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5.篠突く雨
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緊張して眠れないかも、と思っていたのに、疲れからかぐっすり眠っていたようだ。
鈴花はやけにすっきりと目を覚ました。
疲れが取れたせいか昨夜のことが夢かなにかに思えてくる。
「あれはあれよね……。二人とも雰囲気に呑まれちゃっただけ」
あのキスも、ここにいてほしいという言葉も、今頃夏々地は後悔しているに違いない。
全部なかったことにして、今日は急いでお暇しよう、そう決めると鈴花は布団の上に上半身を起こした。
障子へと目をやると朝というにしては少々薄暗い。とは言え、早朝というには明るすぎる。
不思議に思い、寝乱れた浴衣を手早く直して外廊下へ出ると……。
「雨ー!? 昨日はあんな綺麗な夕焼けだったのに!? 朝焼けは雨、夕焼けは晴れ……じゃなかったの?」
とがっかりした。
「春や秋はそうらしいけど、今は夏だからねぇ。――おはよう。よく眠れた?」
誰もいないと油断していたところに声をかけられて、鈴花は文字通り飛び上がった。
「夏々地さん!? あ……、おはようございます。こ、こんな格好ですみません……」
いちおう浴衣は直したものの髪はボサボサだ。
今更取り繕っても見られたものは取り消せない。見苦しい姿を見せたと謝れば、夏々地は気にしていないというように小さく笑う。
「帰るにしてもこの雨では無理だねえ。やっぱり君はここにいるべきなんだよ」
「それは……」
言い淀みつつ、鈴花は庭をを見やった。
土砂降りと言って差し支えない雨足だ。滝に似た音を立てて地面に叩きつける雨は、水しぶきであたりをくすませる。
昨日の夕方は黒々としたシルエットを見せていた山々は霧の奥に隠れ、風に揺れていた庭木は大粒の雨を受けてその身を激しく揺らしている。
何の用意もせずに外へ出れば、一瞬でずぶ濡れになるだろう。
足の指は固定してもらったため痛みを感じないし、歩けるとは思うが……。
視界不良な中、見知らぬ山道を歩くのは正直なところものすごく嫌だ。
「でも、これ以上夏々地さんにご迷惑をかけるわけには……」
「昨夜僕が言ったこと、君は信じてくれなかったの? 酷いなあ。迷惑なんかじゃないし、僕は君にいてほしい」
微笑に隠れて彼の本心が見えない。
困惑していると不意に手首を掴まれた。
驚いて顔を上げると、彼の顔が予想以上に近い。
「ほら、あんまり端近によると濡れるよ。中へ入ろう」
「え? あ、あの、布団がまだ……」
しきっぱなしだ。しかも、整えてさえいない。さすがにそんなところまで見られるのは恥ずかしすぎる。
だが抵抗しても夏々地の力には勝てず、しぶしぶ室内へ入ると……。
「あれ?」
抜け出したばかりの布団がない。そして布団の代わりと言うわけではないだろうが、和服が一式用意されている。
誰かが畳んでくれたにしても早すぎるのでは? と驚くが、布団が忽然と消えるなんてありえない。
――きっとお手伝いさんが来て畳んでくれたのね。で、私が夏々地さんと喋っていたから黙って着物を置いていってくれたんだわ。
「着替えが終わったら朝食にしよう。昨日、夕食を取った部屋、覚えてる? あそこで待っているよ」
鈴花の手首を離し、夏々地はすぐに部屋を出て行こうとする。
名残り惜しい気がして、「あの!」ととっさに声をかけてしまった。
「どうしたの?」
聞かれて一瞬答えに窮したが、次の瞬間大事なことに思い至った。
