死神様の恋愛マニュアル

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4.不穏な影⑤

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 自宅に着いて、佐丸はようやく安心したらしい。ベッドに横になると、大きく息を吐き出した。腕で顔を隠しながら

「……レイヴン、さっきはごめん。ありがとな」

 掠れた声で呟く。レイヴンはベッドに近付き、佐丸の頭に触れてみる。嫌がらないことを確認して、そっと頭を撫でてみた。慰める時に人間がよくやる仕草だと学んでいたが、撫でているうちに佐丸の呼吸が落ち着いてくる。
 佐丸がいつもの呼吸を取り戻したことを確認して、レイヴンはあの場所で一つ気になったことを尋ねてみる。                       

「……佐丸は、なぜあの男に謝ったんだ?」

 まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。レイヴンの問いかけに、佐丸は唇を噛み締めた。答えたくないのだろうと思ったが、それでも聞かなければいけないような気がしたのだ。
 人間は、気持ちを吐き出すことで心の整理を付ける生き物だ。今の佐丸には、心の整理が必要だと感じた。

「あんな乱暴に扱われてたのに。なぜだ?」  
「……だって俺が、約束を守らなかったから」

 もう一度尋ねられて、佐丸は仕方なく口を開いた。その声は、鹿瀬が悪いとは微塵も思っていない。約束を守らなかった自分が悪い。本気でそう思っているようだった。 

「約束?」
「あいつに呼ばれたら、目を見て話すって……」

 当然のように口にする佐丸に、レイヴンは違和感を覚える。これではまるで、洗脳だ。

「だが、もう別れていたんだろう。別れたのなら他人だ」
「……そ、それは……そうだけど」

 事実を指摘すると、佐丸は少しうろたえたようだった。別れた今も鹿瀬の言葉に縛られている自分がおかしいなど、思いつきもしなかったのだろう。
 レイヴンは佐丸の腕を持ち上げて顔を覗き込む。戸惑い、迷子のように揺れる瞳がレイヴンを見つめる。 

「なら謝る必要なんてない。それに、恋人とはお互いに想い合っている同士のことを言う……と、マニュアルに書いてあった」

 レイヴンは佐丸の瞳を見つめ返し、カフェで読んだ「恋愛心理学」に書いてあった言葉を思い出していた。お互いに想い合う相手を恋人と呼ぶのなら、一方的に支配されて搾取される関係を恋人とは言わないはずだ。別れたのなら尚更、佐丸にとって鹿瀬は恋人でもなんでもない。

「ふ、はは。そんなこと言ったら、僕たちだって恋人じゃないよ」

 だが、佐丸は自虐的に息を吐き出した。

「僕が願って、レイヴンが受け入れて、契約で結ばれただけの関係だ」

 佐丸の空虚な瞳がレイヴンの顔を映しだしている。この関係は契約でしか無く、恋人同士という言葉の寒々しさがこの場を満たしている。
 佐丸の言う通り、自分たちはまだ恋人ではない。昨日偶然に出会って、たかだか短い時間を共に過ごしただけだ。レイヴンも、心から佐丸を愛する気などなかった。死神の大原則がある以上、「人間に恋をしない」というのは人間が呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだった。

 なのに、暗く沈んだ佐丸を見ているとレイヴンの胸が苦しくなる。死神に心臓はないはずなのに、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられる。
 この関係は契約でしかない。互いに了承済みの事実を突きつけられただけなのに、なぜこんなにも苦しくなるのだろう。

 触れてみればわかるのだろうか。
 恋人じゃないというのなら、恋人らしいことをすれば少しはこの気持ちも理解できるのだろうか。
 気付けばレイヴンはベッドに乗り上げ、佐丸の身体を見下ろしていた。二人分の重みで沈んだベッドに、佐丸が乾いた笑みを浮かべる。

「してみる? 恋人らしいこと」
「……しない」

 けれど、佐丸の誘うような視線にレイヴンは冷静さを取り戻したようだった。佐丸の肌を暴こうとした手を引っ込めて、代わりに佐丸の身体を起こすとその背中を抱き締めた。

「今、佐丸とそんなことをしても恋人にはなれないし、佐丸の願いもきっと叶わない」
「願いなんて……」

 レイヴンに抱き締められて、佐丸は困惑した。
 死ぬならちゃんと恋をして死にたい。
 こんな曖昧で抽象的な願いを、自分の魂を欲しがる死神がまともに取り合ってくれるなんて思っていなかった。半分は死神を困らせるための方便で、もう半分は月に吠える狼のような、届かないものを希う気持ちで言い放った願いだった。

 叶えてくれるなんて期待していないし、叶うとも思っていない。
 だけどレイヴンの言葉は、そんな佐丸の願いを叶えようとしてくれているように聞こえる。
 願いなんて叶うわけない――そう言いかけた言葉を、佐丸は静かに飲み込む。そして言葉の代わりに、レイヴンの背中に腕を回すのだった。
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