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第九章 胡蝶の夢
第十話 悲劇の魔王Ⅲ
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『岩永くんがいなくなった!?』
スマートフォンの電波の向こうで、流河の声が響いた。
村崎がいるのは、302号室。
先刻までは、ここに岩永もいた。
『なんで目を離したんだよ!?』
「離してへん!
ほんまに、一瞬の間に…」
窓は閉まっていた。
自分が振り返るまでのほんの一瞬だった。
その一瞬で窓まで移動して飛び降りるなんて不可能だ。
扉の前には自分がいた。
脱出口は皆無なのに。
どうして、一瞬でも目を離したのだろう。
別れよう、と自分に告げた岩永だ。
なにをするかわからなかったのに。
本当は怖かったんだ。
似ていたから。
誰に似ていたのかわからなくて、それでもずっと怖かった。
あれは、昔の自分だ。
全てを諦めて、自分を責めて、全てを閉ざした。
昔の自分。
それにやっと気づいた時、ぞっとした。
「流河、大丈夫かなあ…」
つい先刻、寝台に腰掛けていた岩永がそう言った。
「…状況がわからんからな。
なんとも言えん」
「吾妻が原因な気はするけど」
岩永は小さく笑みを浮かべた。
「…吾妻はん?」
「…」
吾妻の名前に首を傾げた自分に、岩永はびっくりしたように目を瞠った。
そのあと軽く笑う。
「いややなあ。村崎ってば気づいてへんかったん?」
「…なにがや?」
「ここ数日の吾妻。
違う世界の吾妻が身体乗っ取っとったんやで?」
さらりと岩永が言った言葉を理解するまで時間を要した。
「……え?」
「やから、もう一人の吾妻」
「…ここ数日?
乗っ取ってた?」
「そう。吾妻の身体を。
やから前ほど違和感はなかったやろ?」
ちなみに流河たちもみんな気づいとったんやで。
岩永に聞いて、村崎は今頃驚愕した。
全然気づかなかった。
「…村崎って案外ボケ…」
岩永はいっそ感心したようにそう呟いた。
「…誰のせいやと思っとるんや?」
むっとしたのもあって、強い口調でそう返すと、岩永は悪びれずに笑う。
「俺」
全く悪いと思っていないような声と表情だが、実際は気にしている。
証拠に、さっきまで合わせていた視線をさりげなくそらした。
「…わかっとるなら、じっとしといてくれ」
「…うん」
そのとき、妙に聞き分けのいい岩永を、特に不思議と思わなかった。
ここ数日の自分の行動を、理解っているからおとなしいのだと思ってしまった。
「…ああ、そうや」
ふと思いついたように寝台から立ち上がって、床に置いてあった自分の鞄の傍にしゃがむ。
岩永の部屋から、彼が持ってきた私物だ。
最低限の私物がないと困るだろうと、監視の元で取りに行かせた。
「村崎、これ」
岩永は立ち上がると、微笑んで自分に手を差しだした。
その手のひらには、彼が隔離されたときに自分が九生に渡したパスケースがあった。
心臓が一瞬、大きく高鳴った。
「九生から渡されてん。
村崎のやって言うから。
返し忘れとってごめんな」
「…ああ」
どうやら、お守りには気づかなかったらしい。
内心ホッとする。
パスケースを受け取ると、岩永はにっこり笑ってこう言った。
「喉乾いた」
「…ああ」
リビングにも出さないようにしていたから、自分にとって来てくれという意味だ。
過保護すぎで、厳重すぎようが、怖かったのだ。
それを、あとから気づく。
昔の自分に似ていたからこそ、ここまでしたのだ、とこのとき気づいていなかった。
だって、昔の自分の行動は、紛れもなく過ちだったのだ。
背中を向けて、リビングに向かって足を踏み出した瞬間、背後から伸びた腕が身体に抱きついた。
驚いたし、心臓が一気に騒ぎ出した。
「…村崎」
背中にくっついた岩永の声がする。
暖かい感触がある。
背中に額をこすりつけるようにして、彼が言った。
「…好き」
囁くような声を聞いた直後、背後からその感触は消えていた。
一瞬。
温もりも感触も消えた。
離れたのかと振り返ったときには、岩永の姿はどこにもなかった。
『とにかく、すぐそっち行くから、待ってて!』
流河の声に我に返る。
どうにか頷いた。
流河は転移で来るだろうから、すぐだ。
早く、岩永を捕まえなければ。
そういえば、どうしてあのタイミングでパスケースを返したんだ?