「こんなに素敵な着物、私が着るわけにはいきません」
「そんな大層なものじゃないよ。遠慮なく着て」
「実はもう一つ問題がありまして……。私、一人では着物が着られません」
「なんだ、そんなこと? 青に手伝わせよう。――青、いるかい?」
夏々地が虚空に向かって声をかけると、「ここに」と手短な返事が隣室から上がった。
スッと音もなく襖が開き、昨日見かけた女性の姿が見えた。
「着替えを手伝ってあげて」
「かしこまりました。では、涼様は……」
「うん。退散するよ。じゃあ、鈴花、あとでね」
あとに残された鈴花は、青になんと声をかけていいのか分からず、所在なさげに立ち尽くした。
青は「失礼します」と一声かけて部屋に入ると、庭に面した障子を閉め、着替えの準備を始めた。
「あの、お世話になります」
「いいえ、どういたしまして」
青は顔を上げてにっこり微笑んだ。
初めて見た笑顔は美しくて、同性の鈴花さえドキッとするほど妖艶だった。
これほど綺麗な女性がそばにいて、夏々地は何とも思わないのだろうかと不思議になる。
――美貌の人はそれほど他人の美醜に頓着しないのかな? だから私なんかにあんな……。
昨夜のキスを思い出しそうになり、鈴花は慌てて首を振った。
「鈴花様、どうかいたしました? お顔が赤いようですが、暑いですか?」
「何でもないです! 暑くないです! 大丈夫です!」
答える声がうわずってしまう。
「お可愛らしい方」
青は袖で口元を隠すと、楽しそうに微笑んだ。
「涼様が夢中になるわけですわ。鈴花様は真っ直ぐな方とお見受けいたしました」
「真面目すぎる、とは言われます。褒め言葉じゃないですけれど」
「あら。真面目なのは立派な長所ですわ」
面と向かって褒められると気恥ずかしくなってくる。
怜悧な美貌の青はきっと口数も少ないのだろうと勝手に思い込んでいたが、鈴花の予想に反して彼女は手とともに口も動かす。
「鈴花様は涼様のことをどう思われます?」
「……親切で優しい方だと思います」
「まあ。では嫌ってはいらっしゃいませんのね?」
こくりと頷くと、青は「よかったわぁ」と嬉しげにため息を零した。
「涼様はあの通り飄々とした方でいらっしゃるので、鈴花様のようにしっかりしたお嬢様と結ばれるのが一番だと常々思っておりましたの」
そう早口で告げると、「よかった、本当によかったわぁ」と独り言を呟いている。
何やら誤解をされてしまったようだが、口下手の鈴花では夏々地の立場を貶めず、上手く正しい状況を伝える言葉が見つからなかった。
「あの……その……」
「ちょっと嫉妬深いかもしれませんが、そこは我々の性なので諦めてくださいましね」
「性……?」
鸚鵡返しに聞いても、青はニコニコと笑うだけだ。
――青さんと夏々地さんは親戚なのかな? だから似てるとか?
「さあできましたよ。お綺麗ですわ。せっかくですから髪も結いましょうか」
青は返事を待たずに鈴花を座らせると、どこからか取り出した櫛で鈴花の髪を梳った。
準備ができた鈴花は、青の先導で夏々地の待つ広間へやって来た。
昨夜も通ったはずの廊下だが、夜と昼ではずいぶんと雰囲気が違って見えた。豪華なことに変わりはないが、知らない道を歩いているように錯覚する。
「涼様、お待たせいたしました。鈴花様をお連れいたしました」
告げる青の声は、先ほど二人でお喋りをした時よりも心持ち硬い。
「待っていたよ。お入り」
「失礼します」
廊下に控えたままの青のわきを通り抜けて中へ入れば、すぐに背後の障子は閉められた。
何だか退路を断たれた気分になって、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「お待たせしてすみません」
