11 / 13
第十一話 愛情
しおりを挟む
あのナイトクラブでの一件から一週間が経過した日。
ずっと自宅から外に出られずにいたシンディーが「キャンセル出来ない用事が出来た」とナディールに言った。
「あの命令を解除して外に出せ。
今回ばっかりは反故にするわけにいかねえんだ」
リビングのソファに座ったナディールを見下ろし、シンディーは低い声で告げる。
「…なんの用事だよ」
「実家のほうでパーティがある。
一応跡継ぎだからな、行かないとまずいんだ」
「体調不良だとでも言って断れ」
「それで?
今回はそう断って、それをずっと続ける気か?
これ以上軟禁が長引けば怪しまれる。
実際、リックたちだってなにがあったのか心配してるんだ。
てめえの常識がオレたちとちがうのは十分わかってるが、それをオレに強要するな」
ナディールの瞳をにらみつけ、言い放つとすぐに手首を掴まれた。
「行かせてやると思ってんのかよ」
「おまえこそ、またそうやって力尽くで従わせる気か?
そんなことを続けたってオレはてめえのものにはならねえよ。
前に言っただろう。
信頼されるに足る行動を取れって。
信頼ってのは築くのは難しいが崩すのはたやすいんだ。
まして一度積み上げた信頼を崩したら、もう一度積み上げるには倍の努力と時間がかかる。
もう一度出会ったころのような関係に戻したいっていうならべつだがな」
冷淡なまなざしで告げられた言葉に、ナディールの手が顕著に震えた。瞳も揺らいで、迷うように逸らされる。
「…ナディール。
オレだって自殺願望なんかねえんだ。
自分が危険な状況にいるのはわかってる。
ついて来るななんて言ってねえ」
「……一緒に行っていいのか?」
「さすがに部外者は会場までは入れないが、屋敷の外で待ってる分にはいいんじゃないのか。
ましておまえは人間じゃねえから、警備員に気づかれないようにするなんて造作もねえだろうし。
同族が近場に来ればわかるんだろう?」
「……そうだな」
ナディールもこのままシンディーを軟禁し続けるのは、現実的に不可能だとわかっていたらしい。
シンディーが「ついてきていい」と言ったことで態度がわずかに軟化した。
不意にナディールの手が伸びてきて、そのまま抱き寄せられる。
ナディールはソファに座ったままのため、立っているシンディーの胸元に彼の顔が埋まる。
ナディールは脈打つシンディーの鼓動を感じて、そのまま目を伏せた。
パーティ自体は問題もなかった。
両親と会って話して、それからすり寄ってくる女たちを適当に相手して、縁談を持ちかけてくる企業の社長や親族を躱して、いつも通りの退屈なパーティだった。
特に怪しいと思う人物もいなかったし、吸血鬼が屋敷にいたらナディールがすぐ気づくだろう。
念のためベイカーとロイドも外で見張ってくれているし。
ただこの一週間まったく家から出られずにいたためか、大勢の人にずっと囲まれていて少し疲れてしまった。
会場になっている広間を出て一息吐く。
赤い絨毯の敷かれた立派なしつらえの廊下は天井も高く、長く広い。
途中に置かれたベルベッドの豪華なソファに、一人の若い女性が腰掛け、なにやら気分悪そうにうつむいているのが見えた。
いちいち他人に親切をしてやるほどやさしい性格はしていないが、さすがに実家が主催したパーティでなにかあるとあとあと面倒そうだし、そもそもこの状況でスルーするとややこしいことになりそうだ。
廊下にいるのは彼女と自分だけだし。
やむなくシンディーは彼女に近寄ると声をかけた。
「顔色が優れないようですが、だいじょうぶですか?」
「あ、はい。
だいじょうぶです。
軽い貧血で…」
「ならいいのですが、少し横になられたほうが…」
休める客室にでも案内したほうがいいか?と考えながら口にした言葉は途中で消えた。
赤いドレスをまとった女性がシンディーの手をそっと握って、こう言ったからだ。
「私はあなたと同じ“贄”です」
「……は?」
「あなたもでしょう?