自分の気を逸らすため?
思わず手に握ったままだったパスケースを開く。
パスケースの中からお守りを取り出し、中を見た。
中には、昔彼が入れてくれた一枚の紙しか入っていないはずなのに。
そこには、二枚の紙があった。
「覚悟なあ。
なんの覚悟かしらんけど、随分様子が違うやん?」
森林公園で向かい合う二人の男は、外見はまるで同じだ。
唯一の違いは、服装と、顔にかかった眼鏡のあるなし。
風は強い。暗い夜の中。
それでも気温は高かった。
「前はみんなに守られとって、まるでヒロインかなんかみたいやったけど」
「そういう称号は白倉にやってくれ。
俺はそないなよっちいもんになる気はない」
「…白倉ならええんかい」
彼は若干呆れたようだ。
自分は真っ直ぐに見つめ返したまま、はっきり答える。
「あいつは、大事に守られる資格がある」
「……自分にはないって言いたげやな」
「そう言ってんねん」
低い声で言い切って、手を一閃する。
岩永の周囲を自然のものではない風が踊った。
彼は間合いの向こうで、悠然と佇んでいる。
お前に勝ち目はないと言いたげに。
「今日は、お前も本調子やないみたいやしな。
決着はつける」
「…『お前も』?」
彼はおかしそうに笑う。
「それは、お前もってことや」
自分の右手を指さした。
彼の右手と同じく、包帯の巻かれた手。
出血していて、赤く染まっている。
「さっきも、腕が落ちたやろ?
俺の傷はお前に跳ね返る。
出血量も俺と同じ。
なら、お前も今、貧血状態やないんか?」
彼の言うとおりだ。
実際、ここに来るまでに腕が唐突に切れて、驚いたが、以前ほどではなかった。
彼を知っていたから。
事実、目眩はする。
「お前の方が、俺より体格も身長も小さい。
お前の方が分が悪いで」
確かに、彼の方がいくらか体格や身長は大きい。
その差の理由は、気になっていたが、聞く場合ではない。
「…ほんの少しなら、保つわ」
「ほんの少しとは、なめられたもんやな」
風がまた吹く。
散らされた青い葉が、宙を舞った。
地面を蹴って、操った風の力を反動に、一気に接近する。
かまいたちを、彼はあっさりと防いで、自分の鳩尾に蹴りをたたき込んできた。
どうにかガードしたが、数メートル吹っ飛ばされて、地面に手を突いてブレーキをかける。
顔を上げた時には、眼前に迫っていた炎に、反射的に吸収の壁を生み出した。
かろうじて吸収出来たが、その感触に息を飲んだ。
「…どないしたん?
