69 / 103
第八章 さよならの森の中で
第十二話 そして僕はその手を離す
しおりを挟む
地下都市に向かう道中の空は晴れていた。
自分の気持ちとは裏腹に、綺麗な快晴。
雲もない。
ああ、あの日もこんな空だった。
一瞬で思いはあの日に戻る。
あの日、自分はその手を離した。
一生離さないと誓ったはずの、その手を、離してしまった。
「村崎、大丈夫か?」
再び不安定な状態に戻ってしまった岩永の傍にはいられず、通路に出て、茫然としていた。
記憶は重くはない。
そう思った。
笑う岩永が傍にいるなら、それでいい。
岩永が自分をまた好きになってくれるなら、それでいい。
嘘偽りなく、そう思ったはずだった。
心配そうな瀬生の声にも、なにも返せない。
瀬生は思い詰めるなよ、とだけ言って、その場を離れた。
そんなこと言われたって、どうしたらいい。
怖い。
また、もう一度最初から思い出を作っていって、彼の中に自分を残していって。
それで、三度目がない保証はあるのか。
岩永の中に自分を残しても、また消えてしまうなら、それでも記憶が重くないなんて、言えない。
記憶は必要だ。
彼の中に自分を残したい。彼に自分を知っていて欲しい。
そんな当たり前の欲求が、このときは途方もない夢に思えた。
じっとしていられず、廊下を歩きだした。
目的もなく、ただじっとしていられなかった。
「……あくまで仮定でしょう?」
聞き知った声が聞こえたのは、どのくらい歩いた時だったろう。
覚えていない。
瀬生の声だ。
「岩永の体内に、暴走キャリアがわずかに残っていたとしても、それが今回暴発したのは、他にもいろいろ要因が…」
「でも、彼には限られたスタッフしか接していない。
暴走キャリアの起因は、心への強い衝撃だ。
そこまで彼と深く関わっていたのは村崎くんしかいないし、そもそも最初の暴走だって」
瀬生と、別のスタッフの会話。
最後まで聞いていれば、自分の行動が誤りだと気づいたかもしれない。
でも、自分はそこで、悟ってしまった。
今思えば、間違っていたのに。
だって、あのとき、暴走したとき、彼が最後に見たのは自分だ。
自分を呼んだ直後に、暴走が起きた。
全てが気味が悪いほど、辻褄が合う。
自分がいたから。
自分のせいで。
じゃあ、自分はこの先も、岩永を傷つける。
傍にいるだけで。
傍にいることが、きっと許されない。
絶望の局地にいた頭では、どうしたってネガティブな方向にしか物を考えられなかった。
誰かの言葉を聞いていれば違っただろう。
誰かに相談すればまだ、違っただろう。
でも、自分はそこで閉ざしてしまった。
自分はそこで、全てを閉ざしてしまった。
それほどに、世界が真っ暗だった。
岩永となにを話したか、あまり覚えていない。
自分を覚えているかどうか、最後に確認した。
彼はわからない様子だったから、ああ、本当に自分のせいだと結論づけて、背中を向けた。
「村崎くん!」
寮に帰ると、エントランスで流河が出迎えた。
エントランスのソファには、優衣と白倉、夕もいる。
「岩永くんは? なにがあったの?」
そういえば、流河は電話を受けた自分の傍にいた。
なにが起ことたか、知らない。
そもそも、岩永が記憶を失っていたことすら、知らない。
自分が言っていなかったから。
「村崎くん!」
青ざめた流河の顔を見下ろした。どこか自分と遠い存在に見えた。
「暴走キャリアの影響で、記憶が消えたそうや」
「…………………」
端的に、突き放すようにそう告げると、流河は瞬きも出来ずに固まった。
優衣も、白倉も夕も、理解が出来ないようで、自分を見たまま動かない。
「儂らのこと、みんな忘れとる。
もう、戻らんそうや」
「……え」
村崎の前に立ったまま、流河が自分の頭に手をやった。
背後によろける。
「……ちょっと待って。
…なにが?
