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第一話 出会い
しおりを挟む吸血鬼、と呼ばれる種族がいる。
人の生き血を糧とし、夜を住処とし、長い時間を生きる人ならざる者。
人間の多くは彼らを“おとぎ話の中の仮想の存在”と捉えている。
しかし彼らは確かに存在する。
人に紛れ込みながら、どこかで生きている。
アメリカ、ロサンゼルス。
人々で賑わう昼間の街中を、一際目立つ大柄な体躯の男が歩いていた。
銀色の短髪、黒々とした皮膚、210センチの長身に恵まれすぎた巨躯。
大型動物のようにのっそりと動くその姿は周囲の人々の視線を引いていたが、本人はまるで気にしていない。
「ねえマリス。
おなかへったわ。どこかお店に入りましょう?」
「あー、そうだな…」
彼のたくましい腕に絡みついて甘えた声でねだるのは豊満な肢体の黒人の女で、呼ばれた男はいかにも適当な言葉を返した。
マリス・ナディールという名の男は緩慢な動作で視線を動かし、店を探す。
不意にすぐそばの喫茶店から出て来た青年と肩がぶつかってしまい、ナディールはそちらに目を向けて息を呑んだ。
「ああ、すまない」
自分を見てやわらかな笑みを浮かべた青年のあまりに秀ですぎた容姿に、ナディールも、ナディールのそばにいた女も言葉を失った。
艶やかな金髪ときめ細かい白磁の肌、人形のように整った容貌は甘い色香に満ちていた。
ナディールよりは小柄だし細身だが、充分鍛え上げられた体躯の男だ。
まとっている服もどれも上等そうで、にじみ出る気品は育ちの良さをうかがわせる。
ナディールもはじめてお目にかかるような極上すぎる容姿の男は、黙ったままのナディールたちを見て首をかしげた。
「シンディー!
どうした?」
「ああ、いや、オレがぶつかっちまって」
同じ店から出て来たらしい白人の青年が彼――どうやらシンディーという名前らしい――に声を掛ける。
シンディーは友人らしい青年に説明してからナディールに向き直った。
「もしかして怪我をさせてしまった?」
「あ、…いや、だいじょうぶだ」
「そう。ならよかった」
我に返ってどうにか答えた自分に、シンディーは安堵したように微笑む。
そのやんわりとした微笑にナディールのそばにいた女が頬を染める。実際、彼の微笑は女なら誰もが虜になるような魅力があった。
声もやさしげで聞き心地のよい響きだ。
「…もしかしてなにかスポーツやってるか?」
「ああ。
ストバス」
「…ああ、道理で」
初対面の男にいちいちこんなことは聞いたりしないし、興味も抱いたりしない。
それなのに思わず尋ねていたのはその華やかな容姿に目を奪われたからと、もうひとつほかの理由からだった。
「興味があるなら見に来ればいい。
すぐ近くのコートでいつもやってるんだ」
「ああ、じゃあそうするかな」
西の方角を指で示して言ったシンディーにナディールが頷くと、シンディーは見惚れるほど艶やかな笑みをこぼして背を向け、連れの青年と一緒にそちらに向かって歩き出す。
どうやら今からコートに行くところらしい。
「ねえねえマリス、行こうよ!」
「…飯はいいのか?」
「いいの!」
腕をぐいぐい引っ張って言う女にナディールは苦笑しつつ問いかけるが、返答はわかりきっていた。
女は明らかにシンディーに興味を――いやそれ以上の感情を抱いてしまっている。
あれだけ破格の美青年を前にしたら、まあどんな女でも夢中になってしまうだろうが。
べつにそれに対してなにも思っていない。だってこの女は自分の恋人でもなんでもない。
一緒にいるのは単純に、自分の欲望を満たすためだけだ。
少し歩いた先にあったストリートコートは盛況で、見物客も大勢いた。
彼らが注目しているのは今、コートの上でゲームをしているチームだ。
その中にあのシンディーの姿があった。
「なあ、あいつ有名人なのか?」
「ん?シンディーか?