夏々地は窓辺でくつろいでいた。
外を見ていた視線を鈴花へと向けて、満足そうに頷いた。
「やっぱりその着物よく似合ってる」
「ありがとう、ございます……」
他に上手い返しが見つからなくて、鈴花は赤面して俯いた。
そうすると目に飛び込んでくるのは自分が着ている着物だ。
ごく淡い水色――青白磁に、笹の意匠が描かれた小紋。白地に淡い色で蝶と花が刺繍された帯。帯締めと帯揚げは薄紫。全体的に淡い色で纏められている。
――こんなに可愛い色合いが似合うわけないわ。お世辞よ。
と、卑屈な思考が頭をよぎった。
――夏々地さんはお世辞が上手いから、信じちゃダメ。
改めてそう思わないと気持ちがぐらぐらと揺れてしまいそうで、鈴花はぎゅっと拳を握った。
「雨が止んだら……お暇しますね」
「それは、昨夜の返事と捉えていいのかな?」
こくりと鈴花が頷くと、夏々地は笑みを消して立ち上がった。
「じゃあ、雨は止ませない」
「え?」
「それならずっとここにいるだろう?」
彼の言っている意味が分からず、ぽかんとした顔で夏々地を見つめる。
「それどういうことですか?」
「ここは僕の縄張りだからね。多少の無理は利かせられるさ」
答えを求めたのに、ますます意味が分からない。
「君が『うん』と言うまでこの屋敷に閉じ込めるってこと」
そう告げる夏々地の虹彩が、不意に赤く染まった。そして瞳孔が人にはあり得ないほど縦長に割れる。
「あ……なに……?」
「逃がさない。帰らせない。絶対に」
夏々地の眼光の鋭さに、鈴花の身が強ばった。
逃げだそうと思っても足がピクリとも動かなかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように。
その代わり、腰が抜けたのかその場にぺたりと座り込む。
夏々地はそんな鈴花の傍らに膝をつくと、震える彼女の顎を掬って上向かせた。
「だってさぁ……君ほど良い匂いさせてる子とは出会ったことがないもの。一目惚れするしか……ないじゃないか」
「匂い……?」
「そう、甘くて美味しそうな匂い」
うっとりと呟くと夏々地は鈴花を押し倒した。
空気が動き、青い畳の香りが一段と強く漂った。
覆い被さった夏々地は鈴花をさも愛おしそうに眺めるが、瞳の奥には情欲なのか、言うことをきかない彼女に対する怒りなのか、炎のような激しさを灯している。
明らかに人外の目だというのに、鈴花は一瞬全てを忘れて魅入られた。
「君こそ僕の花嫁だ。絶対に手放したくない」
うっそりと呟く彼の声に、ハッと我に返った。
「ど、退いて……!」
藻掻いても男の力は強く、逃げ出すことはおろか身動きさえままならない。
「退け? 残念ながらそれはできない相談だよ。――そんな不安そうな顔、しなくていい。なにも君を捕って食おうってわけじゃない。ただ、僕の気持ちを知ってほしいだけ。怖がらないで」
「や……」
何とか逃げようと闇雲に足をばたつかせたせいで、裾が酷くめくれ上がっている。
露わになった鈴花の足を、夏々地の手がするすると這い上がる。
その手つきは蛇が獲物を狙う姿にもよく似ていた。
「君を見つけた時には驚いたよ。こんなに芳しい匂いをさせながら、無防備に一人で歩いて……危ないったらなかった。あんまり君が美味しそうだから、誰かが仕組んだ罠なんじゃないかと疑ったよ……ははっ」
夏々地の言葉は興奮に掠れている。
冷静さを欠くほど自分を欲してくれているのか……と、奇妙な感情が湧いてくる。
――私、何を考えているの!? 無理矢理押し倒されたのに!