傲慢な吸血鬼に勝手に“贄”にされ、逃れることも出来ずにいる。
私も同じです」
「……………ほんとうに?」
「はい」
一瞬、なにかの聞き間違いか虚言かとも思ったが、そうじゃない。
はっきり“吸血鬼”と、“贄”と言った。
それに彼女の首筋には、よく見ないとわからないくらいに薄れてはいるが、確かに牙の跡がある。
「…なぜオレが同じだと?」
「あなたの身体に刻まれた刻印は目立ちます。
ただの人間ならば刺青としか思いませんが…」
「…それは確かに」
吸血鬼の“贄”ならば身体のどこかに刻印があるはずだ。自分の身体に刻まれた刻印ほど目立つものは少ないのかもしれないが、同じ“贄”ならば「あれは刻印かも」と察せるのかもしれない。
「でも、そんなことを言われてもどうしようもないのでは?」
「吸血鬼を確実に殺める方法があっても?」
「………は?」
「“主”を殺せば“贄”は自由になれます。
確実に吸血鬼を殺める方法を見つけたんです」
相手は自分たちの常識の通用しない存在だ。いくら抵抗しても無意味だろうという考えは、彼女が続けた言葉に揺らいだ。
彼女はバックから取り出した小瓶をシンディーの手に握らせる。
「それをあなたが飲んでください。
その小瓶の中の液体は人間には一切なんの効果もない無害なものですが、吸血鬼には猛毒です。
それを飲んだ人間の血を吸えば、吸血鬼は死に至ります」
「……ちょっと待て。
それが仮にほんとうだとして、なぜそんなものを持っている?」
彼女に強い不信感を抱いて、シンディーは思わず距離を取った。
「おまえが“主”を殺めたいなら、自分でそれを使えばいいじゃないか。
だいたい、これが本物だったとして、どうやってこんなものを手に入れた?」
「それは本物です」
「オレの質問に答えろ」
「そんなことより重要なことがあるでしょう?
それを使わなければあなたは一生あの吸血鬼から逃れられない。
無理矢理所有されて好き勝手にされたまま、一生。
憎くないんですか?殺したくはないですか?
彼はあなたを都合の良い人形のようにしか思っていないのに?」
「…黙れ」
「このままでいいんですか?
あなたは」
「黙れ!!」
堪えられないというように叫んだ声がその場に響き渡る。
かすかに身を震わせて口を閉じた女を見てはっと我に返ったが、それ以上この場にとどまりたくなかった。
シンディーは背を向けると大股で屋敷の出口に向かう。
屋敷の外に出ると大粒の雨が降っていた。
かまわず庭に出ると、すぐにナディールが目の前に現れた。
「シンディー。
どうした?
終わったのか?」
吸血鬼が近場にいないのはわかっていただろうに、ひどく不安げな様子で尋ねて来た彼にきつく胸が痛んだ。
『憎くないんですか?殺したくはないですか?
彼はあなたを都合の良い人形のようにしか思っていないのに?』
ほんとうに今、それがすべてならばこんなに苦しくなってない。
「シンディー…?
どうした…?」
大きな手が頬に触れる。あたたかな手だ。
シンディーはナディールの顔を見ていられず、視線を逸らすと、
「もういいから帰るぞ」
とだけ言って駐車場に足を向ける。ナディールはなにか言いたげにしながら後を追ってきた。
夜更けの時間になっても、まだ雨音は止まなかった。
ふ、と目が覚めて、シンディーはかすかに身じろいだ。
ベッドサイドの明かりすらない、薄暗い寝室には窓の外の雨の音と時計のかすかな音だけが響いている。
大きな寝台に横たわった身体は、隣で眠る男の腕にがんじがらめに閉じ込められていた。
パーティのあと、珍しく取り乱した様子の自分を案じたのか、ナディールは自分を抱くことはしなかった。
ただこうやって身体を抱きしめて眠りについた。寝ている最中に自分がどこかに行かないように、奪われないように、きつく身体を抱きしめたまま。
シンディーはナディールの胸板に顔を寄せ、ちいさく息を吐く。
あたたかい身体だ。心臓の音も規則正しい。こうして見ていると、自分となにも変わらない。
けれど彼が人間でないのは痛いほどよく知っている。
答えを出せずに、シンディーはナディールを起こさないように抜け出す。そのまま部屋を出た。
書斎として使っている部屋に入ると明かりを点け、机の引き出しを開ける。
あの女に渡された小瓶を取り出し、手に持った。
あのとき、結局この小瓶を捨てることが出来ず、持ち帰ってしまったのだ。
ナディールの目に触れないようにこの引き出しの中にしまった小瓶は、中に赤い液体が入っている。
『憎くないんですか?殺したくはないですか?』
ああ。憎かった。殺したかった。
でも、今は?
