい」と咎めるようにフィンに声をかけるが、フィンは「こんなところでする話じゃないでしょう?」とどこまでも落ち着いている。
フィンがひどく肝の据わった男だとは知っているが、レンドーサは心中穏やかではない。
「安心しろ。
レンドーサ。
彼にはなにもしない。
約束しよう」
はっきりと宣誓したファンティアに、レンドーサは苦虫をかみつぶしたような顔で黙り込む。
それは一応は容認の合図だったが、自分は納得していないという風でもあった。
ファンティアはそれを興味深そうに見つめる。
フィンだけが意に介していないように、いつものポーカーフェイスを保っていた。
教会に戻ると、フィンはキッチンのほうに行ってしまった。
リビングのソファに腰掛けたレンドーサは、向かいに座ったファンティアを見る。
「変わった人物だね。
普通悪魔を見れば嫌悪するか怯えるかするだろうに。
まして彼は悪魔祓いじゃないのかい?」
「わかんのか?」
「だって彼、“呪憑き”だろう?
なら悪魔祓いになるのが普通だ」
はっきり言ったファンティアにわずかに驚いた。
ファンティアには一目でわかるのか。
いや、ファンティアはレンドーサより高位の悪魔だし、ましてなんでも見通せる“眼”を持っている。
その“眼”を持ってすればすぐわかるだろう。
「しかし、驚いたよ」
「なにが?」
「おまえが人間と共に暮らしていることが。
最初、おまえはオレから彼を遠ざけようとしただろう。
それにオレを教会に───というより彼のそばにいさせたくないようだった。
オレの性格はよく知っているはずなのに。
それは彼の身を案じたからにほかならない」
「……………」
それは、そうだ。
ファンティアがむやみやたらに人間を襲うような悪魔じゃないとはよく知っている。
ましてレンドーサが守ろうとした相手を害するとも思えない。
けれどレンドーサは出来ればファンティアとフィンを会わせたくなかった。
それは結局、自分がフィンを案じたからにほかならない。
「それにオレが彼を“獲物”と言ったときのおまえの反応。
あれじゃあ、彼が大事な存在だと自白しているようなものだ」
「大事…」
「え?」
「…………そう、なのか?」
自分でも半信半疑だった。
でも自分の行動を振り返れば、そうとしか思えないのだ。
自分でも戸惑ったのは、今までそんな存在を作ったことがなかったからだ。
ファンティアのような悪魔の友人はいる。
けれどひとところに留まって、そばにいたいと思うような、すべての脅威から遠ざけて守りたいと思うような存在は、今までいなかったのだ。
ファンティアの言葉で再認識したように、無自覚だった感情を自覚したように、レンドーサは茫然としたようにファンティアを見る。
「…………おまえは、なんというか、…けっこう鈍いんだね」
ファンティアはややあって困ったようにそれだけ返した。
そのまま沈黙が落ちて数分経ったころだろうか。
足音が聞こえて、フィンがカップの載ったトレイを手に戻って来た。
紅茶の入ったカップをテーブルの上に置いて、ファンティアに微笑みかける。
「よければどうぞ。
悪魔でも嗜好品は口に出来ると、レンくんからうかがったのですが」
「…ああ、はい。
ただ、普通に悪魔に飲み物を振る舞う悪魔祓いに会うとは思っていなかったので」
「ああ、そうかもしれませんね」
ファンティアがやや戸惑っている理由を察したのか、フィンはくす、と上品に笑う。
「でも、きみはレンくんのお友達なんでしょう?
なら、出来れば戦いたくはありません」
「…お友達、ですか。
まさか悪魔祓いからそう言われると思いませんでした」
ファンティアはなんだか興味深そうに微笑んでいる。
だがレンドーサの頭の中を巡るのはほかのことだ。
自分の友達だから戦いたくない、とフィンは言った。
じゃあ、フィンにとっての自分は?
無意識にでも願っていた。
自分がフィンの唯一の特別でいたいと。
リュシアンが現れたときに、フィンの理解者はほかにもいたんじゃないかという可能性に思いが至って、どろりと腹の奥底にどす黒い感情が澱んだ。
あのはじめて味わうような濁った感情の正体がわからない。
信頼している友人であるファンティアからもかばってしまうほどに、フィンを大事に想っている?
自分が?
「レンくん?」
自分の爪先を睨んだまま黙っているレンドーサを訝ったように、フィンが名を呼ぶ。
伸ばされた手に気づいて、思わず振り払ってしまった。
「あ」
すぐに我に返って、罪悪感が棘のように胸を刺す。
「…あ、悪い。
…今のは、その」
ダメだ。頭の中が真っ白になって、うまく言い訳が出来ない。
言い訳?なにを言い訳する気だ?
なんで自分は、フィンの手を振り払ったんだ?
「…あ、いえ。
急に触れてすみませんでした。
驚かせてしまいましたね」
フィンは気にしていないという風に笑うが、自分を気遣うようなその態度にますます胸がずきずきと痛んだ。
フィンが自分の行動をどう思うのか、それがひどく怖くなる。
こんな気持ちは、自分は知らない。
でもこの警報のように鼓動が騒ぐ、恐怖は最近も味わった。
リュシアンが来た日、フィンを詰問したときの。
自分だけが理解者じゃなかったのかとなじったあとに返ってきた、フィンのあきらめきったような言葉を聞いたとき。
あのさみしげな微笑みを見たときにも味わった。
その胸のやわい部分をナイフで切り裂いてしまったかのような、後悔に似た激しい痛み。
「それで、レンドーサがここに居候しているんですか?」
「ああ、はい。
行き倒れていたところを見つけまして」
「…失礼ですが、あなたは“呪憑き”でしょう?