そう思うそばから、求められることに胸がときめいてしまう。
二つの異なる思考に混乱する鈴花をよそに、夏々地はうっとりと酔ったような顔で鈴花の首筋に顔を埋めた。
「はぁ……、……ああ……本当に……良い、匂いだ……頭の芯が痺れるくらい甘くて、官能的で、僕の……あやかしの性を否応なく引きずり出す香り……はぁ……たまらない」
首筋に舌を這わせながら、夏々地は感極まったように呟く。
濡れた舌と、彼の吐息が肌をくすぐり、鈴花は小さな声を上げて身悶えた。
「あ……っ、やあ……やだ」
声に甘いものが混じっている。それを夏々地も察知したのか、やめるどころかますます肌に舌を這わせた。
ただ首筋を舐められているだけなのに、腰のあたりに甘い疼きが芽生える。どうしたらいいのか分からず、鈴花は涙ぐんだ。
「やめて、夏々地さん……どうしてこんなこと……」
「こんなことになりたくなかったのなら、君はもっと慎重に行動すべきだったね。山になんか足を踏み入れるべきじゃなかったんだ。迂闊に足を踏み入れるから……だから僕なんかに捕まっちゃうんだよ」
「え……?」
「君を迷わせたのは僕だよ。ひと目見て君がほしくなった。だから僕の里へ誘い込んだ。――他の誰にも奪われないように、ね」
道に迷ったのは夏々地の仕業。
そんなことただの人間にできるはずがない。
『僕の里』ってなに?
夏々地の言葉は疑問しか残さない。
「あなたは……誰、なの……?」
抵抗するよりも好奇心が勝り、思わず疑問が口を突く。
すると夏々地も手を緩め、首筋から顔を上げた。赤い唇が唾液で濡れ、それをより赤い舌が拭う様は酷く官能的だった。
「君が『うん』と言ってくれさえしたら、もっと時間をかけて僕が何か教えるつもりだったけど……ここで強引に奪うなら今教えてあげたほうが君のためかな?」
赤い目が爛々と光る。獲物を追い詰めた捕食者の残酷さで。
「僕はね、人が蛇神と呼ぶもの。この山を統べるあやかしだ」
「嘘……」
嘘ではないという代わりか、夏々地の頬の一部に、真っ白い鱗がゆっくりと現れた。
「本当のことだよ。君は蛇神の花嫁に選ばれてしまったんだよ。可哀想だけど決して人里には帰してあげない。蛇はね、嫉妬深くて執念深いんだ。片時だって君を離すものか」
それは決定事項だと言わんばかりの物言いに、鈴花の全身から力が抜けた。
鈴花はやけにすっきりと目を覚ました。
疲れが取れたせいか昨夜のことが夢かなにかに思えてくる。
「あれはあれよね……。二人とも雰囲気に呑まれちゃっただけ」
あのキスも、ここにいてほしいという言葉も、今頃夏々地は後悔しているに違いない。
全部なかったことにして、今日は急いでお暇しよう、そう決めると鈴花は布団の上に上半身を起こした。
障子へと目をやると朝というにしては少々薄暗い。とは言え、早朝というには明るすぎる。
不思議に思い、寝乱れた浴衣を手早く直して外廊下へ出ると……。
「雨ー!? 昨日はあんな綺麗な夕焼けだったのに!? 朝焼けは雨、夕焼けは晴れ……じゃなかったの?」
とがっかりした。
「春や秋はそうらしいけど、今は夏だからねぇ。――おはよう。よく眠れた?」
誰もいないと油断していたところに声をかけられて、鈴花は文字通り飛び上がった。
「夏々地さん!? あ……、おはようございます。こ、こんな格好ですみません……」
いちおう浴衣は直したものの髪はボサボサだ。
今更取り繕っても見られたものは取り消せない。見苦しい姿を見せたと謝れば、夏々地は気にしていないというように小さく笑う。
「帰るにしてもこの雨では無理だねえ。やっぱり君はここにいるべきなんだよ」
「それは……」
言い淀みつつ、鈴花は庭をを見やった。
土砂降りと言って差し支えない雨足だ。滝に似た音を立てて地面に叩きつける雨は、水しぶきであたりをくすませる。
昨日の夕方は黒々としたシルエットを見せていた山々は霧の奥に隠れ、風に揺れていた庭木は大粒の雨を受けてその身を激しく揺らしている。
何の用意もせずに外へ出れば、一瞬でずぶ濡れになるだろう。
足の指は固定してもらったため痛みを感じないし、歩けるとは思うが……。
視界不良な中、見知らぬ山道を歩くのは正直なところものすごく嫌だ。