傲慢な吸血鬼だった。けれどいつからか自分にやさしくなった。
『…オレはおまえに会えて最高にうれしいぜ。
シンディー』
なにがあっても屈しない自分に、ひどく満たされた顔でささやいた。
『…抱きしめさせてくれ』
苦しげな声でどこかすがるように告げたのは、あれはベイカーとロイドが吸血鬼だと知った夜。
自分の信頼が欲しいと、彼は自分勝手に振る舞うことをやめた。
『…キスが、したい。
おまえの血が欲しい。
血を吸って、…その身体をめいっぱい抱きたい。
……おまえが欲しい』
自分に失望されたくないと、あんなに飢えるまで血を飲むのを堪えて。
『…おまえはオレのものだ。
――離れるな』
自分を失いたくないと、怯えながら必死でつなぎ止めようとしている。
自分だって、いつの間にか当たり前になってしまった。
朝、彼と自分の二人分のコーヒーを淹れることも、彼の作った食事を食べることも、彼と一緒にバスケをすることも、共に眠ることも、自分を抱きしめる腕の強さも、そのあたたかさも。
ナディールを殺したら、それらすべてが消えてしまうのに。
向けられるあたたかなまなざしに胸がうずくことも、自分の些細な言葉や行動に彼が一喜一憂する切なさも、当たり前のようにそばにある体温に安らいでいたことも、なにもかも。
ふとした瞬間に視線を向けたら、彼も自分を見ていた。
視線が合って、彼がひどくうれしそうに笑う。
そのときに感じた、胸を詰まらせるような感情の名前を、ほんとうは自分は気づいていた。
そのすべてを、どうやってなかったことにすればいい?
どうやって、なかったことにすれば。
「なにしてんだ?」
不意に耳元で響いた低い声に身体が大きく跳ねる。
逃げる暇もなく腕を掴まれ、壁に押さえつけられて痛みにちいさく声が漏れた。
「ナディール…」
目の前にひどく恐ろしい表情をしたナディールがいて、シンディーは自分の迂闊さを恨みたくなった。
気配すら感じなかった。でも当たり前だ。彼は人間じゃない。
鍵もかけずに思案に沈んでいた自分がバカだった。
「…なんで、おまえがこんなものを持ってる?」
「…ッ」
「どこで手に入れた?」
ぎりっ、と腕を掴む手に力が込められ、痛みに顔が歪む。
ナディールの反応から見て、この小瓶の中身はあの女の言った通りのものなのだろう。
「どこで手に入れた!?
答えろシンディー!」
「…ッ…パーティ会場で、ある吸血鬼の“贄”だという女に」
「それで、受け取ったのか?
それをオレに使う気で?」
すぐに否定は出来なかった。受け取ってしまったのは事実だ。
だけど使うか迷ったのか?と聞かれたら、ちがう気がした。
迷ったのかもしれない。でも、結局天秤はいつも同じ方向に傾いていた。
なにも言えない。
頭に浮かぶ言葉は、結局泣きたいほどの後悔ばかりだ。
きつく掴まれた腕がひどく痛むが、それよりも胸のほうが痛かった。
不意に腕を解放され、ナディールが自分から身を離したためシンディーは驚いて彼を見上げる。
ナディールの顔に浮かんでいたのは自暴自棄になったかのような、あきらめのにじんだ笑みだった。
「…いいぜ」
「…は?」
「使えよ。それ。
もう止めねえさ」
「…ナディール…?」
「…もういい。
…殺したきゃ殺せよ。
おまえならいい」
自分よりずっと泣きそうな顔で彼が笑う。
切り裂かれたように痛む胸で、やっと自覚した。
ずっと憎かった。殺したかった。けれどその感情は、もっと強い想いに消されてしまった。
自分になら殺されてもいいと絶望したように笑う彼を見て、それでも憎んでいられるはずがなかった。
(オレには、ナディールを殺せない)
こいつを失う未来を、どうしても思い描けなかった。途方もない喪失感と絶望があるとわかっていて、選べるはずがなかった。
なかったことに出来るはずがなかった。今更なにもかも、なかったことになんか出来なかった。
視線が合ったとき、うれしそうに微笑んだ彼を見て感じたあの、胸を詰まらせるような気持ちは、――幸福という名前だったから。
シンディーは手に持っていた小瓶を躊躇なく窓に向かって投げ捨てた。
窓ガラスが割れて音を立てる。窓の外に落ちた小瓶も割れてしまっただろう。だが、もうどうでもよかった。
ナディールの顔を見ると、信じられないような目で自分を見ていた。
「…要らねえよ。
あんなもん、オレは要らねえ」
「………シンディー」
「あんなもの、オレは要らない…!」
「…ッ」
自分の言葉にナディールは大股で近寄ると、自分の頬を包んで上向かせる。
「…なにやってんだ。
わかってんのか?