レンドーサの体調が良さそうなのとなにか関係が?」
「まあ、私の力は他者に自分の生気を分けることが出来ますので」
「ああ、なるほど…」
頭上で響くファンティアとフィンの会話すらどこか遠くに聞こえる。
胸が痛い。
小一時間ほど話してファンティアが「宿に帰るよ」と言って教会を出たので門のほうまでレンドーサは追いかけて行った。
「おまえ、まだこの街にいるのか?」
「ああ、しばらくはね」
「…そうか」
「…レンドーサ」
安堵なのかよくわからない、複雑な感情のにじんだ声を漏らしたときだ。
ファンティアが不意にひそめた声でレンドーサを呼んだ。
「おまえは彼から生気をもらっているから体調が良いんだろう?
だが血を飲んでいない以上は、餓えはあるはずだ。
吸血衝動はあるのか?」
「…いや、…………わかんね」
本来なら、いくら生気を分けてもらっていようと喉の渇きが癒えるはずはない。
人間だって栄養分として野菜や動物の肉を食べているから飲み物を必要としないかと言ったらそんなことはないだろう。
「…オレ、今まで人間の血を美味いって思ったことがねえから、普通の吸血衝動ってのがどんなもんかもわかんなくなっちまって」
普通の吸血鬼ならば、餓えるはずだ。
だが、レンドーサは生まれてこの方、人間の血を美味しいと感じたことがない。
だからいつからか、吸血衝動がどんなものだったかすらわからなくなってしまった。
「なら、彼を見てなにか感じないか?」
「……………なんか、甘い香りがする」
「甘い香り?」
ファンティアなら知っているかもしれない。
そう思って、素直に答えた。
フィンから感じるあの甘い香りの正体を、フィンのそばにいると感じる、あの苦しさの理由を。
「ああ、すごく甘い、惹かれるような、香りが…。
日に日に強くなっていくみてーな。
でも、香水とかそんなもん、聖職者がつけるわけねーし。
それになんか、喉の辺りが苦しいみたいな気がして、最近それが、もっと強く…」
「レンドーサ。
おまえの感じているそれは…」
ファンティアがややまなじりをきつくして言いかけたときだ。
聞こえた靴音にファンティアが口を閉じる。
「レンくん。
…あ、お話中でしたか?」
フィンがなかなか戻らないレンドーサを気にして見に来たようだ。
彼はファンティアの姿を見て、「お邪魔でしたか?」と申し訳なさそうに言う。
「…いや、もう帰ります」
「そうですか」
「フィンさん。
気をつけて」
「…はい?」
ファンティアはそれだけ言って歩き出した。
道を歩いて行くその後ろ姿を見送って、フィンは首をかしげる。
その祭服で覆われた白い首筋が目に入った瞬間に、どくんと心臓が大きく脈打った。
どくどくと鼓動が騒ぐ。警報みたいに。
その白い首から、目をそらせない。
時計の音がやけに響く。
ファンティアが帰ったあと、リビングのソファに座ったままレンドーサはやけに騒ぐ胸にひどく落ち着かない気持ちになっていた。
なんだろう。さっきからずっと、心臓が静まらない。
「レンくん」
思ったより近くで聞こえたフィンの声にバッと身を引いてしまう。
すぐ我に返ったが、フィンはそんなレンドーサの反応を見てわずかに傷ついたように瞳を揺らした。
それを目にしてずきりと胸が痛む。
「あの、…私、なにかしてしまいましたか?」
「…いや、その」
自分でも理由がわからない。なのにやけに後ろめたくなって目をそらした。
まるで幼子がなにかを隠そうとするように。その隠したいものの正体すらわからないくせに。
「…なにか、言われましたか?」
どきりした。
あの、ファンティアとの会話を聞かれたんじゃないかと思ったから。
「…私と一緒にいるのがおかしいと、言われましたか?」
「それはちがっ…!」
反射的に否定しかけ、フィンを見上げて呼吸が止まる。
祭服を脱いだフィンの今の服装は白いシャツとズボンだけだ。
そのあらわになった首筋に、視線が吸い寄せられる。
どくりと心臓が高鳴った。
喉元が締め上げられたように、焼け付くように、熱くて苦しい。
これは、この感覚は、
「…レンくん?」
心配したのか、伸ばされた手をフィンの手を無意識のうちに振り払おうと手を持ち上げた。
だが勢いがつきすぎて、シャツに覆われた腕と肩を鋭い爪先が傷つけてしまう。
服の上からだったため浅く皮膚を引っ掻いただけだったが。
フィンは驚いたように身をこわばらせ、限界まで開いた目でレンドーサを見る。
だがレンドーサはそれどころではなかった。
罪悪感も後悔も、その皮膚ににじんだ鮮血を目にした瞬間に消えた。
白い肌に赤い血が伝う。
それを見ただけですうっと理性が消えて、なにも考えられなくなった。