「でも、これ以上夏々地さんにご迷惑をかけるわけには……」
「昨夜僕が言ったこと、君は信じてくれなかったの? 酷いなあ。迷惑なんかじゃないし、僕は君にいてほしい」
微笑に隠れて彼の本心が見えない。
困惑していると不意に手首を掴まれた。
驚いて顔を上げると、彼の顔が予想以上に近い。
「ほら、あんまり端近によると濡れるよ。中へ入ろう」
「え? あ、あの、布団がまだ……」
しきっぱなしだ。しかも、整えてさえいない。さすがにそんなところまで見られるのは恥ずかしすぎる。
だが抵抗しても夏々地の力には勝てず、しぶしぶ室内へ入ると……。
「あれ?」
抜け出したばかりの布団がない。そして布団の代わりと言うわけではないだろうが、和服が一式用意されている。
誰かが畳んでくれたにしても早すぎるのでは? と驚くが、布団が忽然と消えるなんてありえない。
――きっとお手伝いさんが来て畳んでくれたのね。で、私が夏々地さんと喋っていたから黙って着物を置いていってくれたんだわ。
「着替えが終わったら朝食にしよう。昨日、夕食を取った部屋、覚えてる? あそこで待っているよ」
鈴花の手首を離し、夏々地はすぐに部屋を出て行こうとする。
名残り惜しい気がして、「あの!」ととっさに声をかけてしまった。
「どうしたの?」
聞かれて一瞬答えに窮したが、次の瞬間大事なことに思い至った。
「こんなに素敵な着物、私が着るわけにはいきません」
「そんな大層なものじゃないよ。遠慮なく着て」
「実はもう一つ問題がありまして……。私、一人では着物が着られません」
「なんだ、そんなこと? 青に手伝わせよう。――青、いるかい?」
夏々地が虚空に向かって声をかけると、「ここに」と手短な返事が隣室から上がった。
スッと音もなく襖が開き、昨日見かけた女性の姿が見えた。
「着替えを手伝ってあげて」
「かしこまりました。では、涼様は……」
「うん。退散するよ。じゃあ、鈴花、あとでね」
あとに残された鈴花は、青になんと声をかけていいのか分からず、所在なさげに立ち尽くした。
青は「失礼します」と一声かけて部屋に入ると、庭に面した障子を閉め、着替えの準備を始めた。
「あの、お世話になります」
「いいえ、どういたしまして」
青は顔を上げてにっこり微笑んだ。
初めて見た笑顔は美しくて、同性の鈴花さえドキッとするほど妖艶だった。
これほど綺麗な女性がそばにいて、夏々地は何とも思わないのだろうかと不思議になる。
――美貌の人はそれほど他人の美醜に頓着しないのかな? だから私なんかにあんな……。
昨夜のキスを思い出しそうになり、鈴花は慌てて首を振った。
「鈴花様、どうかいたしました? お顔が赤いようですが、暑いですか?」
「何でもないです! 暑くないです! 大丈夫です!」
答える声がうわずってしまう。
「お可愛らしい方」
青は袖で口元を隠すと、楽しそうに微笑んだ。
「涼様が夢中になるわけですわ。鈴花様は真っ直ぐな方とお見受けいたしました」
「真面目すぎる、とは言われます。褒め言葉じゃないですけれど」
「あら。真面目なのは立派な長所ですわ」
面と向かって褒められると気恥ずかしくなってくる。
怜悧な美貌の青はきっと口数も少ないのだろうと勝手に思い込んでいたが、鈴花の予想に反して彼女は手とともに口も動かす。
「鈴花様は涼様のことをどう思われます?」
「……親切で優しい方だと思います」
「まあ。では嫌ってはいらっしゃいませんのね?」
こくりと頷くと、青は「よかったわぁ」と嬉しげにため息を零した。
「涼様はあの通り飄々とした方でいらっしゃるので、鈴花様のようにしっかりしたお嬢様と結ばれるのが一番だと常々思っておりましたの」
そう早口で告げると、「よかった、本当によかったわぁ」と独り言を呟いている。
何やら誤解をされてしまったようだが、口下手の鈴花では夏々地の立場を貶めず、上手く正しい状況を伝える言葉が見つからなかった。
「あの……その……」
「ちょっと嫉妬深いかもしれませんが、そこは我々の性なので諦めてくださいましね」
「性……?」
鸚鵡返しに聞いても、青はニコニコと笑うだけだ。
――青さんと夏々地さんは親戚なのかな? だから似てるとか?
