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6話
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体育祭は例年通り執り行われた。違う点といえば選手宣誓の後黙祷があったくらいか。
あとはきっと、いつも通り。
午前中は曇りがちな天気で時間が経つと薄くなっていった。今ではもう直射日光が殺人光線のように降り注いでいる。放送席からは見物客に水分補給を促すアナウンスが一定の時間を置いて流れている。茹るような暑さ、トラックの奥は蜃気楼でも出てきているのか、風景が歪んで見えるほどだ。
前の組が全員ゴールして、ついに僕の順番が来た。
僕を含め、四人の生徒が横一列にスタート位置につく。少し歪んで見える百メートル、その奥には白いテープが一位を待っている。
軽くアキレス腱を伸ばし、屈伸運動を行う。帰宅部の僕は運動不足だから、途中で転ぶという大恥だけは避けたいところだ。
『位置について……用意』
その言葉と同時に僕達はクラウチングスタートの態勢を取り、直後に上空に向けてピストルが発射された。
合図と同時に地面を蹴りつけ、前へと駆け出した。
帰宅部の僕は鈍足ではないが、決して足が速い方ではない。半分ほど走ったところで、前には二人の生徒が走っていた。今の僕は三位だ。
―――前に、前に、前に。
周りの景色は視界にいれず、置き去りにしてただ前に。
周囲の音が遠い。ただ自分の呼吸音だけが煩いくらいに聞こえる。
なんでこんなに全力で走っているんだろう、と小さな疑問がぽつりと沸いた。
そんなに練習に力を入れていたわけではない。勝ったところで何か特典があるわけでもない。陸上の大会でもない、ただの体育祭だ。
これはただのお祭り騒ぎで、それ以上の意味はない。
しかし何も懸かっていないとしてもそこに勝負があり優劣があり。
貧乏籤で百メートル走に選出されたとしても、土俵の上に立つ以上は負けるより勝つ方が良いに決まっている。
きっとこれはそれだけだ。
冷めた性格だという自覚はあるが、斜に構えてはいない。
背中が見えるならそれを追い越したくなるのは当然の事。
―――呼吸が荒い。
百メートルなんて家から学校までの距離にも満たないのに、こんなにも遠い。
こんなにしゃかりきになって走るのは本当に久しぶりだ。
軟弱な体は既に疲弊して、酸素を求めて喘ぐ。それでもペースは緩めない。
前半に飛ばし過ぎたのか、僕の前の背中、二位につける生徒の走るペースが僅かに落ちた。
ゴールまで残り二十メートルほど。
じりじりと距離を詰め、十メートルで二番目の走者に並ぶ。
四、三―――。
ゴール直前で僕が僅かに前に出る。
そしてそのまま僅差の二位でゴールした。
走っているうちにいつの間にか自分の世界に入っていたらしい。野次の声が潮騒のように耳に入る。ぜえぜえと喘ぎながら後続の邪魔にならないように横に逸れ、体育委員会の腕章をした生徒に導かれ、『二位』と書かれたフラッグの後ろに座る。
一位は赤色で二位は青色、三位は黄色だ。
風に揺れる青色のフラッグを見て、去年は四位だったな、とどうでもいいことを思い出した。
三年生の百メートル走は恙なく終わり、参加者は段ボールで作られた門を潜って自分の団席に戻っていく。
……入場門の付近でカメラを構え、千切れそうなほど勢いをつけて手を振る父さんの姿は無視することにした。小学生のころには無邪気に手を振り返していたが、流石にこの歳になると恥ずかしい。昨晩は念入りに釘を刺したが効果は欠片もなかったようだ。