その反応」
彼が少し離れた位置で、余裕綽々に尋ねた。
体勢を直して、彼を見据えた。
「…温度操作の炎やない」
「ようわかったな」
「…俺が温度操作の能力を使えるからや」
自分が温度操作の力を持つからこそ、違いがわかる。
温度操作の力で生み出す業火や吹雪は、まず周囲の空気を冷やしたり、熱したりして発生させる。
対して、吾妻のような生粋の炎の能力者は、そういった前置きなく炎を生み出す。
世界のどこかにある、自分が行使する権利を持った力を呼び出す。
それが一般的な超能力だ。
彼は今、温度を操作することで炎を発生させたのではなく、いきなり炎を呼び出した。
「…誰かから、炎の力を奪ったんやろ」
「…まあ、そう」
彼はあっさり認める。
「他にもあるけど…でも、お前、他人のこと言える?」
「言えへん。
やけど、お前は許せん」
自分だって似たようなことをしている。
だから彼のことは言えない。
でも、彼は許せない。
「そない憎まれとるんか。
まあ、俺もそうやから、おあいこやな」
「……やけど、俺の憎悪は、お前が作ったんや」
息を一度吸い込んで、温度を操り、巨大な吹雪を生み出した。
彼の周囲にも、冷たい風が踊る。
最大まで力を高めて、吹雪を放った。
同時に、彼が生み出した吹雪が、こちらに向かってきた。
どうにか相殺するが、彼の周囲には再び風が舞っていた。
二段構えだ。
こちらに余力がないのを見計らって放たれたかまいたちに、瞳を一瞬瞑る。
念じた。
瞬間、自分の姿は彼の背後に移動している。
もう一回だけ、流河から奪った転移の力が残っていたからだ。
手に炎をまとわせ、振り返らない彼の頭上から振り下ろした。
が、手はなにもない空間で止まる。
「転移の力を残してあったんは、予測済みや」
悠然と笑った彼が、こちらに向き直った。
自分の手を拘束するのは、彼が操る高圧の風。
そのままがら空きの腹に、閃光の塊をたたき込まれて、長い距離を飛ばされる。
公園の奥にある巨大な木の幹に身体を打ち付けて、倒れ込んだ。
「…全然、話にならんわ」
せき込んで、身を折る自分を見下ろし、笑う声がする。
必死で呼吸を整え、痛みを殺して、顔を上げた。
「…まだ負ける気がないみたいやな」
彼を睨み付けた自分に、少しおもしろくなさそうに眉を寄せた。
「…そら、ことちは並の覚悟で来てへんからな」
荒い呼吸に邪魔されながら、そう返す。
口の端を流れた血を手の甲で拭って、気力だけで立ち上がった。
「言うたやろ。
俺にお前を憎ませたのは、お前や。
俺には、お前に復讐する権利がある」
その言葉に、一瞬彼の眉が動いた。
「どういうことや?」
「…俺が記憶を再びなくせばよかったんやろうけど、先日のは逆効果やったわ」
彼の表情に、一瞬動揺が混ざったのを見逃さなかった。
「ほんの少しやけど、思い出してん。
なくした記憶をな」
彼が思わず息を飲んだ。
「出任せ言うなや」
「出任せやない」
なるほど。本気で自分から記憶を奪いたかったらしい。
逆に思い出すような展開は、全く不本意と言ったところか。
さっきまで余裕をたたえていた顔が、きつくこちらを睨んでいる。
「やから、わかったんや。
去年の五月二十日。
戦闘鳥籠<バトルケイジ>7号室。
俺が暴走を起こす寸前、お前、おったよな?」
その確認に、自分が思いだしたと認識せざるを得なかったのか、驚きに目を瞠った。
「見物席の最前列の村崎のずっと後ろ。
壁際で俺を見とった。
…お前らが、犯人やろ。
俺を暴走させた原因。
スイッチを押したのは、村崎やない。お前らや!」
徐々に不愉快そうにきつくなった表情は、不意に唇だけゆるんだ。
「…ほんまに思い出したみたいやな。
ほんま、…思い通りにならへん奴や」
忌々しそうな声音。
瞳はさっき以上に冷たい。
「お前の言うとおりや。
で、復讐する?
