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閑話休題 合縁奇縁
第一話 そういう力関係です
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朝、目覚めて一番に見るのは、一番大好きな人の顔。
感じるのは、愛しい人の髪の香り。
手に触れるのは、その人の温もり。
だから、幸せだ。
先に進みたい気持ちもあるけれど、恋人を怖がらせる性急な男にはなりたくない。
だから、今は白倉の傍にいられたらいい。
彼の居場所になれたら。
そして、彼の傍らが、自分の居場所になるならば。
吾妻は目覚まし時計をほとんど使わない。
白倉が同じ部屋で一緒に暮らしだしてからは余計だ。
大抵は、自力でも起きられるし、なにかあるときは白倉が起こしてくれる。
その日は休日で、することといったら間近に迫ったチーム戦の練習。
昼過ぎから練習の予定だったから、のんびりと寝ていた。
何度目かの覚醒で、吾妻は腕の中の寂しさに気づく。
寝台に伸ばした腕を枕にいつも眠っている白倉の姿がない。
時計を見ると、もう十時だった。
規則正しい生活を心がける白倉ならば、起きている時間だ。
しかし、腕の中に白倉がいない。その空虚感から目が覚めたらしく、吾妻は笑う。
いよいよ、白倉が居ないと生きられなくなってきている自分が、おかしかったり、愛しかったり。
寝台から降りて、リビングに向かう。
浴室の方から音がしたので、お風呂か、と安心した。
白倉が自分を置いて、出かけたりしないと知っているのに、少し不安だった。
リビングに置いてある冷蔵庫から、飲料水を取りだして半分くらい一気に飲む。
そのまま、リビングの椅子に腰掛けて、白倉が出てくるのを待った。
吾妻の格好はTシャツ一枚にハーフパンツだ。
気温は毎日高く、今年も猛暑。
寮の中は冷暖房完備だが、あまり冷房は身体にいいものではないし、外に出れば暑い。
浴室の扉が開く音がした。
ぺたぺたと素足が床を歩く音がして、吾妻は緊張する。
理由は、白倉が割と天然魔性で、思いがけない際どい格好で出てきて部屋をうろつく場合もあったからだ。
今日はマシな格好でありますように。
もう昼だが、起きたばっかりで刺激的な格好を拝むのはやばい。
「あ、吾妻。おはよう」
リビングに顔を見せた白倉が、吾妻を見て微笑んだ。
大変可愛らしい笑顔だが、吾妻はそれどころではない。
白倉の格好はハーフパンツ一枚。上半身は裸で、タオルをひっかけただけ。
「吾妻?」
吾妻は勢いよく後ろを向いて、鼻を押さえたので、白倉が首を傾げる。
「どうした?」
これが「ちゃんとなにが原因か理解している」なら、怒れるが、彼の場合ほとんど素だ。
タチが悪い。
「白倉…」
吾妻は口元を手で覆って、どうにか振り向く。
振り向いた瞬間、間近に来ていた白倉の上目遣いと小首傾げを目の当たりにし、慌ててまた顔を背けて、壁に手を突いてしまった。
「…吾妻?」
朝から大変眼福だとは思う。いい眺めだとは思う。
が、まだ一線を越えられない自分には、辛い。
刺激強すぎる。
「白倉」
「あ、はい」
吾妻は振り向かないまま、少しきつい口調を意識して呼んだ。
白倉が思わず返事をする。
「そんな格好で出てくるんじゃないよ。破廉恥だよ」
「え? だけど、男同士だし」
「男同士でも駄目だよ。特に、僕の前では」
「他のヤツならいいの?」
「もっと駄目!」
真剣に訴える吾妻は、白倉を振り向かないままだ。
白倉は向けられた吾妻の背中をじっと見て、そっと近寄る。
そして、気づかないくらい一杯一杯な吾妻の背中のシャツの裾を掴んで、ぺらり、と上の方までめくった。
「しらくらっ!?」
流石に気づいた吾妻が、ひっくり返った声を挙げる。
「な、な、なにしてるの…?」
震えた声で尋ねる癖に、振り返らないし、自分から逃げたりもしない。
自分に甘いなあ、と白倉は笑う。
「んー」
白倉は甘えた声を出し、吾妻の浅黒い背中にぴとり、と頬を寄せた。
吾妻の身体が大袈裟に震える。
「…吾妻の背中、逞しいなあ」
「…………む、村崎ほどじゃないよ?」
「見たことあるの?」
「シャワールームで…」
というか、身長では勝っているが、体格や筋肉では負けているのは、服の上からでもわかる。
吾妻はそう思うが、言えない。
白倉の柔らかい髪の毛が、頬が背中の皮膚に直に。それどころか、手が前に回ってむき出しの腹を撫でてるんだけど。
心臓はどきどきしっぱなしで、頭もパニックだ。
「なー、吾妻ー」
白倉は猫撫で声で吾妻を呼び、頬を裸の背中に擦り寄せた。
髪の毛が触れて、くすぐったい。というか、いっそもう抱かせて。我慢できない。
と、思うけど、やっぱり怖がらせたくないから、できない自分はヘタレかもしれない。
「キスマークつけていい?」
色っぽい声でそんなことを言うから、思わず頷きそうになって、吾妻は我に返った。
「は!? あ、え!?」
「驚きすぎ。吾妻はもう何度も俺につけたじゃん?
俺も吾妻の背中につけたい!」
「え、あ、え」
白倉は背中にくっついたまま、可愛く「いいだろ? な?」とお強請りしてる。
ああ、やっぱり、抱きたい。
でも、怖がらせたくない。
この状況は、天国なのか、地獄なのか。
ああ、でもやっぱり、ちょっと、幸せかもしれない。
「…どうぞ。お好きに…」
結局、吾妻は白倉に背中を向けたまま、そう返した。
その声は情けなくもあったし、嘆いてもいたが、最終的には幸せそうな響きだった。
白倉が幸せなら、俺も幸せ、的な。
白倉は背中を愛撫の手前の手つきで触り、唇を寄せる。
「そういえばなあ、吾妻は駄目って言ったけどー」
白倉はいくつかキスマークをつけて、時々「あ、薄い。ここは綺麗についた」とかもらしながら、不意に話し出した。
吾妻はもう白倉が幸せならなんでも来い、という悟りの境地で話を聴く。
「俺、前にこの格好で九生と時波と話してたことあった」
しかし、白倉がそんなことをカミングアウトしたので、吾妻は勢いよく白倉を振り返り、ぽかんとする白倉の肩を掴んだ。
「九生と、時波?