誰が、記憶がない?」
混乱して、頭が着いてこないのだろう。
さっきより、蒼白になった流河の顔を見て、自分との立場の違いに笑いそうだった。
彼は素直に悲しんでいられる。
彼らは、素直に悲しんで、そしてまた、岩永の傍にいられる。
自分じゃないから。
「嵐が。
もう、記憶は戻らん」
「……………」
瞳を見開いて、呼吸を失って、その場に立ちつくす流河や、白倉たちを見やって、すぐに歩き出した。
自分の部屋に行きたい。
一人になりたかった。
「…ちょ、待って…!」
流河の叫ぶ声がして、服を掴まれる。
「岩永くんは平気なの?
他にはなにもない?」
「…」
答えることも煩わしかった。
本当に、限界だった。
「知らん」
とにかく解放されたくて、投げやりに答えた。
流河が目を瞠る。
「知らん。
どうでもええ」
そのときは、それが本音だった。
どうでもよかった。
世界全部が。
それくらい、岩永は自分の全てだった。
一瞬で、世界は闇に落ちた。
「……今、なんて言うた?」
低い声が、背後で響いた。
「今、誰を指して、なんて言うた?」
そちらを向くと優衣が見えた。
信じられないような目で、自分を見ている。
「岩永の話やぞ?
どうでもええってなんやねん!」
「…ほんまの話や」
優衣や流河に、罪はないのに。
ただ、ねたましかった。
当たり前に、これからも彼の傍にいられる彼らが。
「儂はもう知らん」
流河の手を振り払って、エレベーターに向かう。
「…ちょっと、待ってよ」
流河の声が、背中にぶつかった。
「記憶がないから?
自分を忘れたから?
それだけで、もういいわけ!?」
悲鳴のような声を聞いていたくはなかった。
ただ、うるさいと思った。
「それでもういいって、捨てられるほど、岩永くんはきみにとって軽かったのか?
ちょっと待てよ。
おい、なんで…」
普段、明るく柔らかい、圧力を感じさせない口調で流河は話す。
そういう性格だし、優しいからだ。
それが、珍しく崩れた。初めて聞いたかもしれない。
「なんでだよ!」
ちょうど一階に到着していたエレベーターに乗り込んだ。
すぐに扉は閉まる。
その声を聞きたくない理由が、今、自分が泣きたいからだと、あとで気づいた。
一人きりの部屋で、岩永が渡してくれたお守りを見て、手のひらに落ちた涙に、初めて知った。
(大好き)
お守りの中の紙には、そう書いてあった。
もう、その声に触れることはない。
自分が傍にいたら、きっとまた。
そう思いこむほどに、自分の世界は、暗かった。
「うわー寒い!」
翌年の二月。
そう言いながら、流河がエントランスに入ってきたのを見た。
マフラーを巻いてコートを着て、それでも寒そうだ。
その隣に岩永がいる。
「やから、別にええって言うたのに」
「いやだ。
ケーキは絶対いるの」
「…ああ、そう」
流河の手にはケーキが入っているらしい大きな白い箱。
岩永の誕生日だった。
ソファに座っていた自分と視線があって、流河は眉を寄せる。
会いたくなかったと言いたげに。
だから、立ち上がって、ケーキの箱を一瞥して言った。
「ケーキなんて、必要あるんか?」
「あるよ」
「蝋燭は一本でええやろな」
薄く笑んで言い捨て、さっさとその場を離れた。
流河の、
「うっわ。相変わらず性格悪っ!」
という文句が聞こえた。
そのとき、岩永がどんな顔をしていたのか、自分は知らない。
ずっと振り返らなかった。
見ようとしなかった。
それでも胸の奥をじりじり締め付ける傷みが、未だ消えない彼への思いだと、よくわかっていた。
騒ぐ声が聞こえる。
あれから何時間が経っただろう。
岩永と流河の部屋の外まで、はしゃぐ声が響いてくる。
長い廊下。
自分は一階下の部屋だから、もうずっと来ることがなかった。
ためらって、迷って、引き返そうとしてきびすを返して、それでも最後には、その扉の前に立った。
本当は祝いたかった。
傍にいたかった。
本当は今でも、彼の微笑みを見ていたかった。
手に持っていたラッピングされた包みを、扉の前にそっと置く。
一秒だけ、扉を真正面から見て、すぐに背中を向けた。
その場を離れた。
誰かが、直接渡せず置いていったと思うだろう。
自分からだとは思わないはずだ。
それでいい。
あのときの自分が間違っていたのだと、今ならわかる。
自分が原因ではないかもしれないと、思える。
あのときの流河は、全く正しかった。
自分は、それが痛かっただけだ。
地下都市に行くと、九生がいて、彼は開口一番謝った。
言い出せなかったという。
その気持ちは、よくわかる。
岩永の意識が落ちて、もう一週間になる。
前にも彼を見舞いに行った部屋の寝台の上、彼は眠っていた。
傍の椅子に腰掛けて、そっとその手を握った。
今度こそ、逃げないと誓った。
それでも怖かった。
失いたくなかった。
きつく手を掴むと、不意に岩永の指が動いた。
閉じていた瞼が開いて、流河が彼の名前を呼ぶ。
「…嵐?」
怖かった。
それでも名前を呼んだ。
宙を見てから、自分や流河、優衣を見た彼は、いつも通り微笑んだ。
「……なに?
