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第十話 激情
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かちこちと、壁にかかった時計が音を鳴らしている。
シンディーとナディールが暮らす屋敷のリビングには、重苦しい沈黙が落ちていた。
ソファに身を沈めたまま、シンディーはちいさく息を吐く。
「…いい加減、なにがあったのか話してくれてもいいんじゃないのか?」
「………」
「ナディール」
自分の隣に座ったまま、険しい顔をして黙り込んでいるナディールの横顔をにらむ。
三日前、ナイトクラブの駐車場で無理矢理自分の意識を奪ってから、ずっとこうだ。
シンディーが目を覚ましたときにはもう家にいて、それからナディールはなにも事情を話さず、シンディーを家から出してくれずにいる。
シンディーが家から出られないよう“命令”までして。
窓や扉に鍵がかかっていなくても、“主”の命令がある以上自分は抗えない。これじゃ軟禁と大差ないじゃないか。
せめて事情を話してくれるならまだしも、なにも答えてくれない。それで自分が納得すると思っているのか。
「ナディール。
いい加減にしろ。
オレはてめえの思うとおりになる人形じゃねえ。
チームのこともあるのに、リーダーのオレがこれじゃ」
「黙れ。
身動きごと封じられてえか」
「…ッ」
最後まで言わせず低い声で脅したナディールに息を呑む。
今のは命令ではないから身体の自由は封じられていないが、ナディールは本気だ。自分がこれ以上逆らえばそれすら辞さないだろう。
自分たちの関係が変わり始めて、ナディールは自分を命令で従わせることはしなくなっていたのに。
「だいたい思い違いしてんなよ。
おまえはオレの言うとおりになる人形だろうが。
自由になれると思ってんのか」
「…ずいぶん勝手な物言いだな。
今まではオレがいくら抗おうがそんなこと言わなかったくせに」
「気が変わったんだよ。
おまえはオレの“贄”なんだ。
逆らうな。
じゃねえと本気で強制的に従わせるぞ」
「はっ!
結局またそれか。
てめえは最終的には力尽くなんだな」
シンディーは軽蔑するように吐き捨てて顔を背けると、ソファから立ち上がった。
「どこに行く」
「キッチン。
コーヒー淹れたいだけだ。
安心しろよ。
誰かの命令のせいで、オレは家からは一歩も出られねえんだ」
ナディールの顔を見ないまま低い声で言って、足を踏み出した瞬間に腕を掴まれる。
「ッおい」
まさか家の中ですら自由に動くなとか言う気か、と尖った声が口を吐いたが、視線の先にあった表情に言葉を失った。
どうしたらいいかわからないような、ひどく苦しげな顔。
自分でも方法がわからないと、どうすればいいんだと言いたげな。
腕を掴む手は強く、痛いほどなのに指先がかすかに震えていて、むしろ迷子が必死で親にすがるような触れ方に思えた。
自分のほうが、迷子のような心地になる。
そんな顔をされて、そんな風につなぎ止められて、どうすればいい。
無理矢理従わせるやり方は出会った頃と同じようでまったくちがう。
それがわかっているから、どうしたらいいのかわからなくなるんだ。
不意にインターフォンが鳴って、シンディーは思わず玄関の方に視線を向けた。
時刻は夜の八時過ぎだ。客が来てもおかしな時間ではないし、この三日間一度もコートに足を運んでいないから誰かチームメイトが心配して訪ねてくる可能性もある。
「ここにいろ。
オレが行く」
ナディールは険しい表情のまま立ち上がるとシンディーの腕を引き、ソファに座らせて大股で玄関に向かった。
過保護だ。ほんのわずかでも自分を危険があるかもしれない場所に行かせたくないと、過剰なまでに怯えている。その理由を教えてくれないから、困るんだ。
少し待っているとリビングの扉が開いてベイカーが姿を見せた。
「よう、元気そうでよかった」
「ベイカー。
…ナディールは?」
「あいつは玄関でロイドと話してる。
事情をおまえに話したくないらしい」
「…どこまでも身勝手な男だな」
眉根を寄せてちいさく吐き捨てたシンディーに、ベイカーは困ったように笑うだけだ。
「…ベイカーは事情を聞いたのか?」
「まあ」
「話せ」
「…オレはさ、どっちかって言うとナディールに協力したいんだよな。
おまえを裏切りたいわけじゃねえし、おまえの意思を無視したくもないんだが。
今回はちょっと、のんきなこと言ってられなさそうだし」
ベイカーの言葉にシンディーは目を瞠って、舌打ちすると視線を逸らした。
「そうかよ。
じゃあ、オレにずっとこのまま軟禁されてろって?」
「そうは言ってねえが…。
それだけ、今のおまえは危機的状況にいるって話だ。
おまえになにかあったら、オレだって堪えられない」
「…いったいなんなんだ。
その吸血鬼は」
余所から新しくこの街に来た吸血鬼が原因らしいのはわかっている。
ナディールやベイカーがそこまでするなら、それほど危険なやつなのか?