この格好で? どうして?」
両肩を掴んで、顔を近づけて、吾妻は問う。
ひどく恐ろしい顔つきだ。
「えーっと、流河の果たし状で騒いでた頃で、その話してて」
「…風呂上がりに、白倉の部屋で?」
九生は白倉と同室だ。
「俺が風呂入る前から、二人ともいたから、風呂入りながら会話してたの。
浴室の傍で」
白倉があっさり答えると、吾妻は「なんてことっ!」と白倉の肩を掴んだまま叫んだ。
「…吾妻?」
白倉は首を傾げる。
「白倉、着替えよう。
九生と時波のとこ行こう。もう二度と白倉の裸見ないよう言って来よう」
鬼気迫る表情で言って、白倉から離れ、クローゼットの扉を開いた吾妻の、少し裾がめくれたままの背中を見て、白倉は呟く。
「まだ吾妻は二人に勝ち目がないと思うんだけどなあ…」
NOA寮はキッチンも完備されているが、自炊する生徒は少ない。
食堂があるし、購買で買う生徒もいる。
だが、全く自炊する生徒がいないわけでもない。
たとえば、先日NOAに転校してきたばかりの藍澤涼太。
藍澤の部屋は106号室だ。
食卓に並んだ一人分の朝食は、自分で作ったものだ。
五枚は並んだ皿は綺麗に空になっている。
「しかし、一人は味気ないな…」
藍澤は呟いて、それから「明日から高尾たちを誘うか」などと考える。
その時、部屋のインターフォンが鳴って、藍澤は椅子から立ち上がった。
多分高尾たちだな、と思いながら、玄関の扉を開けると、高尾と村崎志津樹、それから二人の男がいた。
「高尾、村崎に、確か…」
「おはようございます藍澤さんっ!」
藍澤に元気よく挨拶をしたのは、高尾と志津樹だ。
その背後の二人は、確かZIONで見た二人だが、名前をよく覚えていなかった。
「藍澤さんのところに行くっていったら、一緒に行ってもいいかって。
あ、俺の兄の静流です」
志津樹が背後の似た面差しの男を示して言った。
「ああ、兄弟か。そういや村崎が言っていたものな」
藍澤は納得する。
「弟が世話になっとると訊いたから、一度挨拶すべきかと思ったんやが…。
休日にすまんな」
「いや、いいよ。
構わない。入ってくれ」
藍澤はうれしいよ、と朗らかに言い、五人を中に招いた。
「俺まで来てもうてごめんな」
たまたま村崎と一緒にいたから来ることになったらしい岩永が、すまなそうに言った。
藍澤の部屋のリビング。
岩永を見て、藍澤は笑う。
「いや、いい。
俺も興味があったんだ。珍しい吸収の能力者」
「…あんたには及ばんけど」
気さくな藍澤の態度に、岩永も笑みを浮かべた。
「さっき、ダイニング見たけど、自炊しとるん?」
「ああ、料理が好きでな。
よかったら今度食べに来てくれ」
藍澤の誘いに、岩永は、そのうち、と笑顔で頷いた。
「俺たちもいいっすか?」
「もちろんだ」
高尾と志津樹が藍澤の顔を見て尋ねたので、藍澤は大きく頷く。
「そういえば、志津樹くんたちの転入って」
岩永が志津樹たちの藍澤への懐きぶりを見ておおよそを察すると、藍澤が照れたように笑った。
「俺がなかなか頷かないから、吾妻に会うためだったらしくてな。
本当に、時波といい、みんなに世話になったよ。感謝してる」
「いえいえ、とんでもない!」
藍澤の優しい微笑みを見て、高尾は顔を赤くして手をぶんぶん横に振る。
「大体、藍澤さんのためって入学しといて、村崎なんか自分が『吾妻』とか呼ばれてたんですから!」
「高尾、それは言うなよ…」
高尾は志津樹を指さして、意味がわからず首をひねる藍澤に、事情を説明する。
「転入したその日に、会ったばっかの先輩に告白してんすから」
「高尾」
憧れの藍澤を前にして軽く緊張している高尾は、志津樹に強く名前を呼ばれて初めて、その場に「告白された先輩」もいることに気づいた。
「……えー、まあ、そういうことがあったんですよ。
それで、吾妻さんが、転入前日に生徒会長にプロポーズしてキレた生徒会長とバトルしたことがあったらしくて」
だから、吾妻二号って、と高尾は冷や汗をかきながら、無理矢理話題を転換しようと試みる。
藍澤は察しがよく、優しい人格の持ち主だ。
理解はできたらしい。
「吾妻のやつ、転入前日からそんなことやらかしてたのか…」
と、高尾の話題転換に素直に乗った。
「…生徒会長は白倉だから、…なんだ?
そこからどうなって今のバカップルになった?」
しかし、リアルタイムでカップル成立を見ていなかった藍澤は真剣にそこが疑問になったらしく、岩永と村崎を見て大真面目に尋ねた。
白倉と吾妻のバカップルっぷりはZIONと、ここ数日で目の当たりにしている。
「…あー、話せば長くなるんやけど、いろいろあったんや。
うん、いろいろ」
「そうやな。儂らも、吾妻はんが転校してきた時には、今がこうなっとるとは、思いもせぇへんかったな」
村崎の感慨深い呟きには、自分のことも含まれているとわかって、岩永は微かに頬が赤くなる。
そうだ。
吾妻が転校してきたころ。村崎は自分に冷たくて、自分もまさか村崎が振り向いてくれるなんて思いもしなかった。
本当に、いろいろなことがあったんだ。
「じゃあ、詳しく話を聴かせてもらってもいいか?
昼過ぎまでは暇だしな」
藍澤はテーブルの椅子を引いて、腰掛ける。
岩永たちや志津樹たちにも座るよう促して、そう言った。
岩永と村崎は顔を見合わせ、笑う。
「俺達の話せる範囲でええなら」
戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉-17号室。
戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉の外の廊下に表示されているパネルには「使用中・非戦闘中」とある。
このパネルは使用中か否か、また、戦闘中か否かを外の人間に知らせるものだ。
使用中でも「非戦闘」なら扉を開けて入っても問題はない。
この時期、「使用中」の戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉に来て、試合をその場で申し込む生徒も多いからだ。
もとより、戦闘中ならば厳重なロックが働いていて、開けられない。
17号室は、使っているチームがいる、が、戦闘中ではないということ。
そして、17号室のフィールドの中央には、使用しているチームの四人が顔を突き合わせていた。
なにやら、真剣な表情で。
「さて…そろそろ、決着つけようぜ?
土岐也、お前もいい加減悪あがきはやめるんだな」
そう言ったのは、久遠寒太。
赤い髪の三年生で、Aランク。
彼に会話の矛先を向けられたのは、チーム内で唯一二年生の赤目土岐也だ。
「久遠先輩こそ、吠え面かかせてやりますよ。
大体、今までだってかーなり苦し紛れだったでしょ?」
「なんだと?
お前こそ、同じ手ばっか出しやがって、馬鹿だろ」
「俺よりちっさい人に言われたくありません!」
赤目が久遠を睨んで言い切る。すぐに久遠に頭を叩かれた。
「やめたまえ。久遠くん。
これはケンカではありませんよ」
向かいに立っているのは同じチームの山居伊砂。
眼鏡を押し上げて、軽くため息を吐く。
「山居、なに涼しい顔しとるんじゃ?
今度こそ決着はつけさせてもらうけん、覚悟しんしゃい」
「それは九生くんの方かと」
山居の隣に立っている九生柳。
このチームのリーダーであり、唯一のSランクだ。
「でかい口叩けるんも今のうちぜよ。
久遠も土岐也も、いい加減諦めんしゃい」
「誰が!」
「勝負なら受けて立つところっす!」
久遠と赤目が揃って叫んだ。
九生は息を吐き、三人の顔を見渡す。
「そんじゃ、行くぜ…」
九生の言葉に、三人全員が構える。
「せーの……」
息を呑んで、互いの顔を真剣に見つめ合って。
「最初はグー! じゃんけんぽんっ!!」
四人の声が見事に唱和した。
同時に手が四本出される。
四人全員、出した手は、開いた手の平。つまり「パー」。
「…うあーっ!! またあいこかよっ!」
「誰一人抜けねぇってどういうことっすか!?」
「俺が知るかよ!」
あいこだとわかった瞬間、久遠は頭を抱えて叫び、赤目は九生を睨んで問いを発し、九生は喧嘩腰に言い返す。
「…普通、誰か一人負けるなり勝つなりして抜けるはずなんですけどね。
四人もいたら」
山居はため息を吐いて、疲れの滲んだ声で呟く。
「これでじゃんけん、20回目ですよ?
異常じゃないっすか!?
なんで四人全員あいこが続くんです?」
「いや、私に訊かれても」
赤目が今度は山居に問いを向けたので、山居は首を横に振った。
「まさかとは思いますが、九生くん。なにかしてませんよね?」
「やって俺が得するんか?」
「…しませんね」
山居が投げた「脳に干渉をしてあいこを連続させてないか」という問いは、山居本人が投げやりだった。
山居も涼しい顔をしていて疲れているらしい。苛ついてもいるようだ。
「…あの、私が買ってきますよ。
もうこの際、外が暑いのも諦めます。いいですから」
「えー、でもなんか納得いかなくないですか?