全員の百メートル走が終わり、生徒達は退場門から退出し、各々グラウンドの隅に設けられた団員席に戻っていく。一応自分の席が割り振られているが、頻繁に出たり入ったりを繰り返すため席順などあってないようなものだ。手を振る達哉の隣の席が偶々空いていたので手招きされるがまま、隣に座る。反対側の達哉の隣には窮屈そうな体操服に身を包んだ委員長がどっしりと座っていた。貫禄があり過ぎて委員長の恰好がコスプレにしか見えない。
「お疲れ、いい走りっぷりだった」
ぐ、と親指を立てる委員長。いぶし銀の委員長がそんな仕草をすると様になり過ぎていて委員長の実年齢を疑いそうになる。
「二位だったけどね。それもギリギリで」
「いやいや、お前が必死こいて走る姿とかレアだから。それを見物出来ただけでも価値はあったって」
委員長は素直に僕を労うが、達哉は意地悪く笑っている。達哉の運動神経は僕に反して良い。帰宅部なのに何故陸上部と互角の勝負を出来るのか分からないが、その俊足を買われてトリを飾る団対抗リレーの三年代表として選出された。
そして本人が知らないうちに団長に担ぎ上げられた委員長はアンカーだ。この学校の伝統で、団対抗リレーのアンカーは各団の代表者、即ち団長である委員長が務めることになっている。騎馬戦では普段の鬱憤を晴らすように悪役よろしく、高笑いしながら縦横無尽にフィールドを駆けまわって無双していたが、リレーどうなることやら。本人は鈍足であることを理由に辞退したがっていたが、多数決という名の出来レースの結果、見事選出されることとなった。
「委員長、俺達そろそろ準備じゃね?」
達哉は二つ折りの薄汚れた体育祭のプログラムを開き、指で種目を追いながら委員長に言う。体育祭も終盤に入った。僕が出場した三年生の百メートルリレーの後は負二つほど競技を行い小休憩を挟んでから団対抗リレーが始まる。
「む、そろそろか。最終確認があるから早めに出ておくか」
「だな、じゃあ俺達はちょっと抜けるわ」
「ああ、行ってらっしゃい」
適当に手を振り、二人を見送る。そして僕はふう、と溜息を吐いた。誰かに蹴飛ばされたのか、近くに横向けに転がっていた自分の水筒を拾い麦茶で咽喉を潤す。
帰宅部で運動する習慣があまりない僕にとっては短距離とはいえど全力疾走は足腰に来るものがある。それに一応、百メートル走以外にも騎馬戦や玉入れに参加していたからそこそこ疲労が溜まっているのだ。
「お疲れかな?」
明日は筋肉痛かな、と憂鬱な気分でいると唐突に背後からかけられた。
声に反応して振り返る。後ろにいたのは歌川さんだった。思いのほか顔の距離が近く、驚いた歌川さんは、おおう、という謎の呻き声を上げて仰け反った。運動に支障がないように後ろに纏められている髪が馬の尻尾のように揺れた。
「ああ、ごめん。驚いて」
「いやいや、私もいきなり声かけたからね」
アーモンド形の瞳を緩ませて歌川さんは笑った。屈託のない笑みを浮かべる歌川さんはプレッシャーに弱いようだが普段は社交的な性格で、時折僕にもこうやって話しかけることがあった。
「身体大丈夫ー?午後から雲も晴れて気温もヤバいからさ。気をつけた方がいいよ?」
「ああ、大丈夫。水分補給したら大分楽になったし」
「本当?一年生の時、体育祭で倒れたでしょ?」
「……良く覚えてるね」
二年前の今日、僕は一年生の体育祭の中盤、組体操を控えた集合場所で倒れたのだ。確か一年生の時は歌川さんとはクラスメイトだったから、覚えていたのだろう。
「大丈夫だよ、同じ轍は踏まない」
「ん、なら良かった。人生最後の体育祭を救護室で過ごすなんて味気ないからね」
「……そっか、最後なのか、今日で」
歌川さんにそう言われて、僕はようやく今日が最後の体育祭だと思い至った。
「なんていうか、自覚すると変な感じになっちゃうよねー。感傷っていうのかな、こういうのも」
「そうかもね」