オレから逃げる最初で最後のチャンスだったんだぞ?
オレはもう一生、おまえを手放してやらねえ。
わかってんのか!?」
きっと彼は、自分を手放そうとしてくれたのだろう。
彼の幸福と自分の幸福を天秤にかけて、自分を選んだ。
そのために、死んでもいいと結論を出して。
あるいは自分が彼の死を望んでいると思って心底絶望したのかもしれない。
それがわかっていて、選べるはずがない。
「わかってる」
ナディールの瞳を真っ直ぐ見つめてはっきりと告げると、その瞳が大きく揺らいだ。
今にも泣き出しそうに見えた。
「…わかってる。
それでいい」
もう一度、伝わるように告げたシンディーに、今度こそナディールの顔がくしゃりとゆがめられる。
シンディーは手を伸ばすとナディールの頬に当て、軽く背伸びをしてその唇にキスをした。
「これはオレの意思だ。
――オレは、おまえのそばにいる」
微笑んで告げた瞬間、窒息するほど強い力で身体をかき抱かれる。
自分を抱くナディールの身体が大きく震えていることも、肩に落ちる熱い滴が彼の涙だということもわかっていた。
だからその背中に腕を回して、そのたくましい肩に顔を寄せる。
嗚咽の混ざった声が何度も、自分の名を呼んだ。
耳元で響いた震えた声が、ひどく満ち足りたように告げる。
「…愛してる。
シンディー」
その言葉にただ、幸福だと思った。
きっと、最初で最後のチャンスだった。
ナディールから解放されるための、最初で最後の。
そして、オレが人のまま一生を終えるための。
『このままあいつと一緒にいたら、おまえはいつかすべて失う羽目になる。
あいつはいつか、おまえを』
ああ。わかってる。それでいい。
(オレはきっといつかすべてを失う。ナディールと引き替えに、人として生きるためのすべてを)
それでも、彼のことを失えなかった。
胸を満たす感情に名前を付けるなら、――「愛」でしかなかったのだから。
ずっと自宅から外に出られずにいたシンディーが「キャンセル出来ない用事が出来た」とナディールに言った。
「あの命令を解除して外に出せ。
今回ばっかりは反故にするわけにいかねえんだ」
リビングのソファに座ったナディールを見下ろし、シンディーは低い声で告げる。
「…なんの用事だよ」
「実家のほうでパーティがある。
一応跡継ぎだからな、行かないとまずいんだ」
「体調不良だとでも言って断れ」
「それで?
今回はそう断って、それをずっと続ける気か?
これ以上軟禁が長引けば怪しまれる。
実際、リックたちだってなにがあったのか心配してるんだ。
てめえの常識がオレたちとちがうのは十分わかってるが、それをオレに強要するな」
ナディールの瞳をにらみつけ、言い放つとすぐに手首を掴まれた。
「行かせてやると思ってんのかよ」
「おまえこそ、またそうやって力尽くで従わせる気か?