決着つけたくないですか?」
「…私は正直、もうお腹一杯です」
山居は赤目の意見に、勘弁してくれ、と言いたげな口調で答える。
発端は「休憩中に食べるアイスを誰か買ってくるか」だった。
アイスはNOA施設内の売店にも売っているし、まだ夏休みではないから売店は営業中だ。
しかし、この猛暑に加えて、チーム戦間近で戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉やトレーニングルームで生徒達がひっきりなしに練習している時期。
たまに、売店が在庫切れを起こす。
売店は学園の売店としてはかなり広く、スーパー並の品揃えはあるのだが、やはり全校生徒数が半端ないのだ。
先ほど、売店のアイスが在庫切れになり、今は補充中だと聴いた。
そこで、このチームは暑い外に出て、一番近くのコンビニまで誰が買い物に行くか、じゃんけんで決めよう、ということになったのだが、決着がおかしいくらいつかない。
「…あー、じゃあ、俺も一緒に行くわ」
九生が手を挙げる。
「いいんですか? アイス四つですし、私一人で大丈夫ですよ」
「いや、なんか悪い気がする…」
「そうですか…」
九生も、じゃんけんの最中は競争心が刺激されていたが、頭が冷えると山居への労りが沸く。
一人で行かせるのは、なんか悪いし、気になる。
「じゃあ、二人で行きますか」
「そうしようぜ。決まり」
山居と九生は顔を見合わせて、笑い合う。
不完全燃焼なのは久遠と赤目で、まだ勝負し足りない顔をしていた。
その時、戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉の扉が開いて、一人の男が顔を覗かせた。
「ああ、ちょうどよかった。
九生たちだったんだ、ここ」
輝かしい笑顔を浮かべて中に足を踏み入れたのは、化野朔螺。
文句無しの最強格。というか、某人物いわくジョーカー。
九生と山居、久遠と赤目は揃って顔が引きつった。青ざめた。
魔王降臨……!!!
思ったことも、全員同じ。
「俺達のチーム、練習相手探してるんだ。
よかったら相手してよ」
やっぱり。違う用事だったらまだ快く迎えたのに。
「…あー、俺ら今からアイス買いに行くんだよ」
「そうなんですよ! ちょっと外のコンビニまで!」
さっきまで不完全燃焼な顔で譲らなかった久遠と赤目が、笑みを浮かべて言う。
ちょっと引きつった笑顔だ。
「外? 売店で買えばすぐじゃない」
「売り切れだって。知らない?」
化野は首を傾げる。
「さっき、新しい在庫が入ったって訊いたよ?」
その瞬間、久遠と赤目は売店に出入りしている業者の配達の素早さに殺意を抱いた。
「だから、ちゃっちゃっと買って、ちゃっちゃと試合しよう?」
「…や、どのみち休憩する気じゃから。
もう体力とエネルギーがないしの」
「そうなんです」
九生と山居が笑って言えば、化野は「そう?」と少し不満そうだ。
扉がまた開いて、化野と同チームの生徒が二人入ってきた。
「朔螺。無理強いはするな」
雪代が化野の肩に手をかけ、やんわりと言う。
「だけど」
「お前、死にかけの魚と戦って楽しいか?」
「…んー」
「言い訳ひどいなおい」
雪代の言葉に、化野はやっと諦めの言葉を漏らしかけたが、その言葉が聞き捨てならなかった九生が思わずつっこんだ。
いくらなんでも死にかけじゃない。まだ戦える。
という意気だったが、雪代が哀れみと「アホだな」という感情を込めた視線を向けてきたので、我に返った。
「ってことは、まだ戦えるんだろ? 九生。
じゃあやろう!」
化野は一転笑みを浮かべて手を叩く。
九生は自分を罵った。背後から注がれる久遠や赤目、山居の視線が痛い。
俺のアホ。聞き捨てならなくても聞き流していれば助かったのに。
というか、化野はあれくらいの調子で言わないと聞き分けないんだった。俺の馬鹿。
赤目はその場にしゃがみ込んで、山居は疲れた様子だ。
最早化野からは逃げられないのだから、腹はくくろう。でもやっぱり嫌だ、という気分。
そこで、不意に雪代がスマートフォンを取りだして、受信したラインを見る。
「朔螺」
「うん?」
化野の肩を叩いて、扉の方を指さした。
「隣の18号室で、桜賀たちが練習しているらしい」
桜賀とは、雪代の幼馴染みの瀬生桜賀。
同じ一組の生徒だ。
化野がぴくりと反応した。動物なら耳と尻尾がたっただろう。
「瀬生のチームって、」
「七倉と東宮がいる」
「試合申し込みに行こう!
九生、また今度試合しようか」
化野はぱっと顔を輝かせて言い、九生を振り返った。
九生は笑顔を浮かべて手を振る。
「そうじゃの。いや、残念じゃ」
「そうだね。残念。
じゃ、俺たち行くね!」
化野はだよだよ、と手を振って足早に戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉を出ていった。
雪代と若松が「騒がせたな」と謝って後を追う。
桑原も微かにホッとしたらしく、息を吐いて扉から外に出た。
扉が閉まる。
九生と山居、久遠と赤目は大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。
「九死に一生を得た…っ!」
「命拾いした…って、なんで友人相手に思うんだろーな…?
化野くんは友だちなんだけどな…」
「…まあ、あの人が相手ではしかたありませんよ」
「まだ体力が万全ならわからんかったが…」
少なくとも今の疲労した状態では絶対勝てない、と九生は言う。
他の三人も、ゆっくり頷いた。
「…で、アイス買いに行くか?」
「…行きますか」
「俺も行きます」
「俺も」
四人は顔を見合わせて、頷いた。
藍澤に大体の事情を話し終えたところで、インターフォンが鳴った。
あれから一時間経った。
それだけ話すことがあったのだ。かいつまんでも。
藍澤が椅子から立ち上がって、玄関に足を向けた。
「吾妻かな?」
岩永が妥当な予想を立ててみると、藍澤は足を一旦止めて、「いいや、それはない」とやけにはっきりと断言した。
確信を持った声に、岩永だけではなく、その場の藍澤以外が怪訝な顔をした。
扉はまだ閉まったままで、藍澤はリビングにいる。わかるはずがないが。
藍澤は肩越しに岩永達を振り返り、
「あいつが俺相手にインターフォンを鳴らすわけがないからだ」
と言い切って、玄関に向かった。
訊けば納得の理由に、岩永も村崎も苦笑するしかない。
「ああ、確かに鳴らさず扉開けそー吾妻…」
「それだけお互いの絆が深いともとれるがな」
「まあ」
岩永が感心して呟くと、村崎がのんびりと言葉を重ねた。
藍澤は玄関で足を止めると、扉を開ける。
そこには藍澤の断言通り、吾妻ではなく時波がいた。一人のようだ。
「時波」
藍澤は靴を履いて廊下に出て、時波の正面に立つ。
「わざわざ来てくれたのか?」
「わざわざ、という距離でもないが」
「そりゃそうだが」
時波も最上階の人間だ。わざわざ、と形容する距離ではない。
だが休日に、昼過ぎからチームの練習があるから会うのに、今わざわざ会いに来てくれた、と思えるのだ。
嬉しいからこそ。
藍澤は微笑んで、「用事があるんだよな?」と尋ねた。
「藍澤は、この街のことは詳しく知っているのか?
なにがどこにあるか、とか」
時波はゆったりとした口調で訊く。
藍澤は首を横に振った。
「いや、全然だ。
特に四月のあとは……吾妻に会わないようにしていたし」
藍澤は苦笑して言う。
吾妻がNOAに入学したあとは、吾妻に会うのが怖くて、この街自体に近づかないようにしていた。
「なら、練習のあとに街を散策しないか?
案内しようと思って」
「いいのか? 練習後は疲れてるだろ?」
「それは俺の台詞なんだが」
藍澤にとっては願ってもない。
吾妻に頼む選択肢は端からない。理由は、吾妻は猫がよくいる場所とかは知っていても料理のうまい店や品揃えのいい書店などは知らないだろうからだ。
時波はくすぐったそうに笑う。
「こちらこそ、押しつけがましくないかと」
「とんでもない。有り難いよ!