「レン」
レンくん、と名を呼ぼうとしたフィンの声が途切れたのは、獣のように飛びかかったレンドーサの腕によって壁に叩きつけられたからだ。
その痛みにちいさくうめいたフィンを、普段のレンドーサなら案じて謝っただろうに、今のレンドーサにはそんな思考すらなかった。
ただ飢えきった猛獣のように、衝動に支配されるままに、甘い蜜に誘われる虫のように、そのままフィンのまとっていたシャツを引き裂いてあらわになった白い首筋に牙を突き立てる。
フィンがびく、と身体を跳ねさせて、目を見開いた。
じゅう、と音を立ててその生き血を吸い上げる。
喉を潤した赤い蜜は、信じられないほどに甘かった。
「っあ、レン、っ」
フィンは最初なにが起こったかも理解出来ない様子で、ただ自分の身体を押さえつけて夢中で血を飲むレンドーサのたくましい腕に抱きしめられたまま、与えられる刺激に身を震わせる。
「っあ、いっ、…レン、く、…っん」
レンドーサが自分の血を勢いよく飲んでいるのがわかる。
身体を押さえつける力も強くて、抵抗すらなんの意味もなさない。
壁に押さえつけられたまま、喉を逸らして首筋に感じる熱い痛みにびくびくと身体を跳ねさせた。
なま暖かい血が首筋を伝う感触がやけにリアルだ。
まるで、夢のように信じられない出来事なのに。
レンドーサの腕を掴む指先も震えて、ただすがりつくような形になってしまう。
「レン、く、…っぁ、も…」
目眩がした。
血が足りなくなったのか、視界がぼやける。
瞳ににじんだ涙が、頬を一筋伝った。
レンドーサの手が、フィンのやや細い肩を抱きしめている。
「レ、ン、………く……………」
はあ、とか細い呼吸と共にこぼした声が途絶えて、フィンの身体が意識を失ってずる、とレンドーサの身体にもたれかかった。
それでレンドーサは我に返ったように、牙をフィンの首から引き抜くと意識を失ったフィンの身体を抱き留める。
「…あ」
レンドーサは自分で自分が信じられないと、腕の中に収まったフィンの身体を見下ろした。
「…フィン…?」
意識のないフィンの首筋には、深々と突き刺さった自分の牙の跡が残っている。
あふれて肌を伝う鮮血に、またくらりと目眩がした。
今、自分はなにをした?
理性すら失って、獣のように衝動的に、フィンの血を吸った。
フィンが立っていられなくなるほどに、意識を失うほどに。
信じられなかった。
口内に残った血の味は、はじめて感じるほどに、気が触れそうなほどに甘美だった。
静かな寝室にカチコチ、と時計の針の音が響く。
寝台の上に横たわったフィンの意識はまだ戻らない。
その首にはレンドーサが巻いた白い包帯。容赦なく牙を突き立てた傷跡は深く、数日は癒えないだろう。
一瞬、殺してしまったんじゃないかとおそろしくなったが、幸い致死量に達するほどは飲んでいなかったようだ。
それでも意識を失うほどの血をレンドーサが奪ったことに変わりはない。
あんな風に、夢中になって人の血を飲んだことはなかった。
いつだって苦痛を感じるほどに不味くて、食事をすることも嫌で、吸血衝動すら忘れるほどに偏食だったのに。
フィンの血は生まれてはじめて味わうような美味しい血だった。
今まで口にした人間の血が汚泥なら、フィンの血はまるで熟成された極上のワインのような味だ。
まるで甘露のように、一度口にしたら夢中になって際限なく求めてしまうような。
罰を受けると知りながらイヴが求めた、楽園の禁断の果実はきっとこんな味だろうかと思うほどに甘美な血だった。
あのフィンから感じていた甘い香りは、文字通り虫を蜜へと誘う花の芳香。
吸血衝動を促す、甘い血の香りだったのだ。
吸血衝動すら忘れていたレンドーサだったから、気づくのが遅れた。
「…どうして」
今までずっと、人間の血を不味いとしか感じて来なかったのに。
どうしてフィンの血だけが、あんな。
「…なにが、ですか?」
不意に響いたか細い声に息を呑む。バッと寝台の上に目を向けると、ゆっくりとフィンのまぶたが開いた。
「フィン…」
名を呼んで、すぐになにを言えばいいのかわからなくなった。
怖くなった。
夢中で彼の血を奪った自分を、フィンがおそれるのではないかと不安になったから。
「…そんな顔、しないでください。
怒ってませんよ」
フィンは起き上がらないまま、レンドーサの泣き出しそうな顔を見上げて微笑んだ。
そのやさしい笑みにわずかに安堵して、それでも疑問も不安も消えなかった。
「…ただ不思議で」
「…不思議?」
「きみ、今まで誰かの血を美味しいと思ったこと、なかったんでしょう…?
じゃあ、私の血は?
