nameless

兔世夜美(トヨヤミ)

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第十二話 結末

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 パーティの翌日、シンディーの家に呼び出されたベイカーとロイドは「しばらくこの家に泊まってくれないか」とナディールに言われて少し驚いた。
 あのナディールが、シンディーに好意を寄せる自分たちをシンディーと同じ家に泊めること自体驚きだが、それ以上に驚いたのはシンディーとナディールの間に流れる空気がすっかり変わっていたからだ。
 相変わらずナディールはシンディーにひどく過保護だが、無理矢理従わせるような態度は一切なくなっている。シンディーもナディールの過保護な態度を笑って受け入れていた。
 もしかしてうまくいったのか。両思いになってしまったのか。
 薄々そうなるだろうと察してはいたが、シンディーに好意を寄せていたベイカーとロイドからすれば複雑極まりない。
 しかし前日に起こったことを聞いて、二人ともかなりの衝撃を受けた。
「じゃ、“贄”を使ってシンディーに接触してきたのかよ…!?」
「ああ。
 このタイミングでオレに接触してきて、あんなものを渡すとしたらその吸血鬼しかいないだろ」
「盲点だったな…。
 確かに“贄”なら、吸血鬼じゃねえから気配だけじゃわからねえし…」
 まさかそんな手を使ってくるとは、とベイカーとロイドも驚きを隠せない。
「しかも、たぶんそいつは“贄”を自分の都合の良い操り人形くらいにしか思ってねえだろうな。
 後から思い返してみて気づいたが、あの女がしゃべっていたことはすべてあの女自身の意思じゃねえ。
 完全に身体を支配されて、言わされたことだろう。
 本人自身の意思が感じられなかった。
 もしかしたら、あの女がオレの実家が主催するパーティの参加者だからってだけで“贄”にしたのかもな」
「…なんだよそれ。
 完全に使い捨ての餌みたいな扱いじゃねえか…」
「まあどう考えてもそうだろうな。
 じゃなかったら、場合によっては自分にも危害が及ぶ可能性のある“毒”を持たせたりしねえだろ。
 完全に操って、用済みになったら捨てる程度の感覚でいたからそんなことやったんだ。
 ――その女、今朝、離れた森の中で死体で発見されたらしいぜ。全身から血を抜き取られて」
 愕然とした様子でつぶやいたベイカーに、ナディールが眉根を寄せて告げる。
「あいつは以前からオレを殺すためなら手段選ばねえからな」と吐き捨てたので、ロイドは目を瞠って「シンディーに隠すのはやめたんだな?」と問いかけた。
 数日前までシンディーに詳しい事情を知らせたくない様子だったのに。
「ほんの少しでもオレが離れるかもしれねえ可能性があるなら、言いたくなかったんだとよ。
 その程度でびびって離れたりしねえよバカじゃねえの?」
 コーヒーを一口飲んでこともなげに言ったシンディーに、ナディールが照れたように口元を覆った。
 ベイカーとロイドは思わず死んだ目になった。やっぱりナディールむかつく。ぶん殴っていいかな、と。
「それよりベイカー。ロイド。
 悪いんだがしばらくここにいてくれねえか?
 人間の“贄”が相手となると、不用意に外を出歩けねえしな」
「…あ、そうか。
 既にその女が死んでるとなると、また別の人間を“贄”にして利用する可能性が高いもんな…」
 シンディーの言葉にベイカーが気づいて頷く。確かにこの状況はとんでもなく危険だ。
「なんつー吸血鬼だよ。
 そんな掟破りなことする吸血鬼、聞いたことないぜ」
「それだけナディールへの恨みが深いんだろ。
 本人はきっかけ覚えてねえが」
「しょうがねえだろ。
 百年以上前の話だぜ?
 まして特に仲が良いわけでもなかった野郎のことなんてそんな覚えてるかよ」
 ロイドは信じられないと吐き捨て、シンディーのややあきれたつぶやきにナディールが開き直る。
 とはいえシンディー自身、興味もない男のことなんてそんな覚えてないので他人のことは言えないな、とも思ったが。