助かる」
「…ならよかった」
藍澤が笑みを浮かべて大きく頷くと、時波はホッとして口元を綻ばせた。
誰が来たのか気になって覗きに来た岩永と高尾が、顔を部屋に引っ込める。
岩永的には「珍しいものを見た」だ。
あの時波が、あんな風に年頃の少年らしく藍澤の言動に一喜一憂している。
白倉や九生絡みでないと表情も硬い時波を知っているからびっくりだ。
「…まあ、あの時波が吾妻との仲をとりもった時点で特別な相手ってことやんな…」
恋愛ではないだろうが、相当絆が深そうだ、と岩永は思う。
高尾は純粋に、「やっぱり藍澤さんってすげぇ」と思っていた。
時波がすごい人なのはなんとなくわかったからこそ、そんな人に慕われているっぽい藍澤はやっぱりすごい。
しかし、二人は不意に「ん?」と思って、また扉から外を覗いた。
藍澤が「なんだこいつ」と言いたげな顔をして、廊下の向こうを見ている。
廊下にはいつの間に来たのか吾妻の姿。後ろの方に、苦笑している白倉の姿。
「時波、話がある」
「いいぞ。聴こう」
どうも藍澤ではなく時波に用事らしい。
時波は腕を組んで、堂々とした佇まいで吾妻の言葉を待つ。
「……ここで?」
「当たり前だろう? お前の用事に俺を付き合わせる気か?」
吾妻は「ちょっとここじゃ…」と躊躇ったが、時波は吾妻のために都合のいい場所に移動してやる気はないらしい。間髪入れない。
「…白倉絡みだよ?」
吾妻が困り果てて、切り札のようにその名前を出すと、時波は白倉の方を見て、
「白倉。お前は困るか?」
と尋ねた。白倉は笑って、首を横に振る。
「や、別に全く」
そう答えた。
吾妻がショックを受ける。岩永と高尾からはなんでショックを受けるかわからない。
「…………白倉、が、風呂あがりに、時波達と話してたことがあるって」
「それのなにが悪いんだ?」
「上半身裸だっただろ!?」
吾妻は恥ずかしいのか、真っ赤になってヤケのように叫んだ。
時波は呆れた表情を浮かべ、
「それで困るのは、白倉にいやらしい気持ちを抱いているヤツだけだ。
俺達は白倉を妹のように愛しているからな。そんなふしだらな気持ちを抱くか」
と一刀両断した。
吾妻が打ちのめされて泣きそうになる。
「わ、わからないよ!」
「なら、抱いて欲しいのか? 俺や九生にライバルになって欲しい、と?」
時波の淡々とした言葉に、吾妻は半泣きで首を左右にぶんぶん振った。
想像だけで泣けたらしい。
「だったらいいだろう」
ふん、と鼻で笑って話を完結させた時波に、吾妻は涙目のまま歩み寄ってきて、躊躇ったあと、
「…………お願いします。白倉の裸、僕以外に見られたくないから、見ないで…ください」
頭を下げて頼み込んだ。
藍澤と白倉が小さく吹き出す。
「…なるほど、時波と吾妻の力関係がみえたな。
下から目線で下手に出るほど時波が苦手と見た…」
あのマイペースな吾妻がそこまで苦手にするとは、と藍澤は面白そうだ。
「…しょうがない。善処はしよう」
時波はため息を吐いて、あからさまにしかたないという態度で吾妻の要求を呑んだ。
吾妻は見るからにホッとして、顔を上げて白倉の方に向かう。
藍澤は内心、「善処する、だから、絶対に見ないとは誓ってないんだがな…」と思ったが言わない。自分の平穏が優先だ。
「ごめんな時波」
白倉が苦笑して軽く謝った。時波はかまわない、と暖かみのある声で答える。
「で? 九生にも言いに行く?」
「………」
白倉が吾妻に訊くと、吾妻は青ざめて黙り込んでしまった。
九生は時波と違って、いろいろと条件を提示しそうだ、と思った。
「…し、白倉のためだから」
「俺自身は全く困ってないけどな」
「!」
白倉はドライにつっこんで、また泣きそうな顔になった吾妻の隣を通り過ぎ、藍澤と時波の前に立つ。
「それで、途中から来て悪いんだけど、街を案内するなら今からにしない?」
白倉がそう提案したので、時波と藍澤は顔を見合わせた。
「しかし、白倉はそれでいいのか?」
藍澤は遠慮がちにそう尋ねる。
白倉は綺麗に微笑んで頷いた。
「チームワークをうまく機能させるために、親睦会っていうのも全くチーム戦に無関係じゃないだろ?
特に俺は藍澤くんと会ったばっかだから、いろいろ話訊きたいんだ。
駄目?」
「いや、俺こそそう思ってる。
嬉しいよ」
「よかった」
藍澤と白倉の穏やかな会話に、時波は顔を緩ませて安堵した。
自分の大事な二人が仲良くなってくれるなら、こんな嬉しいことはない。
藍澤も時波も、現実には広い街を出歩くなら、練習の後というのは厳しかったが、白倉や吾妻に相談もせずに練習をキャンセルできないと思っていた。
だから、白倉の提案は非常に有り難いものだった。
不意に吾妻が背後から白倉を抱きかかえて、自分の腕の中に囲い込んだ。
「なんだ吾妻。いやなのか?」
藍澤が暢気に訊くと、吾妻は険しい顔つきで、
「白倉をタラシ込んだら駄目!」
と言った。
藍澤は呆れる。
「白倉、涼太に惚れたら駄目だよ」
「え、や、俺は普通にチームメイトとクラスメイトとして…」
「だけど、涼太だよ?」
「…すまん。俺には『藍澤くんだから』用心する意味がわからん」
白倉の方も若干呆れて、吾妻の言葉に逐一返事をする。
「…っていうか、あいつ、自分が俺と親しくして白倉が嫉妬したときは喜んでたよな?