出来るわけないやろ。お前に」
「…出来る」
「どうやって!」
ランクが違いすぎる。
普通なら不可能だ。
わかっているからこそ、彼の余裕は崩れない。
「…出来る。
ただ、俺が…」
それを覆す方法が一個だけある。
彼は気づかない。
あり得ないと思うから。
「…俺が」
村崎の顔を思い出した。
だから、別れようって言ったのにな。
でも、村崎が頷かなかったことに、本当は安堵していた。
嬉しかった。
「…俺が」
本当は、お別れなんかしたくなかった。
(結局、上手に別れることは出来んかった)
「…俺が、死にたなかったから」
泣きそうな思いを堪えて、微笑んでそう言った。
一瞬、理解が及ばなかったように、彼は凍り付く。
「お前が俺に、俺がお前に攻撃する分には跳ね返らん。
やけど、俺が俺に攻撃した場合、それはお前にも跳ね返る」
「…まさか…っ」
「死なら、なおさらや」
彼の声が聞こえた。
制止の声。
自分の首筋に手を当てて、そして村崎を想った。
村崎の声が聞こえた気がしたけど、気のせいだ。
本当はずっと、傍にいたかった。
手のひらに生み出した風が、首筋を深く切り裂いた。
鮮血が吹き出して、夜の空気に散る。
そのまま地面に倒れ伏した。
「…あ」
彼は茫然と、その場から動けずにいる。
その首筋が遅れて、深く裂けた。
血が、首と口からあふれ出す。
「…っ…」
悔しそうに歪んだ顔も一瞬で、そのまま同じように地面に倒れた。
そのあとには、風が吹くだけだ。
なま暖かい夏の風が。
そこに、靴音が響いてきた。
遠くから走ってきたのは体格の良い男。
必死の形相で駆けてきた男は、不意に足を止めた。
地面に横たわる二つの身体を見て。
どちらも、もう息絶えているのは明らかだった。
彼は幽霊のような足取りで、片方に近寄った。
しゃがみこむ。
ラフなシャツとジーンズ姿の少年の頬に、手を伸ばした。
まだ暖かい。
両手でその身体を抱き起こし、胸元に抱き寄せた。
全く力の入らない四肢。
うつろに開いたままの茶色の瞳。
首筋からの血は全身を赤く染めていた。
心臓の音は、鳴らない。
息をしていない。
「……なんで」
ぽつりと呟いた。
来年、自分の誕生日を祝ってくれると約束した。
来年、彼の誕生日を祝うと、約束した。
スマートフォンの電波の向こうで、流河の声が響いた。
村崎がいるのは、302号室。
先刻までは、ここに岩永もいた。
『なんで目を離したんだよ!?』
「離してへん!
ほんまに、一瞬の間に…」
窓は閉まっていた。
自分が振り返るまでのほんの一瞬だった。
その一瞬で窓まで移動して飛び降りるなんて不可能だ。
扉の前には自分がいた。
脱出口は皆無なのに。
どうして、一瞬でも目を離したのだろう。
別れよう、と自分に告げた岩永だ。
なにをするかわからなかったのに。
本当は怖かったんだ。
似ていたから。
誰に似ていたのかわからなくて、それでもずっと怖かった。
あれは、昔の自分だ。
全てを諦めて、自分を責めて、全てを閉ざした。
昔の自分。
それにやっと気づいた時、ぞっとした。
「流河、大丈夫かなあ…」
つい先刻、寝台に腰掛けていた岩永がそう言った。
「…状況がわからんからな。
なんとも言えん」
「吾妻が原因な気はするけど」
岩永は小さく笑みを浮かべた。
「…吾妻はん?」
「…」
吾妻の名前に首を傾げた自分に、岩永はびっくりしたように目を瞠った。
そのあと軽く笑う。
「いややなあ。村崎ってば気づいてへんかったん?」
「…なにがや?」
「ここ数日の吾妻。
違う世界の吾妻が身体乗っ取っとったんやで?」
さらりと岩永が言った言葉を理解するまで時間を要した。
「……え?」
「やから、もう一人の吾妻」
「…ここ数日?