どないしたん?
すっごい顔しとるけど」
暢気にそう言って、上体を起こす。
ぽかんとしている流河や優衣、自分を見て、
「…おーい。大丈夫?」
顔の前で手を振った。
「…」
自分が半信半疑のまま、岩永の手を握ると、びっくりしたようだ。
「儂がわかるか?」
不安そうに尋ねた自分を真っ直ぐ見つめて、屈託なく笑う。
「なに言うてん。
ちゃんとわかる。
村崎」
その柔らかい声に、言葉に、たとえようのない安堵を味わった。
手を伸ばして、きつく抱きしめる。
「ごめん。
流河も優衣も、心配かけて」
「…いや、いいよ。
よかった…」
そう言った流河の後ろで、優衣が息を吐く気配がした。
「どこも具合悪ないか?」
「うん」
優衣の安堵の滲んだ声に、岩永は頷く。
「大丈夫」
いつも通り、柔らかく微笑んだ。
『…記憶は欲しい。戻って欲しい。
やけど、…今のお前が消えるくらいなら、いらん。
…記憶より、今のお前が欲しい』
村崎はそう言った。
まさかそんなはずないだろうと思った。
だって、自分の記憶なのだし。
でも、その通りだと今思う。
思い出す前のようには、笑えない。
知る前みたいには、村崎達に接せない。
だって、自分は彼らを殺すところだったのだ。
あんなに、村崎を傷つけてきた。
なのに、振り向かなかった村崎を恨む気持ちすらあった。
一番悪いのは、自分だ。
もし、もう一人の自分がこれを狙っていたのなら、全くいい手段だと思う。
どちらにせよ、自分はもう、村崎を真っ直ぐには思えない。
淀んだ霧に遮られて、その笑顔が、よく見えないんだ。
空が暗くて、太陽の日差しは、ここまでは届かない。
自分の気持ちとは裏腹に、綺麗な快晴。
雲もない。
ああ、あの日もこんな空だった。
一瞬で思いはあの日に戻る。
あの日、自分はその手を離した。
一生離さないと誓ったはずの、その手を、離してしまった。
「村崎、大丈夫か?」
再び不安定な状態に戻ってしまった岩永の傍にはいられず、通路に出て、茫然としていた。
記憶は重くはない。
そう思った。
笑う岩永が傍にいるなら、それでいい。
岩永が自分をまた好きになってくれるなら、それでいい。
嘘偽りなく、そう思ったはずだった。
心配そうな瀬生の声にも、なにも返せない。
瀬生は思い詰めるなよ、とだけ言って、その場を離れた。
そんなこと言われたって、どうしたらいい。
怖い。
また、もう一度最初から思い出を作っていって、彼の中に自分を残していって。
それで、三度目がない保証はあるのか。
岩永の中に自分を残しても、また消えてしまうなら、それでも記憶が重くないなんて、言えない。
記憶は必要だ。
彼の中に自分を残したい。彼に自分を知っていて欲しい。
そんな当たり前の欲求が、このときは途方もない夢に思えた。
じっとしていられず、廊下を歩きだした。
目的もなく、ただじっとしていられなかった。
「……あくまで仮定でしょう?」
聞き知った声が聞こえたのは、どのくらい歩いた時だったろう。
覚えていない。
瀬生の声だ。
「岩永の体内に、暴走キャリアがわずかに残っていたとしても、それが今回暴発したのは、他にもいろいろ要因が…」
「でも、彼には限られたスタッフしか接していない。
暴走キャリアの起因は、心への強い衝撃だ。