逆は嫌なのか。我慢できないのか」
「そうなんだ。狭量にも程があるだろう」
藍澤が真剣に呆れて呟くと、時波がうんうん頷いて同意した。
「あいつ、白倉に交際オッケーもらってなかったらストーカー化したんだろうな…」
藍澤は心の底からそう思う。時波はまた同意した。
「まあ、ただのストーカーと化してくれた方が叩きのめす口実もついたんだがな」
時波のしみじみとしただよオレンス発言に、藍澤は苦笑した。
白倉が妹みたいにかわいいのは理解した。
それに、彼氏があんなんじゃ、心配になる気持ちは、よくわかる。
「…ちなみに、な」
岩永が靴を履いて近寄り、時波の後ろから時波に話しかけた。
「俺は結構頻繁に白倉と一緒に風呂入ったりして裸見るんやけど、あいつそれ気づいとる?」
小声だ。
時波は首を横に振る。
「気づいてないだろう。馬鹿だから」
淡々と言って、岩永を振り返る。
「これから藍澤にこの街を案内するんだが、お前も来るか?」
「…え、どないしよ」
岩永は返答に迷って、藍澤の部屋の扉を振り向く。
そこには高尾と志津樹、伊武の姿。
「あ、俺達は遠慮しますから」
「いやいや、ちゅうかきみらはこの街詳しいん?」
志津樹の言葉に岩永は手を振って、歩み寄った。
志津樹と高尾は答えるのに迷ったようだが、「実はあんまり」と小声で答えた。
「ほな、俺と村崎が高尾くんら案内するわ。
時波たちはチーム水入らずで出かけたら?」
岩永はそう言って、時波達の方を向く。
この場の全員で一緒に行動するのは、流石に通行人の邪魔だろう、と。
時波と藍澤は白倉と吾妻を見た。
白倉は未だ真剣に訴えかける吾妻の額を叩いて黙らせ、それでええよ、と笑った。
「ちゅうことなんやけど、よかった?」
岩永は志津樹と高尾を振り返って尋ねる。
「いえ、助かります」
「お世話になります!」
志津樹と高尾は笑って大きく頷いた。
「村崎の兄貴に村崎の話訊きたかったんで」
「…高尾」
高尾の発言に、岩永は笑う。志津樹が少しだけ嫌そうな顔をした。
感じるのは、愛しい人の髪の香り。
手に触れるのは、その人の温もり。
だから、幸せだ。
先に進みたい気持ちもあるけれど、恋人を怖がらせる性急な男にはなりたくない。
だから、今は白倉の傍にいられたらいい。
彼の居場所になれたら。
そして、彼の傍らが、自分の居場所になるならば。
吾妻は目覚まし時計をほとんど使わない。
白倉が同じ部屋で一緒に暮らしだしてからは余計だ。
大抵は、自力でも起きられるし、なにかあるときは白倉が起こしてくれる。
その日は休日で、することといったら間近に迫ったチーム戦の練習。
昼過ぎから練習の予定だったから、のんびりと寝ていた。
何度目かの覚醒で、吾妻は腕の中の寂しさに気づく。
寝台に伸ばした腕を枕にいつも眠っている白倉の姿がない。
時計を見ると、もう十時だった。
規則正しい生活を心がける白倉ならば、起きている時間だ。
しかし、腕の中に白倉がいない。その空虚感から目が覚めたらしく、吾妻は笑う。
いよいよ、白倉が居ないと生きられなくなってきている自分が、おかしかったり、愛しかったり。
寝台から降りて、リビングに向かう。
浴室の方から音がしたので、お風呂か、と安心した。
白倉が自分を置いて、出かけたりしないと知っているのに、少し不安だった。
リビングに置いてある冷蔵庫から、飲料水を取りだして半分くらい一気に飲む。
そのまま、リビングの椅子に腰掛けて、白倉が出てくるのを待った。
吾妻の格好はTシャツ一枚にハーフパンツだ。
気温は毎日高く、今年も猛暑。
寮の中は冷暖房完備だが、あまり冷房は身体にいいものではないし、外に出れば暑い。
浴室の扉が開く音がした。
ぺたぺたと素足が床を歩く音がして、吾妻は緊張する。
理由は、白倉が割と天然魔性で、思いがけない際どい格好で出てきて部屋をうろつく場合もあったからだ。
今日はマシな格好でありますように。
もう昼だが、起きたばっかりで刺激的な格好を拝むのはやばい。
「あ、吾妻。おはよう」
リビングに顔を見せた白倉が、吾妻を見て微笑んだ。
大変可愛らしい笑顔だが、吾妻はそれどころではない。
白倉の格好はハーフパンツ一枚。上半身は裸で、タオルをひっかけただけ。
「吾妻?」
吾妻は勢いよく後ろを向いて、鼻を押さえたので、白倉が首を傾げる。
「どうした?」
これが「ちゃんとなにが原因か理解している」なら、怒れるが、彼の場合ほとんど素だ。
タチが悪い。
「白倉…」
吾妻は口元を手で覆って、どうにか振り向く。
振り向いた瞬間、間近に来ていた白倉の上目遣いと小首傾げを目の当たりにし、慌ててまた顔を背けて、壁に手を突いてしまった。
「…吾妻?」
朝から大変眼福だとは思う。いい眺めだとは思う。
が、まだ一線を越えられない自分には、辛い。
刺激強すぎる。
「白倉」
「あ、はい」
吾妻は振り向かないまま、少しきつい口調を意識して呼んだ。
白倉が思わず返事をする。
「そんな格好で出てくるんじゃないよ。破廉恥だよ」
「え? だけど、男同士だし」
「男同士でも駄目だよ。特に、僕の前では」
「他のヤツならいいの?」
「もっと駄目!」
真剣に訴える吾妻は、白倉を振り向かないままだ。
白倉は向けられた吾妻の背中をじっと見て、そっと近寄る。
そして、気づかないくらい一杯一杯な吾妻の背中のシャツの裾を掴んで、ぺらり、と上の方までめくった。
「しらくらっ!?」
流石に気づいた吾妻が、ひっくり返った声を挙げる。
「な、な、なにしてるの…?」
震えた声で尋ねる癖に、振り返らないし、自分から逃げたりもしない。
自分に甘いなあ、と白倉は笑う。
「んー」
白倉は甘えた声を出し、吾妻の浅黒い背中にぴとり、と頬を寄せた。
吾妻の身体が大袈裟に震える。
「…吾妻の背中、逞しいなあ」
「…………む、村崎ほどじゃないよ?」
「見たことあるの?」
「シャワールームで…」
というか、身長では勝っているが、体格や筋肉では負けているのは、服の上からでもわかる。
吾妻はそう思うが、言えない。
白倉の柔らかい髪の毛が、頬が背中の皮膚に直に。それどころか、手が前に回ってむき出しの腹を撫でてるんだけど。
心臓はどきどきしっぱなしで、頭もパニックだ。
「なー、吾妻ー」
白倉は猫撫で声で吾妻を呼び、頬を裸の背中に擦り寄せた。
髪の毛が触れて、くすぐったい。というか、いっそもう抱かせて。我慢できない。
と、思うけど、やっぱり怖がらせたくないから、できない自分はヘタレかもしれない。
「キスマークつけていい?」
色っぽい声でそんなことを言うから、思わず頷きそうになって、吾妻は我に返った。
「は!? あ、え!?」
「驚きすぎ。吾妻はもう何度も俺につけたじゃん?
俺も吾妻の背中につけたい!」
「え、あ、え」
白倉は背中にくっついたまま、可愛く「いいだろ? な?」とお強請りしてる。
ああ、やっぱり、抱きたい。
でも、怖がらせたくない。
この状況は、天国なのか、地獄なのか。
ああ、でもやっぱり、ちょっと、幸せかもしれない。
「…どうぞ。お好きに…」
結局、吾妻は白倉に背中を向けたまま、そう返した。
その声は情けなくもあったし、嘆いてもいたが、最終的には幸せそうな響きだった。
白倉が幸せなら、俺も幸せ、的な。
白倉は背中を愛撫の手前の手つきで触り、唇を寄せる。
「そういえばなあ、吾妻は駄目って言ったけどー」
白倉はいくつかキスマークをつけて、時々「あ、薄い。ここは綺麗についた」とかもらしながら、不意に話し出した。
吾妻はもう白倉が幸せならなんでも来い、という悟りの境地で話を聴く。
「俺、前にこの格好で九生と時波と話してたことあった」
しかし、白倉がそんなことをカミングアウトしたので、吾妻は勢いよく白倉を振り返り、ぽかんとする白倉の肩を掴んだ。
「九生と、時波?