まずいと思ってるなら、私が倒れるまで夢中で飲まないと思って…」
フィンの問いかけに、レンドーサ自身わからなくて返答に窮する。
けれど、自分のわかることだけは、ちゃんと話さなくてはならないと思った。
「…びっくり、したんだ。
あんたの血が、信じられないくらい美味くて、夢中になって。
こんなこと、生まれてはじめてだった。
あんたと一緒にいると、なんか変な感覚になって…。
オレはずっと人間の血をまずいと思ってたから、吸血衝動なんて感じたことはもうずいぶん長い間なくて。
だから最近、あんたがそばにいると感じる苦しさや不可解な感覚が、あんたの血を飲みたいっていう吸血衝動だってすぐ気づけなかった…」
「私を避けていたのは、きみ自身がわからなくて戸惑っていたからですか…?」
「…ああ」
怖かった。フィンがこれで、自分を忌避するようになったらと。
なのにフィンはまだ貧血でやや苦しげにしながらも、安堵したように表情をゆるませた。
「…なんだ。
よかった」
そう、心底安心したように言うから戸惑った。
「…だけ?」
「え?」
「…それだけ、か?
あんた。
オレ、あんたの血を飲んだんだぜ?
あんたの意思も無視して、無理矢理に、あんたが立っていられなくなるまで。
オレは、あんたを襲ったんだぞ?
ほかの悪魔みてーに、自分の欲求のままに、なのに、なんで」
フィンに疎まれたくない。怖かった。なのに、まるで罪過に急かされるように問い詰めていた。
罰を望むように、責められたいというように。
「…さっき言ったじゃないですか。
怒りませんよって」
なのにフィンはおだやかな表情で言って、どうにか寝台の上に起き上がる。
気だるそうにしながらも、真っ直ぐにレンドーサの瞳を見つめるとその頬に手を添えた。
ひやりとした指の感触に、レンドーサがかすかに身を震わせる。
「…私が叱るまでもなく、そんなひどく傷ついて自分を責めている顔をしている相手を、どうして咎められますか」
そう、なにも変わらない、慈しむようなまなざしがそこにあった。
「私は、きみが私を嫌って避けていたわけじゃないなら、それでいいんです」
「そんなわけねえだろ。
オレが…っ」
フィンも不安だったのだと、自分に嫌われたんじゃないかとおそれていたと知って、じわりと胸にわき上がったのは甘く切ない痛みだ。
もっと欲しくなるような、不思議な感覚は、恋しさに似ていた。
レンドーサは頬に当てられたフィンの手をきつく握って、泣きそうに顔をくしゃりとゆがめる。
「…オレが、あんたを嫌いになるかよ」
その声も泣くように震えていた。
「…なら、いいんです」
フィンはまだ少し青ざめた顔のまま、ほっとまなじりをゆるませる。
「私の気持ちは変わっていません。
きみと、もっと話していたい」
『あのひとが神様みたいなもんだ』
ほんとうに、神様みたいだ。
そうやって、ぜんぶ許してくれる。
自分の存在も、なにもかも。
もう堪えられなくて、衝動的にフィンの肩を抱き寄せて、腕の中に閉じ込めた。
それでもフィンは逃げずに、レンドーサの胸元にそっと頬を寄せる。
その心を自分に委ねるような姿に、泣きたいくらいにうれしくなった。
ああ、そうだ。そうだった。
リュシアンが来た日、自分の言葉で彼を傷つけたときも。
その手を振り払ってしまったときも。
ほんとうはこうしたかったんだ。
傷口をそっと手で覆うように、守るように、慈しむように、失わないようにして。
ただこうして、抱きすくめて腕の中に閉じ込めてしまいたかったんだ。
フィンのそばにいるといつも。
落ち着いたり、安らいだり、あたたかい気持ちが湧いたり、そのくせひどく苦しくなったり苛立ったりして。
自分の胸の最奥にある感情の正体がわからないんだ。
リュシアンの来訪から数日が経った日、レンドーサは一人街を歩いていた。
空は宵闇に覆われている。天上に昇る青白い月が道を照らした。
「あれ、あんた。
神父さまのとこの」
不意に近くの酒場から出て来た中年の男に声をかけられ、レンドーサは足を止める。
「あんた、神父さまのとこの居候だろ?」
「ああ、…まあ」
「旅人だって聞いたが、行く当てはあるのかい?」
「えー、…ない、から、まあ、いる。
居候兼、用心棒的な…」
男がただの純粋な疑問で尋ねているのはわかったから、レンドーサはそう答えた。
この街の住民はフィンに対しひどく好意的で、それ故にフィンが教会に置いているレンドーサに対してもやさしい。
「そいつぁよかった。
神父さまになにかあったら一大事だからな。
こんな辺鄙な街でもたまに強盗とか出るしよ。
あんたが神父さまを守ってくれるなら安心だ」
男は安堵したように息を吐いて笑う。
「…慕われてんだな。
あのひと」
「そりゃそうだ。
この街の人間にとったら、あのひとが神様みたいなもんだ」
男は迷いのない口調で答えて、それから少し話すと去って行った。
レンドーサは道の途中に立ち止まったまま、フィンのあの侘しげな微笑を思い出す。
いくら慕われて感謝されていても、あのひとの孤独は埋められなかった。
あのひとのほんとうを、知らなかったから。