そんなことを続けたってオレはてめえのものにはならねえよ。
前に言っただろう。
信頼されるに足る行動を取れって。
信頼ってのは築くのは難しいが崩すのはたやすいんだ。
まして一度積み上げた信頼を崩したら、もう一度積み上げるには倍の努力と時間がかかる。
もう一度出会ったころのような関係に戻したいっていうならべつだがな」
冷淡なまなざしで告げられた言葉に、ナディールの手が顕著に震えた。瞳も揺らいで、迷うように逸らされる。
「…ナディール。
オレだって自殺願望なんかねえんだ。
自分が危険な状況にいるのはわかってる。
ついて来るななんて言ってねえ」
「……一緒に行っていいのか?」
「さすがに部外者は会場までは入れないが、屋敷の外で待ってる分にはいいんじゃないのか。
ましておまえは人間じゃねえから、警備員に気づかれないようにするなんて造作もねえだろうし。
同族が近場に来ればわかるんだろう?」
「……そうだな」
ナディールもこのままシンディーを軟禁し続けるのは、現実的に不可能だとわかっていたらしい。
シンディーが「ついてきていい」と言ったことで態度がわずかに軟化した。
不意にナディールの手が伸びてきて、そのまま抱き寄せられる。
ナディールはソファに座ったままのため、立っているシンディーの胸元に彼の顔が埋まる。
ナディールは脈打つシンディーの鼓動を感じて、そのまま目を伏せた。
パーティ自体は問題もなかった。
両親と会って話して、それからすり寄ってくる女たちを適当に相手して、縁談を持ちかけてくる企業の社長や親族を躱して、いつも通りの退屈なパーティだった。
特に怪しいと思う人物もいなかったし、吸血鬼が屋敷にいたらナディールがすぐ気づくだろう。
念のためベイカーとロイドも外で見張ってくれているし。
ただこの一週間まったく家から出られずにいたためか、大勢の人にずっと囲まれていて少し疲れてしまった。
会場になっている広間を出て一息吐く。
赤い絨毯の敷かれた立派なしつらえの廊下は天井も高く、長く広い。
途中に置かれたベルベッドの豪華なソファに、一人の若い女性が腰掛け、なにやら気分悪そうにうつむいているのが見えた。
いちいち他人に親切をしてやるほどやさしい性格はしていないが、さすがに実家が主催したパーティでなにかあるとあとあと面倒そうだし、そもそもこの状況でスルーするとややこしいことになりそうだ。
廊下にいるのは彼女と自分だけだし。
やむなくシンディーは彼女に近寄ると声をかけた。
「顔色が優れないようですが、だいじょうぶですか?」
「あ、はい。
だいじょうぶです。
軽い貧血で…」
「ならいいのですが、少し横になられたほうが…」
休める客室にでも案内したほうがいいか?と考えながら口にした言葉は途中で消えた。
赤いドレスをまとった女性がシンディーの手をそっと握って、こう言ったからだ。
「私はあなたと同じ“贄”です」
「……は?」
「あなたもでしょう?
傲慢な吸血鬼に勝手に“贄”にされ、逃れることも出来ずにいる。
私も同じです」
「……………ほんとうに?」
「はい」
一瞬、なにかの聞き間違いか虚言かとも思ったが、そうじゃない。
はっきり“吸血鬼”と、“贄”と言った。
それに彼女の首筋には、よく見ないとわからないくらいに薄れてはいるが、確かに牙の跡がある。
「…なぜオレが同じだと?」
「あなたの身体に刻まれた刻印は目立ちます。
ただの人間ならば刺青としか思いませんが…」
「…それは確かに」
吸血鬼の“贄”ならば身体のどこかに刻印があるはずだ。自分の身体に刻まれた刻印ほど目立つものは少ないのかもしれないが、同じ“贄”ならば「あれは刻印かも」と察せるのかもしれない。
「でも、そんなことを言われてもどうしようもないのでは?」
「吸血鬼を確実に殺める方法があっても?」
「………は?」
「“主”を殺せば“贄”は自由になれます。
確実に吸血鬼を殺める方法を見つけたんです」
相手は自分たちの常識の通用しない存在だ。いくら抵抗しても無意味だろうという考えは、彼女が続けた言葉に揺らいだ。
彼女はバックから取り出した小瓶をシンディーの手に握らせる。
「それをあなたが飲んでください。
その小瓶の中の液体は人間には一切なんの効果もない無害なものですが、吸血鬼には猛毒です。
それを飲んだ人間の血を吸えば、吸血鬼は死に至ります」
「……ちょっと待て。
それが仮にほんとうだとして、なぜそんなものを持っている?」
彼女に強い不信感を抱いて、シンディーは思わず距離を取った。
「おまえが“主”を殺めたいなら、自分でそれを使えばいいじゃないか。
だいたい、これが本物だったとして、どうやってこんなものを手に入れた?」
「それは本物です」
「オレの質問に答えろ」
「そんなことより重要なことがあるでしょう?
それを使わなければあなたは一生あの吸血鬼から逃れられない。
無理矢理所有されて好き勝手にされたまま、一生。
憎くないんですか?殺したくはないですか?