学祭なら大学でもあるだろうが、体育祭は高校までのイベントだ。
今日で僕の人生最後の体育祭が終わるかと思うと、奇妙な切なさを感じていた。
こんな暑い時にと練習の度に心の中で悪態をついていたが、僕なりに体育祭というものに価値を感じていたのかもしれない。
「そ、今日が最後だから良い思い出にしないとね。ほら、その……ああいうことがあったから心配してたんだよ、私もね」
少し言葉を濁すように、どこか気まずそうに歌川さんは言った。
「ああ、うん。正直まだ吹っ切れてないかな、まだ燻っているというか」
なんせ、彼ときたら異世界とやらにいるらしいのだ。僕としてはどう反応していいのか分からない。どうしようもないから、僕はうろうろと右往左往しているのだ。
皆は前を向いて歩いていっているのに、僕だけが四月から一歩も前進していない。
彼が死んでいなかったらこんなに迷っていなかったに違いない。進路にちょっと迷いつつも適当に地元の国立大学にでも照準を定めていただろう。
でも彼が死んでそれが一気に儚く、脆くなった。
「ご、ごめん。体育祭楽しんでるみたいだったから。ちょっと私無神経だったね」
黙った僕に何を思ったのか、挙動不審な動きをしながら謝罪する歌川さんをやんわりと手で制す。逆に此方が申し訳ない気分になる。
「いいよ、まだ僕にとっては過去に出来ていないけど。楽しい……うん、今が楽しいっていうのも本当だし」
持て余した感情が未だに裡に燻っていることは間違いないけれど。同時に今あるどこにでもある日常が嬉しいという気持ちもある。
それはきっと、嘘じゃないんだ。
「こんな時に話すことでもないし、もう僕の事はいいでしょ。ほら、部活動対抗リレーももうすぐ終わりそう」
グラウンドではユニフォームに身を包んだ部活動生がのんびりと走っていた。
この競技に得点は加算されない。デモンストレーションという名目で何年か前から行われているもので、これが実施している間に各団の点数を計算しているのだという。
恐ろしい事に剣道部員達は茹だるような暑さの中で完全防備のまま、しかも素足で走っていた。六月も下旬の時期に、しかもあんなものを見せられて新入生が入ってくるとは到底思えない。多分、剣道部員も半ばヤケクソのようになっているのか、やたらと良い声で走りながら乱取稽古のような事をやっている。一番楽そうな水泳部とは雲泥の差だ。
「あー、私達三位じゃん」
「結構差があるね。でも団対抗リレーで一位を取れば……」
どうやらだらだらと部活生が走っている途中に各団の点数計算も終わったらしい。
白い校舎の三階の窓から垂れ下がるポイントボードには各団の点数が表示されている。
確かに僕達の団は三位だが上位と比べて大きな差があるわけではない。団対抗リレーはトリを飾るだけあって入る得点も一番大きい。もし一位につければ文句なしに逆転だろう。
「勝てると思う?」
「どうだろう。でも、負けてもいいんじゃないかな」
歌川さんは僕の言葉に一瞬だけきょとんとして、くすくすと笑った。
「そうだね、負けてもいいよね。勿論勝った方がいいけど。でも、負けても多分笑えるよね。ああ楽しかったって」
「うん。一位以外に価値がないってわけじゃないからさ」
スポーツや武道であれば優劣があって、勝てなかった悲しみに涙を溢すこともあるだろう。けれど、体育祭はそういうものではないと思う。
負けた悔しさがないとは言わないけれど、涙を流すこともあるかもしれないけれど。
勝負の後に残るのはきっと、爽やかなものなのだろう。
最後の体育祭だから、きっと感じ入るものがあった。
ぶつくさと文句を垂れながら嫌々参加してきた体育祭に名残り惜しさを感じた。
今まではロクに練習しないくせに本番だけはヤケクソのように大声を張り上げる連中の事を煩わしいと思っていたが、ほんの少しだけ彼等の気持ちを理解出来た。
ほんの少し、沸き立つ侘しさと共に。
放送部の下手なアナウンスと共に、団対抗リレーの選手が入場してくる。
各団の一年生から三年生まで、男女一人ずつを選抜して、最後に団長がトラックを一周走る。一番得点が高いだけあって、入場してくる生徒達はいかにも足が速そうな面子だ。
そんな中に達哉の姿があって、どうにも場違いのように思えたが、そんな考えは達哉の鋭い目つきを見て霧散した。
勉強ではあんな風に集中したことはないのに、こういった場面では真面目になるらしい。
その事に呆れながらも、同時に達哉らしいと納得もした。
位置について、という号令と共にジャージを着た体育教師がピストルを上空に向ける。
用意、という言葉でトップバッターを務める一年生達はクラウチングスタートの態勢を取った。そして号砲が空を突き抜け、軽やかに響いていった。
まずは一走者目の一年生の男子だ。その次は一年生の女子が走者となる。去年までは中学生だった一年生がトップバッターを飾る。一般に、女子よりも男子の方が走る速度は速い。だから大抵次の走者が女子ならテイクオーバーゾーンは目一杯多めに使う。その中で、一人だけ明らかに手前の方で準備している女子生徒がいた。
余程自分の足に自信があるのか、自分が走る距離を長くしているのだ。
そして推測は第二走者にバトンが渡った時、現実になる。
速い。
体格は小柄でありながら全身を発条のように弾ませて、ほぼ横並びだった均衡した状況を切り開く。鉢巻きをたなびかせてトラックを疾駆する姿はまるでサバンナを駆け抜ける肉食獣のようだ。
「ちぇ、やっぱ速いな、和美の奴」
偶々僕達の近くに座っていた宇津木が悔しそうに呟いた。
「え?あの子、宇津木君の知り合いだったりする?」
耳ざとく聞きつけた歌川さんが尋ねる。
「あ?……ああ、妹だよ」
いきなり話しかけられて面食らったようだが、宇津木はそう答えた。
「ほー、妹さんがいたんだ!やっぱ陸上部?」
「ああ。専門は長距離みたいだけどな」
「センモンってわけじゃないんだ。……いやでも、陸上部なら短距離でも速いよね」
短距離走と長距離走では使う筋肉が違う、と聞いた事がある。とはいっても常日頃から走り慣れているというのやはり強いようで、その速さに観客席からどよめきが起こるほどだ。
「見ての通り独壇場だね」
「アイツが俺達のところに居れば間違いなく優勝出来ただろうぜ」
「って、そうだよ私達の所属じゃないんだからヤバいじゃん!」
彼女はそのままぶっちぎりの一位で次の走者にバトンを渡す。この時点で僕達の団は最下位だった。
しかし、彼女の次の走者はそこまで俊足というわけではなく、二位、三位がじりじりと距離を詰めてくる。三つ巴の状態だ。そんな状態の中、唯一僕達だけが蚊帳の外だ。達哉も頑張って前方の選手と距離を縮めたが追い抜くに至らない。
そしてアンカー。
もうこの段階で僕達の優勝は絶望的だった。達哉の尽力によって三位との距離は間近だが一位とは大きな差がある。
しかし、僕達の団のアンカーを務めるのは我らが委員長、藤原重伍その人だ。
確かに委員長は弄られ体質だが、その根底にあるものは信頼だ。
だから信じられる。委員長ならばこの絶望的な状況をひっくり返してくれると。
そして今、達哉から委員長にバトンが渡された。
「委員長行けえええ!」
「一位狙えるぞ一位!」
「頑張ってー!」
声援と檄を受け、厳しい顔立ちで前のめりの態勢で走りだす。団員席のボルテージは最高潮に達し、僕も柄にもなく大声を張り上げた。
―――そして。
そして委員長はその鈍足をいかんなく発揮し、圧倒的な最下位でゴールを果たした。
どたどたという擬音が似合いそうな崩れ切った不格好なフォームでトラックを走り抜け、会場からは生暖かい拍手が沸き起こった。それと同時、僕達の団員席からは汚い野次が飛んだ。
あとはきっと、いつも通り。
午前中は曇りがちな天気で時間が経つと薄くなっていった。今ではもう直射日光が殺人光線のように降り注いでいる。放送席からは見物客に水分補給を促すアナウンスが一定の時間を置いて流れている。茹るような暑さ、トラックの奥は蜃気楼でも出てきているのか、風景が歪んで見えるほどだ。
前の組が全員ゴールして、ついに僕の順番が来た。
僕を含め、四人の生徒が横一列にスタート位置につく。少し歪んで見える百メートル、その奥には白いテープが一位を待っている。
軽くアキレス腱を伸ばし、屈伸運動を行う。帰宅部の僕は運動不足だから、途中で転ぶという大恥だけは避けたいところだ。
『位置について……用意』
その言葉と同時に僕達はクラウチングスタートの態勢を取り、直後に上空に向けてピストルが発射された。
合図と同時に地面を蹴りつけ、前へと駆け出した。
帰宅部の僕は鈍足ではないが、決して足が速い方ではない。半分ほど走ったところで、前には二人の生徒が走っていた。今の僕は三位だ。
―――前に、前に、前に。
周りの景色は視界にいれず、置き去りにしてただ前に。
周囲の音が遠い。ただ自分の呼吸音だけが煩いくらいに聞こえる。
なんでこんなに全力で走っているんだろう、と小さな疑問がぽつりと沸いた。
そんなに練習に力を入れていたわけではない。勝ったところで何か特典があるわけでもない。陸上の大会でもない、ただの体育祭だ。
これはただのお祭り騒ぎで、それ以上の意味はない。
しかし何も懸かっていないとしてもそこに勝負があり優劣があり。
貧乏籤で百メートル走に選出されたとしても、土俵の上に立つ以上は負けるより勝つ方が良いに決まっている。
きっとこれはそれだけだ。
冷めた性格だという自覚はあるが、斜に構えてはいない。
背中が見えるならそれを追い越したくなるのは当然の事。
―――呼吸が荒い。
百メートルなんて家から学校までの距離にも満たないのに、こんなにも遠い。
こんなにしゃかりきになって走るのは本当に久しぶりだ。
軟弱な体は既に疲弊して、酸素を求めて喘ぐ。それでもペースは緩めない。
前半に飛ばし過ぎたのか、僕の前の背中、二位につける生徒の走るペースが僅かに落ちた。
ゴールまで残り二十メートルほど。
じりじりと距離を詰め、十メートルで二番目の走者に並ぶ。
四、三―――。
ゴール直前で僕が僅かに前に出る。
そしてそのまま僅差の二位でゴールした。
走っているうちにいつの間にか自分の世界に入っていたらしい。野次の声が潮騒のように耳に入る。ぜえぜえと喘ぎながら後続の邪魔にならないように横に逸れ、体育委員会の腕章をした生徒に導かれ、『二位』と書かれたフラッグの後ろに座る。
一位は赤色で二位は青色、三位は黄色だ。
風に揺れる青色のフラッグを見て、去年は四位だったな、とどうでもいいことを思い出した。
三年生の百メートル走は恙なく終わり、参加者は段ボールで作られた門を潜って自分の団席に戻っていく。
……入場門の付近でカメラを構え、千切れそうなほど勢いをつけて手を振る父さんの姿は無視することにした。小学生のころには無邪気に手を振り返していたが、流石にこの歳になると恥ずかしい。昨晩は念入りに釘を刺したが効果は欠片もなかったようだ。
全員の百メートル走が終わり、生徒達は退場門から退出し、各々グラウンドの隅に設けられた団員席に戻っていく。一応自分の席が割り振られているが、頻繁に出たり入ったりを繰り返すため席順などあってないようなものだ。手を振る達哉の隣の席が偶々空いていたので手招きされるがまま、隣に座る。反対側の達哉の隣には窮屈そうな体操服に身を包んだ委員長がどっしりと座っていた。貫禄があり過ぎて委員長の恰好がコスプレにしか見えない。
「お疲れ、いい走りっぷりだった」
ぐ、と親指を立てる委員長。いぶし銀の委員長がそんな仕草をすると様になり過ぎていて委員長の実年齢を疑いそうになる。
「二位だったけどね。それもギリギリで」
「いやいや、お前が必死こいて走る姿とかレアだから。それを見物出来ただけでも価値はあったって」
委員長は素直に僕を労うが、達哉は意地悪く笑っている。達哉の運動神経は僕に反して良い。帰宅部なのに何故陸上部と互角の勝負を出来るのか分からないが、その俊足を買われてトリを飾る団対抗リレーの三年代表として選出された。
そして本人が知らないうちに団長に担ぎ上げられた委員長はアンカーだ。この学校の伝統で、団対抗リレーのアンカーは各団の代表者、即ち団長である委員長が務めることになっている。騎馬戦では普段の鬱憤を晴らすように悪役よろしく、高笑いしながら縦横無尽にフィールドを駆けまわって無双していたが、リレーどうなることやら。本人は鈍足であることを理由に辞退したがっていたが、多数決という名の出来レースの結果、見事選出されることとなった。
「委員長、俺達そろそろ準備じゃね?」
達哉は二つ折りの薄汚れた体育祭のプログラムを開き、指で種目を追いながら委員長に言う。体育祭も終盤に入った。僕が出場した三年生の百メートルリレーの後は負二つほど競技を行い小休憩を挟んでから団対抗リレーが始まる。
「む、そろそろか。最終確認があるから早めに出ておくか」
「だな、じゃあ俺達はちょっと抜けるわ」
「ああ、行ってらっしゃい」
適当に手を振り、二人を見送る。そして僕はふう、と溜息を吐いた。誰かに蹴飛ばされたのか、近くに横向けに転がっていた自分の水筒を拾い麦茶で咽喉を潤す。
帰宅部で運動する習慣があまりない僕にとっては短距離とはいえど全力疾走は足腰に来るものがある。それに一応、百メートル走以外にも騎馬戦や玉入れに参加していたからそこそこ疲労が溜まっているのだ。
「お疲れかな?」
明日は筋肉痛かな、と憂鬱な気分でいると唐突に背後からかけられた。
声に反応して振り返る。後ろにいたのは歌川さんだった。思いのほか顔の距離が近く、驚いた歌川さんは、おおう、という謎の呻き声を上げて仰け反った。運動に支障がないように後ろに纏められている髪が馬の尻尾のように揺れた。
「ああ、ごめん。驚いて」
「いやいや、私もいきなり声かけたからね」
アーモンド形の瞳を緩ませて歌川さんは笑った。屈託のない笑みを浮かべる歌川さんはプレッシャーに弱いようだが普段は社交的な性格で、時折僕にもこうやって話しかけることがあった。
「身体大丈夫ー?午後から雲も晴れて気温もヤバいからさ。気をつけた方がいいよ?」
「ああ、大丈夫。水分補給したら大分楽になったし」
「本当?一年生の時、体育祭で倒れたでしょ?」
「……良く覚えてるね」
二年前の今日、僕は一年生の体育祭の中盤、組体操を控えた集合場所で倒れたのだ。確か一年生の時は歌川さんとはクラスメイトだったから、覚えていたのだろう。
「大丈夫だよ、同じ轍は踏まない」
「ん、なら良かった。人生最後の体育祭を救護室で過ごすなんて味気ないからね」
「……そっか、最後なのか、今日で」
歌川さんにそう言われて、僕はようやく今日が最後の体育祭だと思い至った。
「なんていうか、自覚すると変な感じになっちゃうよねー。感傷っていうのかな、こういうのも」
「そうかもね」
学祭なら大学でもあるだろうが、体育祭は高校までのイベントだ。
今日で僕の人生最後の体育祭が終わるかと思うと、奇妙な切なさを感じていた。
こんな暑い時にと練習の度に心の中で悪態をついていたが、僕なりに体育祭というものに価値を感じていたのかもしれない。
「そ、今日が最後だから良い思い出にしないとね。ほら、その……ああいうことがあったから心配してたんだよ、私もね」
少し言葉を濁すように、どこか気まずそうに歌川さんは言った。
「ああ、うん。正直まだ吹っ切れてないかな、まだ燻っているというか」
なんせ、彼ときたら異世界とやらにいるらしいのだ。僕としてはどう反応していいのか分からない。どうしようもないから、僕はうろうろと右往左往しているのだ。
皆は前を向いて歩いていっているのに、僕だけが四月から一歩も前進していない。
彼が死んでいなかったらこんなに迷っていなかったに違いない。進路にちょっと迷いつつも適当に地元の国立大学にでも照準を定めていただろう。
でも彼が死んでそれが一気に儚く、脆くなった。
「ご、ごめん。体育祭楽しんでるみたいだったから。ちょっと私無神経だったね」
黙った僕に何を思ったのか、挙動不審な動きをしながら謝罪する歌川さんをやんわりと手で制す。逆に此方が申し訳ない気分になる。
「いいよ、まだ僕にとっては過去に出来ていないけど。楽しい……うん、今が楽しいっていうのも本当だし」
持て余した感情が未だに裡に燻っていることは間違いないけれど。同時に今あるどこにでもある日常が嬉しいという気持ちもある。
それはきっと、嘘じゃないんだ。
「こんな時に話すことでもないし、もう僕の事はいいでしょ。ほら、部活動対抗リレーももうすぐ終わりそう」
グラウンドではユニフォームに身を包んだ部活動生がのんびりと走っていた。
この競技に得点は加算されない。デモンストレーションという名目で何年か前から行われているもので、これが実施している間に各団の点数を計算しているのだという。
恐ろしい事に剣道部員達は茹だるような暑さの中で完全防備のまま、しかも素足で走っていた。六月も下旬の時期に、しかもあんなものを見せられて新入生が入ってくるとは到底思えない。多分、剣道部員も半ばヤケクソのようになっているのか、やたらと良い声で走りながら乱取稽古のような事をやっている。一番楽そうな水泳部とは雲泥の差だ。
「あー、私達三位じゃん」
「結構差があるね。でも団対抗リレーで一位を取れば……」
どうやらだらだらと部活生が走っている途中に各団の点数計算も終わったらしい。
白い校舎の三階の窓から垂れ下がるポイントボードには各団の点数が表示されている。
確かに僕達の団は三位だが上位と比べて大きな差があるわけではない。団対抗リレーはトリを飾るだけあって入る得点も一番大きい。もし一位につければ文句なしに逆転だろう。
「勝てると思う?」
「どうだろう。でも、負けてもいいんじゃないかな」
歌川さんは僕の言葉に一瞬だけきょとんとして、くすくすと笑った。
「そうだね、負けてもいいよね。勿論勝った方がいいけど。でも、負けても多分笑えるよね。ああ楽しかったって」
「うん。一位以外に価値がないってわけじゃないからさ」
スポーツや武道であれば優劣があって、勝てなかった悲しみに涙を溢すこともあるだろう。けれど、体育祭はそういうものではないと思う。
負けた悔しさがないとは言わないけれど、涙を流すこともあるかもしれないけれど。
勝負の後に残るのはきっと、爽やかなものなのだろう。
最後の体育祭だから、きっと感じ入るものがあった。
ぶつくさと文句を垂れながら嫌々参加してきた体育祭に名残り惜しさを感じた。
今まではロクに練習しないくせに本番だけはヤケクソのように大声を張り上げる連中の事を煩わしいと思っていたが、ほんの少しだけ彼等の気持ちを理解出来た。
ほんの少し、沸き立つ侘しさと共に。
放送部の下手なアナウンスと共に、団対抗リレーの選手が入場してくる。
各団の一年生から三年生まで、男女一人ずつを選抜して、最後に団長がトラックを一周走る。一番得点が高いだけあって、入場してくる生徒達はいかにも足が速そうな面子だ。
そんな中に達哉の姿があって、どうにも場違いのように思えたが、そんな考えは達哉の鋭い目つきを見て霧散した。
勉強ではあんな風に集中したことはないのに、こういった場面では真面目になるらしい。
その事に呆れながらも、同時に達哉らしいと納得もした。
位置について、という号令と共にジャージを着た体育教師がピストルを上空に向ける。
用意、という言葉でトップバッターを務める一年生達はクラウチングスタートの態勢を取った。そして号砲が空を突き抜け、軽やかに響いていった。
まずは一走者目の一年生の男子だ。その次は一年生の女子が走者となる。去年までは中学生だった一年生がトップバッターを飾る。一般に、女子よりも男子の方が走る速度は速い。だから大抵次の走者が女子ならテイクオーバーゾーンは目一杯多めに使う。その中で、一人だけ明らかに手前の方で準備している女子生徒がいた。
余程自分の足に自信があるのか、自分が走る距離を長くしているのだ。
そして推測は第二走者にバトンが渡った時、現実になる。
速い。
体格は小柄でありながら全身を発条のように弾ませて、ほぼ横並びだった均衡した状況を切り開く。鉢巻きをたなびかせてトラックを疾駆する姿はまるでサバンナを駆け抜ける肉食獣のようだ。
「ちぇ、やっぱ速いな、和美の奴」
偶々僕達の近くに座っていた宇津木が悔しそうに呟いた。
「え?あの子、宇津木君の知り合いだったりする?」
耳ざとく聞きつけた歌川さんが尋ねる。
「あ?……ああ、妹だよ」
いきなり話しかけられて面食らったようだが、宇津木はそう答えた。
「ほー、妹さんがいたんだ!やっぱ陸上部?」
「ああ。専門は長距離みたいだけどな」
「センモンってわけじゃないんだ。……いやでも、陸上部なら短距離でも速いよね」
短距離走と長距離走では使う筋肉が違う、と聞いた事がある。とはいっても常日頃から走り慣れているというのやはり強いようで、その速さに観客席からどよめきが起こるほどだ。
「見ての通り独壇場だね」
「アイツが俺達のところに居れば間違いなく優勝出来ただろうぜ」
「って、そうだよ私達の所属じゃないんだからヤバいじゃん!」
彼女はそのままぶっちぎりの一位で次の走者にバトンを渡す。この時点で僕達の団は最下位だった。
しかし、彼女の次の走者はそこまで俊足というわけではなく、二位、三位がじりじりと距離を詰めてくる。三つ巴の状態だ。そんな状態の中、唯一僕達だけが蚊帳の外だ。達哉も頑張って前方の選手と距離を縮めたが追い抜くに至らない。
そしてアンカー。
もうこの段階で僕達の優勝は絶望的だった。達哉の尽力によって三位との距離は間近だが一位とは大きな差がある。
しかし、僕達の団のアンカーを務めるのは我らが委員長、藤原重伍その人だ。
確かに委員長は弄られ体質だが、その根底にあるものは信頼だ。
だから信じられる。委員長ならばこの絶望的な状況をひっくり返してくれると。
そして今、達哉から委員長にバトンが渡された。
「委員長行けえええ!」
「一位狙えるぞ一位!」
「頑張ってー!」
声援と檄を受け、厳しい顔立ちで前のめりの態勢で走りだす。団員席のボルテージは最高潮に達し、僕も柄にもなく大声を張り上げた。
―――そして。
そして委員長はその鈍足をいかんなく発揮し、圧倒的な最下位でゴールを果たした。
どたどたという擬音が似合いそうな崩れ切った不格好なフォームでトラックを走り抜け、会場からは生暖かい拍手が沸き起こった。それと同時、僕達の団員席からは汚い野次が飛んだ。
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