 風の音がする。
 シンディーはぼんやりと思って、自分を抱きしめるナディールの胸元に寄りかかった。
 あのパーティの夜から数日経過したが、今のところはなにもない。
 家から一歩も出られない状況が続いていたが、今は不満も抱いていなかった。
 それだけ危険な状況なのはわかっている。
 なにより自分を失いたくないと怯えるナディールを見たら、彼の制止を振り切ってまでなにかしようとは思えなかった。
 今は夜の八時過ぎで、ベイカーとロイドがキッチンでなにか作っている。
 ほんのわずかでもナディールが自分から離れたがらないのだから仕方ない。
 ソファに腰掛け、足の間に座らせたシンディーの腰をしっかり抱きしめて、ナディールは決して離そうとしない。
「…ナディール」
「…ん?」
「…眠いなら少し寝たらどうだ?」
「…べつに。
 人間と違って、寝なくてもだいじょうぶだしな」
 ナディールは自分を抱きしめたままそう答えるが、声にあまり力はない。
 眠いのは事実らしい。
 というのも彼はここ数日、まったく眠っていないからだ。
 夜もずっと起きて、自分のそばにいる。不安で眠れないらしい。
「少し休め。
 ベイカーたちもいるし、家の中ならだいじょうぶだろう」
「…いい」
「良くねえよ。
 オレが気になる」
 シンディーはナディールの頬に手を添え、自分のほうを向かせた。
 相変わらずどこか不安げなまなざしが自分を見つめる。
「オレはここにいる。
 だから、ちゃんと休め」
「…………怖いんだ。
 眠っている間に、おまえになにかあるんじゃねえかって」
「わかってる」
「こんなに、失うのが怖いと思ったのはおまえがはじめてだった」
「…ああ」
 どこか怯える子供みたいな顔で告げると、ナディールは正面からシンディーの身体をきつく抱きしめた。
「少し休め。
 だいじょうぶだから」
「…じゃあ、離れないでくれ。
 おまえの体温がないと、怖くて眠れねえ」
「…わかった」
 微笑んで頷いたシンディーに、ナディールは抱きしめる腕に力を込めると、ちいさく安堵の息を吐く。
 ずしり、と身体にかかる重みが増して、そのまま健やかな寝息が聞こえてきた。
 手のかかるやつ、と思ってみても、顔に浮かぶのはやわらかい笑みばかりだ。
 出会ったときは、彼とこんな関係になると思っていなかった。
 彼に愛されることが、こんなにしあわせだと感じられるようになるとは思っていなかった。
「なんつーか、ぶっちゃけ妬けるな」
「ベイカー」
「飯出来たから言いに来たんだが、…なんかぶん殴りたくなってきたこいつ」
 ソファの近くに立って腕組みしたベイカーの仏頂面を見上げ、シンディーは「やめてくれ」と笑う。
「やっと眠ったところだから」
「…おまえもそうやってナディールを甘やかすし。
 マジでむかつくわナディール」
 ベイカーはそう悪態を吐きながらも、無理矢理ナディールをシンディーから引き離そうとはしない。
 もう仕方ないとあきらめてはいるのだろう。それでも嫉妬してしまうのは理屈ではない。
「ベイカーだってナディールに仕返ししてたじゃないか」
「わかってたのか」
「ああ。
 あれ嘘だろ?」

『オレの“贄”になれば、その吸血鬼に狙われることもなくなるかもしれない』

 数日前にこの家を訪れたベイカーが言った言葉だ。
 実際、ベイカーにそんな気はなかった。
“主”であるナディールを殺す以外にシンディーを解法する方法はなく、ベイカーもそんなことをする気はなかった。
 あの言葉は、廊下で会話を聞いていたナディールへの仕返しだったのだろう。
「けっこう本気は本気だったけどな。
 おまえを手に入れたいって気持ちは今もあるし。
 ただ、おまえの気持ちがナディールに傾いてんのはわかってたし、ナディールが消えたところでおまえがオレのものにならねえのはわかってた。
 だからまあ、嫉妬と牽制だ」
 肩をすくめて答えたベイカーの「牽制」という言葉の意味もすぐにわかった。

『わかってるのか?
 このままあいつと一緒にいたら、おまえはいつかすべて失う羽目になる』

 そうシンディーに警告したのは、ほかでもないベイカーだ。
 あの言葉は、ナディールへの牽制でもあった。いつか、シンディーからすべてを奪うだろうナディールへの。
「おまえももう、オレの警告の意味はわかってるんだろ?」
「ああ、わかってた」
「…ほんとうにいいんだな?」
「…ああ。
 …ちゃんとわかってる」
 怯えも不安もなく、むしろ満ち足りた微笑を浮かべて頷いたシンディーに、ベイカーは複雑そうな笑みを返した。
「まあそういうことだから、おまえとロイドとは長い付き合いになりそうだし、よろしくな」
「あー、やっぱ、…うれしいけど複雑だよ」
 ベイカーは顔に手を当て、表情を隠しながら答える。
 喜べばいいのか、悲しめばいいのかわからないくらいには複雑だ。
 顔に浮かんだ笑みにもそれがにじんでしまった。