そこまで彼と深く関わっていたのは村崎くんしかいないし、そもそも最初の暴走だって」
瀬生と、別のスタッフの会話。
最後まで聞いていれば、自分の行動が誤りだと気づいたかもしれない。
でも、自分はそこで、悟ってしまった。
今思えば、間違っていたのに。
だって、あのとき、暴走したとき、彼が最後に見たのは自分だ。
自分を呼んだ直後に、暴走が起きた。
全てが気味が悪いほど、辻褄が合う。
自分がいたから。
自分のせいで。
じゃあ、自分はこの先も、岩永を傷つける。
傍にいるだけで。
傍にいることが、きっと許されない。
絶望の局地にいた頭では、どうしたってネガティブな方向にしか物を考えられなかった。
誰かの言葉を聞いていれば違っただろう。
誰かに相談すればまだ、違っただろう。
でも、自分はそこで閉ざしてしまった。
自分はそこで、全てを閉ざしてしまった。
それほどに、世界が真っ暗だった。
岩永となにを話したか、あまり覚えていない。
自分を覚えているかどうか、最後に確認した。
彼はわからない様子だったから、ああ、本当に自分のせいだと結論づけて、背中を向けた。
「村崎くん!」
寮に帰ると、エントランスで流河が出迎えた。
エントランスのソファには、優衣と白倉、夕もいる。
「岩永くんは? なにがあったの?」
そういえば、流河は電話を受けた自分の傍にいた。
なにが起ことたか、知らない。
そもそも、岩永が記憶を失っていたことすら、知らない。
自分が言っていなかったから。
「村崎くん!」
青ざめた流河の顔を見下ろした。どこか自分と遠い存在に見えた。
「暴走キャリアの影響で、記憶が消えたそうや」
「…………………」
端的に、突き放すようにそう告げると、流河は瞬きも出来ずに固まった。
優衣も、白倉も夕も、理解が出来ないようで、自分を見たまま動かない。
「儂らのこと、みんな忘れとる。
もう、戻らんそうや」
「……え」
村崎の前に立ったまま、流河が自分の頭に手をやった。
背後によろける。
「……ちょっと待って。
…なにが?
誰が、記憶がない?」
混乱して、頭が着いてこないのだろう。
さっきより、蒼白になった流河の顔を見て、自分との立場の違いに笑いそうだった。
彼は素直に悲しんでいられる。
彼らは、素直に悲しんで、そしてまた、岩永の傍にいられる。
自分じゃないから。
「嵐が。
もう、記憶は戻らん」
「……………」
瞳を見開いて、呼吸を失って、その場に立ちつくす流河や、白倉たちを見やって、すぐに歩き出した。
自分の部屋に行きたい。
一人になりたかった。
「…ちょ、待って…!」
流河の叫ぶ声がして、服を掴まれる。
「岩永くんは平気なの?
他にはなにもない?」
「…」
答えることも煩わしかった。
本当に、限界だった。
「知らん」
とにかく解放されたくて、投げやりに答えた。
流河が目を瞠る。
「知らん。
どうでもええ」
そのときは、それが本音だった。
どうでもよかった。
世界全部が。
それくらい、岩永は自分の全てだった。
一瞬で、世界は闇に落ちた。
「……今、なんて言うた?」
低い声が、背後で響いた。
「今、誰を指して、なんて言うた?」
そちらを向くと優衣が見えた。
信じられないような目で、自分を見ている。
「岩永の話やぞ?