「まあおまえの気持ちもわかる。
だから一個だけ言っておく。
その吸血鬼は、ナディールを心底嫌ってるらしい。
だから、ナディールの“贄”のおまえに、いったいなにをするかわからないって話だ」
「…………つまりオレは、ナディールとそいつのもめ事に巻き込まれて命を狙われてんのかよ」
「おおまかに言うとそうかもな」
「…なら、せめてそう言えばいいのに」
「言ったら、おとなしくナディールのそばにいてやるのか?」
不意に頭上から降ったひどく真剣な声に、シンディーは逸らしていた視線を戻す。
思い詰めたような表情がそこにあって、シンディーは言葉を失った。
「…ベイカー?」
「おまえは、このままずっとナディールのものでいてもいいのか?」
「…いいもなにも、あいつが」
「おまえが望むなら、ナディールから解放してやれるかもしれなくても?」
「…なに言ってるんだ」
ベイカーの言葉の意味がわからず、かすれた声がこぼれ落ちる。
「オレの“贄”になれば、その吸血鬼に狙われることもなくなるかもしれない」
「…そんなことが出来るのか?」
少なくともナディールの口ぶりでは、一度ある吸血鬼の“贄”になったら、“主”が死ぬか“贄”が死ぬかするまでその契約は解除されないはずだ。
「シンディーはこのままでいいのか?
無理矢理“贄”にされたままで。
…覚悟はあるのか?」
「…その吸血鬼に、殺されるかもしれない覚悟ってことか?」
「そうじゃない」
ベイカーは苦しげに眉を寄せ、ちいさくかぶりを振った。
「おまえだって気づいてるはずだ。
ナディールが、おまえをただの“贄”だなんて思ってないことは。
あいつの、おまえへの執着や感情はもはや“贄”に向けるものじゃないし、そんな枠に収まるようなかわいいもんじゃない。
わかってるのか?
このままあいつと一緒にいたら、おまえはいつかすべて失う羽目になる。
あいつはいつか、おまえを」
ベイカーの言葉は途中で消えた。乱暴に扉が開かれ、中に入ってきたナディールが射殺すような目でベイカーをにらんだ。
「…そいつに余計なことを吹き込む気なら、帰れ」
「…ナディール。
シンディーはおまえのものじゃねえ。
おまえが無理矢理“贄”にしただけで、そこにシンディーの意思はなかったんだ。
シンディーを傷つけられるのは嫌だから、その吸血鬼の件は協力するがな。
これ以上シンディーの意思を無視するようなら」
「いいから帰れ!」
まるで、手負いの獣のようだとシンディーは思った。
敵意をむき出しにしてベイカーを威圧する姿はひどく恐ろしいのに、むしろ怯えているのはナディールのほうに見えて。
ベイカーはなにか言いたげにナディールを見たが、戸口でこちらを伺っていたロイドに促されて無言のまま部屋を出て行った。
程なく玄関の扉が閉まる音が聞こえて、再び重苦しい静寂が戻って来る。
シンディーはゆっくりとソファから立ち上がると、真正面からナディールの顔を見上げた。
「…おまえは、オレのものだ」
「ナディール」
「おまえはオレのものだ。
自由なんざやらねえ。
おまえは」
「オレはおまえのものじゃない。
オレは」
「黙れ!」
獣の咆哮のような叫びに、身体から自由が奪われる。
声すら出せなくなって、ただ目の前で吠える男の顔を見上げることしか出来なくなった。
「わかってんだよそんなことは…!