 夕食を食べている間もナディールはシンディーを抱きしめたまま寝ていて、相当眠かったんだろうなと思った。
 時刻は夜の九時過ぎになって、強い風の音で窓が時折音を立てている。
 ベイカーとロイドはキッチンで後片付けをしていて、シンディーはソファから動けないまま「どうしようか」と悩んだ。
 トイレくらいは行ってもだいじょうぶだろうか。まあ、家の中なんだし。
 眠っているナディールの顔を見上げ、数分で戻るならだいじょうぶだろう、と思ってどうにか起こさないように腕の中から抜け出すとそっとリビングから出た。
 用を足してさっさとリビングに戻ろうとしたとき、廊下の窓をたたくような音が聞こえて反射的に身構える。
「シンディー」
「…あれ、おまえなにしてるんだ?」
 しかし窓の外にいた男の顔を見て、警戒を解くと近寄って窓を開けた。
 庭に立っているのはワンダースナッチのメンバーの一人だ。
 スターティングメンバーではないものの、かなりの実力の持ち主でシンディーも信頼している。
「どうしたんだ?
 玄関から入って来ればいいじゃないか」
「事情があってな」
「事情?」
 首をかしげたシンディーは一拍遅れて異変に気づく。
 窓枠を掴むチームメイトの手が震えている。顔も青い。
 そうだ。あの吸血鬼が手段を選ばないやつならば、自分のチームメイトが利用されない保証なんてなかったんだ。
「…シンディー…ッ。
 …逃げろ!」
「…ッ」
 全身を震わせながら必死で己を支配する吸血鬼に抗って叫んだチームメイトに、シンディーは一瞬迷ってしまい、すぐに行動出来なかった。
 迷わず逃げ出せば、リビングまでたどり着けたかもしれない。リビングにはナディールたちがいる。
 だが自分が逃げたあと、利用されたチームメイトが殺されない保証はない。
 これがまったく自分と面識のない人間ならば迷わず見捨てただろう。けれどさすがに信頼したチームメイトを見捨てることが出来なかった。
 瞬間、その場に吹き荒れた強風に反射的に目を瞑る。窓の外から伸びた大きな手がシンディーの首に触れた。