どうでもええってなんやねん!」
「…ほんまの話や」
優衣や流河に、罪はないのに。
ただ、ねたましかった。
当たり前に、これからも彼の傍にいられる彼らが。
「儂はもう知らん」
流河の手を振り払って、エレベーターに向かう。
「…ちょっと、待ってよ」
流河の声が、背中にぶつかった。
「記憶がないから?
自分を忘れたから?
それだけで、もういいわけ!?」
悲鳴のような声を聞いていたくはなかった。
ただ、うるさいと思った。
「それでもういいって、捨てられるほど、岩永くんはきみにとって軽かったのか?
ちょっと待てよ。
おい、なんで…」
普段、明るく柔らかい、圧力を感じさせない口調で流河は話す。
そういう性格だし、優しいからだ。
それが、珍しく崩れた。初めて聞いたかもしれない。
「なんでだよ!」
ちょうど一階に到着していたエレベーターに乗り込んだ。
すぐに扉は閉まる。
その声を聞きたくない理由が、今、自分が泣きたいからだと、あとで気づいた。
一人きりの部屋で、岩永が渡してくれたお守りを見て、手のひらに落ちた涙に、初めて知った。
(大好き)
お守りの中の紙には、そう書いてあった。
もう、その声に触れることはない。
自分が傍にいたら、きっとまた。
そう思いこむほどに、自分の世界は、暗かった。
「うわー寒い!」
翌年の二月。
そう言いながら、流河がエントランスに入ってきたのを見た。
マフラーを巻いてコートを着て、それでも寒そうだ。
その隣に岩永がいる。
「やから、別にええって言うたのに」
「いやだ。
ケーキは絶対いるの」
「…ああ、そう」
流河の手にはケーキが入っているらしい大きな白い箱。
岩永の誕生日だった。
ソファに座っていた自分と視線があって、流河は眉を寄せる。
会いたくなかったと言いたげに。
だから、立ち上がって、ケーキの箱を一瞥して言った。
「ケーキなんて、必要あるんか?」
「あるよ」
「蝋燭は一本でええやろな」
薄く笑んで言い捨て、さっさとその場を離れた。
流河の、
「うっわ。相変わらず性格悪っ!」
という文句が聞こえた。
そのとき、岩永がどんな顔をしていたのか、自分は知らない。
ずっと振り返らなかった。
見ようとしなかった。
それでも胸の奥をじりじり締め付ける傷みが、未だ消えない彼への思いだと、よくわかっていた。
騒ぐ声が聞こえる。
あれから何時間が経っただろう。
岩永と流河の部屋の外まで、はしゃぐ声が響いてくる。
長い廊下。
自分は一階下の部屋だから、もうずっと来ることがなかった。
ためらって、迷って、引き返そうとしてきびすを返して、それでも最後には、その扉の前に立った。
本当は祝いたかった。
傍にいたかった。
本当は今でも、彼の微笑みを見ていたかった。
手に持っていたラッピングされた包みを、扉の前にそっと置く。
一秒だけ、扉を真正面から見て、すぐに背中を向けた。
その場を離れた。
誰かが、直接渡せず置いていったと思うだろう。
自分からだとは思わないはずだ。
それでいい。
あのときの自分が間違っていたのだと、今ならわかる。
自分が原因ではないかもしれないと、思える。
あのときの流河は、全く正しかった。
自分は、それが痛かっただけだ。
地下都市に行くと、九生がいて、彼は開口一番謝った。
言い出せなかったという。
その気持ちは、よくわかる。
岩永の意識が落ちて、もう一週間になる。
前にも彼を見舞いに行った部屋の寝台の上、彼は眠っていた。
傍の椅子に腰掛けて、そっとその手を握った。
今度こそ、逃げないと誓った。
それでも怖かった。
失いたくなかった。
きつく手を掴むと、不意に岩永の指が動いた。
閉じていた瞼が開いて、流河が彼の名前を呼ぶ。
「…嵐?」
怖かった。
それでも名前を呼んだ。
宙を見てから、自分や流河、優衣を見た彼は、いつも通り微笑んだ。
「……なに?
どないしたん?