超有名だけどなんだよおまえ知らねえの?」
たまたま近くに立っていた黒人男に声をかけると、彼は一瞬ナディールの巨躯にぎょっとして身を引いたものの普通に答えてくれた。
「最近ここに来たばっかでな」
「ああ。そういうこと。
じゃあ教えてやるよ。
あいつはシンディー・ワーグナー。
“ワンダースナッチ”ってチームのリーダーだよ」
「ワンダースナッチ?」
「出来て一年くらいの新しいチームでメンバーも全員十八歳前後の若いチームなんだが、これがまた恐ろしいくらい強くてな。
この近辺じゃ知らないやつはいないぜ」
男の説明を聞きながら、ナディールは視線をコートに投げた。
チームメイトらしい黒人の男とマッチアップしたシンディーは、鮮やかなドリブルで彼を抜き去り、軽々シュートを決める。
これだけ見てもシンディーが相当優れた選手なのはわかった。
「ましてあの容姿だからな。
名家のお坊ちゃんだって話だし、天に二物も三物も与えられたやつって存在するんだなってあいつ見てると心底思うぜ」
「…ふうん」
男に対する相づちは心ここにあらずのような響きになった。
奪われていたからかもしれない。
コートを駆けるあのうつくしすぎる男に魅了されたように。
コートを出たころにはすっかり日は暮れていた。
ナディールの手を引く女は興奮した様子で「また明日も行こう」なんて言ってる。
もうすっかりこの女への興味は失っていたが、一応それまでにこの女に費やした時間と金を考えれば代価を得ずに手放すのはいささか惜しい。
顔とルックスがそこそこ好みだったから声をかけたが、シンディーに会ったあとではそうも思えなくなった。
「なあ」
「?
なに…っ!?」
人気の無い路地に入ってから女に声をかけ、無防備に振り返った女の腕を掴んで引きよせる。
女の首筋に埋まったのは、ナディールの口からこぼれた鋭い牙。
数分も経てば、女の身体は力を失って地面に倒れ込んだ。
「…やっぱ美味くねえな。
まあこんなもんか」
ナディールは独りごちると、唇に付着した血液をなめとる。
不意に背後で靴音がして素早く振り返り、息を呑んだ。
「あ…」
少し離れた位置に立っていたのはあのシンディーだった。
ナディールがあの女の血を飲んだところを見たのか、信じられない様子でこちらを見ていた。
ナディールは一瞬迷ったが、すぐ結論は出た。どのみちこうする気だったんだ。遅いか早いかの違いだ。
瞬きの間に己の視界から消えたナディールに、シンディーが呼吸を失う。
人の目には追えない速度でシンディーの背後に移動したナディールが彼に腕を伸ばしたが、素早く反応したシンディーが振り向きざまにその腕を払った。
「…っな」
ナディールは目を見開いて一瞬動きを止める。まさか自分の動きについてこれる人間がいるとは思わなかった。
とはいえ、やはり人間だ。二度目はない。
シンディーが拳を繰り出す前にナディールが彼の腕を掴み、壁に押さえつける方が早かった。
「っ、ぁ…!?」
壁に打ち付けた背の痛みにシンディーが身をすくめた間に、ナディールは彼の身体を拘束するように抱きしめ、躊躇なくその白い首筋に牙を突き立てる。
走った鈍い痛みにシンディーがちいさく声を上げた。
「…っぁ、な、…ひ…!」
自分の血が吸われていると理解したシンディーがもがこうとするが、ナディールにがんじがらめに拘束された身体が逃れられるはずもない。
「ぁ、…っ、ん…!」
勢いよく吸われる血に、徐々にシンディーの身体から力が抜けていく。
碧い瞳には涙の膜が張っていて、身体は小刻みに震えていた。
「…んん、ぁ……っ」
か細い声を漏らしたシンディーの身体ががくんと力を失ったのを感じて、ナディールは慌てて首から牙を引き抜いた。
「…っ危ねえ」
しまった。夢中になりすぎて殺すところだった。
正直我を忘れていた。
未だかつてこんな甘くて美味しい血を味わったことがない。
容姿も極上なら血の味も極上か。
あのときシンディーに会ったのは偶然だが、その出会いを幸運と言わざるを得ない。
吸血鬼であるナディールにとって、人間の血液が生きる糧。
普通の食物も食べられるが、やはり人間の血がないとひからびてしまう。
しかし好みの血に巡り会ったことはなく、だいたいまずい血を仕方なく飲んでは飢えを癒やしていたのだ。
だからあのとき街でシンディーに会ったときに、次の獲物を彼にしようと決めた。
基本的に女しか襲わないナディールだが、シンディーほどの美貌の持ち主ならたまにはいいかと思えたし、なにより一目でわかった。
彼の血は、きっとひどく甘美だと。
「…っ!?」
思案に沈んでいたとき、思いも寄らない力で胸を突き飛ばされ、シンディーを抱き留めていた腕が緩んだ。
意識を失ったものと思っていたシンディーがよろけながらナディールから身を離し、隠し持っていたらしい銃を握ってナディールに向けていた。
正直心底驚いた。かなり容赦なく飲んでしまったから、意識を保っていられるはずがないと思っていたのだ。
壁を支えに立ってはいるが、足は震えている。顔色も紙のように白かった。銃を握る手も震えていて狙いが定まっていない。
なのに、ナディールをきつくにらみつけたまま、銃を下ろそうとしない。
「…よ、るな」
吐息のようなか細い声が耳に触れる。
「…オレに、…触れる、な………」
その声が途切れて、銃が地面に落ちる。
力を失って傾いたシンディーの身体をナディールの腕が抱き留めた。
今度こそ完全に意識を失ったシンディーの身体を抱きしめたまま、ナディールはこみ上げる笑いを抑えられずにいた。
普通の人間なら、吸血鬼を見たら怯えて逃げるか、命乞いをする。
なのにシンディーは己が血を吸われても反撃の意思を捨てなかった。
ひどい貧血で立ってられないほどなのに気丈に自分をにらみつけ、銃を構えていた。
「…面白ぇ」
口の端が愉悦に歪む。
血の味といい容姿といいその気の強さといい、とことん自分好みの男だ。
いつもなら殺さぬ程度に血をもらって捨ててしまうナディールだったが、シンディーを使い捨ての餌にしてしまうのはあまりに惜しかった。
シンディーの住所はコートにいたときにそれとなく掴んでいた。
ロサンゼルスの豪邸が建ち並ぶ区域でも一際目立つ大きな屋敷が彼の家だと聞いていたからだ。
しかも一人で暮らしているというから驚きだが、ナディールにとってはこの上なく都合が良い。
シンディーの上着のポケットに入っていた鍵で扉を開け、意識のないシンディーの身体をベッドルームの寝台に寝かせると、ナディールはひとまずキッチンに足を向けた。
シンディーが目を覚ましたらなにか食べないとまずいだろう。あと少し我に返るのが遅かったら死んでいたかもしれないほどの血を奪ってしまったのだから。
そもそも飲んでいる最中に我を忘れたことなんて未だかつてなかった。それほどシンディーの血は極上すぎたのだ。
手放すのが惜しくなった。あんな見た目も血も好みすぎる人間なんて、シンディーを逃したらもう会えないかもしれない。
だから“飼う”ことにした。
シンディーを、自分だけの“贄”にすることにしたのだ。
あんな容姿も血も一級品の男、放っておいたらほかの吸血鬼に奪われるかもしれない。ならば自分の印を付けてしまうのが一番いい。
自分のものには寛容な性質なのだ。美味しい血のお礼に食事を用意してやろうという気分になった。
キッチンに立って料理を作りながら、ナディールは手を止めないまま口を開く。
「言っとくが撃っても無駄だぜ」
その言葉に背後で息を呑む気配がした。
「吸血鬼ってのは頭を撃ち抜かれたくらいじゃ死なないんだ。
十字架も効かないしな。
伝承とはいろいろちがうんだよ」
ナディールはそう言って火を止めると、肩越しにリビングに立つシンディーを振り返った。
シンディーは未だひどい顔色で、なのに自分を殺気の宿った目でにらみつけている。
立っているだけでもめまいがするはずなのに、音をさせないようここまで歩いてきた上、銃をかまえて狙っているのだからほんとうにすごい。
それだけ精神力が強いのか。
「ま、それでも撃たれたら痛いからな。
止めておくか」
「…っ」
ナディールが独りごちるように言った瞬間、視界からナディールの姿が消えてシンディーは息を呑む。
反応する前に眼前に出現したナディールに銃を握った手を掴まれ、壁に縫い止められた。
「…っ…な」
「さっき見ただろ?
オレは人間じゃねえんだ。
人間の中じゃ相当やるっつっても、おまえじゃ敵わねえんだよ。
そもそもかなり貧血がひどいはずだから、反応すら出来なくて当然だ」
ナディールに軽く力を込められただけでシンディーの手から銃がこぼれ落ちた。
しっかりと握っている力すらなかったらしい。
なのに自分を攻撃しようとするのだから面白い。
今だって顔色は真っ白で、相当苦しいだろうに気丈に自分をにらみつけている。
ああ、やっぱりすごくオレの好みだ。
ナディールは口の端を歪めるように笑い、シンディーのおとがいを掴んで上向かせる。
「……おまえは、何者だ」
「オレはマリス・ナディール。
見ての通りの吸血鬼。
そんで、今からおまえの主だ」
「…は」
言葉の意味が理解出来ず、シンディーがかすれた声を漏らした瞬間、ナディールは彼の腰を抱き寄せると躊躇なくその首筋に唇を寄せた。
自分の牙の跡がはっきりと刻まれたそこに唇を押し当てる。
「…っぁ…!?」
身体を走った微弱な電流に、シンディーがびくりと身体を跳ねさせ、目を見開いた。
ナディールはその首筋に新しく刻まれた複雑な紋様を眺め、口の端をつり上げる。
「ああ、オレの刻印ってこういうもんなのか。
はじめて印なんてつけたから知らなかったな。
こんな自己主張の激しい刻印だったのか」
「…な」
ナディールの手が刻印の浮かんだ首筋から、シャツを引っ張って覗いた左腕までをなぞる。
腕の途中まで刻まれた大きな紋様は、刺青のようにも見える。
「…ってめえ、なに…!?」
「安心しろ。
これは吸血鬼以外にはただの刺青にしか見えねえ」
「そういう問題じゃねえ!
オレになにしやがった!」
「あれだけ血を吸われて叫ぶ元気があるのはすげえな」
「てめえ、ふざけ…っ…」
殺気のにじんだ表情で叫んだシンディーは、不意にひどいめまいに襲われた。
力を失った身体をしっかり抱きしめたナディールが、自分に寄りかかるシンディーの金色の髪を殊更やさしく梳く。
「端的に言うとだ、おまえがオレのもんになったって話だよ。
吸血鬼は気に入った人間に自分の印をつけるんだ。
自分のもんだから手を出すなってよ」
「……っな……」
「おまえはオレの贄だってことだ」
息も絶え絶えになりながら、震える手でナディールの服を掴んで顔を上げたシンディーに、ナディールは至極愉快そうに笑みを深める。
シンディーの頬に触れた手は熱いほどなのに、目の前の男は人ではない。
「要するに、おまえはオレのかわいい人形だ」
「…っ」
嘲笑うような言葉にシンディーの顔が激情に染まる。
しかし振り上げられた拳は途中で静止した。
貧血のせいではなく、まるで時が止まったように動かなくなったのだ。
シンディーは呼吸を失って、自分の腕を見つめる。
「まあこういうことだ。
オレがおまえの主になった。
だからおまえはオレに逆らえない」
ナディールはそう言ってシンディーの身体を抱き上げると、ソファの上にそっと降ろした。
「安心しろ。
自分のもんはそこそこ大事にする主義なんだ。
ましておまえの血は極上だしな。手荒なまねはしないぜ」
薄く笑みを浮かべ、そうささやくとおとがいを掴んでその唇に口づける。
舌を差し入れるとシンディーの身体がかすかに震えた。
しかし舌に鈍い痛みが走って、ナディールは思わず顔を離す。
シンディーの唇に血がにじんでいた。ナディールのものだ。
信じられない。
今のシンディーの身体はナディールの支配下にある。指先一本すら動かせないはずだ。
逆らえないはずなのに、気力だけで抗っている。
「…殺してやる」
低い声で吐き出された言葉に、ナディールは思わず笑ってしまった。
バカにしたのではなく、心底楽しいと思ったからだ。
どこまで自分好みなのだこの男は。
その気の強さも精神の強靱さも、容姿も血の味もなにもかも極上すぎる。
「…っはは。
やっぱりおまえを贄にしてよかったぜ。
…最高だ」
ナディールは口の端ににじんだ己の血をなめとると、未だ射殺すように自分を見るシンディーの頬を撫で、触れるだけのキスをそのうつくしい髪に落とす。
「おまえはオレのもんだ。
これからよろしくな?
シンディー・ワーグナー」
心底愉快そうに笑って言ったナディールに、シンディーは激しい憎悪を宿したまなざしを向ける。
どこまでも真っ直ぐで怯えのないそのまなざしに背筋を震わせ、ナディールはもう一度その唇にキスを落とした。
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