この格好で? どうして?」
両肩を掴んで、顔を近づけて、吾妻は問う。
ひどく恐ろしい顔つきだ。
「えーっと、流河の果たし状で騒いでた頃で、その話してて」
「…風呂上がりに、白倉の部屋で?」
九生は白倉と同室だ。
「俺が風呂入る前から、二人ともいたから、風呂入りながら会話してたの。
浴室の傍で」
白倉があっさり答えると、吾妻は「なんてことっ!」と白倉の肩を掴んだまま叫んだ。
「…吾妻?」
白倉は首を傾げる。
「白倉、着替えよう。
九生と時波のとこ行こう。もう二度と白倉の裸見ないよう言って来よう」
鬼気迫る表情で言って、白倉から離れ、クローゼットの扉を開いた吾妻の、少し裾がめくれたままの背中を見て、白倉は呟く。
「まだ吾妻は二人に勝ち目がないと思うんだけどなあ…」
NOA寮はキッチンも完備されているが、自炊する生徒は少ない。
食堂があるし、購買で買う生徒もいる。
だが、全く自炊する生徒がいないわけでもない。
たとえば、先日NOAに転校してきたばかりの藍澤涼太。
藍澤の部屋は106号室だ。
食卓に並んだ一人分の朝食は、自分で作ったものだ。
五枚は並んだ皿は綺麗に空になっている。
「しかし、一人は味気ないな…」
藍澤は呟いて、それから「明日から高尾たちを誘うか」などと考える。
その時、部屋のインターフォンが鳴って、藍澤は椅子から立ち上がった。
多分高尾たちだな、と思いながら、玄関の扉を開けると、高尾と村崎志津樹、それから二人の男がいた。
「高尾、村崎に、確か…」
「おはようございます藍澤さんっ!」
藍澤に元気よく挨拶をしたのは、高尾と志津樹だ。
その背後の二人は、確かZIONで見た二人だが、名前をよく覚えていなかった。
「藍澤さんのところに行くっていったら、一緒に行ってもいいかって。
あ、俺の兄の静流です」
志津樹が背後の似た面差しの男を示して言った。
「ああ、兄弟か。そういや村崎が言っていたものな」
藍澤は納得する。
「弟が世話になっとると訊いたから、一度挨拶すべきかと思ったんやが…。
休日にすまんな」
「いや、いいよ。
構わない。入ってくれ」
藍澤はうれしいよ、と朗らかに言い、五人を中に招いた。
「俺まで来てもうてごめんな」
たまたま村崎と一緒にいたから来ることになったらしい岩永が、すまなそうに言った。
藍澤の部屋のリビング。
岩永を見て、藍澤は笑う。
「いや、いい。
俺も興味があったんだ。珍しい吸収の能力者」
「…あんたには及ばんけど」
気さくな藍澤の態度に、岩永も笑みを浮かべた。
「さっき、ダイニング見たけど、自炊しとるん?」
「ああ、料理が好きでな。
よかったら今度食べに来てくれ」
藍澤の誘いに、岩永は、そのうち、と笑顔で頷いた。
「俺たちもいいっすか?」
「もちろんだ」
高尾と志津樹が藍澤の顔を見て尋ねたので、藍澤は大きく頷く。
「そういえば、志津樹くんたちの転入って」
岩永が志津樹たちの藍澤への懐きぶりを見ておおよそを察すると、藍澤が照れたように笑った。
「俺がなかなか頷かないから、吾妻に会うためだったらしくてな。
本当に、時波といい、みんなに世話になったよ。感謝してる」
「いえいえ、とんでもない!」
藍澤の優しい微笑みを見て、高尾は顔を赤くして手をぶんぶん横に振る。
「大体、藍澤さんのためって入学しといて、村崎なんか自分が『吾妻』とか呼ばれてたんですから!」
「高尾、それは言うなよ…」
高尾は志津樹を指さして、意味がわからず首をひねる藍澤に、事情を説明する。
「転入したその日に、会ったばっかの先輩に告白してんすから」
「高尾」
憧れの藍澤を前にして軽く緊張している高尾は、志津樹に強く名前を呼ばれて初めて、その場に「告白された先輩」もいることに気づいた。
「……えー、まあ、そういうことがあったんですよ。
それで、吾妻さんが、転入前日に生徒会長にプロポーズしてキレた生徒会長とバトルしたことがあったらしくて」
だから、吾妻二号って、と高尾は冷や汗をかきながら、無理矢理話題を転換しようと試みる。
藍澤は察しがよく、優しい人格の持ち主だ。
理解はできたらしい。
「吾妻のやつ、転入前日からそんなことやらかしてたのか…」
と、高尾の話題転換に素直に乗った。
「…生徒会長は白倉だから、…なんだ?
そこからどうなって今のバカップルになった?」
しかし、リアルタイムでカップル成立を見ていなかった藍澤は真剣にそこが疑問になったらしく、岩永と村崎を見て大真面目に尋ねた。
白倉と吾妻のバカップルっぷりはZIONと、ここ数日で目の当たりにしている。
「…あー、話せば長くなるんやけど、いろいろあったんや。
うん、いろいろ」
「そうやな。儂らも、吾妻はんが転校してきた時には、今がこうなっとるとは、思いもせぇへんかったな」
村崎の感慨深い呟きには、自分のことも含まれているとわかって、岩永は微かに頬が赤くなる。
そうだ。
吾妻が転校してきたころ。村崎は自分に冷たくて、自分もまさか村崎が振り向いてくれるなんて思いもしなかった。
本当に、いろいろなことがあったんだ。
「じゃあ、詳しく話を聴かせてもらってもいいか?
昼過ぎまでは暇だしな」
藍澤はテーブルの椅子を引いて、腰掛ける。
岩永たちや志津樹たちにも座るよう促して、そう言った。
岩永と村崎は顔を見合わせ、笑う。
「俺達の話せる範囲でええなら」
戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉-17号室。
戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉の外の廊下に表示されているパネルには「使用中・非戦闘中」とある。
このパネルは使用中か否か、また、戦闘中か否かを外の人間に知らせるものだ。
使用中でも「非戦闘」なら扉を開けて入っても問題はない。
この時期、「使用中」の戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉に来て、試合をその場で申し込む生徒も多いからだ。
もとより、戦闘中ならば厳重なロックが働いていて、開けられない。
17号室は、使っているチームがいる、が、戦闘中ではないということ。
そして、17号室のフィールドの中央には、使用しているチームの四人が顔を突き合わせていた。
なにやら、真剣な表情で。
「さて…そろそろ、決着つけようぜ?
土岐也、お前もいい加減悪あがきはやめるんだな」
そう言ったのは、久遠寒太。
赤い髪の三年生で、Aランク。
彼に会話の矛先を向けられたのは、チーム内で唯一二年生の赤目土岐也だ。
「久遠先輩こそ、吠え面かかせてやりますよ。
大体、今までだってかーなり苦し紛れだったでしょ?」
「なんだと?
お前こそ、同じ手ばっか出しやがって、馬鹿だろ」
「俺よりちっさい人に言われたくありません!」
赤目が久遠を睨んで言い切る。すぐに久遠に頭を叩かれた。
「やめたまえ。久遠くん。
これはケンカではありませんよ」
向かいに立っているのは同じチームの山居伊砂。
眼鏡を押し上げて、軽くため息を吐く。
「山居、なに涼しい顔しとるんじゃ?
今度こそ決着はつけさせてもらうけん、覚悟しんしゃい」
「それは九生くんの方かと」
山居の隣に立っている九生柳。
このチームのリーダーであり、唯一のSランクだ。
「でかい口叩けるんも今のうちぜよ。
久遠も土岐也も、いい加減諦めんしゃい」
「誰が!」
「勝負なら受けて立つところっす!」
久遠と赤目が揃って叫んだ。
九生は息を吐き、三人の顔を見渡す。
「そんじゃ、行くぜ…」
九生の言葉に、三人全員が構える。
「せーの……」
息を呑んで、互いの顔を真剣に見つめ合って。
「最初はグー! じゃんけんぽんっ!!」
四人の声が見事に唱和した。
同時に手が四本出される。
四人全員、出した手は、開いた手の平。つまり「パー」。
「…うあーっ!! またあいこかよっ!」
「誰一人抜けねぇってどういうことっすか!?」
「俺が知るかよ!」
あいこだとわかった瞬間、久遠は頭を抱えて叫び、赤目は九生を睨んで問いを発し、九生は喧嘩腰に言い返す。
「…普通、誰か一人負けるなり勝つなりして抜けるはずなんですけどね。
四人もいたら」
山居はため息を吐いて、疲れの滲んだ声で呟く。
「これでじゃんけん、20回目ですよ?
異常じゃないっすか!?
なんで四人全員あいこが続くんです?」
「いや、私に訊かれても」
赤目が今度は山居に問いを向けたので、山居は首を横に振った。
「まさかとは思いますが、九生くん。なにかしてませんよね?」
「やって俺が得するんか?」
「…しませんね」
山居が投げた「脳に干渉をしてあいこを連続させてないか」という問いは、山居本人が投げやりだった。
山居も涼しい顔をしていて疲れているらしい。苛ついてもいるようだ。
「…あの、私が買ってきますよ。
もうこの際、外が暑いのも諦めます。いいですから」
「えー、でもなんか納得いかなくないですか?