「――ッ!」
 不意に感覚に触れた気配に、ナディールは目を覚まして立ち上がった。
「…シンディー…?」
 反射的に見下ろした腕の中には、シンディーの姿はない。どころか、リビングのどこにも、彼はいない。
 ベイカーとロイドも自分たち以外の吸血鬼の気配を感じてリビングに戻ってきたが、シンディーの姿がないことに気づいて呼吸を失う。
 そのときにはナディールは部屋を飛び出し、気配を感じる方向へと向かっていた。
「ああ、気づくのが早いな。
 すぐに手出し出来ない場所に連れ去ってから料理すべきだったか」
 寝室へと続く長く広い廊下に、シンディーの姿はあった。
 窓が割れて、強い風が吹き込んでいる。破片の散らばった床には見知った男が倒れていた。彼はワンダースナッチのメンバーの一人だ。おそらく彼を利用してシンディーを呼び寄せたのだろう。
 倒れたチームメイトのそばに、あの吸血鬼の姿があった。彼の大きな手に首を拘束されて、宙づりになったまま苦しげに喘ぐシンディーの姿も。
「…ッ、シ、ルバ…ッは」
 首を絞められているせいで呼吸もままならなず、シンディーはどうにか首に掛けられた手を外そうと両手で掴み、爪を立てて抵抗しているが人間の力では吸血鬼に敵うはずもない。
「――ッそいつを離せ!!!」
「せっかくおまえの弱点を手に入れたのに離すわけがないだろう。
 動くなよナディール。
 人間はもろいから、こうやって少しでも爪で引っ掻いたら死んでしまうぞ?」
「…ッ」
 片手でシンディーの首を掴んだまま、吸血鬼の男はシンディーの首に鋭く尖った爪を押し当てる。
 もしあの鋭い爪で首を切り裂かれたら即死してしまうかもしれない。
 ナディールは息を呑み、その場から一歩も動けなくなってしまう。
 シンディーは苦しい呼吸の中で考えるが、宙づりになっている状況ではどうしようもない。
 方法がなくはない。だが、目の前の吸血鬼の意識が逸れなければ無理だ。自分が行動に移す前に首に押し当てられた爪が皮膚を裂いたらそれで終わってしまう。
 ナディールがいる場所と反対側の廊下にベイカーとロイドの姿がある。
 挟み撃ちにするために回り込んだのだろうが、シンディーが人質になっている状況では手出し出来ない。
 ただ、シンディーを捕らえた吸血鬼はナディールとベイカーとロイドに注意は払っていたが、足下には一切注意を払っていなかった。
 己が利用した、シンディーのチームメイトの存在には。
 不意に足に走った鋭い痛みに吸血鬼が息を呑む。倒れて意識を失っていたはずのチームメイトが床に落ちていたガラス片で吸血鬼の足を切り裂いたのだ。
 吸血鬼からすれば予期せぬ攻撃だっただろう。“贄”となり、身体を完全に支配されているはずの人間が気力で抗ったのだから。
 吸血鬼は怒りに顔をゆがめ、彼の身体を強く蹴り飛ばす。
 だがその瞬間、完全にシンディーから意識が逸れていた。
 シンディーは迷わず懐から取り出した拳銃を吸血鬼のこめかみに押し当てると、引き金を引く。
 銃声が響いて、首を拘束していた手が離れた。落下したシンディーの身体をナディールが抱き留める。
「シンディー!
 だいじょうぶか!?」
「…ッ、は…」
 首を押さえて大きく咳き込んだシンディーの身体を抱きしめ、ナディールは彼の身体に怪我がないか確かめる。
 ロイドが蹴っ飛ばされたチームメイトに駆け寄って、意識を失っているだけだと確認してほっと息を吐いた。
 ベイカーは頭を撃ち抜かれた吸血鬼から目をそらさない。吸血鬼の不死身さは同族の自分たちがよくわかっている。頭を撃ち抜かれた程度では死なない。
 だが、耳をつんざくような絶叫を上げてその場にくずおれた吸血鬼に、ベイカーもロイドもナディールも息を呑む。
「…ッは、…ああ、やっぱりあの毒、ちゃんと効くんだな」
「シンディー?」
「そいつに渡されたあの小瓶な、ぶん投げたあと間違って破片でおまえが怪我したらまずいと思って回収して捨てようと探したら、割れてなくてさ。
 ちゃんと捨てようと思ったんだが、よく考えたら対吸血鬼用の毒なんだし、じゃあそいつにも効くんだよなあって思って。
 その毒に漬け込んだ銃弾で撃ったら、オレでも殺せるんじゃないかってさ」
 まだ少し苦しそうに眉を寄せながら、シンディーが手に持った銃を軽くかざして不敵に笑う。
「知ってたか?
 策士策におぼれるって、こういうことを言うんだ」
 苦悶の形相でシンディーをにらむ吸血鬼に、シンディーは勝ち誇った顔で嘲笑する。
「はっ…!
 ほんとおまえってやつは…!」
 ナディールもまさかシンディーがそんな策を弄していたとは気づかなかったため、驚きを通り越して笑うしかない。
 やっぱり、自分が心を奪われた男はどこまでも強い。
 用心深く、家の中でもその銃弾を仕込んだ拳銃を手放さずにいたのだろう。
「どうしたナディール?
 惚れ直したのか?」
「…ああ。
 惚れ直したよ」
 艶やかな微笑を浮かべて自分を見たシンディーに、ナディールも笑みを返すがすぐにシンディーの身体を抱きしめ、自分の背後にかばう。
 最後の力を振り絞った吸血鬼の長く伸びた爪が、シンディーをかばったナディールの腕を軽く裂いていた。
 傷ついた皮膚が血を流すが、すぐに癒えてしまう。
「あきらめろ。
 もう終わりだ」
 床に倒れた吸血鬼の身体は足から灰となって崩れ始めている。数分とかからず、完全に消滅するだろう。
 その唇が歪んだのを視界に捉え、シンディーがかすかに眉を寄せたときだった。
 鈍い衝撃が身体に走って、一瞬なにが起こったのかわからずに視線を自分の身体に落とす。
 背後から突き刺さった長い爪が、胸から生えている。
「………え」
 こんなもの、どこから。
 茫然とした思考で視線を巡らせて気づく。
 もうほとんど崩れている吸血鬼の右手。爪先が床に埋まっている。
 床を通して、シンディーの背後から生やした爪を突き刺したのだ。
 数瞬後に訪れるだろうナディールの絶望を想像して愉悦に歪んだ笑みを浮かべた吸血鬼に、ナディールが遅れて背後で起こった異変に気づく。
 同時にシンディーの胸を貫いた爪が勢いよく肩まで切り裂いて、大量の血が噴き出した。
 ぐらりと傾いたシンディーの身体をナディールが抱き留める。
 そのときには吸血鬼の身体は完全に灰と化していた。
「シンディー!!!」
「…ッ」
 ナディールは悲鳴じみた声で腕の中に抱き留めた男の名を呼ぶ。
 シンディーは胸を深く切り裂かれ、服はほとんど真紅に染まっていた。その口元も赤く濡れている。
 もはや声すら出せないのか、苦しげに唇が喘ぐだけだ。
 ベイカーとロイドはその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
 一目でわかる。あれは、もうダメだ。
 どうあがいても助からない。致命傷だ。救う方法はない。――ある方法を除いて。
 ナディールもそれは痛いほどわかっていただろう。ほかに方法がないのだと。
 けれど震えたシンディーの手がナディールの服を弱々しい力で掴んだのを見て、ナディールは目を見開く。
 声は出ない。けれどこんなときですら強さを失わない瞳が、なにより雄弁に伝えていた。