彼はあなたを都合の良い人形のようにしか思っていないのに?」
「…黙れ」
「このままでいいんですか?
あなたは」
「黙れ!!」
堪えられないというように叫んだ声がその場に響き渡る。
かすかに身を震わせて口を閉じた女を見てはっと我に返ったが、それ以上この場にとどまりたくなかった。
シンディーは背を向けると大股で屋敷の出口に向かう。
屋敷の外に出ると大粒の雨が降っていた。
かまわず庭に出ると、すぐにナディールが目の前に現れた。
「シンディー。
どうした?
終わったのか?」
吸血鬼が近場にいないのはわかっていただろうに、ひどく不安げな様子で尋ねて来た彼にきつく胸が痛んだ。
『憎くないんですか?殺したくはないですか?
彼はあなたを都合の良い人形のようにしか思っていないのに?』
ほんとうに今、それがすべてならばこんなに苦しくなってない。
「シンディー…?
どうした…?」
大きな手が頬に触れる。あたたかな手だ。
シンディーはナディールの顔を見ていられず、視線を逸らすと、
「もういいから帰るぞ」
とだけ言って駐車場に足を向ける。ナディールはなにか言いたげにしながら後を追ってきた。
夜更けの時間になっても、まだ雨音は止まなかった。
ふ、と目が覚めて、シンディーはかすかに身じろいだ。
ベッドサイドの明かりすらない、薄暗い寝室には窓の外の雨の音と時計のかすかな音だけが響いている。
大きな寝台に横たわった身体は、隣で眠る男の腕にがんじがらめに閉じ込められていた。
パーティのあと、珍しく取り乱した様子の自分を案じたのか、ナディールは自分を抱くことはしなかった。
ただこうやって身体を抱きしめて眠りについた。寝ている最中に自分がどこかに行かないように、奪われないように、きつく身体を抱きしめたまま。
シンディーはナディールの胸板に顔を寄せ、ちいさく息を吐く。
あたたかい身体だ。心臓の音も規則正しい。こうして見ていると、自分となにも変わらない。
けれど彼が人間でないのは痛いほどよく知っている。
答えを出せずに、シンディーはナディールを起こさないように抜け出す。そのまま部屋を出た。
書斎として使っている部屋に入ると明かりを点け、机の引き出しを開ける。
あの女に渡された小瓶を取り出し、手に持った。
あのとき、結局この小瓶を捨てることが出来ず、持ち帰ってしまったのだ。
ナディールの目に触れないようにこの引き出しの中にしまった小瓶は、中に赤い液体が入っている。
『憎くないんですか?殺したくはないですか?』
ああ。憎かった。殺したかった。
でも、今は?
傲慢な吸血鬼だった。けれどいつからか自分にやさしくなった。
『…オレはおまえに会えて最高にうれしいぜ。
シンディー』
なにがあっても屈しない自分に、ひどく満たされた顔でささやいた。
『…抱きしめさせてくれ』
苦しげな声でどこかすがるように告げたのは、あれはベイカーとロイドが吸血鬼だと知った夜。
自分の信頼が欲しいと、彼は自分勝手に振る舞うことをやめた。
『…キスが、したい。
おまえの血が欲しい。
血を吸って、…その身体をめいっぱい抱きたい。
……おまえが欲しい』
自分に失望されたくないと、あんなに飢えるまで血を飲むのを堪えて。
『…おまえはオレのものだ。
――離れるな』
自分を失いたくないと、怯えながら必死でつなぎ止めようとしている。
自分だって、いつの間にか当たり前になってしまった。
朝、彼と自分の二人分のコーヒーを淹れることも、彼の作った食事を食べることも、彼と一緒にバスケをすることも、共に眠ることも、自分を抱きしめる腕の強さも、そのあたたかさも。
ナディールを殺したら、それらすべてが消えてしまうのに。
向けられるあたたかなまなざしに胸がうずくことも、自分の些細な言葉や行動に彼が一喜一憂する切なさも、当たり前のようにそばにある体温に安らいでいたことも、なにもかも。
ふとした瞬間に視線を向けたら、彼も自分を見ていた。
視線が合って、彼がひどくうれしそうに笑う。
そのときに感じた、胸を詰まらせるような感情の名前を、ほんとうは自分は気づいていた。
そのすべてを、どうやってなかったことにすればいい?