てめぇやベイカーたちに言われずともわかってんだよ!
オレが強制したんだぜんぶ!なにひとつてめえの意思じゃねえ!
そんなのは、言われなくたってわかってんだよ!」
なのに今は、怒りも屈辱も湧かなかった。
誰もが震え上がるような恐ろしい顔をして、けれどその手が決して自分を傷つけないことはよくわかっていた。
傷だらけで怯える獣のようにしか見えなかった。
「オレのエゴだってことは知ってんだ。
オレがおまえを解放すればおまえが狙われることはねえって、オレがおまえを手放せばすべて解決するんだってことはよくわかってんだ!
ベイカーもロイドもそう言った!
おまえだって本心じゃそれを望んでるってことも知ってんだよ!
だからなんだ!
オレはぜったいにおまえを自由になんざしてやらねえ!」
伸びてきた両手が動けないシンディーの頬を包み、引きよせる。
ナディールの指に絡んだ金色の髪がくしゃりと音を立てた。
触れる手は荒々しいのに、傷つけたくないと怯えている。
その手が、大きな身体が震えていることに気づかないはずがない。
泣き叫んでいるようにしか見えなかった。
自分をつなぎ止めておく方法がわからずに、思い通りにならない自分に苛立ちながら、怯えながらあがいているようにしか見えなかった。
自分よりずっと長く生きているのに、大切にしたいと思える存在が今までいなかったのだろう。どうしたらいいのかわからなくて、ただ必死になって、失うことに怯えて、結局無理矢理従わせるしかなくなっている。
『あいつの、おまえへの執着や感情はもはや“贄”に向けるものじゃないし、そんな枠に収まるようなかわいいもんじゃない』
わかっている。わかっていたから苦しかった。
殺したいほど憎んでいたはずなのに、いつの間にかそれだけではなくなってしまったから、どうしたらいいのかわからなくなった。
「誰にも奪わせねえ…!
おまえはオレのものだ…!
離れることなんざ、ぜったいに許さねえよ!」
慟哭みたいに叫んで、ナディールは自分の身体をかき抱く。
やっぱり、こいつはバカだ。
身体の自由を奪って、声すら奪ったら、なにも言えないじゃないか。
イエスもノーも、なにも返せない。
けれど、今はそれでよかったのかもしれない。
声を出せたとしても、今の自分は結局こいつに掛ける言葉を持たない。
失いたくないと思える存在が今までいなかったのは、自分も同じだ。
自分だってナディールと大差がない。
気を許せる仲間こそいたが、ナディールのような関係になった相手はいなかった。
肉体関係を持っただけの女ならたくさんいて、けれど彼女たちは自分にとって何にもならなかった。ナディールが今まで血を吸ってきた餌と大差ないように、使い捨ての存在でしかなく。
こんなにも心をかき乱された相手は、今までいなかった。
『このままあいつと一緒にいたら、おまえはいつかすべて失う羽目になる。
あいつはいつか、おまえを』
ほんとうは、ベイカーの言葉の意味はわかっていた。
さえぎられた言葉の先は、気づいていた。
だからこそ、どうしたらいいかわからなかった。
「シンディー」
泣き声のように震えたささやきが、自分を呼んだ。
頬に手を添えられ、唇がそっと重なった。
「…おまえはオレのものだ。
――離れるな」
命令のような言葉は、むしろ「離れないでくれ」と懇願しているように響いた。
シンディーとナディールが暮らす屋敷のリビングには、重苦しい沈黙が落ちていた。
ソファに身を沈めたまま、シンディーはちいさく息を吐く。
「…いい加減、なにがあったのか話してくれてもいいんじゃないのか?」
「………」
「ナディール」
自分の隣に座ったまま、険しい顔をして黙り込んでいるナディールの横顔をにらむ。
三日前、ナイトクラブの駐車場で無理矢理自分の意識を奪ってから、ずっとこうだ。
シンディーが目を覚ましたときにはもう家にいて、それからナディールはなにも事情を話さず、シンディーを家から出してくれずにいる。
シンディーが家から出られないよう“命令”までして。
窓や扉に鍵がかかっていなくても、“主”の命令がある以上自分は抗えない。これじゃ軟禁と大差ないじゃないか。
せめて事情を話してくれるならまだしも、なにも答えてくれない。それで自分が納得すると思っているのか。
「ナディール。
いい加減にしろ。
オレはてめえの思うとおりになる人形じゃねえ。
チームのこともあるのに、リーダーのオレがこれじゃ」
「黙れ。
身動きごと封じられてえか」
「…ッ」
最後まで言わせず低い声で脅したナディールに息を呑む。
今のは命令ではないから身体の自由は封じられていないが、ナディールは本気だ。自分がこれ以上逆らえばそれすら辞さないだろう。
自分たちの関係が変わり始めて、ナディールは自分を命令で従わせることはしなくなっていたのに。
「だいたい思い違いしてんなよ。
おまえはオレの言うとおりになる人形だろうが。
自由になれると思ってんのか」
「…ずいぶん勝手な物言いだな。
今まではオレがいくら抗おうがそんなこと言わなかったくせに」
「気が変わったんだよ。
おまえはオレの“贄”なんだ。
逆らうな。
じゃねえと本気で強制的に従わせるぞ」
「はっ!
結局またそれか。
てめえは最終的には力尽くなんだな」
シンディーは軽蔑するように吐き捨てて顔を背けると、ソファから立ち上がった。
「どこに行く」
「キッチン。
コーヒー淹れたいだけだ。
安心しろよ。
誰かの命令のせいで、オレは家からは一歩も出られねえんだ」
ナディールの顔を見ないまま低い声で言って、足を踏み出した瞬間に腕を掴まれる。
「ッおい」
まさか家の中ですら自由に動くなとか言う気か、と尖った声が口を吐いたが、視線の先にあった表情に言葉を失った。
どうしたらいいかわからないような、ひどく苦しげな顔。
自分でも方法がわからないと、どうすればいいんだと言いたげな。
腕を掴む手は強く、痛いほどなのに指先がかすかに震えていて、むしろ迷子が必死で親にすがるような触れ方に思えた。
自分のほうが、迷子のような心地になる。
そんな顔をされて、そんな風につなぎ止められて、どうすればいい。
無理矢理従わせるやり方は出会った頃と同じようでまったくちがう。
それがわかっているから、どうしたらいいのかわからなくなるんだ。
不意にインターフォンが鳴って、シンディーは思わず玄関の方に視線を向けた。
時刻は夜の八時過ぎだ。客が来てもおかしな時間ではないし、この三日間一度もコートに足を運んでいないから誰かチームメイトが心配して訪ねてくる可能性もある。
「ここにいろ。
オレが行く」
ナディールは険しい表情のまま立ち上がるとシンディーの腕を引き、ソファに座らせて大股で玄関に向かった。
過保護だ。ほんのわずかでも自分を危険があるかもしれない場所に行かせたくないと、過剰なまでに怯えている。その理由を教えてくれないから、困るんだ。
少し待っているとリビングの扉が開いてベイカーが姿を見せた。
「よう、元気そうでよかった」
「ベイカー。
…ナディールは?」
「あいつは玄関でロイドと話してる。
事情をおまえに話したくないらしい」
「…どこまでも身勝手な男だな」
眉根を寄せてちいさく吐き捨てたシンディーに、ベイカーは困ったように笑うだけだ。
「…ベイカーは事情を聞いたのか?」
「まあ」
「話せ」
「…オレはさ、どっちかって言うとナディールに協力したいんだよな。
おまえを裏切りたいわけじゃねえし、おまえの意思を無視したくもないんだが。
今回はちょっと、のんきなこと言ってられなさそうだし」
ベイカーの言葉にシンディーは目を瞠って、舌打ちすると視線を逸らした。
「そうかよ。
じゃあ、オレにずっとこのまま軟禁されてろって?」
「そうは言ってねえが…。
それだけ、今のおまえは危機的状況にいるって話だ。
おまえになにかあったら、オレだって堪えられない」
「…いったいなんなんだ。
その吸血鬼は」
余所から新しくこの街に来た吸血鬼が原因らしいのはわかっている。
ナディールやベイカーがそこまでするなら、それほど危険なやつなのか?
「まあおまえの気持ちもわかる。
だから一個だけ言っておく。
その吸血鬼は、ナディールを心底嫌ってるらしい。
だから、ナディールの“贄”のおまえに、いったいなにをするかわからないって話だ」
「…………つまりオレは、ナディールとそいつのもめ事に巻き込まれて命を狙われてんのかよ」
「おおまかに言うとそうかもな」
「…なら、せめてそう言えばいいのに」
「言ったら、おとなしくナディールのそばにいてやるのか?」
不意に頭上から降ったひどく真剣な声に、シンディーは逸らしていた視線を戻す。
思い詰めたような表情がそこにあって、シンディーは言葉を失った。
「…ベイカー?」
「おまえは、このままずっとナディールのものでいてもいいのか?」
「…いいもなにも、あいつが」
「おまえが望むなら、ナディールから解放してやれるかもしれなくても?」
「…なに言ってるんだ」
ベイカーの言葉の意味がわからず、かすれた声がこぼれ落ちる。
「オレの“贄”になれば、その吸血鬼に狙われることもなくなるかもしれない」
「…そんなことが出来るのか?」
少なくともナディールの口ぶりでは、一度ある吸血鬼の“贄”になったら、“主”が死ぬか“贄”が死ぬかするまでその契約は解除されないはずだ。
「シンディーはこのままでいいのか?
無理矢理“贄”にされたままで。
…覚悟はあるのか?」
「…その吸血鬼に、殺されるかもしれない覚悟ってことか?」
「そうじゃない」
ベイカーは苦しげに眉を寄せ、ちいさくかぶりを振った。
「おまえだって気づいてるはずだ。
ナディールが、おまえをただの“贄”だなんて思ってないことは。
あいつの、おまえへの執着や感情はもはや“贄”に向けるものじゃないし、そんな枠に収まるようなかわいいもんじゃない。
わかってるのか?
このままあいつと一緒にいたら、おまえはいつかすべて失う羽目になる。
あいつはいつか、おまえを」
ベイカーの言葉は途中で消えた。乱暴に扉が開かれ、中に入ってきたナディールが射殺すような目でベイカーをにらんだ。
「…そいつに余計なことを吹き込む気なら、帰れ」
「…ナディール。
シンディーはおまえのものじゃねえ。
おまえが無理矢理“贄”にしただけで、そこにシンディーの意思はなかったんだ。
シンディーを傷つけられるのは嫌だから、その吸血鬼の件は協力するがな。
これ以上シンディーの意思を無視するようなら」
「いいから帰れ!」
まるで、手負いの獣のようだとシンディーは思った。
敵意をむき出しにしてベイカーを威圧する姿はひどく恐ろしいのに、むしろ怯えているのはナディールのほうに見えて。
ベイカーはなにか言いたげにナディールを見たが、戸口でこちらを伺っていたロイドに促されて無言のまま部屋を出て行った。
程なく玄関の扉が閉まる音が聞こえて、再び重苦しい静寂が戻って来る。
シンディーはゆっくりとソファから立ち上がると、真正面からナディールの顔を見上げた。
「…おまえは、オレのものだ」
「ナディール」
「おまえはオレのものだ。
自由なんざやらねえ。
おまえは」
「オレはおまえのものじゃない。
オレは」
「黙れ!」
獣の咆哮のような叫びに、身体から自由が奪われる。
声すら出せなくなって、ただ目の前で吠える男の顔を見上げることしか出来なくなった。
「わかってんだよそんなことは…!
てめぇやベイカーたちに言われずともわかってんだよ!
オレが強制したんだぜんぶ!なにひとつてめえの意思じゃねえ!
そんなのは、言われなくたってわかってんだよ!」
なのに今は、怒りも屈辱も湧かなかった。
誰もが震え上がるような恐ろしい顔をして、けれどその手が決して自分を傷つけないことはよくわかっていた。
傷だらけで怯える獣のようにしか見えなかった。
「オレのエゴだってことは知ってんだ。
オレがおまえを解放すればおまえが狙われることはねえって、オレがおまえを手放せばすべて解決するんだってことはよくわかってんだ!
ベイカーもロイドもそう言った!
おまえだって本心じゃそれを望んでるってことも知ってんだよ!
だからなんだ!
オレはぜったいにおまえを自由になんざしてやらねえ!」
伸びてきた両手が動けないシンディーの頬を包み、引きよせる。
ナディールの指に絡んだ金色の髪がくしゃりと音を立てた。
触れる手は荒々しいのに、傷つけたくないと怯えている。
その手が、大きな身体が震えていることに気づかないはずがない。
泣き叫んでいるようにしか見えなかった。
自分をつなぎ止めておく方法がわからずに、思い通りにならない自分に苛立ちながら、怯えながらあがいているようにしか見えなかった。
自分よりずっと長く生きているのに、大切にしたいと思える存在が今までいなかったのだろう。どうしたらいいのかわからなくて、ただ必死になって、失うことに怯えて、結局無理矢理従わせるしかなくなっている。
『あいつの、おまえへの執着や感情はもはや“贄”に向けるものじゃないし、そんな枠に収まるようなかわいいもんじゃない』
わかっている。わかっていたから苦しかった。
殺したいほど憎んでいたはずなのに、いつの間にかそれだけではなくなってしまったから、どうしたらいいのかわからなくなった。
「誰にも奪わせねえ…!
おまえはオレのものだ…!
離れることなんざ、ぜったいに許さねえよ!」
慟哭みたいに叫んで、ナディールは自分の身体をかき抱く。
やっぱり、こいつはバカだ。
身体の自由を奪って、声すら奪ったら、なにも言えないじゃないか。
イエスもノーも、なにも返せない。
けれど、今はそれでよかったのかもしれない。
声を出せたとしても、今の自分は結局こいつに掛ける言葉を持たない。
失いたくないと思える存在が今までいなかったのは、自分も同じだ。
自分だってナディールと大差がない。
気を許せる仲間こそいたが、ナディールのような関係になった相手はいなかった。
肉体関係を持っただけの女ならたくさんいて、けれど彼女たちは自分にとって何にもならなかった。ナディールが今まで血を吸ってきた餌と大差ないように、使い捨ての存在でしかなく。
こんなにも心をかき乱された相手は、今までいなかった。
『このままあいつと一緒にいたら、おまえはいつかすべて失う羽目になる。
あいつはいつか、おまえを』
ほんとうは、ベイカーの言葉の意味はわかっていた。
さえぎられた言葉の先は、気づいていた。
だからこそ、どうしたらいいかわからなかった。
「シンディー」
泣き声のように震えたささやきが、自分を呼んだ。
頬に手を添えられ、唇がそっと重なった。
「…おまえはオレのものだ。
――離れるな」
命令のような言葉は、むしろ「離れないでくれ」と懇願しているように響いた。
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