すっごい顔しとるけど」
暢気にそう言って、上体を起こす。
ぽかんとしている流河や優衣、自分を見て、
「…おーい。大丈夫?」
顔の前で手を振った。
「…」
自分が半信半疑のまま、岩永の手を握ると、びっくりしたようだ。
「儂がわかるか?」
不安そうに尋ねた自分を真っ直ぐ見つめて、屈託なく笑う。
「なに言うてん。
ちゃんとわかる。
村崎」
その柔らかい声に、言葉に、たとえようのない安堵を味わった。
手を伸ばして、きつく抱きしめる。
「ごめん。
流河も優衣も、心配かけて」
「…いや、いいよ。
よかった…」
そう言った流河の後ろで、優衣が息を吐く気配がした。
「どこも具合悪ないか?」
「うん」
優衣の安堵の滲んだ声に、岩永は頷く。
「大丈夫」
いつも通り、柔らかく微笑んだ。
『…記憶は欲しい。戻って欲しい。
やけど、…今のお前が消えるくらいなら、いらん。
…記憶より、今のお前が欲しい』
村崎はそう言った。
まさかそんなはずないだろうと思った。
だって、自分の記憶なのだし。
でも、その通りだと今思う。
思い出す前のようには、笑えない。
知る前みたいには、村崎達に接せない。
だって、自分は彼らを殺すところだったのだ。
あんなに、村崎を傷つけてきた。
なのに、振り向かなかった村崎を恨む気持ちすらあった。
一番悪いのは、自分だ。
もし、もう一人の自分がこれを狙っていたのなら、全くいい手段だと思う。
どちらにせよ、自分はもう、村崎を真っ直ぐには思えない。
淀んだ霧に遮られて、その笑顔が、よく見えないんだ。
空が暗くて、太陽の日差しは、ここまでは届かない。
0
あなたにおすすめの小説
男子高校生だった俺は異世界で幼児になり 訳あり筋肉ムキムキ集団に保護されました。
カヨワイさつき
ファンタジー
高校3年生の神野千明(かみの ちあき)。
今年のメインイベントは受験、
あとはたのしみにしている北海道への修学旅行。
だがそんな彼は飛行機が苦手だった。
電車バスはもちろん、ひどい乗り物酔いをするのだった。今回も飛行機で乗り物酔いをおこしトイレにこもっていたら、いつのまにか気を失った?そして、ちがう場所にいた?!
あれ?身の危険?!でも、夢の中だよな?
急死に一生?と思ったら、筋肉ムキムキのワイルドなイケメンに拾われたチアキ。
さらに、何かがおかしいと思ったら3歳児になっていた?!
変なレアスキルや神具、
八百万(やおよろず)の神の加護。
レアチート盛りだくさん?!
半ばあたりシリアス
後半ざまぁ。
訳あり幼児と訳あり集団たちとの物語。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
北海道、アイヌ語、かっこ良さげな名前
お腹がすいた時に食べたい食べ物など
思いついた名前とかをもじり、
なんとか、名前決めてます。
***
お名前使用してもいいよ💕っていう
心優しい方、教えて下さい🥺
悪役には使わないようにします、たぶん。
ちょっとオネェだったり、
アレ…だったりする程度です😁
すでに、使用オッケーしてくださった心優しい
皆様ありがとうございます😘
読んでくださる方や応援してくださる全てに
めっちゃ感謝を込めて💕
ありがとうございます💞
多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】
23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも!
そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。
お願いですから、私に構わないで下さい!
※ 他サイトでも投稿中
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
異世界転生したおっさんが普通に生きる
カジキカジキ
ファンタジー
第18回 ファンタジー小説大賞 読者投票93位
応援頂きありがとうございました!
異世界転生したおっさんが唯一のチートだけで生き抜く世界
主人公のゴウは異世界転生した元冒険者
引退して狩をして過ごしていたが、ある日、ギルドで雇った子どもに出会い思い出す。
知識チートで町の食と環境を改善します!! ユルくのんびり過ごしたいのに、何故にこんなに忙しい!?