決着つけたくないですか?」
「…私は正直、もうお腹一杯です」
山居は赤目の意見に、勘弁してくれ、と言いたげな口調で答える。
発端は「休憩中に食べるアイスを誰か買ってくるか」だった。
アイスはNOA施設内の売店にも売っているし、まだ夏休みではないから売店は営業中だ。
しかし、この猛暑に加えて、チーム戦間近で戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉やトレーニングルームで生徒達がひっきりなしに練習している時期。
たまに、売店が在庫切れを起こす。
売店は学園の売店としてはかなり広く、スーパー並の品揃えはあるのだが、やはり全校生徒数が半端ないのだ。
先ほど、売店のアイスが在庫切れになり、今は補充中だと聴いた。
そこで、このチームは暑い外に出て、一番近くのコンビニまで誰が買い物に行くか、じゃんけんで決めよう、ということになったのだが、決着がおかしいくらいつかない。
「…あー、じゃあ、俺も一緒に行くわ」
九生が手を挙げる。
「いいんですか? アイス四つですし、私一人で大丈夫ですよ」
「いや、なんか悪い気がする…」
「そうですか…」
九生も、じゃんけんの最中は競争心が刺激されていたが、頭が冷えると山居への労りが沸く。
一人で行かせるのは、なんか悪いし、気になる。
「じゃあ、二人で行きますか」
「そうしようぜ。決まり」
山居と九生は顔を見合わせて、笑い合う。
不完全燃焼なのは久遠と赤目で、まだ勝負し足りない顔をしていた。
その時、戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉の扉が開いて、一人の男が顔を覗かせた。
「ああ、ちょうどよかった。
九生たちだったんだ、ここ」
輝かしい笑顔を浮かべて中に足を踏み入れたのは、化野朔螺。
文句無しの最強格。というか、某人物いわくジョーカー。
九生と山居、久遠と赤目は揃って顔が引きつった。青ざめた。
魔王降臨……!!!
思ったことも、全員同じ。
「俺達のチーム、練習相手探してるんだ。
よかったら相手してよ」
やっぱり。違う用事だったらまだ快く迎えたのに。
「…あー、俺ら今からアイス買いに行くんだよ」
「そうなんですよ! ちょっと外のコンビニまで!」
さっきまで不完全燃焼な顔で譲らなかった久遠と赤目が、笑みを浮かべて言う。
ちょっと引きつった笑顔だ。
「外? 売店で買えばすぐじゃない」
「売り切れだって。知らない?」
化野は首を傾げる。
「さっき、新しい在庫が入ったって訊いたよ?」
その瞬間、久遠と赤目は売店に出入りしている業者の配達の素早さに殺意を抱いた。
「だから、ちゃっちゃっと買って、ちゃっちゃと試合しよう?」
「…や、どのみち休憩する気じゃから。
もう体力とエネルギーがないしの」
「そうなんです」
九生と山居が笑って言えば、化野は「そう?」と少し不満そうだ。
扉がまた開いて、化野と同チームの生徒が二人入ってきた。
「朔螺。無理強いはするな」
雪代が化野の肩に手をかけ、やんわりと言う。
「だけど」
「お前、死にかけの魚と戦って楽しいか?」
「…んー」
「言い訳ひどいなおい」
雪代の言葉に、化野はやっと諦めの言葉を漏らしかけたが、その言葉が聞き捨てならなかった九生が思わずつっこんだ。
いくらなんでも死にかけじゃない。まだ戦える。
という意気だったが、雪代が哀れみと「アホだな」という感情を込めた視線を向けてきたので、我に返った。
「ってことは、まだ戦えるんだろ? 九生。
じゃあやろう!」
化野は一転笑みを浮かべて手を叩く。
九生は自分を罵った。背後から注がれる久遠や赤目、山居の視線が痛い。
俺のアホ。聞き捨てならなくても聞き流していれば助かったのに。
というか、化野はあれくらいの調子で言わないと聞き分けないんだった。俺の馬鹿。
赤目はその場にしゃがみ込んで、山居は疲れた様子だ。
最早化野からは逃げられないのだから、腹はくくろう。でもやっぱり嫌だ、という気分。
そこで、不意に雪代がスマートフォンを取りだして、受信したラインを見る。
「朔螺」
「うん?」
化野の肩を叩いて、扉の方を指さした。
「隣の18号室で、桜賀たちが練習しているらしい」
桜賀とは、雪代の幼馴染みの瀬生桜賀。
同じ一組の生徒だ。
化野がぴくりと反応した。動物なら耳と尻尾がたっただろう。
「瀬生のチームって、」
「七倉と東宮がいる」
「試合申し込みに行こう!
九生、また今度試合しようか」
化野はぱっと顔を輝かせて言い、九生を振り返った。
九生は笑顔を浮かべて手を振る。
「そうじゃの。いや、残念じゃ」
「そうだね。残念。
じゃ、俺たち行くね!」
化野はだよだよ、と手を振って足早に戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉を出ていった。
雪代と若松が「騒がせたな」と謝って後を追う。
桑原も微かにホッとしたらしく、息を吐いて扉から外に出た。
扉が閉まる。
九生と山居、久遠と赤目は大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。
「九死に一生を得た…っ!」
「命拾いした…って、なんで友人相手に思うんだろーな…?
化野くんは友だちなんだけどな…」
「…まあ、あの人が相手ではしかたありませんよ」
「まだ体力が万全ならわからんかったが…」
少なくとも今の疲労した状態では絶対勝てない、と九生は言う。
他の三人も、ゆっくり頷いた。
「…で、アイス買いに行くか?」
「…行きますか」
「俺も行きます」
「俺も」
四人は顔を見合わせて、頷いた。
藍澤に大体の事情を話し終えたところで、インターフォンが鳴った。
あれから一時間経った。
それだけ話すことがあったのだ。かいつまんでも。
藍澤が椅子から立ち上がって、玄関に足を向けた。
「吾妻かな?」
岩永が妥当な予想を立ててみると、藍澤は足を一旦止めて、「いいや、それはない」とやけにはっきりと断言した。
確信を持った声に、岩永だけではなく、その場の藍澤以外が怪訝な顔をした。
扉はまだ閉まったままで、藍澤はリビングにいる。わかるはずがないが。
藍澤は肩越しに岩永達を振り返り、
「あいつが俺相手にインターフォンを鳴らすわけがないからだ」
と言い切って、玄関に向かった。
訊けば納得の理由に、岩永も村崎も苦笑するしかない。
「ああ、確かに鳴らさず扉開けそー吾妻…」
「それだけお互いの絆が深いともとれるがな」
「まあ」
岩永が感心して呟くと、村崎がのんびりと言葉を重ねた。
藍澤は玄関で足を止めると、扉を開ける。
そこには藍澤の断言通り、吾妻ではなく時波がいた。一人のようだ。
「時波」
藍澤は靴を履いて廊下に出て、時波の正面に立つ。
「わざわざ来てくれたのか?」
「わざわざ、という距離でもないが」
「そりゃそうだが」
時波も最上階の人間だ。わざわざ、と形容する距離ではない。
だが休日に、昼過ぎからチームの練習があるから会うのに、今わざわざ会いに来てくれた、と思えるのだ。
嬉しいからこそ。
藍澤は微笑んで、「用事があるんだよな?」と尋ねた。
「藍澤は、この街のことは詳しく知っているのか?
なにがどこにあるか、とか」
時波はゆったりとした口調で訊く。
藍澤は首を横に振った。
「いや、全然だ。
特に四月のあとは……吾妻に会わないようにしていたし」
藍澤は苦笑して言う。
吾妻がNOAに入学したあとは、吾妻に会うのが怖くて、この街自体に近づかないようにしていた。
「なら、練習のあとに街を散策しないか?
案内しようと思って」
「いいのか? 練習後は疲れてるだろ?」
「それは俺の台詞なんだが」
藍澤にとっては願ってもない。
吾妻に頼む選択肢は端からない。理由は、吾妻は猫がよくいる場所とかは知っていても料理のうまい店や品揃えのいい書店などは知らないだろうからだ。
時波はくすぐったそうに笑う。
「こちらこそ、押しつけがましくないかと」
「とんでもない。有り難いよ!