「ナディール。
 おまえも聞いていたんだろう?
 ベイカーの警告」
 あれは想いを通わせた翌朝、ベイカーたちがこの家を訪れる前に交わした会話だ。
 朝陽の差し込むリビングのソファに腰掛け、モーニングコーヒーを手に、シンディーが自分を見て微笑んだ。
「………ああ」
 ナディールは一瞬迷って、素直に頷いた。

『このままあいつと一緒にいたら、おまえはいつかすべて失う羽目になる』

 それは自分自身、否定出来なかった。
 きっと遠からずそれを実行するだろうと思っていた。
 シンディーを失うことなど考えられなくなっていたから。
「…怖いか?」
 わずかな不安を抱きながら尋ねると、シンディーはおだやかな笑みを浮かべたまま首を横に振った。
「それを含めておまえのそばにいると決めたんだ。
 今更なにも恐れはしないさ」
「…シンディー」
「…だから、迷うなよ。
 もしものときは」
 シンディーはそう言って、隣に腰を下ろした自分の手を取った。
「もしオレになにかあったときは、…迷うな。
 なにがあっても、オレはおまえと共にいられる方を選ぶ。
 だからおまえも迷うな。
 ――迷わず連れて行け」
 触れた手から伝わるのはあたたかな体温と、やさしい愛情だった。
 泣きたいほどの、胸を詰まらせるような幸福を味わったのは、きっと百年以上の長い人生の中ではじめてだったのかもしれない。
 たった一人、大切なひとが出来た。なにがあっても失えない最愛のひとが、すべてと引き替えにしてまで自分と共にあることを望んだ。
 それ以上の幸福などないのだと、あのとき強く思った。



 今にも力尽きそうな弱い力で自分の服を握る手を、上からそっと包み込んだ。
 泣きそうに歪んだ唇に、どうにか笑みを乗せて頷く。
「…わかってる。
 だいじょうぶだ」
 自分の言葉に、シンディーの瞳がわずかにゆるんだ。
「おまえを連れて行く。
 ――離さないと言っただろう」
 もうほとんど意識など薄れかけているはずだ。
 けれどシンディーは、確かに安堵したように、しあわせそうに微笑んだ。
 あたたかな身体を抱きしめて、その首筋に唇を寄せる。
 ベイカーとロイドも自分が何をする気なのか察して、けれど制止はしなかった。
 ほかに方法がないことも、いつかこうなることもわかっていただろう。
 吸血鬼に噛まれても、人が吸血鬼になることはない。普通ならば。
 ただ滅多に使われない能力だが、吸血鬼の牙は血を吸引する以外に、自分の血液を牙を通して注入することも出来る。
 人間の体内を占めるすべての血液の量に相当する量の、吸血鬼の血液の注入。
 それが唯一、人間を吸血鬼に変える方法だ。
 白い皮膚に牙が突き立てられる。
 同族に生まれ変われば、あの程度の傷などたやすく癒える。シンディーが死ぬことはない。
 けれど同時に、“人間”のシンディー・ワーグナーは死ぬ。
 彼は失うことになる。人間としての人生も、家族も、人として得るはずだったなにもかもを。
 けれどすべて奪うとわかっていて、それでもナディールはシンディーを連れて行くことを願った。それすらも理解して、シンディー自身が望んだ。
 だからこれは、いつか訪れる必然だった。

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