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第六話 恋心
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あれから四日が経過した。
シンディーとの関係は相変わらず、いや、今までとは少し変わっている。
「ナディール。
さっきからなにうろうろしてるんだ?」
「…あ、いや」
リビングのソファに腰掛けたシンディーは、さっきから室内をうろうろしているナディールを見て怪訝な顔をした。
「…どうした?
なにか言いたいことがあるのか?」
そう尋ねるシンディーの瞳には嫌悪も憎悪も映っていない。
きっとあのとき、無理矢理に犯していたなら違っていたんだろう。
だからあれでよかったはずだ。
「………いや」
「…?」
どうも様子のおかしいナディールに、シンディーは首をかしげる。
「…おい、ナディール。
こっち来い」
「…なんだよ」
軽くて招かれてナディールはそちらに近寄る。
シンディーの手がナディールの腕を掴み、隣に座らせた。そのまま額に触れた白い手の感触に心拍数が速まった。
「…熱くないよな。
いや、そもそも吸血鬼って風邪引くのか…?」
「…あ、いや、風邪は、引かない」
「…だよな。
じゃあおまえ、なんでおかしいんだ?」
あまりに様子のおかしい自分を見て体調不良ではないかと思ったらしい。
吸血鬼が風邪引くわけないだろ、と苦笑してから気づく。
「…なあ、シンディー。
それって」
「ん?」
「…心配、してくれた、のか…?」
おそるおそる尋ねる声もうわずりそうだった。
うぬぼれすぎかもしれない。でもそういうことじゃないだろうか。
心臓の音がどきどき鳴ってる。
シンディーは目を丸くして、それから少し考え、頷いた。
「…かもしれないな」
「…っ」
「おまえがおかしいと、オレの調子が狂うのかもしれない」
自分でもよくわかっていないのか、シンディーの口調は他人事のようだった。
それでも彼の口元に浮かんだ笑みはやさしい。
ナディールはじわじわと熱くなる身体が、うるさく騒ぐ心臓がシンディーに伝わらないか心配になった。
きっとあのとき、無理矢理に犯していたなら得られなかったものだ。
堪えてよかったと思う。けど、迷う気持ちもある。
「…シンディー」
「なんだ?」
「…悪い。
ちょっと、触れる」
そう謝って、目の前の身体を抱き寄せる。
シンディーは抵抗の意思は見せなかった。
彼の身体が、血が欲しいだけのはずだったのに、こうしているだけで胸がきつく締め付けられて、満たされたような心地にもなる。
なのに目の前にさらされた白い首筋に、強い飢えを覚えて牙を突き立てたくもなった。
なんか、以前よりシンディーの血を欲しいと感じるようになった気がする。激しい飢えを感じるようになった、気がする。
けど今は、牙を突き立てることが出来ない。
「…なあ、」
「…どうした?」
「舐めてもいいか」
「……おい、なんのプレイだ」
腕の中でシンディーの困ったような声が響いた。
「ダメか」
「…ダメというか、…今更だろう」
まあ確かに散々血を吸って犯している時点で今更なのかもしれない。
でも今までと同じことをしているのではダメなのだとわかった。
白い首筋に唇を寄せ、舌を這わせるとシンディーの肩が跳ねる。
刻印の上を舌でなぞって、確かめるように指を這わせて。
彼が自分のものだと思って、仄暗い欲望がわき上がる。
「…っ」
皮膚に触れた牙の感触に、シンディーが身をすくめた。
衝撃に堪えるようにぎゅっとナディールの服を掴んだ指先に、ナディールは我に返って身を離した。
「…ナディール?」
シンディーはてっきりそのまま血を吸われると思ったのだろう。
きょとんとした顔で自分を見ていた。
一瞬、我を忘れて思う様彼を貪りそうになった。
けれどそれが出来ない。あのときから。
『そんなものが要らないっていうなら、あくまでオレを“贄”として好きにしたいだけなら、…どうぞご自由に?
犯すなりなんなり、すればいいさ。
いつものように命じてな』
ベイカーたちに向けられるような信頼を、要らないと言えなくて。
どうしても血を吸うことが出来ない。その身体を抱くことが出来ない。
シンディーが気安い態度で自分に接するたび、笑顔を見せてくれるたび、それをなくしたくないと、強く。
喉がひどく渇いている。苦しいほどに。
飢えているのに、求められずにいた。
それから更に三日後。
シンディーと一緒に訪れたストリートコートには、ほかのワンダースナッチのメンバーも集まっていた。
ナディールは頬を伝う汗を乱暴に手でぬぐって荒い息を吐く。
身体が重い。うまく動けない。
理由はわかってる。
この一週間、血をまったく飲んでいないからだ。
何度もシンディーの首に牙を突き立てそうになって、でも寸前で踏みとどまる。
血を飲んだら、その身体も貪ってしまう。牙には催淫効果があるからシンディーはそのまま放置されるなんて堪えられないだろうし、自分だってそんなシンディーを見て手を出さないなんて無理だ。
胸を縫い止めるのはあの日のシンディーの言葉。シンディーに真っ直ぐな信頼を寄せられていたベイカーとロイドの姿。
苦しいほどの飢えに耐えながら視線を動かすと、ベイカーとロイドと話しているシンディーの姿が見えた。
シンディーは彼らの正体を知ってもほんとうになにも変わらず、普通に接している。
今だって二人の言葉に気を許した顔で笑って見せるのだ。
シンディーを見つめる二人のまなざしに、明らかな欲が混ざっているのが見て取れる。
せり上がってくるのは焼け付くような独占欲。
シンディーに触れるものはなんであっても許せないと騒ぐ、どす黒い感情。
「おい、ナディール。
ゲームしようぜ」
不意にシンディーがこちらに近寄ってきて、笑顔でそう誘って来た。
汗で貼り付いた金色の髪を指でかき上げる仕草すらひどく扇情的で、ごくりと喉が鳴る。
白い首筋を伝う汗に、どうしようもなく煽られて我を失いそうになるのだ。
「…ナディール?」
「あ、ああ。
…やろうぜ」
「ん」
自分の返答にシンディーがやわらかな笑みを浮かべた。
その微笑を失いたくないと思うから、どうしたって手は出せない。
出せないのに、ひどく喉が渇いて苦しい。
死にそうなほどに、腹が空くんだ。
ゲームの結果は惨敗だった。
元々シンディーの才能は比類ない。人間と同じに能力をセーブした状態ではナディールもさすがに勝てない。あくまでバスケでは、だが。
しかし今回は完膚なきまでの敗北だった。いつものような動きがまったく出来ていなかった。
「おいナディール。
おまえどうした?」
シンディーもさすがにおかしいと思ったのか、自分の顔をのぞき込んで尋ねる。
「…なんでもねえよ」
「とてもそうは見えねえな。
動きが遅いし、顔色も悪いんじゃないか…?」
自分を案じるような言葉に胸をきつく締め付けられて。
なのに目の前にさらされた白い首筋から目をそらせなくなる。
どくん、と心臓が大きな音を立てた。
ひどく喉が渇くんだ。死にそうなほど苦しい。
欲しくて欲しくて仕方ないんだ。彼の血が。
その血を、その身体を、なにもかも奪って支配したくなる。
そのすべてを力尽くで手に入れて、貪ってしまえと本能が騒いでいた。
ほとんど無意識のまま、伸ばした手がシンディーの頬に触れる。
「ナディール?」
まるで警戒していないシンディーの碧い瞳が自分を見上げた。
そのまま首筋に顔を寄せる。
あのひどく甘美な血の味を思い出すと、理性がすうっと消えていく気がした、のに。
「ナディール」
自分を呼ぶシンディーの声に、一瞬で脳裏によみがえったのは彼の笑みで。
思わずシンディーの肩を掴んで引き離していた。
驚いたように自分を見る碧い瞳に、我に返ってひどく泣きたい気持ちになった。
今、完全に我を失っていた。こんな場所で、その首筋に牙を突き立てて、思う様彼を貪りそうになった。
そんなことしたらきっとすべてなくすんだ。
シンディーの身体も血も、その声も笑みも、――心も。
自分が血を吸う気だとわかったベイカーとロイドが、警戒をにじませながらも戸惑ったように自分を見ていた。
自分だってどうしたらいいのかわからない。
自分の顔に浮かんだのは、途方に暮れた迷子のような表情だったのかもしれなかった。
家に帰ってからも、シンディーは自分の様子をいぶかしがっているようだった。
純粋に心配してくれているのもあるだろう。だから余計に胸が痛んだ。
「ほんとうにどうしたんだ?
おまえ」
「………大したことじゃねえ」
「どこがだ」
キッチンに立って二人分のコーヒーを淹れているシンディーの背中を眺め、ナディールはかすれた声を絞り出す。
ひりつく喉に手を当てた。
「明らかにおかしいだろう。
体調が悪そうだし、様子もおかしいしな。
それに…」
シンディーはいったん手を止め、口ごもった。
シンディーも気づいているはずだ。不審に思っているはずだ。
ここ一週間、自分がまったく彼の血を飲んでいないことを。彼を抱いていないことを。
尋ねられたらどうしようと心臓がどくどくとうるさく脈打つ。
背を向けたシンディーの襟から覗く首筋に視線が吸い寄せられ、逸らせなくなった。
いっそ、今すぐにその首筋に牙を突き立てて貪ってしまえば。
一瞬脳裏をよぎった仄暗い思考に、そのまま呑まれそうになる。
『ナディール』
引き留めたのは記憶の中の彼の微笑と、自分を呼ぶ声。
どうしてもなくしたくないのだと強く思った。
気づかれないよう背を向けて部屋を出る。
屋敷の外に出ると、すっかり日が暮れて夕闇に染まった庭の中を歩いた。
なんでこんな意地になってるんだろう。
自分は吸血鬼で、シンディーはただの“贄”だったはずだ。
なのに、彼を裏切りたくないなんて今更に思う。
シンディーに信頼されるベイカーやロイドを、ひどくうらやましいと。
いや、ちがう。
これは、たぶん嫉妬だ。
憎らしい。妬ましいと思うどす黒い感情。
シンディーを奪われたくないという、独占欲。
「ナディール?」
不意にシンディーの声が響いて、肩が震えた。
「おい、どこにいる?」
庭を歩く彼の足音が聞こえる。
吸血鬼の目には、木々の合間を歩くシンディーの姿がはっきり見えた。
しかしシンディーのほうはそうもいかない。
いくらシンディーの眼が特殊でも、人の目は夜闇に弱い。月明かりのない夜では、この木々の生い茂った庭でナディールをすぐに見つけるのは困難だ。
「ナディール。
おい、おまえやっぱりおかしいぜ?
なにかあったのかよ?
おい」
シンディーは庭を歩いてナディールの姿を探しながら声を張り上げる。
ナディールは木の陰になって見えない場所で、彼の姿を息を潜めて見ていた。
なぜ隠れているんだろう。どうして我慢なんかしている。
今まで我慢なんてしたことはなかった。欲しいものなら力尽くで奪ってきた。
シンディーだってそのうちの一つに過ぎないはずだったのに。
そこまで考えてふと気づいた。
そもそも、なんでシンディーは自分を探しているんだ?
自分がいなくなることは、シンディーにとって望ましいことのはずなのに。
思えば一週間前、ベイカーやロイドが来たときもそうだった。家の中にいない自分を探していたようだった。
最近は当たり前のように二人分のコーヒーを淹れる。
セックスをしなくても同じ寝台で眠って、起きたら「おはよう」と挨拶をして。
自分の顔色が悪いと心配もした。
彼の心の中に自分の居場所が出来始めているのではないかと気づいて、泣きたくなった。
それが、誰かの信頼を得ることなんだと、長く生きていてはじめて知った。
今まで誰の信頼も愛情も必要とせずに生きてきたのに、今更にはじめて欲した。
(欲しいのはきっと、彼の心だ)
だから傷つけられなくなった。裏切れなくなった。
「…ナディール」
シンディーはまだ自分の姿を見つけられないらしい。
ややか細い声が自分を呼ぶのに、胸が締め付けられた。
「…本気でどこかに行ったのか?」
「………ここにいる」
これ以上隠れていられなくてちいさく声を上げると、わずかにさまよった碧い瞳が自分を見た。
「…なにやってる。
いい年してかくれんぼか?」
「…そんなつもりじゃなかった」
「…じゃあ、なんのつもりだ?」
足早に近寄ってきたシンディーに、思わず「来るな」と制していた。
今、彼が触れられる距離に来たら、きっとその首に牙を突き立ててしまう。
シンディーへの想いを自覚したからなのか?
飢えがますますひどくなっている。理性が飛びそうなほどに。
「…なぜ?」
「……」
「ほかの“贄”でも見つけたか?」
「…っなんでそうなる。
“贄”になるのは一人だけだって言っただろ!」
予想外の言葉に間髪入れずに否定した。
「血を吸わないからだろう」
「それはおまえが…っ!?」
反射的に声を荒げた瞬間、めまいに襲われてその場にしゃがみ込んだ。
「ナディール!?」
シンディーが慌てて駆け寄ってくるのを視界に捉え、どうにか震える手で近づかないよう制した。
「悪い。来るな」
「この状況でなに言ってんだ!
本気でなにかあったんじゃ…!」
「ちがう。
血を飲んでないからだ」
「じゃあなんでオレの血を…っ」
余裕のない声で問い詰めかけ、シンディーはふとなにかに気づいたように息を呑む。
「……おまえ、まさか、一週間前のオレの言葉を…?」
茫然とした顔で尋ねてきたシンディーに、否定は出来なかった。
しゃがんだまま、苦しげに顔をゆがめながら、ナディールは「わからなかったんだ」と吐露した。
「…血を飲んだら、抱くことになっちまう。
それをやったら、…おまえはオレのことは憎んだままなんだろう?
…ほかにどうしたらいいのか、わかんなかったんだよ」
「……ナディール」
「今、かなりやばいんだ。
触れたら、もう我慢出来ねえ。
おまえの首に牙を突き立てて血を飲んで、その身体を組み敷いてめちゃくちゃに犯しちまう。
…おまえが嫌がっても止められねえ」
だから来るな、と吐息のような声でささやくと、シンディーは一瞬の沈黙のあと、そのうつくしい顔を安堵にゆるませた。
「おまえはバカだな」
その声もひどくやさしくて、嫌悪も憎悪もにじんでいなかった。
目を奪われて、余計に胸が苦しくなる。
触れたら傷つける。なのに触れたい。どうしようもなく。
「オレの言葉を真に受けて、ずっと我慢してたのか?」
近くにしゃがみ込んで目線を合わせたシンディーの言葉に「…冗談だったのか?」とつい尋ねてしまった。
「冗談でも嘘でもねえさ。
無理矢理従わせて犯すなら憎んだままだった」
「じゃあ…」
「人の言葉はちゃんと聞け。
“無理矢理”じゃなければ、話は別だと思わないか?」
「…え」
目の前でほころんだ表情は、まるで咲き誇る花のように綺麗だった。
「なあ、ナディール。
あの言葉で我慢してたなら、オレの血や身体だけじゃ足りないのか?」
『あいつらをうらやましがってるように見えたんだがな』
シンディーの言葉が脳裏によみがえる。もう、それを否定する気はない。
自分はベイカーたちに嫉妬していた。
欲しいんだ。彼の信頼が。もっと、甘い感情が。その心が。
「……足りない、らしい」
「じゃあ、お願いすればいい。
抱きしめさせろって言ったみたいに、欲しいって言えばいい」
かすれた声で、心の底から欲して言葉にすると、シンディーが微笑んで方法を教えてくれた。
その手が、自分の頬に触れる。少し汗ばんだ、冷たい手。
今すぐ欲望に支配されそうになる身体を抑え込んで、その手をそっと握った。
「…キスが、したい。
おまえの血が欲しい。
血を吸って、…その身体をめいっぱい抱きたい。
……おまえが欲しい」
「…よし。
よくお預け出来たな。
…もういいぜ」
きっと自分の瞳も表情も、彼が欲しくて欲しくて仕方ないと叫んでいただろう。
艶やかな微笑みと言葉に箍が外れて目の前の身体を力一杯抱きしめ、その白い首筋に舌を這わせ、牙を突き立てる。
一週間ぶりに味わった血は、今までで一番甘美な味だった。
シンディーとの関係は相変わらず、いや、今までとは少し変わっている。
「ナディール。
さっきからなにうろうろしてるんだ?」
「…あ、いや」
リビングのソファに腰掛けたシンディーは、さっきから室内をうろうろしているナディールを見て怪訝な顔をした。
「…どうした?
なにか言いたいことがあるのか?」
そう尋ねるシンディーの瞳には嫌悪も憎悪も映っていない。
きっとあのとき、無理矢理に犯していたなら違っていたんだろう。
だからあれでよかったはずだ。
「………いや」
「…?」
どうも様子のおかしいナディールに、シンディーは首をかしげる。
「…おい、ナディール。
こっち来い」
「…なんだよ」
軽くて招かれてナディールはそちらに近寄る。
シンディーの手がナディールの腕を掴み、隣に座らせた。そのまま額に触れた白い手の感触に心拍数が速まった。
「…熱くないよな。
いや、そもそも吸血鬼って風邪引くのか…?」
「…あ、いや、風邪は、引かない」
「…だよな。
じゃあおまえ、なんでおかしいんだ?」
あまりに様子のおかしい自分を見て体調不良ではないかと思ったらしい。
吸血鬼が風邪引くわけないだろ、と苦笑してから気づく。
「…なあ、シンディー。
それって」
「ん?」
「…心配、してくれた、のか…?」
おそるおそる尋ねる声もうわずりそうだった。
うぬぼれすぎかもしれない。でもそういうことじゃないだろうか。
心臓の音がどきどき鳴ってる。
シンディーは目を丸くして、それから少し考え、頷いた。
「…かもしれないな」
「…っ」
「おまえがおかしいと、オレの調子が狂うのかもしれない」
自分でもよくわかっていないのか、シンディーの口調は他人事のようだった。
それでも彼の口元に浮かんだ笑みはやさしい。
ナディールはじわじわと熱くなる身体が、うるさく騒ぐ心臓がシンディーに伝わらないか心配になった。
きっとあのとき、無理矢理に犯していたなら得られなかったものだ。
堪えてよかったと思う。けど、迷う気持ちもある。
「…シンディー」
「なんだ?」
「…悪い。
ちょっと、触れる」
そう謝って、目の前の身体を抱き寄せる。
シンディーは抵抗の意思は見せなかった。
彼の身体が、血が欲しいだけのはずだったのに、こうしているだけで胸がきつく締め付けられて、満たされたような心地にもなる。
なのに目の前にさらされた白い首筋に、強い飢えを覚えて牙を突き立てたくもなった。
なんか、以前よりシンディーの血を欲しいと感じるようになった気がする。激しい飢えを感じるようになった、気がする。
けど今は、牙を突き立てることが出来ない。
「…なあ、」
「…どうした?」
「舐めてもいいか」
「……おい、なんのプレイだ」
腕の中でシンディーの困ったような声が響いた。
「ダメか」
「…ダメというか、…今更だろう」
まあ確かに散々血を吸って犯している時点で今更なのかもしれない。
でも今までと同じことをしているのではダメなのだとわかった。
白い首筋に唇を寄せ、舌を這わせるとシンディーの肩が跳ねる。
刻印の上を舌でなぞって、確かめるように指を這わせて。
彼が自分のものだと思って、仄暗い欲望がわき上がる。
「…っ」
皮膚に触れた牙の感触に、シンディーが身をすくめた。
衝撃に堪えるようにぎゅっとナディールの服を掴んだ指先に、ナディールは我に返って身を離した。
「…ナディール?」
シンディーはてっきりそのまま血を吸われると思ったのだろう。
きょとんとした顔で自分を見ていた。
一瞬、我を忘れて思う様彼を貪りそうになった。
けれどそれが出来ない。あのときから。
『そんなものが要らないっていうなら、あくまでオレを“贄”として好きにしたいだけなら、…どうぞご自由に?
犯すなりなんなり、すればいいさ。
いつものように命じてな』
ベイカーたちに向けられるような信頼を、要らないと言えなくて。
どうしても血を吸うことが出来ない。その身体を抱くことが出来ない。
シンディーが気安い態度で自分に接するたび、笑顔を見せてくれるたび、それをなくしたくないと、強く。
喉がひどく渇いている。苦しいほどに。
飢えているのに、求められずにいた。
それから更に三日後。
シンディーと一緒に訪れたストリートコートには、ほかのワンダースナッチのメンバーも集まっていた。
ナディールは頬を伝う汗を乱暴に手でぬぐって荒い息を吐く。
身体が重い。うまく動けない。
理由はわかってる。
この一週間、血をまったく飲んでいないからだ。
何度もシンディーの首に牙を突き立てそうになって、でも寸前で踏みとどまる。
血を飲んだら、その身体も貪ってしまう。牙には催淫効果があるからシンディーはそのまま放置されるなんて堪えられないだろうし、自分だってそんなシンディーを見て手を出さないなんて無理だ。
胸を縫い止めるのはあの日のシンディーの言葉。シンディーに真っ直ぐな信頼を寄せられていたベイカーとロイドの姿。
苦しいほどの飢えに耐えながら視線を動かすと、ベイカーとロイドと話しているシンディーの姿が見えた。
シンディーは彼らの正体を知ってもほんとうになにも変わらず、普通に接している。
今だって二人の言葉に気を許した顔で笑って見せるのだ。
シンディーを見つめる二人のまなざしに、明らかな欲が混ざっているのが見て取れる。
せり上がってくるのは焼け付くような独占欲。
シンディーに触れるものはなんであっても許せないと騒ぐ、どす黒い感情。
「おい、ナディール。
ゲームしようぜ」
不意にシンディーがこちらに近寄ってきて、笑顔でそう誘って来た。
汗で貼り付いた金色の髪を指でかき上げる仕草すらひどく扇情的で、ごくりと喉が鳴る。
白い首筋を伝う汗に、どうしようもなく煽られて我を失いそうになるのだ。
「…ナディール?」
「あ、ああ。
…やろうぜ」
「ん」
自分の返答にシンディーがやわらかな笑みを浮かべた。
その微笑を失いたくないと思うから、どうしたって手は出せない。
出せないのに、ひどく喉が渇いて苦しい。
死にそうなほどに、腹が空くんだ。
ゲームの結果は惨敗だった。
元々シンディーの才能は比類ない。人間と同じに能力をセーブした状態ではナディールもさすがに勝てない。あくまでバスケでは、だが。
しかし今回は完膚なきまでの敗北だった。いつものような動きがまったく出来ていなかった。
「おいナディール。
おまえどうした?」
シンディーもさすがにおかしいと思ったのか、自分の顔をのぞき込んで尋ねる。
「…なんでもねえよ」
「とてもそうは見えねえな。
動きが遅いし、顔色も悪いんじゃないか…?」
自分を案じるような言葉に胸をきつく締め付けられて。
なのに目の前にさらされた白い首筋から目をそらせなくなる。
どくん、と心臓が大きな音を立てた。
ひどく喉が渇くんだ。死にそうなほど苦しい。
欲しくて欲しくて仕方ないんだ。彼の血が。
その血を、その身体を、なにもかも奪って支配したくなる。
そのすべてを力尽くで手に入れて、貪ってしまえと本能が騒いでいた。
ほとんど無意識のまま、伸ばした手がシンディーの頬に触れる。
「ナディール?」
まるで警戒していないシンディーの碧い瞳が自分を見上げた。
そのまま首筋に顔を寄せる。
あのひどく甘美な血の味を思い出すと、理性がすうっと消えていく気がした、のに。
「ナディール」
自分を呼ぶシンディーの声に、一瞬で脳裏によみがえったのは彼の笑みで。
思わずシンディーの肩を掴んで引き離していた。
驚いたように自分を見る碧い瞳に、我に返ってひどく泣きたい気持ちになった。
今、完全に我を失っていた。こんな場所で、その首筋に牙を突き立てて、思う様彼を貪りそうになった。
そんなことしたらきっとすべてなくすんだ。
シンディーの身体も血も、その声も笑みも、――心も。
自分が血を吸う気だとわかったベイカーとロイドが、警戒をにじませながらも戸惑ったように自分を見ていた。
自分だってどうしたらいいのかわからない。
自分の顔に浮かんだのは、途方に暮れた迷子のような表情だったのかもしれなかった。
家に帰ってからも、シンディーは自分の様子をいぶかしがっているようだった。
純粋に心配してくれているのもあるだろう。だから余計に胸が痛んだ。
「ほんとうにどうしたんだ?
おまえ」
「………大したことじゃねえ」
「どこがだ」
キッチンに立って二人分のコーヒーを淹れているシンディーの背中を眺め、ナディールはかすれた声を絞り出す。
ひりつく喉に手を当てた。
「明らかにおかしいだろう。
体調が悪そうだし、様子もおかしいしな。
それに…」
シンディーはいったん手を止め、口ごもった。
シンディーも気づいているはずだ。不審に思っているはずだ。
ここ一週間、自分がまったく彼の血を飲んでいないことを。彼を抱いていないことを。
尋ねられたらどうしようと心臓がどくどくとうるさく脈打つ。
背を向けたシンディーの襟から覗く首筋に視線が吸い寄せられ、逸らせなくなった。
いっそ、今すぐにその首筋に牙を突き立てて貪ってしまえば。
一瞬脳裏をよぎった仄暗い思考に、そのまま呑まれそうになる。
『ナディール』
引き留めたのは記憶の中の彼の微笑と、自分を呼ぶ声。
どうしてもなくしたくないのだと強く思った。
気づかれないよう背を向けて部屋を出る。
屋敷の外に出ると、すっかり日が暮れて夕闇に染まった庭の中を歩いた。
なんでこんな意地になってるんだろう。
自分は吸血鬼で、シンディーはただの“贄”だったはずだ。
なのに、彼を裏切りたくないなんて今更に思う。
シンディーに信頼されるベイカーやロイドを、ひどくうらやましいと。
いや、ちがう。
これは、たぶん嫉妬だ。
憎らしい。妬ましいと思うどす黒い感情。
シンディーを奪われたくないという、独占欲。
「ナディール?」
不意にシンディーの声が響いて、肩が震えた。
「おい、どこにいる?」
庭を歩く彼の足音が聞こえる。
吸血鬼の目には、木々の合間を歩くシンディーの姿がはっきり見えた。
しかしシンディーのほうはそうもいかない。
いくらシンディーの眼が特殊でも、人の目は夜闇に弱い。月明かりのない夜では、この木々の生い茂った庭でナディールをすぐに見つけるのは困難だ。
「ナディール。
おい、おまえやっぱりおかしいぜ?
なにかあったのかよ?
おい」
シンディーは庭を歩いてナディールの姿を探しながら声を張り上げる。
ナディールは木の陰になって見えない場所で、彼の姿を息を潜めて見ていた。
なぜ隠れているんだろう。どうして我慢なんかしている。
今まで我慢なんてしたことはなかった。欲しいものなら力尽くで奪ってきた。
シンディーだってそのうちの一つに過ぎないはずだったのに。
そこまで考えてふと気づいた。
そもそも、なんでシンディーは自分を探しているんだ?
自分がいなくなることは、シンディーにとって望ましいことのはずなのに。
思えば一週間前、ベイカーやロイドが来たときもそうだった。家の中にいない自分を探していたようだった。
最近は当たり前のように二人分のコーヒーを淹れる。
セックスをしなくても同じ寝台で眠って、起きたら「おはよう」と挨拶をして。
自分の顔色が悪いと心配もした。
彼の心の中に自分の居場所が出来始めているのではないかと気づいて、泣きたくなった。
それが、誰かの信頼を得ることなんだと、長く生きていてはじめて知った。
今まで誰の信頼も愛情も必要とせずに生きてきたのに、今更にはじめて欲した。
(欲しいのはきっと、彼の心だ)
だから傷つけられなくなった。裏切れなくなった。
「…ナディール」
シンディーはまだ自分の姿を見つけられないらしい。
ややか細い声が自分を呼ぶのに、胸が締め付けられた。
「…本気でどこかに行ったのか?」
「………ここにいる」
これ以上隠れていられなくてちいさく声を上げると、わずかにさまよった碧い瞳が自分を見た。
「…なにやってる。
いい年してかくれんぼか?」
「…そんなつもりじゃなかった」
「…じゃあ、なんのつもりだ?」
足早に近寄ってきたシンディーに、思わず「来るな」と制していた。
今、彼が触れられる距離に来たら、きっとその首に牙を突き立ててしまう。
シンディーへの想いを自覚したからなのか?
飢えがますますひどくなっている。理性が飛びそうなほどに。
「…なぜ?」
「……」
「ほかの“贄”でも見つけたか?」
「…っなんでそうなる。
“贄”になるのは一人だけだって言っただろ!」
予想外の言葉に間髪入れずに否定した。
「血を吸わないからだろう」
「それはおまえが…っ!?」
反射的に声を荒げた瞬間、めまいに襲われてその場にしゃがみ込んだ。
「ナディール!?」
シンディーが慌てて駆け寄ってくるのを視界に捉え、どうにか震える手で近づかないよう制した。
「悪い。来るな」
「この状況でなに言ってんだ!
本気でなにかあったんじゃ…!」
「ちがう。
血を飲んでないからだ」
「じゃあなんでオレの血を…っ」
余裕のない声で問い詰めかけ、シンディーはふとなにかに気づいたように息を呑む。
「……おまえ、まさか、一週間前のオレの言葉を…?」
茫然とした顔で尋ねてきたシンディーに、否定は出来なかった。
しゃがんだまま、苦しげに顔をゆがめながら、ナディールは「わからなかったんだ」と吐露した。
「…血を飲んだら、抱くことになっちまう。
それをやったら、…おまえはオレのことは憎んだままなんだろう?
…ほかにどうしたらいいのか、わかんなかったんだよ」
「……ナディール」
「今、かなりやばいんだ。
触れたら、もう我慢出来ねえ。
おまえの首に牙を突き立てて血を飲んで、その身体を組み敷いてめちゃくちゃに犯しちまう。
…おまえが嫌がっても止められねえ」
だから来るな、と吐息のような声でささやくと、シンディーは一瞬の沈黙のあと、そのうつくしい顔を安堵にゆるませた。
「おまえはバカだな」
その声もひどくやさしくて、嫌悪も憎悪もにじんでいなかった。
目を奪われて、余計に胸が苦しくなる。
触れたら傷つける。なのに触れたい。どうしようもなく。
「オレの言葉を真に受けて、ずっと我慢してたのか?」
近くにしゃがみ込んで目線を合わせたシンディーの言葉に「…冗談だったのか?」とつい尋ねてしまった。
「冗談でも嘘でもねえさ。
無理矢理従わせて犯すなら憎んだままだった」
「じゃあ…」
「人の言葉はちゃんと聞け。
“無理矢理”じゃなければ、話は別だと思わないか?」
「…え」
目の前でほころんだ表情は、まるで咲き誇る花のように綺麗だった。
「なあ、ナディール。
あの言葉で我慢してたなら、オレの血や身体だけじゃ足りないのか?」
『あいつらをうらやましがってるように見えたんだがな』
シンディーの言葉が脳裏によみがえる。もう、それを否定する気はない。
自分はベイカーたちに嫉妬していた。
欲しいんだ。彼の信頼が。もっと、甘い感情が。その心が。
「……足りない、らしい」
「じゃあ、お願いすればいい。
抱きしめさせろって言ったみたいに、欲しいって言えばいい」
かすれた声で、心の底から欲して言葉にすると、シンディーが微笑んで方法を教えてくれた。
その手が、自分の頬に触れる。少し汗ばんだ、冷たい手。
今すぐ欲望に支配されそうになる身体を抑え込んで、その手をそっと握った。
「…キスが、したい。
おまえの血が欲しい。
血を吸って、…その身体をめいっぱい抱きたい。
……おまえが欲しい」
「…よし。
よくお預け出来たな。
…もういいぜ」
きっと自分の瞳も表情も、彼が欲しくて欲しくて仕方ないと叫んでいただろう。
艶やかな微笑みと言葉に箍が外れて目の前の身体を力一杯抱きしめ、その白い首筋に舌を這わせ、牙を突き立てる。
一週間ぶりに味わった血は、今までで一番甘美な味だった。
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