乗っ取ってた?」
「そう。吾妻の身体を。
やから前ほど違和感はなかったやろ?」
ちなみに流河たちもみんな気づいとったんやで。
岩永に聞いて、村崎は今頃驚愕した。
全然気づかなかった。
「…村崎って案外ボケ…」
岩永はいっそ感心したようにそう呟いた。
「…誰のせいやと思っとるんや?」
むっとしたのもあって、強い口調でそう返すと、岩永は悪びれずに笑う。
「俺」
全く悪いと思っていないような声と表情だが、実際は気にしている。
証拠に、さっきまで合わせていた視線をさりげなくそらした。
「…わかっとるなら、じっとしといてくれ」
「…うん」
そのとき、妙に聞き分けのいい岩永を、特に不思議と思わなかった。
ここ数日の自分の行動を、理解っているからおとなしいのだと思ってしまった。
「…ああ、そうや」
ふと思いついたように寝台から立ち上がって、床に置いてあった自分の鞄の傍にしゃがむ。
岩永の部屋から、彼が持ってきた私物だ。
最低限の私物がないと困るだろうと、監視の元で取りに行かせた。
「村崎、これ」
岩永は立ち上がると、微笑んで自分に手を差しだした。
その手のひらには、彼が隔離されたときに自分が九生に渡したパスケースがあった。
心臓が一瞬、大きく高鳴った。
「九生から渡されてん。
村崎のやって言うから。
返し忘れとってごめんな」
「…ああ」
どうやら、お守りには気づかなかったらしい。
内心ホッとする。
パスケースを受け取ると、岩永はにっこり笑ってこう言った。
「喉乾いた」
「…ああ」
リビングにも出さないようにしていたから、自分にとって来てくれという意味だ。
過保護すぎで、厳重すぎようが、怖かったのだ。
それを、あとから気づく。
昔の自分に似ていたからこそ、ここまでしたのだ、とこのとき気づいていなかった。
だって、昔の自分の行動は、紛れもなく過ちだったのだ。
背中を向けて、リビングに向かって足を踏み出した瞬間、背後から伸びた腕が身体に抱きついた。
驚いたし、心臓が一気に騒ぎ出した。
「…村崎」
背中にくっついた岩永の声がする。
暖かい感触がある。
背中に額をこすりつけるようにして、彼が言った。
「…好き」
囁くような声を聞いた直後、背後からその感触は消えていた。
一瞬。
温もりも感触も消えた。
離れたのかと振り返ったときには、岩永の姿はどこにもなかった。
『とにかく、すぐそっち行くから、待ってて!』
流河の声に我に返る。
どうにか頷いた。
流河は転移で来るだろうから、すぐだ。
早く、岩永を捕まえなければ。
そういえば、どうしてあのタイミングでパスケースを返したんだ?
自分の気を逸らすため?
思わず手に握ったままだったパスケースを開く。
パスケースの中からお守りを取り出し、中を見た。
中には、昔彼が入れてくれた一枚の紙しか入っていないはずなのに。
そこには、二枚の紙があった。
「覚悟なあ。
なんの覚悟かしらんけど、随分様子が違うやん?」
森林公園で向かい合う二人の男は、外見はまるで同じだ。
唯一の違いは、服装と、顔にかかった眼鏡のあるなし。
風は強い。暗い夜の中。
それでも気温は高かった。
「前はみんなに守られとって、まるでヒロインかなんかみたいやったけど」
「そういう称号は白倉にやってくれ。
俺はそないなよっちいもんになる気はない」
「…白倉ならええんかい」
彼は若干呆れたようだ。
自分は真っ直ぐに見つめ返したまま、はっきり答える。
「あいつは、大事に守られる資格がある」
「……自分にはないって言いたげやな」
「そう言ってんねん」
低い声で言い切って、手を一閃する。
岩永の周囲を自然のものではない風が踊った。
彼は間合いの向こうで、悠然と佇んでいる。
お前に勝ち目はないと言いたげに。
「今日は、お前も本調子やないみたいやしな。
決着はつける」
「…『お前も』?」
彼はおかしそうに笑う。
「それは、お前もってことや」
自分の右手を指さした。
彼の右手と同じく、包帯の巻かれた手。
出血していて、赤く染まっている。
「さっきも、腕が落ちたやろ?
俺の傷はお前に跳ね返る。
出血量も俺と同じ。
なら、お前も今、貧血状態やないんか?」
彼の言うとおりだ。
実際、ここに来るまでに腕が唐突に切れて、驚いたが、以前ほどではなかった。
彼を知っていたから。
事実、目眩はする。
「お前の方が、俺より体格も身長も小さい。
お前の方が分が悪いで」
確かに、彼の方がいくらか体格や身長は大きい。
その差の理由は、気になっていたが、聞く場合ではない。
「…ほんの少しなら、保つわ」
「ほんの少しとは、なめられたもんやな」
風がまた吹く。
散らされた青い葉が、宙を舞った。
地面を蹴って、操った風の力を反動に、一気に接近する。
かまいたちを、彼はあっさりと防いで、自分の鳩尾に蹴りをたたき込んできた。
どうにかガードしたが、数メートル吹っ飛ばされて、地面に手を突いてブレーキをかける。
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かろうじて吸収出来たが、その感触に息を飲んだ。
「…どないしたん?
その反応」
彼が少し離れた位置で、余裕綽々に尋ねた。
体勢を直して、彼を見据えた。
「…温度操作の炎やない」
「ようわかったな」
「…俺が温度操作の能力を使えるからや」
自分が温度操作の力を持つからこそ、違いがわかる。
温度操作の力で生み出す業火や吹雪は、まず周囲の空気を冷やしたり、熱したりして発生させる。
対して、吾妻のような生粋の炎の能力者は、そういった前置きなく炎を生み出す。
世界のどこかにある、自分が行使する権利を持った力を呼び出す。
それが一般的な超能力だ。
彼は今、温度を操作することで炎を発生させたのではなく、いきなり炎を呼び出した。
「…誰かから、炎の力を奪ったんやろ」
「…まあ、そう」
彼はあっさり認める。
「他にもあるけど…でも、お前、他人のこと言える?」
「言えへん。
やけど、お前は許せん」
自分だって似たようなことをしている。
だから彼のことは言えない。
でも、彼は許せない。
「そない憎まれとるんか。
まあ、俺もそうやから、おあいこやな」
「……やけど、俺の憎悪は、お前が作ったんや」
息を一度吸い込んで、温度を操り、巨大な吹雪を生み出した。
彼の周囲にも、冷たい風が踊る。
最大まで力を高めて、吹雪を放った。
同時に、彼が生み出した吹雪が、こちらに向かってきた。
どうにか相殺するが、彼の周囲には再び風が舞っていた。
二段構えだ。
こちらに余力がないのを見計らって放たれたかまいたちに、瞳を一瞬瞑る。
念じた。
瞬間、自分の姿は彼の背後に移動している。
もう一回だけ、流河から奪った転移の力が残っていたからだ。
手に炎をまとわせ、振り返らない彼の頭上から振り下ろした。
が、手はなにもない空間で止まる。
「転移の力を残してあったんは、予測済みや」
悠然と笑った彼が、こちらに向き直った。
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そのままがら空きの腹に、閃光の塊をたたき込まれて、長い距離を飛ばされる。
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「…全然、話にならんわ」
せき込んで、身を折る自分を見下ろし、笑う声がする。
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「…まだ負ける気がないみたいやな」
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「…そら、ことちは並の覚悟で来てへんからな」
荒い呼吸に邪魔されながら、そう返す。
口の端を流れた血を手の甲で拭って、気力だけで立ち上がった。
「言うたやろ。
俺にお前を憎ませたのは、お前や。
俺には、お前に復讐する権利がある」
その言葉に、一瞬彼の眉が動いた。
「どういうことや?」
「…俺が記憶を再びなくせばよかったんやろうけど、先日のは逆効果やったわ」
彼の表情に、一瞬動揺が混ざったのを見逃さなかった。
「ほんの少しやけど、思い出してん。
なくした記憶をな」
彼が思わず息を飲んだ。
「出任せ言うなや」
「出任せやない」
なるほど。本気で自分から記憶を奪いたかったらしい。
逆に思い出すような展開は、全く不本意と言ったところか。
さっきまで余裕をたたえていた顔が、きつくこちらを睨んでいる。
「やから、わかったんや。
去年の五月二十日。
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その確認に、自分が思いだしたと認識せざるを得なかったのか、驚きに目を瞠った。
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壁際で俺を見とった。
…お前らが、犯人やろ。
俺を暴走させた原因。
スイッチを押したのは、村崎やない。お前らや!」
徐々に不愉快そうにきつくなった表情は、不意に唇だけゆるんだ。
「…ほんまに思い出したみたいやな。
ほんま、…思い通りにならへん奴や」
忌々しそうな声音。
瞳はさっき以上に冷たい。
「お前の言うとおりや。
で、復讐する?
出来るわけないやろ。お前に」
「…出来る」
「どうやって!」
ランクが違いすぎる。
普通なら不可能だ。
わかっているからこそ、彼の余裕は崩れない。
「…出来る。
ただ、俺が…」
それを覆す方法が一個だけある。
彼は気づかない。
あり得ないと思うから。
「…俺が」
村崎の顔を思い出した。
だから、別れようって言ったのにな。
でも、村崎が頷かなかったことに、本当は安堵していた。
嬉しかった。
「…俺が」
本当は、お別れなんかしたくなかった。
(結局、上手に別れることは出来んかった)
「…俺が、死にたなかったから」
泣きそうな思いを堪えて、微笑んでそう言った。
一瞬、理解が及ばなかったように、彼は凍り付く。
「お前が俺に、俺がお前に攻撃する分には跳ね返らん。
やけど、俺が俺に攻撃した場合、それはお前にも跳ね返る」
「…まさか…っ」
「死なら、なおさらや」
彼の声が聞こえた。
制止の声。
自分の首筋に手を当てて、そして村崎を想った。
村崎の声が聞こえた気がしたけど、気のせいだ。
本当はずっと、傍にいたかった。
手のひらに生み出した風が、首筋を深く切り裂いた。
鮮血が吹き出して、夜の空気に散る。
そのまま地面に倒れ伏した。
「…あ」
彼は茫然と、その場から動けずにいる。
その首筋が遅れて、深く裂けた。
血が、首と口からあふれ出す。
「…っ…」
悔しそうに歪んだ顔も一瞬で、そのまま同じように地面に倒れた。
そのあとには、風が吹くだけだ。
なま暖かい夏の風が。
そこに、靴音が響いてきた。
遠くから走ってきたのは体格の良い男。
必死の形相で駆けてきた男は、不意に足を止めた。
地面に横たわる二つの身体を見て。
どちらも、もう息絶えているのは明らかだった。
彼は幽霊のような足取りで、片方に近寄った。
しゃがみこむ。
ラフなシャツとジーンズ姿の少年の頬に、手を伸ばした。
まだ暖かい。
両手でその身体を抱き起こし、胸元に抱き寄せた。
全く力の入らない四肢。
うつろに開いたままの茶色の瞳。
首筋からの血は全身を赤く染めていた。
心臓の音は、鳴らない。
息をしていない。
「……なんで」
ぽつりと呟いた。
来年、自分の誕生日を祝ってくれると約束した。
来年、彼の誕生日を祝うと、約束した。
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***
お名前使用してもいいよ💕っていう
心優しい方、教えて下さい🥺
悪役には使わないようにします、たぶん。
ちょっとオネェだったり、
アレ…だったりする程度です😁
すでに、使用オッケーしてくださった心優しい
皆様ありがとうございます😘
読んでくださる方や応援してくださる全てに
めっちゃ感謝を込めて💕
ありがとうございます💞
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