「さあできましたよ。お綺麗ですわ。せっかくですから髪も結いましょうか」
青は返事を待たずに鈴花を座らせると、どこからか取り出した櫛で鈴花の髪を梳った。
準備ができた鈴花は、青の先導で夏々地の待つ広間へやって来た。
昨夜も通ったはずの廊下だが、夜と昼ではずいぶんと雰囲気が違って見えた。豪華なことに変わりはないが、知らない道を歩いているように錯覚する。
「涼様、お待たせいたしました。鈴花様をお連れいたしました」
告げる青の声は、先ほど二人でお喋りをした時よりも心持ち硬い。
「待っていたよ。お入り」
「失礼します」
廊下に控えたままの青のわきを通り抜けて中へ入れば、すぐに背後の障子は閉められた。
何だか退路を断たれた気分になって、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「お待たせしてすみません」
夏々地は窓辺でくつろいでいた。
外を見ていた視線を鈴花へと向けて、満足そうに頷いた。
「やっぱりその着物よく似合ってる」
「ありがとう、ございます……」
他に上手い返しが見つからなくて、鈴花は赤面して俯いた。
そうすると目に飛び込んでくるのは自分が着ている着物だ。
ごく淡い水色――青白磁に、笹の意匠が描かれた小紋。白地に淡い色で蝶と花が刺繍された帯。帯締めと帯揚げは薄紫。全体的に淡い色で纏められている。
――こんなに可愛い色合いが似合うわけないわ。お世辞よ。
と、卑屈な思考が頭をよぎった。
――夏々地さんはお世辞が上手いから、信じちゃダメ。
改めてそう思わないと気持ちがぐらぐらと揺れてしまいそうで、鈴花はぎゅっと拳を握った。
「雨が止んだら……お暇しますね」
「それは、昨夜の返事と捉えていいのかな?」
こくりと鈴花が頷くと、夏々地は笑みを消して立ち上がった。
「じゃあ、雨は止ませない」
「え?」
「それならずっとここにいるだろう?」
彼の言っている意味が分からず、ぽかんとした顔で夏々地を見つめる。
「それどういうことですか?」
「ここは僕の縄張りだからね。多少の無理は利かせられるさ」
答えを求めたのに、ますます意味が分からない。
「君が『うん』と言うまでこの屋敷に閉じ込めるってこと」
そう告げる夏々地の虹彩が、不意に赤く染まった。そして瞳孔が人にはあり得ないほど縦長に割れる。
「あ……なに……?」
「逃がさない。帰らせない。絶対に」
夏々地の眼光の鋭さに、鈴花の身が強ばった。
逃げだそうと思っても足がピクリとも動かなかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように。
その代わり、腰が抜けたのかその場にぺたりと座り込む。
夏々地はそんな鈴花の傍らに膝をつくと、震える彼女の顎を掬って上向かせた。
「だってさぁ……君ほど良い匂いさせてる子とは出会ったことがないもの。一目惚れするしか……ないじゃないか」
「匂い……?」
「そう、甘くて美味しそうな匂い」
うっとりと呟くと夏々地は鈴花を押し倒した。
空気が動き、青い畳の香りが一段と強く漂った。
覆い被さった夏々地は鈴花をさも愛おしそうに眺めるが、瞳の奥には情欲なのか、言うことをきかない彼女に対する怒りなのか、炎のような激しさを灯している。
明らかに人外の目だというのに、鈴花は一瞬全てを忘れて魅入られた。
「君こそ僕の花嫁だ。絶対に手放したくない」