どうやって、なかったことにすれば。
「なにしてんだ?」
不意に耳元で響いた低い声に身体が大きく跳ねる。
逃げる暇もなく腕を掴まれ、壁に押さえつけられて痛みにちいさく声が漏れた。
「ナディール…」
目の前にひどく恐ろしい表情をしたナディールがいて、シンディーは自分の迂闊さを恨みたくなった。
気配すら感じなかった。でも当たり前だ。彼は人間じゃない。
鍵もかけずに思案に沈んでいた自分がバカだった。
「…なんで、おまえがこんなものを持ってる?」
「…ッ」
「どこで手に入れた?」
ぎりっ、と腕を掴む手に力が込められ、痛みに顔が歪む。
ナディールの反応から見て、この小瓶の中身はあの女の言った通りのものなのだろう。
「どこで手に入れた!?
答えろシンディー!」
「…ッ…パーティ会場で、ある吸血鬼の“贄”だという女に」
「それで、受け取ったのか?
それをオレに使う気で?」
すぐに否定は出来なかった。受け取ってしまったのは事実だ。
だけど使うか迷ったのか?と聞かれたら、ちがう気がした。
迷ったのかもしれない。でも、結局天秤はいつも同じ方向に傾いていた。
なにも言えない。
頭に浮かぶ言葉は、結局泣きたいほどの後悔ばかりだ。
きつく掴まれた腕がひどく痛むが、それよりも胸のほうが痛かった。
不意に腕を解放され、ナディールが自分から身を離したためシンディーは驚いて彼を見上げる。
ナディールの顔に浮かんでいたのは自暴自棄になったかのような、あきらめのにじんだ笑みだった。
「…いいぜ」
「…は?」
「使えよ。それ。
もう止めねえさ」
「…ナディール…?」
「…もういい。
…殺したきゃ殺せよ。
おまえならいい」
自分よりずっと泣きそうな顔で彼が笑う。
切り裂かれたように痛む胸で、やっと自覚した。
ずっと憎かった。殺したかった。けれどその感情は、もっと強い想いに消されてしまった。
自分になら殺されてもいいと絶望したように笑う彼を見て、それでも憎んでいられるはずがなかった。
(オレには、ナディールを殺せない)
こいつを失う未来を、どうしても思い描けなかった。途方もない喪失感と絶望があるとわかっていて、選べるはずがなかった。
なかったことに出来るはずがなかった。今更なにもかも、なかったことになんか出来なかった。
視線が合ったとき、うれしそうに微笑んだ彼を見て感じたあの、胸を詰まらせるような気持ちは、――幸福という名前だったから。
シンディーは手に持っていた小瓶を躊躇なく窓に向かって投げ捨てた。
窓ガラスが割れて音を立てる。窓の外に落ちた小瓶も割れてしまっただろう。だが、もうどうでもよかった。
ナディールの顔を見ると、信じられないような目で自分を見ていた。
「…要らねえよ。
あんなもん、オレは要らねえ」
「………シンディー」
「あんなもの、オレは要らない…!」
「…ッ」
自分の言葉にナディールは大股で近寄ると、自分の頬を包んで上向かせる。
「…なにやってんだ。
わかってんのか?
オレから逃げる最初で最後のチャンスだったんだぞ?