あのひとのほんとうを知って、それでもそばにいられるのは自分だけだと思っていた。
無意識のうちにでも、そう。
それがちがうかもしれないと思っただけで、ひどく苦しくなった。
なのに、フィンはそれを否定した。
それで安心出来るはずなのに、なぜか苦しい。
フィンを傷つけたようで、その胸にナイフを突き立てたかのように。
なんか、喉の辺りが苦しい。
喉元を締め上げられたように
せり上がってくるこの苦しさの正体を、自分は知らない。
はじめて味わうものだ。
リュシアンに会ったあの日からずっと苦しくて、フィンと二人で過ごすのも妙に息苦しくてこうして街に出てきた。
フィンから感じるあの甘い香り。そのたびに喉元が締め上げられたような心地になる。
彼の笑顔を見ると、以前は胸の辺りがあたたかくなったはずなのに、今はなぜか痛くて。
不意に意識に触れた感覚にレンドーサはバッと振り返る。
思案に沈んでいたから反応がわずかに遅れた。
いつの間にかそこに立っていたのは鮮血のような真紅の髪のうつくしい青年だ。
「やあ、久しぶり。
レンドーサ」
彼は誰もが見惚れるような麗しい微笑を浮かべて、親しげにレンドーサを呼んだ。
「…ファンティア?」
レンドーサは身体から力を抜くと、安堵の混じった声で彼を呼ぶ。
「…久しぶりだな。
なんでこんなとこに」
「いや、たまたま立ち寄っただけだったんだが、そうしたらおまえの気配がしたから」
黒いズボンとYシャツとジャケットを身に纏った姿は、その美貌と品のある佇まいも相まって貴族の子息のように見えるがそうでないことはよく知っている。
ファンティア。
レンドーサと同じ、悪魔だ。
もっともレンドーサと異なり、彼は吸血鬼ではないが。
レンドーサは周囲から寄せられる視線に気づいて、ファンティアに「ひとまず移動しようぜ」と言った。
こんな見目の整った目立つ男と話していたら注目されるに決まっている。
ファンティアは異を唱えることもなく、レンドーサについてきた。
そのまま二人で教会のほうに歩いて行きながら、ファンティアがレンドーサの顔を見て、
「しかし、ずいぶん顔色が良いね。
いつも餓え渇いて貧血気味だったおまえが」
とずっと気になっていた風に言った。
周囲に人の姿が見えなくなったことを確認してから口にしたのだろう。
人通りの多い道を過ぎて、教会に続く細道に行けばこの夜の時間帯、道を歩く人間などほぼいなくなる。
「…あー、まあ」
「もしかしておまえの口に合う血の持ち主がやっと現れたのかい?」
「………いねーよんなもん」
ファンティアは自分の古い友人のようなものだ。
当然、レンドーサの偏食体質も知っている。
レンドーサはなんと答えるべきかわからず、つい素っ気なく返した。
「なら、なんでそんな調子が良さそうなんだい?」
「それは…」
「レンくん?」
ファンティアの当然の疑問にレンドーサが返答に窮したときだ。
レンドーサを探しに来たのか、道の向こうに立っていたフィンがこちらを見て自分を呼んだので焦った。
「バッ、来んな…!」
「え」
反射的にフィンをかばうように、隠すようにその前に立つ。
フィンは戸惑ったものの、ファンティアが悪魔であることは気配でわかったのか口を閉じた。
それを見てファンティアはふっと優美に笑う。
「安心しろ。
レンドーサ。
おまえの大事な獲物にちょっかいを出すほどバカじゃないさ」
「ちげえよ」
思わずレンドーサの口からこぼれたドスの利いた声にファンティアが目を瞠る。
「獲物とか言うな」
ひどく怒ったような、殺気立った表情は精悍な顔立ちも相まって獣のように獰猛だ。
ファンティアは更に驚いたように目を丸くすると、ちいさく笑みを漏らして「それはすまない」と謝罪した。
「あなたはレンドーサの友人かな?
オレはファンティア。
彼の同胞のようなものだ」
「フィン・レンドフルール。
神父です。
…きみはレンドーサくんの友人のようですね。
ここで立ち話もなんですから、うちにいらっしゃいますか?」
おだやかな口調で自己紹介したファンティアに、フィンもゆるく口元をゆるませてそう返した。
レンドーサは「おい」と咎めるようにフィンに声をかけるが、フィンは「こんなところでする話じゃないでしょう?」とどこまでも落ち着いている。
フィンがひどく肝の据わった男だとは知っているが、レンドーサは心中穏やかではない。
「安心しろ。
レンドーサ。
彼にはなにもしない。
約束しよう」
はっきりと宣誓したファンティアに、レンドーサは苦虫をかみつぶしたような顔で黙り込む。
それは一応は容認の合図だったが、自分は納得していないという風でもあった。
ファンティアはそれを興味深そうに見つめる。
フィンだけが意に介していないように、いつものポーカーフェイスを保っていた。
教会に戻ると、フィンはキッチンのほうに行ってしまった。
リビングのソファに腰掛けたレンドーサは、向かいに座ったファンティアを見る。
「変わった人物だね。
普通悪魔を見れば嫌悪するか怯えるかするだろうに。
まして彼は悪魔祓いじゃないのかい?」
「わかんのか?」
「だって彼、“呪憑き”だろう?
なら悪魔祓いになるのが普通だ」
はっきり言ったファンティアにわずかに驚いた。
ファンティアには一目でわかるのか。
いや、ファンティアはレンドーサより高位の悪魔だし、ましてなんでも見通せる“眼”を持っている。
その“眼”を持ってすればすぐわかるだろう。
「しかし、驚いたよ」
「なにが?」
「おまえが人間と共に暮らしていることが。
最初、おまえはオレから彼を遠ざけようとしただろう。
それにオレを教会に───というより彼のそばにいさせたくないようだった。
オレの性格はよく知っているはずなのに。
それは彼の身を案じたからにほかならない」
「……………」
それは、そうだ。
ファンティアがむやみやたらに人間を襲うような悪魔じゃないとはよく知っている。
ましてレンドーサが守ろうとした相手を害するとも思えない。
けれどレンドーサは出来ればファンティアとフィンを会わせたくなかった。
それは結局、自分がフィンを案じたからにほかならない。
「それにオレが彼を“獲物”と言ったときのおまえの反応。
あれじゃあ、彼が大事な存在だと自白しているようなものだ」
「大事…」
「え?」
「…………そう、なのか?」
自分でも半信半疑だった。
でも自分の行動を振り返れば、そうとしか思えないのだ。
自分でも戸惑ったのは、今までそんな存在を作ったことがなかったからだ。
ファンティアのような悪魔の友人はいる。
けれどひとところに留まって、そばにいたいと思うような、すべての脅威から遠ざけて守りたいと思うような存在は、今までいなかったのだ。
ファンティアの言葉で再認識したように、無自覚だった感情を自覚したように、レンドーサは茫然としたようにファンティアを見る。
「…………おまえは、なんというか、…けっこう鈍いんだね」
ファンティアはややあって困ったようにそれだけ返した。
そのまま沈黙が落ちて数分経ったころだろうか。
足音が聞こえて、フィンがカップの載ったトレイを手に戻って来た。
紅茶の入ったカップをテーブルの上に置いて、ファンティアに微笑みかける。
「よければどうぞ。
悪魔でも嗜好品は口に出来ると、レンくんからうかがったのですが」
「…ああ、はい。
ただ、普通に悪魔に飲み物を振る舞う悪魔祓いに会うとは思っていなかったので」
「ああ、そうかもしれませんね」
ファンティアがやや戸惑っている理由を察したのか、フィンはくす、と上品に笑う。
「でも、きみはレンくんのお友達なんでしょう?
なら、出来れば戦いたくはありません」
「…お友達、ですか。
まさか悪魔祓いからそう言われると思いませんでした」
ファンティアはなんだか興味深そうに微笑んでいる。
だがレンドーサの頭の中を巡るのはほかのことだ。
自分の友達だから戦いたくない、とフィンは言った。
じゃあ、フィンにとっての自分は?
無意識にでも願っていた。
自分がフィンの唯一の特別でいたいと。
リュシアンが現れたときに、フィンの理解者はほかにもいたんじゃないかという可能性に思いが至って、どろりと腹の奥底にどす黒い感情が澱んだ。
あのはじめて味わうような濁った感情の正体がわからない。
信頼している友人であるファンティアからもかばってしまうほどに、フィンを大事に想っている?
自分が?
「レンくん?」
自分の爪先を睨んだまま黙っているレンドーサを訝ったように、フィンが名を呼ぶ。
伸ばされた手に気づいて、思わず振り払ってしまった。
「あ」
すぐに我に返って、罪悪感が棘のように胸を刺す。
「…あ、悪い。
…今のは、その」
ダメだ。頭の中が真っ白になって、うまく言い訳が出来ない。
言い訳?なにを言い訳する気だ?
なんで自分は、フィンの手を振り払ったんだ?
「…あ、いえ。
急に触れてすみませんでした。
驚かせてしまいましたね」
フィンは気にしていないという風に笑うが、自分を気遣うようなその態度にますます胸がずきずきと痛んだ。
フィンが自分の行動をどう思うのか、それがひどく怖くなる。
こんな気持ちは、自分は知らない。
でもこの警報のように鼓動が騒ぐ、恐怖は最近も味わった。
リュシアンが来た日、フィンを詰問したときの。
自分だけが理解者じゃなかったのかとなじったあとに返ってきた、フィンのあきらめきったような言葉を聞いたとき。
あのさみしげな微笑みを見たときにも味わった。
その胸のやわい部分をナイフで切り裂いてしまったかのような、後悔に似た激しい痛み。
「それで、レンドーサがここに居候しているんですか?」
「ああ、はい。
行き倒れていたところを見つけまして」
「…失礼ですが、あなたは“呪憑き”でしょう?
レンドーサの体調が良さそうなのとなにか関係が?」
「まあ、私の力は他者に自分の生気を分けることが出来ますので」
「ああ、なるほど…」
頭上で響くファンティアとフィンの会話すらどこか遠くに聞こえる。
胸が痛い。
小一時間ほど話してファンティアが「宿に帰るよ」と言って教会を出たので門のほうまでレンドーサは追いかけて行った。
「おまえ、まだこの街にいるのか?」
「ああ、しばらくはね」
「…そうか」
「…レンドーサ」
安堵なのかよくわからない、複雑な感情のにじんだ声を漏らしたときだ。
ファンティアが不意にひそめた声でレンドーサを呼んだ。
「おまえは彼から生気をもらっているから体調が良いんだろう?
だが血を飲んでいない以上は、餓えはあるはずだ。
吸血衝動はあるのか?」
「…いや、…………わかんね」
本来なら、いくら生気を分けてもらっていようと喉の渇きが癒えるはずはない。
人間だって栄養分として野菜や動物の肉を食べているから飲み物を必要としないかと言ったらそんなことはないだろう。
「…オレ、今まで人間の血を美味いって思ったことがねえから、普通の吸血衝動ってのがどんなもんかもわかんなくなっちまって」
普通の吸血鬼ならば、餓えるはずだ。
だが、レンドーサは生まれてこの方、人間の血を美味しいと感じたことがない。
だからいつからか、吸血衝動がどんなものだったかすらわからなくなってしまった。
「なら、彼を見てなにか感じないか?」
「……………なんか、甘い香りがする」
「甘い香り?」
ファンティアなら知っているかもしれない。
そう思って、素直に答えた。
フィンから感じるあの甘い香りの正体を、フィンのそばにいると感じる、あの苦しさの理由を。
「ああ、すごく甘い、惹かれるような、香りが…。
日に日に強くなっていくみてーな。
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それになんか、喉の辺りが苦しいみたいな気がして、最近それが、もっと強く…」
「レンドーサ。
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ファンティアがややまなじりをきつくして言いかけたときだ。
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「レンくん。
…あ、お話中でしたか?」
フィンがなかなか戻らないレンドーサを気にして見に来たようだ。
彼はファンティアの姿を見て、「お邪魔でしたか?」と申し訳なさそうに言う。
「…いや、もう帰ります」
「そうですか」
「フィンさん。
気をつけて」
「…はい?」
ファンティアはそれだけ言って歩き出した。
道を歩いて行くその後ろ姿を見送って、フィンは首をかしげる。
その祭服で覆われた白い首筋が目に入った瞬間に、どくんと心臓が大きく脈打った。
どくどくと鼓動が騒ぐ。警報みたいに。
その白い首から、目をそらせない。
時計の音がやけに響く。
ファンティアが帰ったあと、リビングのソファに座ったままレンドーサはやけに騒ぐ胸にひどく落ち着かない気持ちになっていた。
なんだろう。さっきからずっと、心臓が静まらない。
「レンくん」
思ったより近くで聞こえたフィンの声にバッと身を引いてしまう。
すぐ我に返ったが、フィンはそんなレンドーサの反応を見てわずかに傷ついたように瞳を揺らした。
それを目にしてずきりと胸が痛む。
「あの、…私、なにかしてしまいましたか?」
「…いや、その」
自分でも理由がわからない。なのにやけに後ろめたくなって目をそらした。
まるで幼子がなにかを隠そうとするように。その隠したいものの正体すらわからないくせに。
「…なにか、言われましたか?」
どきりした。
あの、ファンティアとの会話を聞かれたんじゃないかと思ったから。
「…私と一緒にいるのがおかしいと、言われましたか?」
「それはちがっ…!」
反射的に否定しかけ、フィンを見上げて呼吸が止まる。
祭服を脱いだフィンの今の服装は白いシャツとズボンだけだ。
そのあらわになった首筋に、視線が吸い寄せられる。
どくりと心臓が高鳴った。
喉元が締め上げられたように、焼け付くように、熱くて苦しい。
これは、この感覚は、
「…レンくん?」
心配したのか、伸ばされた手をフィンの手を無意識のうちに振り払おうと手を持ち上げた。
だが勢いがつきすぎて、シャツに覆われた腕と肩を鋭い爪先が傷つけてしまう。
服の上からだったため浅く皮膚を引っ掻いただけだったが。
フィンは驚いたように身をこわばらせ、限界まで開いた目でレンドーサを見る。
だがレンドーサはそれどころではなかった。
罪悪感も後悔も、その皮膚ににじんだ鮮血を目にした瞬間に消えた。
白い肌に赤い血が伝う。
それを見ただけですうっと理性が消えて、なにも考えられなくなった。
「レン」
レンくん、と名を呼ぼうとしたフィンの声が途切れたのは、獣のように飛びかかったレンドーサの腕によって壁に叩きつけられたからだ。
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フィンがびく、と身体を跳ねさせて、目を見開いた。
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「っあ、レン、っ」
フィンは最初なにが起こったかも理解出来ない様子で、ただ自分の身体を押さえつけて夢中で血を飲むレンドーサのたくましい腕に抱きしめられたまま、与えられる刺激に身を震わせる。
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レンドーサの腕を掴む指先も震えて、ただすがりつくような形になってしまう。
「レン、く、…っぁ、も…」
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レンドーサの手が、フィンのやや細い肩を抱きしめている。
「レ、ン、………く……………」
はあ、とか細い呼吸と共にこぼした声が途絶えて、フィンの身体が意識を失ってずる、とレンドーサの身体にもたれかかった。
それでレンドーサは我に返ったように、牙をフィンの首から引き抜くと意識を失ったフィンの身体を抱き留める。
「…あ」
レンドーサは自分で自分が信じられないと、腕の中に収まったフィンの身体を見下ろした。
「…フィン…?」
意識のないフィンの首筋には、深々と突き刺さった自分の牙の跡が残っている。
あふれて肌を伝う鮮血に、またくらりと目眩がした。
今、自分はなにをした?
理性すら失って、獣のように衝動的に、フィンの血を吸った。
フィンが立っていられなくなるほどに、意識を失うほどに。
信じられなかった。
口内に残った血の味は、はじめて感じるほどに、気が触れそうなほどに甘美だった。
静かな寝室にカチコチ、と時計の針の音が響く。
寝台の上に横たわったフィンの意識はまだ戻らない。
その首にはレンドーサが巻いた白い包帯。容赦なく牙を突き立てた傷跡は深く、数日は癒えないだろう。
一瞬、殺してしまったんじゃないかとおそろしくなったが、幸い致死量に達するほどは飲んでいなかったようだ。
それでも意識を失うほどの血をレンドーサが奪ったことに変わりはない。
あんな風に、夢中になって人の血を飲んだことはなかった。
いつだって苦痛を感じるほどに不味くて、食事をすることも嫌で、吸血衝動すら忘れるほどに偏食だったのに。
フィンの血は生まれてはじめて味わうような美味しい血だった。
今まで口にした人間の血が汚泥なら、フィンの血はまるで熟成された極上のワインのような味だ。
まるで甘露のように、一度口にしたら夢中になって際限なく求めてしまうような。
罰を受けると知りながらイヴが求めた、楽園の禁断の果実はきっとこんな味だろうかと思うほどに甘美な血だった。
あのフィンから感じていた甘い香りは、文字通り虫を蜜へと誘う花の芳香。
吸血衝動を促す、甘い血の香りだったのだ。
吸血衝動すら忘れていたレンドーサだったから、気づくのが遅れた。
「…どうして」
今までずっと、人間の血を不味いとしか感じて来なかったのに。
どうしてフィンの血だけが、あんな。
「…なにが、ですか?」
不意に響いたか細い声に息を呑む。バッと寝台の上に目を向けると、ゆっくりとフィンのまぶたが開いた。
「フィン…」
名を呼んで、すぐになにを言えばいいのかわからなくなった。
怖くなった。
夢中で彼の血を奪った自分を、フィンがおそれるのではないかと不安になったから。
「…そんな顔、しないでください。
怒ってませんよ」
フィンは起き上がらないまま、レンドーサの泣き出しそうな顔を見上げて微笑んだ。
そのやさしい笑みにわずかに安堵して、それでも疑問も不安も消えなかった。
「…ただ不思議で」
「…不思議?」
「きみ、今まで誰かの血を美味しいと思ったこと、なかったんでしょう…?
じゃあ、私の血は?
まずいと思ってるなら、私が倒れるまで夢中で飲まないと思って…」
フィンの問いかけに、レンドーサ自身わからなくて返答に窮する。
けれど、自分のわかることだけは、ちゃんと話さなくてはならないと思った。
「…びっくり、したんだ。
あんたの血が、信じられないくらい美味くて、夢中になって。
こんなこと、生まれてはじめてだった。
あんたと一緒にいると、なんか変な感覚になって…。
オレはずっと人間の血をまずいと思ってたから、吸血衝動なんて感じたことはもうずいぶん長い間なくて。
だから最近、あんたがそばにいると感じる苦しさや不可解な感覚が、あんたの血を飲みたいっていう吸血衝動だってすぐ気づけなかった…」
「私を避けていたのは、きみ自身がわからなくて戸惑っていたからですか…?」
「…ああ」
怖かった。フィンがこれで、自分を忌避するようになったらと。
なのにフィンはまだ貧血でやや苦しげにしながらも、安堵したように表情をゆるませた。
「…なんだ。
よかった」
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「…さっき言ったじゃないですか。
怒りませんよって」
なのにフィンはおだやかな表情で言って、どうにか寝台の上に起き上がる。
気だるそうにしながらも、真っ直ぐにレンドーサの瞳を見つめるとその頬に手を添えた。
ひやりとした指の感触に、レンドーサがかすかに身を震わせる。
「…私が叱るまでもなく、そんなひどく傷ついて自分を責めている顔をしている相手を、どうして咎められますか」
そう、なにも変わらない、慈しむようなまなざしがそこにあった。
「私は、きみが私を嫌って避けていたわけじゃないなら、それでいいんです」
「そんなわけねえだろ。
オレが…っ」
フィンも不安だったのだと、自分に嫌われたんじゃないかとおそれていたと知って、じわりと胸にわき上がったのは甘く切ない痛みだ。
もっと欲しくなるような、不思議な感覚は、恋しさに似ていた。
レンドーサは頬に当てられたフィンの手をきつく握って、泣きそうに顔をくしゃりとゆがめる。
「…オレが、あんたを嫌いになるかよ」
その声も泣くように震えていた。
「…なら、いいんです」
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それでもフィンは逃げずに、レンドーサの胸元にそっと頬を寄せる。
その心を自分に委ねるような姿に、泣きたいくらいにうれしくなった。
ああ、そうだ。そうだった。
リュシアンが来た日、自分の言葉で彼を傷つけたときも。
その手を振り払ってしまったときも。
ほんとうはこうしたかったんだ。
傷口をそっと手で覆うように、守るように、慈しむように、失わないようにして。
ただこうして、抱きすくめて腕の中に閉じ込めてしまいたかったんだ。
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