うっそりと呟く彼の声に、ハッと我に返った。
「ど、退いて……!」
藻掻いても男の力は強く、逃げ出すことはおろか身動きさえままならない。
「退け? 残念ながらそれはできない相談だよ。――そんな不安そうな顔、しなくていい。なにも君を捕って食おうってわけじゃない。ただ、僕の気持ちを知ってほしいだけ。怖がらないで」
「や……」
何とか逃げようと闇雲に足をばたつかせたせいで、裾が酷くめくれ上がっている。
露わになった鈴花の足を、夏々地の手がするすると這い上がる。
その手つきは蛇が獲物を狙う姿にもよく似ていた。
「君を見つけた時には驚いたよ。こんなに芳しい匂いをさせながら、無防備に一人で歩いて……危ないったらなかった。あんまり君が美味しそうだから、誰かが仕組んだ罠なんじゃないかと疑ったよ……ははっ」
夏々地の言葉は興奮に掠れている。
冷静さを欠くほど自分を欲してくれているのか……と、奇妙な感情が湧いてくる。
――私、何を考えているの!? 無理矢理押し倒されたのに!
そう思うそばから、求められることに胸がときめいてしまう。
二つの異なる思考に混乱する鈴花をよそに、夏々地はうっとりと酔ったような顔で鈴花の首筋に顔を埋めた。
「はぁ……、……ああ……本当に……良い、匂いだ……頭の芯が痺れるくらい甘くて、官能的で、僕の……あやかしの性を否応なく引きずり出す香り……はぁ……たまらない」
首筋に舌を這わせながら、夏々地は感極まったように呟く。
濡れた舌と、彼の吐息が肌をくすぐり、鈴花は小さな声を上げて身悶えた。
「あ……っ、やあ……やだ」
声に甘いものが混じっている。それを夏々地も察知したのか、やめるどころかますます肌に舌を這わせた。
ただ首筋を舐められているだけなのに、腰のあたりに甘い疼きが芽生える。どうしたらいいのか分からず、鈴花は涙ぐんだ。
「やめて、夏々地さん……どうしてこんなこと……」
「こんなことになりたくなかったのなら、君はもっと慎重に行動すべきだったね。山になんか足を踏み入れるべきじゃなかったんだ。迂闊に足を踏み入れるから……だから僕なんかに捕まっちゃうんだよ」
「え……?」
「君を迷わせたのは僕だよ。ひと目見て君がほしくなった。だから僕の里へ誘い込んだ。――他の誰にも奪われないように、ね」
道に迷ったのは夏々地の仕業。
そんなことただの人間にできるはずがない。
『僕の里』ってなに?
夏々地の言葉は疑問しか残さない。
「あなたは……誰、なの……?」
抵抗するよりも好奇心が勝り、思わず疑問が口を突く。
すると夏々地も手を緩め、首筋から顔を上げた。赤い唇が唾液で濡れ、それをより赤い舌が拭う様は酷く官能的だった。
「君が『うん』と言ってくれさえしたら、もっと時間をかけて僕が何か教えるつもりだったけど……ここで強引に奪うなら今教えてあげたほうが君のためかな?」
赤い目が爛々と光る。獲物を追い詰めた捕食者の残酷さで。
「僕はね、人が蛇神と呼ぶもの。この山を統べるあやかしだ」
「嘘……」
嘘ではないという代わりか、夏々地の頬の一部に、真っ白い鱗がゆっくりと現れた。
「本当のことだよ。君は蛇神の花嫁に選ばれてしまったんだよ。可哀想だけど決して人里には帰してあげない。蛇はね、嫉妬深くて執念深いんだ。片時だって君を離すものか」
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