オレはもう一生、おまえを手放してやらねえ。
わかってんのか!?」
きっと彼は、自分を手放そうとしてくれたのだろう。
彼の幸福と自分の幸福を天秤にかけて、自分を選んだ。
そのために、死んでもいいと結論を出して。
あるいは自分が彼の死を望んでいると思って心底絶望したのかもしれない。
それがわかっていて、選べるはずがない。
「わかってる」
ナディールの瞳を真っ直ぐ見つめてはっきりと告げると、その瞳が大きく揺らいだ。
今にも泣き出しそうに見えた。
「…わかってる。
それでいい」
もう一度、伝わるように告げたシンディーに、今度こそナディールの顔がくしゃりとゆがめられる。
シンディーは手を伸ばすとナディールの頬に当て、軽く背伸びをしてその唇にキスをした。
「これはオレの意思だ。
――オレは、おまえのそばにいる」
微笑んで告げた瞬間、窒息するほど強い力で身体をかき抱かれる。
自分を抱くナディールの身体が大きく震えていることも、肩に落ちる熱い滴が彼の涙だということもわかっていた。
だからその背中に腕を回して、そのたくましい肩に顔を寄せる。
嗚咽の混ざった声が何度も、自分の名を呼んだ。
耳元で響いた震えた声が、ひどく満ち足りたように告げる。
「…愛してる。
シンディー」
その言葉にただ、幸福だと思った。
きっと、最初で最後のチャンスだった。
ナディールから解放されるための、最初で最後の。
そして、オレが人のまま一生を終えるための。
『このままあいつと一緒にいたら、おまえはいつかすべて失う羽目になる。
あいつはいつか、おまえを』
ああ。わかってる。それでいい。
(オレはきっといつかすべてを失う。ナディールと引き替えに、人として生きるためのすべてを)
それでも、彼のことを失えなかった。
胸を満たす感情に名前を付けるなら、――「愛」でしかなかったのだから。
0
あなたにおすすめの小説
もしも願いが叶うなら、あの頃にかえりたい
マカリ
BL
幼馴染だった親友が、突然『サヨナラ』も言わずに、引っ越してしまった高校三年の夏。
しばらく、落ち込んでいたが、大学受験の忙しさが気を紛らわせ、いつの間にか『過去』の事になっていた。
社会人になり、そんなことがあったのも忘れていた、ある日の事。
新しい取引先の担当者が、偶然にもその幼馴染で……
あの夏の日々が蘇る。
【完結】《BL》溺愛しないで下さい!僕はあなたの弟殿下ではありません!
白雨 音
BL
早くに両親を亡くし、孤児院で育ったテオは、勉強が好きだった為、修道院に入った。
現在二十歳、修道士となり、修道院で静かに暮らしていたが、
ある時、強制的に、第三王子クリストフの影武者にされてしまう。
クリストフは、テオに全てを丸投げし、「世界を見て来る!」と旅に出てしまった。
正体がバレたら、処刑されるかもしれない…必死でクリストフを演じるテオ。
そんなテオに、何かと構って来る、兄殿下の王太子ランベール。
どうやら、兄殿下と弟殿下は、密な関係の様で…??
BL異世界恋愛:短編(全24話) ※魔法要素ありません。※一部18禁(☆印です)
《完結しました》
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
貴族軍人と聖夜の再会~ただ君の幸せだけを~
倉くらの
BL
「こんな姿であの人に会えるわけがない…」
大陸を2つに分けた戦争は終結した。
終戦間際に重症を負った軍人のルーカスは心から慕う上官のスノービル少佐と離れ離れになり、帝都の片隅で路上生活を送ることになる。
一方、少佐は屋敷の者の策略によってルーカスが死んだと知らされて…。
互いを思う2人が戦勝パレードが開催された聖夜祭の日に再会を果たす。
純愛のお話です。
主人公は顔の右半分に火傷を負っていて、右手が無いという状態です。
全3話完結。
僕の幸せは
春夏
BL
【完結しました】
【エールいただきました。ありがとうございます】
【たくさんの“いいね”ありがとうございます】
【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
禁書庫の管理人は次期宰相様のお気に入り
結衣可
BL
オルフェリス王国の王立図書館で、禁書庫を預かる司書カミル・ローレンは、過去の傷を抱え、静かな孤独の中で生きていた。
そこへ次期宰相と目される若き貴族、セドリック・ヴァレンティスが訪れ、知識を求める名目で彼のもとに通い始める。
冷静で無表情なカミルに興味を惹かれたセドリックは、やがて彼の心の奥にある痛みに気づいていく。
愛されることへの恐れに縛られていたカミルは、彼の真っ直ぐな想いに少しずつ心を開き、初めて“痛みではない愛”を知る。
禁書庫という静寂の中で、カミルの孤独を、過去を癒し、共に歩む未来を誓う。
琥珀の檻
万里
BL
砂漠の王国の離宮「琥珀の間」で、王・ジャファルは、異母弟であるアザルを強引に抱き、自らの所有物であることを誇示していた。踊り子の息子として蔑まれ、日陰の存在として生きてきたアザルにとって、兄は憎悪と恐怖の対象でしかなかった。 しかし、その密事を見つめる影があった。ジャファルの息子であり、次期王位継承者のサリムである。サリムは叔父であるアザルに対し、憧憬を超えた歪な独占欲を抱いていた。 父から子へ。親子二人の狂おしい執着の視線に晒されたアザルは、砂漠の夜よりも深い愛憎の檻に囚われていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる