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第X章 踊れ!悪魔の腕の中で
第三話 あなたたちの暗闇で
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吾妻の姿をした男の笑みが見えた。
岩永の背後に回り、自分が放った攻撃の矢面に立てる。
ここは戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉じゃない。
岩の刃は岩永の胸元を狙うように直進する。
「嵐!!」
瞬間、その場を強い粉塵が覆った。
「…嵐…?」
村崎の両足ががくがくと震えた。
立っていることもおぼつかない。
岩永に、もし自分の攻撃が直撃していたら。
戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉じゃないのだ。死ぬ可能性だってある。
恐ろしくて、全身が震えた。
「嵐!」
彼に、返事をしてくれと叫ぶ。
何度も、必死で名を呼んだ。
不意に、その場に風が吹いた。
風は粉塵を吹き飛ばし、視界をクリアにする。
廊下の向こうには、あの吾妻の姿をした男のみ。
彼自身、微かに驚いている。
宙から現れ、彼に向かった真空刃と漆黒の刃を、“吾妻”は大きく後退して防ぐ。
村崎の斜め後ろで、突風が吹き荒れた。
視線を移すと、つむじ風のように踊る風。それが晴れると、そこには負傷しているが、無事な姿の岩永が現れた。
「嵐!」
たまらなく安堵しながら、村崎は岩永に駆け寄る。
「村崎…」
岩永も、無事な村崎を見て安心したようで、名前を呼んで村崎の身体に手を伸ばした。
村崎と岩永と、その男の間の空間に、風をまとって現れたのは、夕と明里だ。
おそらく夕が風を使って、岩永を移動させたのだ。
「静流さん! 嵐を安全な場所に連れて行け!」
「ここは任せてください!」
夕は振り返らず、明里は少しだけ村崎たちを振り返って言う。
村崎は一瞬躊躇った。
あの“吾妻”は強い。
岩永すら歯が立たなかったのだ。
夕と明里ではとても――――。
だが、
「ああ、…無茶はするな!」
村崎は岩永を肩に担ぐように抱き上げて、その場から駆け出した。
彼らとは反対方向の廊下に向かう。
「さて、今度は俺らの相手をしてもらうぞ」
夕が風を腕に纏わせて、挑発する。
その傍らで明里は身を低くして構えた。
“吾妻”は不敵に微笑む。
「ま、適当に遊んであげるよ」
「村崎っ…待って…!」
村崎も、自分や夕に及ばないが、普通の男よりは足が速い。
あっという間に、静かな、いくつも部屋の扉が並ぶ廊下までやってこれた。
「村崎…」
岩永は村崎の名前を呼んで、痛む体を動かす。
「じっとしとけ。傷がひどい」
「やけど、夕たちが…」
夕たちでは、分が悪い。
勝てないだろう。
自分をがっちり抱えて担ぐ村崎の腕の所為で、降りたくても降りられない。
「ほな、お前があそこにおって、なにかできたんか?」
「…それは」
岩永自身、自分が深手とまで行かなくとも、戦闘続行の難しい怪我を負ったことは自覚している。
あの場にいても、足かせになるだけだ。
「人質に使われる可能性やってあるんや。流河がおれば、まだ違ったかもしれんが」
「…」
村崎の硬い声に、岩永は俯いた。
でも、なんか違う。
村崎があの場から離れた理由は、違うところにある気がして。
「むら…」
不意に村崎が足を止めた。
並ぶ扉の一つが開く。
顔を出したのは彼の弟だった。
「兄さん!?」
びっくりして駆け寄ってきた志津樹に、村崎は顔をホッと綻ばせ、岩永を肩から降ろした。
「岩永さん、その怪我…!」
「志津樹。しばらく嵐を見ててくれ」
「え」
問答無用で岩永と志津樹を、志津樹がいた部屋に押し込んで、村崎は言う。
「…村崎?」
岩永の不安げな声に、村崎は硬い表情のまま、彼を見る。
そして、岩永の身体をきつく抱きしめた。
その腕や、大きな身体が震えている。
だって、おかしいと思った。
自分はわかる。もう戦えないだろう。
でもなんで、村崎自身まで“戦力外”みたいな判断をしたんだ?
まるで、村崎自身、自分があそこにいても役立たずだと思ったみたいな。
「…死んだかと思った」
低く、絞り出すような苦しげな声が、耳元で聞こえた。
「悪かった」
そう思った時には、身体を離されていた。
村崎は背中を向けて、部屋を飛び出す。
「村崎…っ!」
追おうとしたが、足が痛んでその場に膝を突く。
「違う…」
茫然として、岩永は呟く。
相手が悪かっただけだ。自分だって敵わなかった。
そんな、そんな風に、「自分が守れなかったから」って自責するのは違う。
そんな風に、「落とし前」をつけにいくみたいな顔で、出ていくのは違う。
志津樹が心配そうに、岩永の傍にしゃがみ込む。
「とりあえず、手当しましょう?
嵐さん」
志津樹の言葉に、かろうじて頷く。それしかできない。
吾妻と白倉は部屋を出て、六階に来ていた。
放送は聴いた。
部屋でじっとしていても良いとは思えない。
「だけど、人型の見抜き方とかはないのかな?」
「お前の場合、テレパスが使えるんじゃないか?」
人型は人間やないから、と白倉が言う。吾妻もああ、そっか、と手を叩いた。
遠くの方で地響きと悲鳴が聞こえる。
顔を見合わせて走り出した瞬間、傍の扉が開いて吾妻は顔を強打した。
「~~~~~~!!!」
「吾妻。大丈夫…?」
顔面を押さえて呻く吾妻を、白倉が心配そうに伺う。
扉が閉じて、開けた主が顔を覗かせた。
「うわ、吾妻! ごめん!」
「嵐!」
岩永だった。
彼もまさか誰かに扉が当たると思わなかったのか、びっくり顔で吾妻の傍に近寄った。
「すまん。まさかそこにおると思わんくて」
「いや…いいよ」
吾妻は顔を押さえる手を外して、岩永に気にするな、と言う。
「今から様子を見に行くとこ?」
「うん」
吾妻が打った所為で赤い顔で尋ねると、岩永は頷いた。
「流河たちは? 一緒じゃないの?」
「放送があったとき、部屋におったん俺一人や。
帰ってこうへんから、心配で」
待とうとも思ったんやけど、と岩永は不安げに言う。
吾妻は微かに眉を寄せた。
「吾妻?」
「いや…」
吾妻は腕を組んで首をひねった。
なんだろう。腑に落ちない。
「村崎は心配して来なかったの?」
「静流? さあ、まだ会ってへん」
首を傾げた岩永に、吾妻は目を瞑って、白倉の腕を掴んで自分の傍に引っ張った。
「吾妻?」
白倉と岩永の両方が、怪訝な顔をした。
「“静流”?
昨日まで、“村崎”だったよね?」
吾妻のきつい声音に、白倉もハッとする。
岩永はびっくりして、慌てた。
「いや、早合点やで?
ZIONん時からそういう話出とったし、今朝呼んでええか訊いたとこで」
白倉は吾妻を見上げて、また岩永に視線を戻した。
どこからどうみても、岩永だ。
おかしな感じもしない。
本物だと思う。
「あ、ほな、テレパスの力使ったらええんよ。
俺の心読んだら。人型なら不可能やもん」
岩永の持ち出した提案は、先ほど白倉も言った案だ。
「な?」
岩永は必死な顔でそう訴える。
それに、ちゃんと感情は伴っていると思う。作り物ではないと、吾妻にも思えた。
「…じゃあ」
吾妻は警戒したまま、岩永の心を読むようイメージする。
流れ込んできたのは、村崎との会話の記憶や、流河・優衣たちと出かけた時の風景。
「…どう?」
岩永はおそるおそる問いかけてきた。
「……ごめん。僕の早合点…」
心が読める。心がある。それに、間違いなく岩永の記憶だ。
吾妻は謝った。
岩永は安堵を顔に滲ませて、別にわかってくれたらええし、と笑った。
白倉もホッとする。
「ほな、一緒に行こうや。一人やと心細いし」
岩永は廊下の向こうを指さして言う。
「ああ…」
吾妻は頷いたが、やっぱりなにか腑に落ちない。
本物のはずなのに、自分の本能が「違う」とうるさく訴える。
「…吾妻?」
歩きだした足をまた止めた吾妻に、白倉が視線を寄越した。
「ごめんな」
吾妻は険しい顔で一言謝った。
吾妻の手に炎が発生し、岩永を襲った。
「吾妻!?」
白倉が驚きの声を挙げる。吾妻は構わず白倉を抱きかかえ、背後に大きく飛んだ。
炎が一点に集中して、消える。吸収の力だ。
「ひどい吾妻。攻撃するなんて」
岩永は拗ねた口調で吾妻を詰った。
普通なら、衝撃を受けてそれどころではないはずだ。もっと慌てるのに、彼は開き直ったように落ち着いている。
「…まあでも、本気で攻撃すべきやったな。
今なら、殺せたかも?」
妖しく微笑んで、岩永は言う。
「…嵐、やない…?」
「人型でもないだけど、岩永でもないね」
白倉は衝撃に青ざめる。吾妻の断言に“岩永”はにっこり笑った。
「うん。大体そんな感じ」
そして、右手を振り上げた。
温度操作の力で、吹雪が出現する。
吾妻が素早く業火を発生させ、放つ。
空間の中央で衝突し、相殺し合う。
「ん? 吾妻、今、手加減した?」
“岩永”はくすくす笑う。
吾妻は一瞬茫然としたが、すぐに我に返って、今度は全力で炎を放った。
白倉もようやく冷静さを取り戻したのか、合わせて衝撃波を放つ。
“岩永”が右手を振るい、今度は巨大なかまいたちを撃った。
ぶつかりあって、消える。また相殺。
吾妻も白倉も衝撃を受けた。
岩永は自分たちの攻撃を「吸収」することはできても、温度操作の力で相殺しあえるほどの力はない、はずだ。
「なに驚くん?
お前らが知っとる岩永は、確かに力がもうちょい劣るけど、それは制御装置の所為。
制御装置のない、Sランクの本来の力。それだけや」
“岩永”は悠然と笑って言う。
信じられない。
なら、やはり人型ではない。
でも、自分たちの知る、岩永でもないのだ。
“岩永”は息を深く吸って、巨大な水を生み出す。
そして放った。
白倉が衝撃波を放とうとした瞬間、吾妻に身体を抱き込まれて、床にしゃがまされた。
なぜだと思う暇なく、頭上を通り過ぎた影が、“岩永”の身体にしがみつく。
がっちりと“岩永”の身体をホールドしたのは、山居だ。
「九生くん!」
山居の声に応えて、吾妻と白倉の背後に佇んだ九生が、指を大きく縦に切る。
指先から放たれた閃光の矢が、山居ごと“岩永”の腕を撃ち抜いた。
山居の身体が、霧散する。それは、鏡の破片となって床に落下した。
床に倒れた“岩永”が呻いて、九生を見上げると、山居はその隣にいた。無傷の姿で。
「さすが、“鏡”の能力者ってとこか…」
傷みに身を震わせながら立ち上がった“岩永”の腕から、多量の血が床に落ちた。
九生と山居は微かに衝撃を受ける。
「本気で、人間らしいの…」
「でも、岩永くんではない…」
人間。でも、岩永じゃない。
なら、彼はなんなんだ?
「自分、なにもんじゃ?」
「さあ? 倒して訊いたら?」
“岩永”はおどけて答える。
先刻のを見た通り、あの“岩永”は相当強い。
倒すには骨が折れる。
しかし、背後で響いた足音に、九生は微かに笑んだ。
“岩永”が巨大な吹雪の塊を放つ。
発動するまでの速度も、自分たちの知る岩永と比べて、五倍は勝る。
九生と山居は動かなかった。
二人の間をすり抜けて飛び出した二つの影が、手を振るう。
一人の手は、吹雪の刃を手で受け止め、ばらばらに破壊する。
一人は、放った雷撃で、吹雪をうち消した。
若松と、雪代だ。
その背後に佇むのは、化野。
穏やかに微笑んでいる。
「さて、キミが岩永じゃないっていうのはわかったよ。
…どうしようか?
何者か明かす気はないんだね?」
優位に立ったものの口調で、化野は朗々と話す。
「…化野か。
騎士二人を従えてとは、相変わらずやな」
「キミに“相変わらず”という台詞が言えるとは思わなかった。
おおよその予測は当たってるかな?」
化野の余裕を持った台詞に、“岩永”の眉が動く。
「倒して訊けばいいと言ったね?
じゃあそうしようか?」
「若松と雪代が?」
「キミが好きな方でいいよ?
どちらでも勝てないだろうから」
「ほんま、魔王っちゅうよりか、女王様やな」
ふんっ、と鼻で笑った“岩永”を見て、化野は不意にくすくす笑い出した。
本気で楽しそうに。
「…なんや?」
「気づいてないの?
俺が知る岩永や、さっきのキミより、ずっと早口で口数が多く、攻撃的。
…俺が怖いから、虚勢になる。違う?」
化野のゆったりとした、全く臆さない声に、“岩永”は目を瞑って、一歩後退った。
「キミも、俺には会いたくなかっただろう?
この展開は想定してなかったかい?」
「…………」
“岩永”は硬い表情で、化野を睨む。
化野のプレッシャーに気圧されている。
「見逃してあげてもいいよ?」
化野の唐突な提案に、驚いたのは白倉と吾妻、山居と九生だ。
若松と雪代は表情すら全く揺らがない。
「へえ? またなんで?」
“岩永”は化野から視線を逸らさず、逸らせずに、硬い声で問う。
「なんでか、キミを殺してしまうと、とても厄介なことになりそうだから、かな?」
化野は笑って答えた。
“岩永”が目を見開き、驚愕の表情を浮かべる。
「だから、見逃してもいいよ。
もちろん、タダじゃないけど」
化野は腕を組んで言う。
“岩永”が息を呑んで、いつでも戦えるように構えた。
「一つクイズを出そう。正解したら、逃がしてあげる」
穏やかですらある、高い声に、“岩永”は耳を疑った様子だった。
化野は綺麗に微笑んで、“岩永”からかなり離れた位置で、静かに言う。
「キミの知っている“俺”は、同じ状況下で、敵を逃がしてあげる男でしょうか?」
その言葉を理解しようとして、“岩永”はハッとした。
先ほどまで真田と雪代の背後にいた化野の姿が、ない。
瞬間、“岩永”の両腕と両足に鋭い痛みが走る。
立っていられずしゃがみこんだ。両腕と両足に深い傷が刻まれている。
大量の血が噴き出た。口からも吐血する。
化野は“岩永”の背後に立っていた。
「正解は、わかったかい?」
背後から“岩永”を見下ろす視線は、震え上がるような冷たい目だった。
“岩永”は唇を噛む。
が、その場を一瞬襲った嵐としか言えない突風と水に、白倉たちも九生たちも目を閉じた。
消え去ったあとには、“岩永”の姿はない。
瀬生いていない血痕だけが残っている。
「化野…」
九生が、「逃がさないんじゃなかったのか?」と微かに責めた口調で呼ぶ。
「だって、殺したり捕らえたりしてしまったら、ものすごく面倒で大変なことになるんだもの。あれ」
化野は暢気な顔で、しれっと答えた。
「…じゃあ、あれが何者か…」
白倉の問いに、化野は微笑む。
「知ってるけど、教えない。
君たちにとっては、ショック死するくらいあれな話だから」
にこにこと楽しそうで綺麗な笑顔で言われてしまい、それだけで充分怖かったので、白倉と吾妻は黙ってしまった。
「とりあえず、事態を収拾するのが先だよ」
説明を求める九生たちにそう言い、化野はさっさと他の階に向かってしまった。
真田と雪代も後を追い、その場に残されたのは白倉と吾妻、九生と山居。
「なあ、とりあえず、本物の岩永を探さねえか?」
なんとなく黙っていると、九生が不意に言った。
「あれは岩永じゃないってわかっとるが、確証を俺達はしらんしの。
ちょっと不安じゃ」
九生のいうことはもっともだ。
白倉と吾妻も実は不安だった。
「あいつらの性格に限って、部屋でじっとしとるってことはないの。
他の階を探そうぜ」
「ああ」
白倉は頷く。
吾妻も頷いて、歩きだした九生たちの後を追う。
白倉は不意に歩みを止めて、足下の床に落ちた血を指先で拭う。
指先にべっとりと付着した赤は、なま暖かい。
間違いなく本物の血だ。人間だ。
でも、岩永じゃない、はずだ。
そうだ。岩永じゃない。
言っては失礼だが、彼はあんなに強くはない。
…はずだ。
判断するのを躊躇うのは、岩永が一年以上前のあの事件からずっと制御装置をつけているからだ。
制御装置がなければ、あの“岩永”が言った通り、あれくらいの実力が岩永にはあるはずだ。
あれが岩永ではないというより、九生のような能力者がいて、岩永は自分のように身体を操られていると考えた方が妥当じゃないのか?
だとしたら、やっぱりあれは。
「白倉!」
「わっ」
考えに沈んでいると、真横から大きな声で呼ばれて、白倉はびっくりした。
真横を咄嗟に見ると、吾妻が不安そうに見ていた。
「こんなとこに立ち止まったまま、ついてこないから、戻ってきたよ。
どうしたの?」
白倉は吾妻の顔を見つめて、小さく息を吐く。
吾妻は白倉の頬を撫でた。
「顔色が悪いね。
岩永のこと?」
「…うん」
頷くと、吾妻は言葉を選ぶような沈黙を寄越したあと、真剣な顔をする。
「僕と同じこと考えてる?」
「吾妻も…?」
あれはやっぱり岩永なのではないか。
身体を操られているだけなのではないか。
「…うん。僕、他人の気配とかそうそう間違えない。自信ある。
だから、九生に身体操られてる時波や白倉のことすぐわかったし。
なんか、そんな感じしたっていうか、岩永であることに変わりないみたいな気配が…」
吾妻は言葉を探しながら、必死に説明して、「わかる?」と不安そうに訊いた。
白倉は頷く。
「じゃあ、やっぱり急いで探さないと。
嵐だったとしたら、人型以外のなにかが寮内にいるんだ…」
許可もなく身体を操れる、超能力者が。
その能力者が、人型も操っている可能性だってある。
「じゃ、急いで行こ。
九生たちに追いつけなくなるよ」
「うん」
吾妻が手を差し伸べる。大きな浅黒い手の平。
「心配だから、手ば繋ごう」
『こうしてこ』
同じような台詞、つい最近言われた気がした。
「吾妻」
「うん?」
吾妻は笑ったまま、首を傾げた。
「同じようなこと、最近言ったよな?」
大したことではない。なのに、なぜか訊いてしまった。
「…同じようなこと?
年中じゃない?」
吾妻は真顔で答えて、少し気恥ずかしそうにすると、白倉の手を握った。
「白倉!」
大声で、焦燥感すら持って、自分を呼ぶ声がした。
自分が見上げた吾妻の顔。唇は全く動いてなかった。
彼は一瞬、忌々しそうな視線を、自分の背後に向ける。
白倉はゆっくりと背後を振り返る。
そこに、吾妻が立っている。
すぐに理解できなくて、もう一度自分の手を握る吾妻を見た。
目の前にきちんといる。自分の手を握っている。
なのに、背後にもいる。
混乱した。
「白倉を離せ!」
「いやだよ。あんたこそ、誰?」
吾妻は肩をきつく掴み、自分を抱き込む。
「白倉。さっきの岩永、もしかしたら姿を真似る能力があるんかもしれないよ。
そいつも、そうかも」
自分を抱いた吾妻がそう言う。
離れた位置に立っているもう一人が、わけがわからないものを見るような目をした。
「…白倉?」
不安そうに自分を呼び、傍に来て欲しいと泣きそうに訴える。
「どっちでもいいよ。
どのみち敵だよ」
「…待っ」
自分を抱く吾妻の低い声に、白倉は我に返った。
自分を肩に抱き上げ、吾妻は手を振るう。
炎が発生し、離れた位置に立つ吾妻に向かった。
彼は咄嗟に発生させた炎で防御するが、背後に吹っ飛ばされて、よろけながらどうにか着地する。
彼のシャツが少し焦げている。
「どんどん行くよ」
「吾妻、待って!」
「なんで?」
白倉は吾妻の服を掴んで、降ろすよう言うが、彼は訊かない。
手を大きく振るう。大きな風が踊った。
白倉と吾妻の周囲を踊るのは、熱く大きな竜巻。
遠く離れた吾妻に向かって、猛スピードで床を走った。
吾妻は自分の前で炎を発生させる。
だが、竜巻に触れた瞬間、巨大な火柱になって、彼の身体を浸食した。
「――――っ!」
「吾妻!」
床に膝を突き、激痛に堪える吾妻の声に、白倉は目を瞑る。
自分を抱く男の手を揺すったが、離れない。
吾妻じゃない。自分を抱く彼は吾妻じゃない。
こんなやり方はしない。あんなひどい戦い方はしない。
なにより、熱を操って“風”を発生させるような応用、吾妻は知らないはずだ。
「白倉、どっちが本物でもいいでしょ?
より優れた方が、傍にいたほうがいい」
抱き上げた自分を見上げて、彼は言う。
吾妻の顔。なのに知らない男の顔。
でも、吾妻の顔だ。
「僕は負けないよ。白倉に会うために、守るために、強くなった」
「…お前は…」
白倉は震える声で尋ねる。
吾妻は妖しく微笑んだ。
「三年一組所属、吾妻財前。
そして、」
彼は向こうで、傷みに身を震わせながら立ち上がる吾妻を見る。
そして、自分の胸を軽く触る。
「SSランクの能力者。
すごく強いよ?」
白倉を見上げて、とても優しく微笑む。
「…」
白倉は息を呑んで、“吾妻”の頬にそっと触れた。
「じゃあ、あの嵐は、お前とおなじ?」
震える白い手に、自分の手を添えて、“吾妻”は幸せそうに笑った。
「答えたら、白倉は傍にいてくれる?
僕のものになってくれる?」
恍惚とした表情で、自分を見つめる。
白倉は小さく頷いた。
「…Yes.
僕とあいつは同じ。僕と同じように、あいつも白倉たちの知る岩永と違って、すごく強いよ。
僕達は、紛れもなく本物だ」
「…本物?」
「本物の吾妻財前と、岩永嵐。
そこに、“世界”の差はあれど」
“吾妻”は白倉を見つめ、微笑んだ。
その部屋には岩永しかいない。
傍に倒れているのは、先ほどまで志津樹の姿をしていた。
今はただの機械の塊。人型だ。
自分を「嵐」と呼んだ。今の志津樹はもう呼ばない。
腕や足のあちこちにひどくできた火傷のせいで、少しの運動もきつい。
息が上がる。
でもはやく、村崎の元に行かなければ。
呼吸を整えて歩きだそうとした瞬間、腕が鋭く痛んだ。
火傷の痛みにしてはおかしい。
右手を見遣って、ぎょっとした。
なにか細いレーザーで撃ち抜かれたように、腕の真ん中に穴が開いて、多量の血が流れ出している。
「…なん、これ…」
まさか、敵がまだいたのか、と周囲を見渡すが、人気のない部屋が見えるばかり。
安心はできない。
用心深く、奥の寝室を見遣った岩永は、思わずその場に膝を突いた。
両腕と両足。二の腕と太股が一瞬で裂けて、血が噴き出した。
「なっ…」
口から血を吐く。
荒く呼吸を吐いて、大量に血が流れる腕を押さえようとしたが、両腕と両足が同じ状態なのだ。どうしたらいいかもわからない。
そもそも、どこにも敵はいないはずだ。
なのに、どうして。
「……」
どのくらい、痛みと疑心を抱えていたのか、不意に気づいた。
出血が収まっている。痛みが消えている。
腕と足を見ると、火傷以外の傷が消えている。
レーザーが撃ったような怪我も、四肢の怪我も。
残ったのは、床の血溜まりのみ。
「…なんや、今の」
確かに傷を負った。なのにまるで、“魔法”みたいに、癒えてしまった。
いや、そもそも怪我自体が、夢だった?
なにかの能力による幻だった?
そう思った方が自然だ。なのに、違うと思った。
“岩永”は、その廊下に足を踏み入れて、ため息を吐いた。
化野と九生に負わされた傷はすっかり消えている。
四階の廊下。
床と壁には、炎が暴れた跡が残っている。
焼けたあとや、灼熱に溶けた跡。
そして、床に倒れた二人の男。
“ここ”の、夕と明里だ。
全身に酷い火傷を負っている。意識もない。
あいつの仕業か。
しかし、このままでは死ぬのではないか。
知ったことではないが、困るかもしれない。
「ま、あいつもあいつで……俺以上に歪んでるとこもあるからな…………」
呟いて、“岩永”は廊下の真ん中に立つと、右手の指先で頭上に円を描く。
足下。岩永を軸に向こうの壁の端から円状に走ってきた光の粒子が、夕や明里の身体を這って、“岩永”の足下から指先まで流れる。
指先の上で微かに輝いた光は、すぐに消えた。
倒れている夕と明里の身体に、もうどこにも負傷がないことを確認して“岩永”は歩きだした。
その場をあとにする。
彼が去って数分。
夕が呻いて、身を起こした。
倒れた明里の姿に気づき、駆け寄って、名前を呼んで揺さぶった。
明里が目を開けると、夕は安堵で泣きそうな顔をする。
「…あれ、俺ら」
明里は起きあがって、不思議そうにした。
「吾妻先輩の人型と戦ってのされたはずっすよね?」
「あ、ああ……そういや」
確かに負けた。死ぬかもと思ったのに、どこにも火傷を負っていない。
夕も首を傾げた。
廊下の奥から靴音が響いて、夕と明里は立ち上がって構えるが、姿を見せた村崎に、安堵する。
「無事だったか…」
「静流さんも。嵐は?」
「志津樹に任せたが…」
村崎は一度大きく息を吐く。安心した、と。
「お前らは、よく無事やったな…」
「いや、負けたはずなんだけど」
「怪我がなんでか治っとって」
夕と明里の話に、村崎は首を傾げた。
「とりあえず、嵐のとこに戻ったら?
もう大丈夫だし、あいついないし」
「……ああ」
村崎はいまいち納得がいかない様子だったが、頷いた。
「俺らは、この階を一周してみるわ」
「ああ…」
村崎はもう一度頷く。
踵を返して、岩永の元に向かった。
なんだろう。納得がいかない。
怪我が治るものなのか?
そもそも、今が、時間も状況も不確かで幻みたいで、まるで夢のなかみたいだ。
廊下の角を曲がった瞬間、歩いてきた男とぶつかった。
彼が尻餅を付く。
村崎は彼を見て、安堵に気が緩んだ。
岩永だ。
「あ、よかった。無事やったんや…」
岩永は手を差し出した村崎を見上げて、笑った。
「お前も…、怪我は?」
彼はひどい火傷を負っていたはずだ。
立ち上がった彼は、服が破れてはいるが、無傷。
「わからん。なんか急に治ってもうて…」
岩永自身、不思議でならないという風だ。
さっきの夕たちの話もある。
やっぱり、今のこの空間はおかしいのだ、と思って、村崎は納得してしまった。
「少し休まへん?」
「…せやな」
岩永が疲れた様子で言ったので、村崎は頷いて、壁に背を預けて座り込んだ。
隣に、岩永が腰を下ろす。
「なんか、夢みたいやな」
「儂もそう思う」
あやふやで、不確かで、おかしい。
一体、今はなんなんだろう。何が起ことているのか。
「夢って言ったら、静流の告白も大概やったけど」
岩永が笑う。
「そうか?」
「うん。やって、四月一日やったやん?
やから、俺てっきりエイプリルフールかと思っとって」
村崎は、目を瞑って、隣に座る岩永の顔を見た。
理解が追いつかない。思考が軋む。
彼はなんて言った?
「…去年の五月十九日、俺が怖いって言うたら、本屋の前やったのに抱きしめてくれた」
岩永は優しい眼差しを、壁に向けている。思い出すように。
微笑んで、村崎の方を見て、その瞳を見上げた。
「…人型やないよ。やったら、記憶をコピーできひんやんか。
静流の知る“俺”の記憶は、消滅してもうて、もう戻らへんのやから」
村崎は勢いよく立ち上がった。
彼を見下ろす。
信じられない。
「俺は、あの日の記憶を持っとる。全部、覚えとる。
静流をなにひとつ忘れてへん」
岩永はゆっくり立ち上がって、村崎に向き直る。
「静流」
柔らかく微笑む顔は、自分が大好きな笑顔だ。
五月十九日。暴走の前日の。
覚えてる。忘れるものか。
あの日の自分の無力さを、忘れたことはない。
あの日のことは、誰にも話していない。
自分と、岩永しか知らない。岩永にその記憶はない。
なら、目の前にいる彼は。
「俺には、静流がしてくれたこと、なにも無駄やなかった。
あの日の温もりを思って、生きて来れた」
彼は綺麗な笑みを浮かべて、自分を見上げる。
「…会いたかった」
自分の胸元に抱きついてきた身体。暖かさ。匂い。
なにも違わない岩永だ。
あの日から、自分が会いたかった、求め続けた、自分の思い出を知る岩永。
その肩を抱きしめる日を、どれだけ待ち望んだか。
腕を持ち上げて、抱きしめようとして、村崎は動きを止めた。
“村崎”
自分がよく知る、なにも知らなくて、臆病で、純情な彼が、名前を呼ぶ声がする。
岩永の背後に回り、自分が放った攻撃の矢面に立てる。
ここは戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉じゃない。
岩の刃は岩永の胸元を狙うように直進する。
「嵐!!」
瞬間、その場を強い粉塵が覆った。
「…嵐…?」
村崎の両足ががくがくと震えた。
立っていることもおぼつかない。
岩永に、もし自分の攻撃が直撃していたら。
戦闘鳥籠〈バトルケイジ〉じゃないのだ。死ぬ可能性だってある。
恐ろしくて、全身が震えた。
「嵐!」
彼に、返事をしてくれと叫ぶ。
何度も、必死で名を呼んだ。
不意に、その場に風が吹いた。
風は粉塵を吹き飛ばし、視界をクリアにする。
廊下の向こうには、あの吾妻の姿をした男のみ。
彼自身、微かに驚いている。
宙から現れ、彼に向かった真空刃と漆黒の刃を、“吾妻”は大きく後退して防ぐ。
村崎の斜め後ろで、突風が吹き荒れた。
視線を移すと、つむじ風のように踊る風。それが晴れると、そこには負傷しているが、無事な姿の岩永が現れた。
「嵐!」
たまらなく安堵しながら、村崎は岩永に駆け寄る。
「村崎…」
岩永も、無事な村崎を見て安心したようで、名前を呼んで村崎の身体に手を伸ばした。
村崎と岩永と、その男の間の空間に、風をまとって現れたのは、夕と明里だ。
おそらく夕が風を使って、岩永を移動させたのだ。
「静流さん! 嵐を安全な場所に連れて行け!」
「ここは任せてください!」
夕は振り返らず、明里は少しだけ村崎たちを振り返って言う。
村崎は一瞬躊躇った。
あの“吾妻”は強い。
岩永すら歯が立たなかったのだ。
夕と明里ではとても――――。
だが、
「ああ、…無茶はするな!」
村崎は岩永を肩に担ぐように抱き上げて、その場から駆け出した。
彼らとは反対方向の廊下に向かう。
「さて、今度は俺らの相手をしてもらうぞ」
夕が風を腕に纏わせて、挑発する。
その傍らで明里は身を低くして構えた。
“吾妻”は不敵に微笑む。
「ま、適当に遊んであげるよ」
「村崎っ…待って…!」
村崎も、自分や夕に及ばないが、普通の男よりは足が速い。
あっという間に、静かな、いくつも部屋の扉が並ぶ廊下までやってこれた。
「村崎…」
岩永は村崎の名前を呼んで、痛む体を動かす。
「じっとしとけ。傷がひどい」
「やけど、夕たちが…」
夕たちでは、分が悪い。
勝てないだろう。
自分をがっちり抱えて担ぐ村崎の腕の所為で、降りたくても降りられない。
「ほな、お前があそこにおって、なにかできたんか?」
「…それは」
岩永自身、自分が深手とまで行かなくとも、戦闘続行の難しい怪我を負ったことは自覚している。
あの場にいても、足かせになるだけだ。
「人質に使われる可能性やってあるんや。流河がおれば、まだ違ったかもしれんが」
「…」
村崎の硬い声に、岩永は俯いた。
でも、なんか違う。
村崎があの場から離れた理由は、違うところにある気がして。
「むら…」
不意に村崎が足を止めた。
並ぶ扉の一つが開く。
顔を出したのは彼の弟だった。
「兄さん!?」
びっくりして駆け寄ってきた志津樹に、村崎は顔をホッと綻ばせ、岩永を肩から降ろした。
「岩永さん、その怪我…!」
「志津樹。しばらく嵐を見ててくれ」
「え」
問答無用で岩永と志津樹を、志津樹がいた部屋に押し込んで、村崎は言う。
「…村崎?」
岩永の不安げな声に、村崎は硬い表情のまま、彼を見る。
そして、岩永の身体をきつく抱きしめた。
その腕や、大きな身体が震えている。
だって、おかしいと思った。
自分はわかる。もう戦えないだろう。
でもなんで、村崎自身まで“戦力外”みたいな判断をしたんだ?
まるで、村崎自身、自分があそこにいても役立たずだと思ったみたいな。
「…死んだかと思った」
低く、絞り出すような苦しげな声が、耳元で聞こえた。
「悪かった」
そう思った時には、身体を離されていた。
村崎は背中を向けて、部屋を飛び出す。
「村崎…っ!」
追おうとしたが、足が痛んでその場に膝を突く。
「違う…」
茫然として、岩永は呟く。
相手が悪かっただけだ。自分だって敵わなかった。
そんな、そんな風に、「自分が守れなかったから」って自責するのは違う。
そんな風に、「落とし前」をつけにいくみたいな顔で、出ていくのは違う。
志津樹が心配そうに、岩永の傍にしゃがみ込む。
「とりあえず、手当しましょう?
嵐さん」
志津樹の言葉に、かろうじて頷く。それしかできない。
吾妻と白倉は部屋を出て、六階に来ていた。
放送は聴いた。
部屋でじっとしていても良いとは思えない。
「だけど、人型の見抜き方とかはないのかな?」
「お前の場合、テレパスが使えるんじゃないか?」
人型は人間やないから、と白倉が言う。吾妻もああ、そっか、と手を叩いた。
遠くの方で地響きと悲鳴が聞こえる。
顔を見合わせて走り出した瞬間、傍の扉が開いて吾妻は顔を強打した。
「~~~~~~!!!」
「吾妻。大丈夫…?」
顔面を押さえて呻く吾妻を、白倉が心配そうに伺う。
扉が閉じて、開けた主が顔を覗かせた。
「うわ、吾妻! ごめん!」
「嵐!」
岩永だった。
彼もまさか誰かに扉が当たると思わなかったのか、びっくり顔で吾妻の傍に近寄った。
「すまん。まさかそこにおると思わんくて」
「いや…いいよ」
吾妻は顔を押さえる手を外して、岩永に気にするな、と言う。
「今から様子を見に行くとこ?」
「うん」
吾妻が打った所為で赤い顔で尋ねると、岩永は頷いた。
「流河たちは? 一緒じゃないの?」
「放送があったとき、部屋におったん俺一人や。
帰ってこうへんから、心配で」
待とうとも思ったんやけど、と岩永は不安げに言う。
吾妻は微かに眉を寄せた。
「吾妻?」
「いや…」
吾妻は腕を組んで首をひねった。
なんだろう。腑に落ちない。
「村崎は心配して来なかったの?」
「静流? さあ、まだ会ってへん」
首を傾げた岩永に、吾妻は目を瞑って、白倉の腕を掴んで自分の傍に引っ張った。
「吾妻?」
白倉と岩永の両方が、怪訝な顔をした。
「“静流”?
昨日まで、“村崎”だったよね?」
吾妻のきつい声音に、白倉もハッとする。
岩永はびっくりして、慌てた。
「いや、早合点やで?
ZIONん時からそういう話出とったし、今朝呼んでええか訊いたとこで」
白倉は吾妻を見上げて、また岩永に視線を戻した。
どこからどうみても、岩永だ。
おかしな感じもしない。
本物だと思う。
「あ、ほな、テレパスの力使ったらええんよ。
俺の心読んだら。人型なら不可能やもん」
岩永の持ち出した提案は、先ほど白倉も言った案だ。
「な?」
岩永は必死な顔でそう訴える。
それに、ちゃんと感情は伴っていると思う。作り物ではないと、吾妻にも思えた。
「…じゃあ」
吾妻は警戒したまま、岩永の心を読むようイメージする。
流れ込んできたのは、村崎との会話の記憶や、流河・優衣たちと出かけた時の風景。
「…どう?」
岩永はおそるおそる問いかけてきた。
「……ごめん。僕の早合点…」
心が読める。心がある。それに、間違いなく岩永の記憶だ。
吾妻は謝った。
岩永は安堵を顔に滲ませて、別にわかってくれたらええし、と笑った。
白倉もホッとする。
「ほな、一緒に行こうや。一人やと心細いし」
岩永は廊下の向こうを指さして言う。
「ああ…」
吾妻は頷いたが、やっぱりなにか腑に落ちない。
本物のはずなのに、自分の本能が「違う」とうるさく訴える。
「…吾妻?」
歩きだした足をまた止めた吾妻に、白倉が視線を寄越した。
「ごめんな」
吾妻は険しい顔で一言謝った。
吾妻の手に炎が発生し、岩永を襲った。
「吾妻!?」
白倉が驚きの声を挙げる。吾妻は構わず白倉を抱きかかえ、背後に大きく飛んだ。
炎が一点に集中して、消える。吸収の力だ。
「ひどい吾妻。攻撃するなんて」
岩永は拗ねた口調で吾妻を詰った。
普通なら、衝撃を受けてそれどころではないはずだ。もっと慌てるのに、彼は開き直ったように落ち着いている。
「…まあでも、本気で攻撃すべきやったな。
今なら、殺せたかも?」
妖しく微笑んで、岩永は言う。
「…嵐、やない…?」
「人型でもないだけど、岩永でもないね」
白倉は衝撃に青ざめる。吾妻の断言に“岩永”はにっこり笑った。
「うん。大体そんな感じ」
そして、右手を振り上げた。
温度操作の力で、吹雪が出現する。
吾妻が素早く業火を発生させ、放つ。
空間の中央で衝突し、相殺し合う。
「ん? 吾妻、今、手加減した?」
“岩永”はくすくす笑う。
吾妻は一瞬茫然としたが、すぐに我に返って、今度は全力で炎を放った。
白倉もようやく冷静さを取り戻したのか、合わせて衝撃波を放つ。
“岩永”が右手を振るい、今度は巨大なかまいたちを撃った。
ぶつかりあって、消える。また相殺。
吾妻も白倉も衝撃を受けた。
岩永は自分たちの攻撃を「吸収」することはできても、温度操作の力で相殺しあえるほどの力はない、はずだ。
「なに驚くん?
お前らが知っとる岩永は、確かに力がもうちょい劣るけど、それは制御装置の所為。
制御装置のない、Sランクの本来の力。それだけや」
“岩永”は悠然と笑って言う。
信じられない。
なら、やはり人型ではない。
でも、自分たちの知る、岩永でもないのだ。
“岩永”は息を深く吸って、巨大な水を生み出す。
そして放った。
白倉が衝撃波を放とうとした瞬間、吾妻に身体を抱き込まれて、床にしゃがまされた。
なぜだと思う暇なく、頭上を通り過ぎた影が、“岩永”の身体にしがみつく。
がっちりと“岩永”の身体をホールドしたのは、山居だ。
「九生くん!」
山居の声に応えて、吾妻と白倉の背後に佇んだ九生が、指を大きく縦に切る。
指先から放たれた閃光の矢が、山居ごと“岩永”の腕を撃ち抜いた。
山居の身体が、霧散する。それは、鏡の破片となって床に落下した。
床に倒れた“岩永”が呻いて、九生を見上げると、山居はその隣にいた。無傷の姿で。
「さすが、“鏡”の能力者ってとこか…」
傷みに身を震わせながら立ち上がった“岩永”の腕から、多量の血が床に落ちた。
九生と山居は微かに衝撃を受ける。
「本気で、人間らしいの…」
「でも、岩永くんではない…」
人間。でも、岩永じゃない。
なら、彼はなんなんだ?
「自分、なにもんじゃ?」
「さあ? 倒して訊いたら?」
“岩永”はおどけて答える。
先刻のを見た通り、あの“岩永”は相当強い。
倒すには骨が折れる。
しかし、背後で響いた足音に、九生は微かに笑んだ。
“岩永”が巨大な吹雪の塊を放つ。
発動するまでの速度も、自分たちの知る岩永と比べて、五倍は勝る。
九生と山居は動かなかった。
二人の間をすり抜けて飛び出した二つの影が、手を振るう。
一人の手は、吹雪の刃を手で受け止め、ばらばらに破壊する。
一人は、放った雷撃で、吹雪をうち消した。
若松と、雪代だ。
その背後に佇むのは、化野。
穏やかに微笑んでいる。
「さて、キミが岩永じゃないっていうのはわかったよ。
…どうしようか?
何者か明かす気はないんだね?」
優位に立ったものの口調で、化野は朗々と話す。
「…化野か。
騎士二人を従えてとは、相変わらずやな」
「キミに“相変わらず”という台詞が言えるとは思わなかった。
おおよその予測は当たってるかな?」
化野の余裕を持った台詞に、“岩永”の眉が動く。
「倒して訊けばいいと言ったね?
じゃあそうしようか?」
「若松と雪代が?」
「キミが好きな方でいいよ?
どちらでも勝てないだろうから」
「ほんま、魔王っちゅうよりか、女王様やな」
ふんっ、と鼻で笑った“岩永”を見て、化野は不意にくすくす笑い出した。
本気で楽しそうに。
「…なんや?」
「気づいてないの?
俺が知る岩永や、さっきのキミより、ずっと早口で口数が多く、攻撃的。
…俺が怖いから、虚勢になる。違う?」
化野のゆったりとした、全く臆さない声に、“岩永”は目を瞑って、一歩後退った。
「キミも、俺には会いたくなかっただろう?
この展開は想定してなかったかい?」
「…………」
“岩永”は硬い表情で、化野を睨む。
化野のプレッシャーに気圧されている。
「見逃してあげてもいいよ?」
化野の唐突な提案に、驚いたのは白倉と吾妻、山居と九生だ。
若松と雪代は表情すら全く揺らがない。
「へえ? またなんで?」
“岩永”は化野から視線を逸らさず、逸らせずに、硬い声で問う。
「なんでか、キミを殺してしまうと、とても厄介なことになりそうだから、かな?」
化野は笑って答えた。
“岩永”が目を見開き、驚愕の表情を浮かべる。
「だから、見逃してもいいよ。
もちろん、タダじゃないけど」
化野は腕を組んで言う。
“岩永”が息を呑んで、いつでも戦えるように構えた。
「一つクイズを出そう。正解したら、逃がしてあげる」
穏やかですらある、高い声に、“岩永”は耳を疑った様子だった。
化野は綺麗に微笑んで、“岩永”からかなり離れた位置で、静かに言う。
「キミの知っている“俺”は、同じ状況下で、敵を逃がしてあげる男でしょうか?」
その言葉を理解しようとして、“岩永”はハッとした。
先ほどまで真田と雪代の背後にいた化野の姿が、ない。
瞬間、“岩永”の両腕と両足に鋭い痛みが走る。
立っていられずしゃがみこんだ。両腕と両足に深い傷が刻まれている。
大量の血が噴き出た。口からも吐血する。
化野は“岩永”の背後に立っていた。
「正解は、わかったかい?」
背後から“岩永”を見下ろす視線は、震え上がるような冷たい目だった。
“岩永”は唇を噛む。
が、その場を一瞬襲った嵐としか言えない突風と水に、白倉たちも九生たちも目を閉じた。
消え去ったあとには、“岩永”の姿はない。
瀬生いていない血痕だけが残っている。
「化野…」
九生が、「逃がさないんじゃなかったのか?」と微かに責めた口調で呼ぶ。
「だって、殺したり捕らえたりしてしまったら、ものすごく面倒で大変なことになるんだもの。あれ」
化野は暢気な顔で、しれっと答えた。
「…じゃあ、あれが何者か…」
白倉の問いに、化野は微笑む。
「知ってるけど、教えない。
君たちにとっては、ショック死するくらいあれな話だから」
にこにこと楽しそうで綺麗な笑顔で言われてしまい、それだけで充分怖かったので、白倉と吾妻は黙ってしまった。
「とりあえず、事態を収拾するのが先だよ」
説明を求める九生たちにそう言い、化野はさっさと他の階に向かってしまった。
真田と雪代も後を追い、その場に残されたのは白倉と吾妻、九生と山居。
「なあ、とりあえず、本物の岩永を探さねえか?」
なんとなく黙っていると、九生が不意に言った。
「あれは岩永じゃないってわかっとるが、確証を俺達はしらんしの。
ちょっと不安じゃ」
九生のいうことはもっともだ。
白倉と吾妻も実は不安だった。
「あいつらの性格に限って、部屋でじっとしとるってことはないの。
他の階を探そうぜ」
「ああ」
白倉は頷く。
吾妻も頷いて、歩きだした九生たちの後を追う。
白倉は不意に歩みを止めて、足下の床に落ちた血を指先で拭う。
指先にべっとりと付着した赤は、なま暖かい。
間違いなく本物の血だ。人間だ。
でも、岩永じゃない、はずだ。
そうだ。岩永じゃない。
言っては失礼だが、彼はあんなに強くはない。
…はずだ。
判断するのを躊躇うのは、岩永が一年以上前のあの事件からずっと制御装置をつけているからだ。
制御装置がなければ、あの“岩永”が言った通り、あれくらいの実力が岩永にはあるはずだ。
あれが岩永ではないというより、九生のような能力者がいて、岩永は自分のように身体を操られていると考えた方が妥当じゃないのか?
だとしたら、やっぱりあれは。
「白倉!」
「わっ」
考えに沈んでいると、真横から大きな声で呼ばれて、白倉はびっくりした。
真横を咄嗟に見ると、吾妻が不安そうに見ていた。
「こんなとこに立ち止まったまま、ついてこないから、戻ってきたよ。
どうしたの?」
白倉は吾妻の顔を見つめて、小さく息を吐く。
吾妻は白倉の頬を撫でた。
「顔色が悪いね。
岩永のこと?」
「…うん」
頷くと、吾妻は言葉を選ぶような沈黙を寄越したあと、真剣な顔をする。
「僕と同じこと考えてる?」
「吾妻も…?」
あれはやっぱり岩永なのではないか。
身体を操られているだけなのではないか。
「…うん。僕、他人の気配とかそうそう間違えない。自信ある。
だから、九生に身体操られてる時波や白倉のことすぐわかったし。
なんか、そんな感じしたっていうか、岩永であることに変わりないみたいな気配が…」
吾妻は言葉を探しながら、必死に説明して、「わかる?」と不安そうに訊いた。
白倉は頷く。
「じゃあ、やっぱり急いで探さないと。
嵐だったとしたら、人型以外のなにかが寮内にいるんだ…」
許可もなく身体を操れる、超能力者が。
その能力者が、人型も操っている可能性だってある。
「じゃ、急いで行こ。
九生たちに追いつけなくなるよ」
「うん」
吾妻が手を差し伸べる。大きな浅黒い手の平。
「心配だから、手ば繋ごう」
『こうしてこ』
同じような台詞、つい最近言われた気がした。
「吾妻」
「うん?」
吾妻は笑ったまま、首を傾げた。
「同じようなこと、最近言ったよな?」
大したことではない。なのに、なぜか訊いてしまった。
「…同じようなこと?
年中じゃない?」
吾妻は真顔で答えて、少し気恥ずかしそうにすると、白倉の手を握った。
「白倉!」
大声で、焦燥感すら持って、自分を呼ぶ声がした。
自分が見上げた吾妻の顔。唇は全く動いてなかった。
彼は一瞬、忌々しそうな視線を、自分の背後に向ける。
白倉はゆっくりと背後を振り返る。
そこに、吾妻が立っている。
すぐに理解できなくて、もう一度自分の手を握る吾妻を見た。
目の前にきちんといる。自分の手を握っている。
なのに、背後にもいる。
混乱した。
「白倉を離せ!」
「いやだよ。あんたこそ、誰?」
吾妻は肩をきつく掴み、自分を抱き込む。
「白倉。さっきの岩永、もしかしたら姿を真似る能力があるんかもしれないよ。
そいつも、そうかも」
自分を抱いた吾妻がそう言う。
離れた位置に立っているもう一人が、わけがわからないものを見るような目をした。
「…白倉?」
不安そうに自分を呼び、傍に来て欲しいと泣きそうに訴える。
「どっちでもいいよ。
どのみち敵だよ」
「…待っ」
自分を抱く吾妻の低い声に、白倉は我に返った。
自分を肩に抱き上げ、吾妻は手を振るう。
炎が発生し、離れた位置に立つ吾妻に向かった。
彼は咄嗟に発生させた炎で防御するが、背後に吹っ飛ばされて、よろけながらどうにか着地する。
彼のシャツが少し焦げている。
「どんどん行くよ」
「吾妻、待って!」
「なんで?」
白倉は吾妻の服を掴んで、降ろすよう言うが、彼は訊かない。
手を大きく振るう。大きな風が踊った。
白倉と吾妻の周囲を踊るのは、熱く大きな竜巻。
遠く離れた吾妻に向かって、猛スピードで床を走った。
吾妻は自分の前で炎を発生させる。
だが、竜巻に触れた瞬間、巨大な火柱になって、彼の身体を浸食した。
「――――っ!」
「吾妻!」
床に膝を突き、激痛に堪える吾妻の声に、白倉は目を瞑る。
自分を抱く男の手を揺すったが、離れない。
吾妻じゃない。自分を抱く彼は吾妻じゃない。
こんなやり方はしない。あんなひどい戦い方はしない。
なにより、熱を操って“風”を発生させるような応用、吾妻は知らないはずだ。
「白倉、どっちが本物でもいいでしょ?
より優れた方が、傍にいたほうがいい」
抱き上げた自分を見上げて、彼は言う。
吾妻の顔。なのに知らない男の顔。
でも、吾妻の顔だ。
「僕は負けないよ。白倉に会うために、守るために、強くなった」
「…お前は…」
白倉は震える声で尋ねる。
吾妻は妖しく微笑んだ。
「三年一組所属、吾妻財前。
そして、」
彼は向こうで、傷みに身を震わせながら立ち上がる吾妻を見る。
そして、自分の胸を軽く触る。
「SSランクの能力者。
すごく強いよ?」
白倉を見上げて、とても優しく微笑む。
「…」
白倉は息を呑んで、“吾妻”の頬にそっと触れた。
「じゃあ、あの嵐は、お前とおなじ?」
震える白い手に、自分の手を添えて、“吾妻”は幸せそうに笑った。
「答えたら、白倉は傍にいてくれる?
僕のものになってくれる?」
恍惚とした表情で、自分を見つめる。
白倉は小さく頷いた。
「…Yes.
僕とあいつは同じ。僕と同じように、あいつも白倉たちの知る岩永と違って、すごく強いよ。
僕達は、紛れもなく本物だ」
「…本物?」
「本物の吾妻財前と、岩永嵐。
そこに、“世界”の差はあれど」
“吾妻”は白倉を見つめ、微笑んだ。
その部屋には岩永しかいない。
傍に倒れているのは、先ほどまで志津樹の姿をしていた。
今はただの機械の塊。人型だ。
自分を「嵐」と呼んだ。今の志津樹はもう呼ばない。
腕や足のあちこちにひどくできた火傷のせいで、少しの運動もきつい。
息が上がる。
でもはやく、村崎の元に行かなければ。
呼吸を整えて歩きだそうとした瞬間、腕が鋭く痛んだ。
火傷の痛みにしてはおかしい。
右手を見遣って、ぎょっとした。
なにか細いレーザーで撃ち抜かれたように、腕の真ん中に穴が開いて、多量の血が流れ出している。
「…なん、これ…」
まさか、敵がまだいたのか、と周囲を見渡すが、人気のない部屋が見えるばかり。
安心はできない。
用心深く、奥の寝室を見遣った岩永は、思わずその場に膝を突いた。
両腕と両足。二の腕と太股が一瞬で裂けて、血が噴き出した。
「なっ…」
口から血を吐く。
荒く呼吸を吐いて、大量に血が流れる腕を押さえようとしたが、両腕と両足が同じ状態なのだ。どうしたらいいかもわからない。
そもそも、どこにも敵はいないはずだ。
なのに、どうして。
「……」
どのくらい、痛みと疑心を抱えていたのか、不意に気づいた。
出血が収まっている。痛みが消えている。
腕と足を見ると、火傷以外の傷が消えている。
レーザーが撃ったような怪我も、四肢の怪我も。
残ったのは、床の血溜まりのみ。
「…なんや、今の」
確かに傷を負った。なのにまるで、“魔法”みたいに、癒えてしまった。
いや、そもそも怪我自体が、夢だった?
なにかの能力による幻だった?
そう思った方が自然だ。なのに、違うと思った。
“岩永”は、その廊下に足を踏み入れて、ため息を吐いた。
化野と九生に負わされた傷はすっかり消えている。
四階の廊下。
床と壁には、炎が暴れた跡が残っている。
焼けたあとや、灼熱に溶けた跡。
そして、床に倒れた二人の男。
“ここ”の、夕と明里だ。
全身に酷い火傷を負っている。意識もない。
あいつの仕業か。
しかし、このままでは死ぬのではないか。
知ったことではないが、困るかもしれない。
「ま、あいつもあいつで……俺以上に歪んでるとこもあるからな…………」
呟いて、“岩永”は廊下の真ん中に立つと、右手の指先で頭上に円を描く。
足下。岩永を軸に向こうの壁の端から円状に走ってきた光の粒子が、夕や明里の身体を這って、“岩永”の足下から指先まで流れる。
指先の上で微かに輝いた光は、すぐに消えた。
倒れている夕と明里の身体に、もうどこにも負傷がないことを確認して“岩永”は歩きだした。
その場をあとにする。
彼が去って数分。
夕が呻いて、身を起こした。
倒れた明里の姿に気づき、駆け寄って、名前を呼んで揺さぶった。
明里が目を開けると、夕は安堵で泣きそうな顔をする。
「…あれ、俺ら」
明里は起きあがって、不思議そうにした。
「吾妻先輩の人型と戦ってのされたはずっすよね?」
「あ、ああ……そういや」
確かに負けた。死ぬかもと思ったのに、どこにも火傷を負っていない。
夕も首を傾げた。
廊下の奥から靴音が響いて、夕と明里は立ち上がって構えるが、姿を見せた村崎に、安堵する。
「無事だったか…」
「静流さんも。嵐は?」
「志津樹に任せたが…」
村崎は一度大きく息を吐く。安心した、と。
「お前らは、よく無事やったな…」
「いや、負けたはずなんだけど」
「怪我がなんでか治っとって」
夕と明里の話に、村崎は首を傾げた。
「とりあえず、嵐のとこに戻ったら?
もう大丈夫だし、あいついないし」
「……ああ」
村崎はいまいち納得がいかない様子だったが、頷いた。
「俺らは、この階を一周してみるわ」
「ああ…」
村崎はもう一度頷く。
踵を返して、岩永の元に向かった。
なんだろう。納得がいかない。
怪我が治るものなのか?
そもそも、今が、時間も状況も不確かで幻みたいで、まるで夢のなかみたいだ。
廊下の角を曲がった瞬間、歩いてきた男とぶつかった。
彼が尻餅を付く。
村崎は彼を見て、安堵に気が緩んだ。
岩永だ。
「あ、よかった。無事やったんや…」
岩永は手を差し出した村崎を見上げて、笑った。
「お前も…、怪我は?」
彼はひどい火傷を負っていたはずだ。
立ち上がった彼は、服が破れてはいるが、無傷。
「わからん。なんか急に治ってもうて…」
岩永自身、不思議でならないという風だ。
さっきの夕たちの話もある。
やっぱり、今のこの空間はおかしいのだ、と思って、村崎は納得してしまった。
「少し休まへん?」
「…せやな」
岩永が疲れた様子で言ったので、村崎は頷いて、壁に背を預けて座り込んだ。
隣に、岩永が腰を下ろす。
「なんか、夢みたいやな」
「儂もそう思う」
あやふやで、不確かで、おかしい。
一体、今はなんなんだろう。何が起ことているのか。
「夢って言ったら、静流の告白も大概やったけど」
岩永が笑う。
「そうか?」
「うん。やって、四月一日やったやん?
やから、俺てっきりエイプリルフールかと思っとって」
村崎は、目を瞑って、隣に座る岩永の顔を見た。
理解が追いつかない。思考が軋む。
彼はなんて言った?
「…去年の五月十九日、俺が怖いって言うたら、本屋の前やったのに抱きしめてくれた」
岩永は優しい眼差しを、壁に向けている。思い出すように。
微笑んで、村崎の方を見て、その瞳を見上げた。
「…人型やないよ。やったら、記憶をコピーできひんやんか。
静流の知る“俺”の記憶は、消滅してもうて、もう戻らへんのやから」
村崎は勢いよく立ち上がった。
彼を見下ろす。
信じられない。
「俺は、あの日の記憶を持っとる。全部、覚えとる。
静流をなにひとつ忘れてへん」
岩永はゆっくり立ち上がって、村崎に向き直る。
「静流」
柔らかく微笑む顔は、自分が大好きな笑顔だ。
五月十九日。暴走の前日の。
覚えてる。忘れるものか。
あの日の自分の無力さを、忘れたことはない。
あの日のことは、誰にも話していない。
自分と、岩永しか知らない。岩永にその記憶はない。
なら、目の前にいる彼は。
「俺には、静流がしてくれたこと、なにも無駄やなかった。
あの日の温もりを思って、生きて来れた」
彼は綺麗な笑みを浮かべて、自分を見上げる。
「…会いたかった」
自分の胸元に抱きついてきた身体。暖かさ。匂い。
なにも違わない岩永だ。
あの日から、自分が会いたかった、求め続けた、自分の思い出を知る岩永。
その肩を抱きしめる日を、どれだけ待ち望んだか。
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“村崎”
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