助かる」
「…ならよかった」
藍澤が笑みを浮かべて大きく頷くと、時波はホッとして口元を綻ばせた。
誰が来たのか気になって覗きに来た岩永と高尾が、顔を部屋に引っ込める。
岩永的には「珍しいものを見た」だ。
あの時波が、あんな風に年頃の少年らしく藍澤の言動に一喜一憂している。
白倉や九生絡みでないと表情も硬い時波を知っているからびっくりだ。
「…まあ、あの時波が吾妻との仲をとりもった時点で特別な相手ってことやんな…」
恋愛ではないだろうが、相当絆が深そうだ、と岩永は思う。
高尾は純粋に、「やっぱり藍澤さんってすげぇ」と思っていた。
時波がすごい人なのはなんとなくわかったからこそ、そんな人に慕われているっぽい藍澤はやっぱりすごい。
しかし、二人は不意に「ん?」と思って、また扉から外を覗いた。
藍澤が「なんだこいつ」と言いたげな顔をして、廊下の向こうを見ている。
廊下にはいつの間に来たのか吾妻の姿。後ろの方に、苦笑している白倉の姿。
「時波、話がある」
「いいぞ。聴こう」
どうも藍澤ではなく時波に用事らしい。
時波は腕を組んで、堂々とした佇まいで吾妻の言葉を待つ。
「……ここで?」
「当たり前だろう? お前の用事に俺を付き合わせる気か?」
吾妻は「ちょっとここじゃ…」と躊躇ったが、時波は吾妻のために都合のいい場所に移動してやる気はないらしい。間髪入れない。
「…白倉絡みだよ?」
吾妻が困り果てて、切り札のようにその名前を出すと、時波は白倉の方を見て、
「白倉。お前は困るか?」
と尋ねた。白倉は笑って、首を横に振る。
「や、別に全く」
そう答えた。
吾妻がショックを受ける。岩永と高尾からはなんでショックを受けるかわからない。
「…………白倉、が、風呂あがりに、時波達と話してたことがあるって」
「それのなにが悪いんだ?」
「上半身裸だっただろ!?」
吾妻は恥ずかしいのか、真っ赤になってヤケのように叫んだ。
時波は呆れた表情を浮かべ、
「それで困るのは、白倉にいやらしい気持ちを抱いているヤツだけだ。
俺達は白倉を妹のように愛しているからな。そんなふしだらな気持ちを抱くか」
と一刀両断した。
吾妻が打ちのめされて泣きそうになる。
「わ、わからないよ!」
「なら、抱いて欲しいのか? 俺や九生にライバルになって欲しい、と?」
時波の淡々とした言葉に、吾妻は半泣きで首を左右にぶんぶん振った。
想像だけで泣けたらしい。
「だったらいいだろう」
ふん、と鼻で笑って話を完結させた時波に、吾妻は涙目のまま歩み寄ってきて、躊躇ったあと、
「…………お願いします。白倉の裸、僕以外に見られたくないから、見ないで…ください」
頭を下げて頼み込んだ。
藍澤と白倉が小さく吹き出す。
「…なるほど、時波と吾妻の力関係がみえたな。
下から目線で下手に出るほど時波が苦手と見た…」
あのマイペースな吾妻がそこまで苦手にするとは、と藍澤は面白そうだ。
「…しょうがない。善処はしよう」
時波はため息を吐いて、あからさまにしかたないという態度で吾妻の要求を呑んだ。
吾妻は見るからにホッとして、顔を上げて白倉の方に向かう。
藍澤は内心、「善処する、だから、絶対に見ないとは誓ってないんだがな…」と思ったが言わない。自分の平穏が優先だ。
「ごめんな時波」
白倉が苦笑して軽く謝った。時波はかまわない、と暖かみのある声で答える。
「で? 九生にも言いに行く?」
「………」
白倉が吾妻に訊くと、吾妻は青ざめて黙り込んでしまった。
九生は時波と違って、いろいろと条件を提示しそうだ、と思った。
「…し、白倉のためだから」
「俺自身は全く困ってないけどな」
「!」
白倉はドライにつっこんで、また泣きそうな顔になった吾妻の隣を通り過ぎ、藍澤と時波の前に立つ。
「それで、途中から来て悪いんだけど、街を案内するなら今からにしない?」
白倉がそう提案したので、時波と藍澤は顔を見合わせた。
「しかし、白倉はそれでいいのか?」
藍澤は遠慮がちにそう尋ねる。
白倉は綺麗に微笑んで頷いた。
「チームワークをうまく機能させるために、親睦会っていうのも全くチーム戦に無関係じゃないだろ?
特に俺は藍澤くんと会ったばっかだから、いろいろ話訊きたいんだ。
駄目?」
「いや、俺こそそう思ってる。
嬉しいよ」
「よかった」
藍澤と白倉の穏やかな会話に、時波は顔を緩ませて安堵した。
自分の大事な二人が仲良くなってくれるなら、こんな嬉しいことはない。
藍澤も時波も、現実には広い街を出歩くなら、練習の後というのは厳しかったが、白倉や吾妻に相談もせずに練習をキャンセルできないと思っていた。
だから、白倉の提案は非常に有り難いものだった。
不意に吾妻が背後から白倉を抱きかかえて、自分の腕の中に囲い込んだ。
「なんだ吾妻。いやなのか?」
藍澤が暢気に訊くと、吾妻は険しい顔つきで、
「白倉をタラシ込んだら駄目!」
と言った。
藍澤は呆れる。
「白倉、涼太に惚れたら駄目だよ」
「え、や、俺は普通にチームメイトとクラスメイトとして…」
「だけど、涼太だよ?」
「…すまん。俺には『藍澤くんだから』用心する意味がわからん」
白倉の方も若干呆れて、吾妻の言葉に逐一返事をする。
「…っていうか、あいつ、自分が俺と親しくして白倉が嫉妬したときは喜んでたよな?
逆は嫌なのか。我慢できないのか」
「そうなんだ。狭量にも程があるだろう」
藍澤が真剣に呆れて呟くと、時波がうんうん頷いて同意した。
「あいつ、白倉に交際オッケーもらってなかったらストーカー化したんだろうな…」
藍澤は心の底からそう思う。時波はまた同意した。
「まあ、ただのストーカーと化してくれた方が叩きのめす口実もついたんだがな」
時波のしみじみとしただよオレンス発言に、藍澤は苦笑した。
白倉が妹みたいにかわいいのは理解した。
それに、彼氏があんなんじゃ、心配になる気持ちは、よくわかる。
「…ちなみに、な」
岩永が靴を履いて近寄り、時波の後ろから時波に話しかけた。
「俺は結構頻繁に白倉と一緒に風呂入ったりして裸見るんやけど、あいつそれ気づいとる?」
小声だ。
時波は首を横に振る。
「気づいてないだろう。馬鹿だから」
淡々と言って、岩永を振り返る。
「これから藍澤にこの街を案内するんだが、お前も来るか?」
「…え、どないしよ」
岩永は返答に迷って、藍澤の部屋の扉を振り向く。
そこには高尾と志津樹、伊武の姿。
「あ、俺達は遠慮しますから」
「いやいや、ちゅうかきみらはこの街詳しいん?」
志津樹の言葉に岩永は手を振って、歩み寄った。
志津樹と高尾は答えるのに迷ったようだが、「実はあんまり」と小声で答えた。
「ほな、俺と村崎が高尾くんら案内するわ。
時波たちはチーム水入らずで出かけたら?」
岩永はそう言って、時波達の方を向く。
この場の全員で一緒に行動するのは、流石に通行人の邪魔だろう、と。
時波と藍澤は白倉と吾妻を見た。
白倉は未だ真剣に訴えかける吾妻の額を叩いて黙らせ、それでええよ、と笑った。
「ちゅうことなんやけど、よかった?」
岩永は志津樹と高尾を振り返って尋ねる。
「いえ、助かります」
「お世話になります!」
志津樹と高尾は笑って大きく頷いた。
「村崎の兄貴に村崎の話訊きたかったんで」
「…高尾」
高尾の発言に、岩永は笑う。志津樹が少しだけ嫌そうな顔をした。
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