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して二年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
【ご報告】
2月28日より、第五章の連載を再開いたします。毎週金・土・日の20時に更新予定です。
また、誤字脱字の修正および一部表現の見直しを行いました。ただし、記載内容の趣旨に大きな変更はございません。
引き続きよろしくお願いいたします。
魔王城の清掃係ですが、ラスボスに懐かれて世界を磨くことになりました
由香
恋愛
異世界に転移したら、なぜか魔王城の清掃係に就職していました。
巨大な玉座、血のついた回廊、禍々しい装飾品の数々。
今日も黙々と床を磨いていたら――
「お前の磨いた床は、よく眠れる」
恐怖の象徴と名高い魔王様に懐かれました。
見た目は完全にラスボス。
中身はちょっと不器用で、独占欲強めの努力型。
勇者は帰還の道を示し、魔王は隣を選べと願う。
光と闇のはざまで、選ぶのは――ただの清掃係。
戦争よりも、まず床。
征服よりも、まず対話。
これは、世界最強の存在に溺愛されながら
世界平和を“足元から”始める物語。
甘くて、少し熱くて、ちゃんと選ぶ恋。
異世界転移したら、神の力と無敵の天使軍団を授かったんだが。
猫正宗
ファンタジー
白羽明星は気付けば異世界転移しており、背に純白の六翼を生やした熾天使となっていた。
もともと現世に未練などなかった明星は、大喜びで異世界の大空を飛び回る。
すると遥か空の彼方、誰も到達できないほどの高度に存在する、巨大な空獣に守られた天空城にたどり着く。
主人不在らしきその城に入ると頭の中にダイレクトに声が流れてきた。
――霊子力パターン、熾天使《セラフ》と認識。天界の座マスター登録します。……ああ、お帰りなさいルシフェル様。お戻りをお待ち申し上げておりました――
風景が目まぐるしく移り変わる。
天空城に封じられていた七つの天国が解放されていく。
移り変わる景色こそは、
第一天 ヴィロン。
第二天 ラキア。
第三天 シャハクィム。
第四天 ゼブル。
第五天 マオン。
第六天 マコン。
それらはかつて天界を構成していた七つの天国を再現したものだ。
気付けば明星は、玉座に座っていた。
そこは天の最高位。
第七天 アラボト。
そして玉座の前には、明星に絶対の忠誠を誓う超常なる存在《七元徳の守護天使たち》が膝をついていたのだった。
――これは異世界で神なる権能と無敵の天使軍団を手にした明星が、調子に乗ったエセ強者を相手に無双したり、のんびりスローライフを満喫したりする物語。
薬師だからってポイ捨てされました~異世界の薬師なめんなよ。神様の弟子は無双する~
黄色いひよこ
ファンタジー
薬師のロベルト・シルベスタは偉大な師匠(神様)の教えを終えて自領に戻ろうとした所、異世界勇者召喚に巻き込まれて、周りにいた数人の男女と共に、何処とも知れない世界に落とされた。
─── からの~数年後 ────
俺が此処に来て幾日が過ぎただろう。
ここは俺が生まれ育った場所とは全く違う、環境が全然違った世界だった。
「ロブ、申し訳無いがお前、明日から来なくていいから。急な事で済まねえが、俺もちっせえパーティーの長だ。より良きパーティーの運営の為、泣く泣くお前を切らなきゃならなくなった。ただ、俺も薄情な奴じゃねぇつもりだ。今日までの給料に、迷惑料としてちと上乗せして払っておくから、穏便に頼む。断れば上乗せは無しでクビにする」
そう言われて俺に何が言えよう、これで何回目か?
まぁ、薬師の扱いなどこんなものかもな。
この世界の薬師は、ただポーションを造るだけの職業。
多岐に亘った薬を作るが、僧侶とは違い瞬時に体を癒す事は出来ない。
普通は……。
異世界勇者巻き込まれ召喚から数年、ロベルトはこの異世界で逞しく生きていた。
勇者?そんな物ロベルトには関係無い。
魔王が居ようが居まいが、世界は変わらず巡っている。
とんでもなく普通じゃないお師匠様に薬師の業を仕込まれた弟子ロベルトの、危難、災難、巻き込まれ痛快世直し異世界道中。
はてさて一体どうなるの?
と、言う話。ここに開幕!
● ロベルトの独り言の多い作品です。ご了承お願いします。
● 世界観はひよこの想像力全開の世界です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる