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3.穏やかな宵
しおりを挟む鈴花が通されたのは庭に面した広間だった。
開け放たれた障子の向こうには、見事な日本庭園が広がっている。
青々と茂る木々が日没の赤黒い闇に静かに沈む。
西の空は晴れているのだが、どこか遠くで雷が鳴っている。
鈴花は疲れ切ってぼんやりしながら、遠雷の音を聞くとも無しに聞いていた。
――つ、かれた……。主に精神的に。
部屋に着くと、まず、さきほど会った女性――夏々地によれば、何人か雇っているお手伝いさんの一人だという――が用意してくれた浴衣に着替えた。
汗でべったりと肌に貼り付いていた服を脱ぐとそれだけで体力が回復した気がしてホッとした。
……のも束の間。
着替え終わったと知らされたらしい夏々地がやってきて、宣言通り傷の有無を調べ始めたのだが、これが本当に心を削ってくれた。
少し体温が低いのかひんやりした長い指が、疲労でパンパンに張ったふくらはぎを伝う。
感触を思い出しただけでも赤面してしまう。
『うん。腕にも足にも怪我はなさそうだね。良かった』
夏々地が心底ホッとしたような笑顔を見せる頃には、鈴花は羞恥で息も絶え絶えだった。
あと少しでも長かったら卒倒してしまったのではないかと思う。
本当なら青々とした畳の上に伸びてしまいたいところだが、それもできないので横座りで片腕を畳につく形で休んでいる。
夏々地は何か飲むものを持ってくると言って席を外したところだ。
「いい夕焼けだね」
「ひゃっ!」
驚いて振り返れば、夏々地が立っていた。
足音も衣擦れの音もしなかったのに……と目を白黒させる鈴花の前に、江戸切子のグラスが差し出された。
菊つなぎ模様のカッティングが美しい。
中の飲み物が相当冷たいのか、既に表面には結露が浮いている。
「このあたりは夕立も多いんだけれど、今日は来ないようだ」
「そうなんですか?」
ふもとの町で生まれ育ったが、特段夕立が多いと感じたことはなかった。
山の上と町とではそんなに天気が変わるものなのだろうか。
「ここは山間だから、天気が変わりやすいのかもしれないね」
鈴花の疑問を察知したのか、夏々地が告げた。
「そうですか」と答えている最中に彼女の手の中で、氷がパキリと小さな音を立てた。
「冷たいうちに飲んで。――そうだ。夕食の前にお風呂に入る?」
「できればそうさせていただけたら助かります。たくさん汗をかいたので」
「じゃあ、それを飲み終わったら湯殿に案内するよ」
湯殿なんて聞き慣れない言葉だ。
言葉からして豪華なのだろうと伺えた。
「鈴花ちゃん? どうしたの、ぼんやりして」
「夏々地さんのお家が立派すぎて、現代日本にいるような気がしないというか……」
正直な感想を述べれば、夏々地はクスクスと笑みを漏らした。
「じゃあ僕が、ここは君の住む世界とは違うところだと言ってたら信じる? たとえば……そうだなあ、ここはあやかしの里だとか、君は神隠しに遭ったんだよ、なんて言ったらどう?」
口元に笑みを浮かべた夏々地は、やけに真剣な声音で尋ねる。
目がすうっと細まり、青みを帯びた黒であるはずの虹彩が、どこか赤み持って見えた。
凄みさえ感じさせる彼の様子に、鈴花はごくりと息を呑んだ。
「あ……やだな、夏々地さんったら! そんなに真剣に言われたら信じちゃいますよ」
あはは、と声を立てて笑うものの、少し掠れ声になってしまった。
「先に言い出したのは君じゃないか。どう? 僕の言ったこと少しは信じてくれた?」
夏々地もそう言うと声を上げて笑った。
今しがた感じた迫力は微塵も残っていない。
「ちょっと信じそうになりました。夏々地さん、すっごく真剣に言うから怖かったです」
「それは申し訳ない」
彼は肩を竦めると、音もなく立ち上がった。
「そろそろ湯殿に案内するよ」
「あ、よろしくお願いします」
鈴花も慌てて立ち上がった。刹那、夏々地はまたしても鈴花を抱き上げる。
「夏々地さん!」
「足、まだ痛むでしょ?」
鈴花の抗議をどこ吹く風で受け流し、彼は廊下を屋敷の奥へ奥へと進んでいく。
「湯殿は離れにあるんだ。この廊下を突き当たりまで進んで、それから外廊下に出て……、渡り廊下の先の建物だよ」
「ずいぶん遠いんですね」
「まぁね。だから君を歩かせるわけにはいかなかったんだよ」
離れに着くと彼は引き戸をからりと開けた。
「ここが脱衣所。あっちの戸が湯殿に繋がっている。――一緒に入るわけにはいかないから僕はここで戻るけれど、あまり無理をしないようにね。一日歩き回って疲れたでしょう? ゆっくり湯船につかって」
「はい。何から何までありがとうございます」
新しい木の香りが漂う板の間に下ろされ、鈴花は安堵のため息をついた。
「あの……」
「じゃあ、頃合いを見て迎えに来るから」
帰りの道順を聞こうとした矢先に、有無を言わせぬ口調で言い切られてしまった。
このぶんではいくら尋ねても帰り方は教えてくれないだろう。
おとなしく彼の迎えを待つしかなさそうだ。
鈴花は「はい」と小さく頷いた。
「そうそう、言い忘れたけど、決して建物の外に出ちゃいけないよ。庭でも駄目」
渡り廊下から見た庭が鈴花の脳裏に浮かぶ。灯籠の明かりに照らされた草木は幻想的だった。ゆっくり見て回りたいと思っていたのに……。
「え? どうしてですか?」
「どうしてって……夜の山は人ならざるものの領域だから。君みたいな可愛い子が外に出たら、あっと言う間に捕って喰われちゃうよ?」
彼の言う『人ならざるもの』がなにかは分からなかったが、ゾッと背筋が冷えた。
凝った暗闇に何かの目がギラギラと光る……そんな想像が脳裏に浮かんだ。
そんな目に今も見られているようで、鈴花は思わず身じろいだ。
「……それとも君は喰われたい? きっと髪の毛の一本も残さずに貪られてしまうだろうね。だって君はこんなに愛らしくて、無防備で、それに……美味しそうなんだもの」
夏々地の手が、鈴花の髪にのびた。
一房を手に取ると、彼は髪に顔を寄せてそっと口づける。
彼はそのままの姿勢で、鈴花の顔を見つめた。
夏々地の目がまたしても赤みを帯びたように見える。
真剣な眼差しは、鈴花を絡め取るような熱と湿度を持っているのに、心の奥底をのぞき込むような冷たさも併せ持っているようだ。
一瞬、瞳孔が縦長にスッと細まったようにも見えたが、鈴花が「え?」と思った時にはすでに人の瞳孔に戻っていた。
「わ……たし……」
なんと答えたら良いのか。
冗談にしてしまいたいのに言葉は出ず、口元は引きつるばかりだ。
「――なーんてね! 冗談」
軽い口調とともに、夏々地の視線が和らいだ。
それと同時にパッと彼が離れる。
「でも危険だから外に出ちゃ駄目っていうのは本当。庭の灯籠にも一応明かりは灯ってるけれど、この闇に慣れてない人では足下もよく見えないはずだよ。庭の向こうはちょっとした崖になっているんだ。うっかり滑落したら大怪我をするよ。それだけならまだいい。身動きが取れなくなったところへ、血の匂いに誘われた獣が襲ってきたら……?」
「絶対一人で庭にでません!!」
山の獣に襲われるなんてごめんだとばかりに、鈴花は即答した。
その勢いに夏々地がふっと笑う。
「そうだね。それが賢明だよ。君は怪我してるからまさか出歩くとは思わないけれど、念のために警告させてもらったんだ。脅かしてごめんね?」
ただの警告にしては手が込んでいる。半分くらいは鈴花をからかって楽しんでいたのだろう。
「夏々地さん、人が悪いです」
「ごめん、ごめん! さて、僕はこれでお暇するから。ごゆっくりどうぞ」
鈴花の頭をポンポンと撫でると彼は音もなく去って行った。
最後に「ゆっくりしすぎはダメだよ。湯あたりしないようにね」とひと言を残して。
「夏々地さんって……」
撫でられた箇所に手で触れながら、鈴花はぽつりと呟いた。
――親切で、ちょっと意地悪で……それから心配性なのかな。
会って半日も経たないのに、彼に触れられることに抵抗を感じない。それどころか心地良いと感じてしまう自分を誤魔化すように、鈴花はかぶりを振ると勢いよく浴衣の帯を解き始めた。
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