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1巻

1-2

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「う……」
「目を覚ましたのか? 頼む、起きてくれ!」

 ぴくぴくと少女のまぶた痙攣けいれんする。やがて、彼女の身体が大きく震え始めた。

「う……ぁ、さ……」
「寒いのか! 少しだけ待ってくれ」

 ルシアンはわずかに少女から身体を離した。
 たき火に木を追加して火の勢いを強める。
 人の姿よりもオオカミの方が温めやすいのではないかと気づいて、一瞬で獣形じゅうけいに姿を変えた。
 少女を抱き寄せ、柔らかな白銀の毛皮で包み込む。

「ん……」

 いつの間にか彼女の身体の震えが治まっていた。呼吸も脈拍も正常に近い。彼女の白い裸身がうっすらとバラ色に染まり始めていた。
 つがいのキスで、彼女の命を留めることができたのだ。

(もう、大丈夫だ……!)

 ルシアンの胸に歓喜がこみ上げる。

「ん……ふ」

 目をつぶったままの少女が、ルシアンの毛皮に顔をうずめ、頬をすり寄せてくる。
 ルシアンはつがいに求められる喜びに打ち震えた。幼い彼女の仕草が、かわいくて仕方がない。
 彼女の温もりに喜びをみしめていると、彼女の長いまつ毛が震えて、ゆっくりと目が開いた。
 大きな緑色の目がまんまるに見開かれる。

(ああ、なんと綺麗な瞳だ!)

 ルシアンはうっとりと彼女の瞳を見つめた。

「ひ! あ……だ……!」

 彼女が驚いて上げた声は、かすれて声になっていない。

「落チ着ケ。無理ニ話ソウトシナクテイイ。オレハるしあん。おおかみノ獣人ダ。海岸ニ倒レテイタおまえヲ見ツケテココヘ運ンダ。身体ガ冷エテイタカラ、服ヲ脱ガセテ温メテイタ」
「は……だか……」

 彼女の瞳がこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた。
 彼女の瞳に宿やどった恐怖を一刻も早く取り去ってやりたくて、ルシアンは必死に説明した。

不埒ふらちナ真似ハシテイナイト誓ウ! アノママ濡レタ服ヲ着テイタラ、ズット体温ヲ奪ワレタママダッタ。緊急事態ダッタンダ」

 強張こわばっていた彼女の身体から力が抜ける。
 少女は複雑そうな表情を浮かべながらも、黙ってゆっくりとうなずいた。
 どうやら彼女は状況を理解してくれたようで、ルシアンはほっとする。

「俺ハ、水ト食料、ソレカラ着替エヲ調達シテクル。コノママダト寒イシ、ドコヘモ行ケナイカラ」

 彼女のドレスはあちこちが破れてしまっていたから、もう使い物にならない。それに、彼女だけではなく自分の着替えも必要だった。

「スグニ戻ッテクルカラ、ココデ待ッテイロ」

 そう告げて立ち上がろうとしたルシアンの毛皮を、なにかがつんと引っ張る。その気配に驚き、彼は視線を向けた。
 すると、彼女のか細い指がルシアンの毛皮をつかんでいた。

「大丈夫ダ」

 彼女の頬に鼻先を押しつけると、つかんでいた手から力が抜けた。
 それでも彼女の目は不安だと、ここにいてほしいとうったえる。

「スマナイ。スグニ戻ル」

 ルシアンは心を引き裂かれるような気分を味わいながらも、大地を蹴って駆け出した。



   離れがたい温もり


 ブランシュは暗闇のなかにいた。
 どうしてこんな場所にいるのか、さっぱり心当たりがない。

『誰もいないの?』

 自分の手足さえ見えないような真っ暗闇の中で、ブランシュは助けを求めて声を上げた。
 彼女の声にこたえる者はない。
 ブランシュは不意に恐怖に襲われた。
 生まれたときから王族として過ごしてきた彼女にとって、周囲にいつも人の気配があることが当たり前だった。身の回りの世話をする侍女や、護衛を務める者たちの気配。それが息苦しいと感じることもたまにあるけれど、王族である以上、仕方のないことだと諦めはついていた。
 なのに、いまはどれほど声を上げてもこたえはない。これほどの孤独を感じたのは初めてだった。
 ブランシュはおのれの身体を抱きしめた。

『寒い……』

 ひどく寒く、とても息が苦しい。身体はなまりのように重く、移動する元気もなかった。

『ここはどこなの……?』

 ブランシュはふいに意識を失う前に見た光景を思い出す。
 砲弾が爆発する音。大きな水しぶき。そして冷たい海に投げ出された記憶が次々とよみがえる。
 ブランシュは恐怖に身体を震わせた。

『海に投げ出されて、それで……?』

 そのあとの記憶が思い出せない。
 ひとりきりで、こんな寒い場所で死ぬのだろうか。
 そう思ったとき、ブランシュは唇に温もりを感じた。
 柔らかで温かな感触に、ブランシュは大きく目を見開く。息苦しさはいつの間にか消えていた。
 温もりが全身に広がり、動かなかった身体に力がみなぎってくる。
 全身の細胞が生まれ変わったかのように、身体中が歓喜の声を上げている。
 きっと生まれる前に母親のおなかの中にいたとき、こんな気分だったのではないだろうかとブランシュは想像する。
 力強い鼓動が聞こえ、温かく柔らかなものが、ブランシュを包みこんだ。
 柔らかいだけではない弾力があり、お日様のようないい匂いがする。この温もりに包まれていれば、なんの心配もないのだと理由もなく確信できた。
 ブランシュの顔にはいつの間にか笑みが浮かんでいた。
 もう、ひとりぼっちじゃない。
 温もりを手放したくなくて、ブランシュは柔らかなそれに顔をうずめた。
 柔らかで温かな感触を楽しんでいると、唐突に、起きてほしいと懇願こんがんする男性の声が聞こえた。
 とても疲れていて、このまま眠っていたいのに、どうして起きろとせっつくのだろう。
 けれどその声には切羽せっぱまったような焦りが含まれていて、その願いにこたえなければ、ひどく悪いことをしているような気分になる。
 ブランシュはしぶしぶ目を開く。すると視界いっぱいに真っ白な毛皮が広がっていて、固まってしまった。

(これはっ……イヌ? いえ、オオカミ!?)

 自分を抱きしめている温もりの正体に思い至り、ブランシュの思考は一瞬停止した。
 自分の背丈の二、三倍ほどはありそうな大きな身体は、とても美しい白銀色の毛皮に包まれていた。がっしりと筋肉のついた手足は太く、ブランシュなど一撃で吹き飛ばすだろう。
 身体から頭の方へ視線を移動させたブランシュは、吸い込まれそうなほどき通ったアイスブルーの瞳とぶつかった。

(誰?)

 一気に現実に引き戻され、ブランシュはパニックにおちいり、叫んだ。
 けれど彼女の口からこぼれたのは、小さなかすれ声だった。
 落ち着けと、オオカミが人の言葉で彼女をなだめる。

(どうしてオオカミがしゃべってるの!?)

 ブランシュは更なる恐怖におちいった。
 けれど、優しいアイスブルーの眼差まなざしと低く心地よい声に、ブランシュはゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
 オオカミだと思い込んでいたけれど、少し冷静になると、オオカミの獣人なのだと思い至る。ひとまず食べられる心配はなさそうだと、一気に緊張が解けた。
 ひょっとすると自分は目の前の獣人――ルシアンと名乗る人に助けられたのではないだろうか?
 冷静になったブランシュは、ようやく自分の置かれた状況を理解し始めた。けれど、ふと彼の言葉を思い出し、ハッとする。

「――身体ガ冷エテイタカラ、服ヲ脱ガセテ温メテイタ」

 先ほど、彼はなんと言った?
 服を脱がせたと聞こえたような気がする。
 慌てて視線をめぐらせると、確かに彼女はなにひとつ身につけていなかった。

(嘘っ!)

 ブランシュは目をみはった。
 オオカミの獣人は慌てふためき、なにごとかを弁解している。
 その様子から、彼が自分を助けるためにおこなったことだというのはすぐにわかった。ブランシュは一瞬、不埒ふらちな真似をされたのではないかと疑った自分を恥じる。

(ああ、お礼が言いたいのに!)

 言葉をつむごうとするけれどのどがひどく渇いていて、まともに声を発することができない。ブランシュは礼も言えないことをひどく口惜しく思った。
 そうしているうちにルシアンは水や食料が必要だと言い始めた。
 確かに水をもらえればありがたい。けれどそのためには彼はここを離れる必要がある。
 急に先ほどまでの寂寥せきりょうかんがよみがえり、ブランシュは思わず彼の毛皮をつかんだ。

(行かないで! ひとりになるのは嫌!)
「大丈夫ダ」

 彼が自分のために行動しようとしていることはわかっている。それでもこの温もりが離れてしまうことが、ひどく寂しかった。
 ふいに彼の鼻先が、ブランシュの頬をなぞった。
 ブランシュの心臓が大きく脈打ち、彼の毛皮をつかんでいた手から力が抜ける。
 ルシアンは謝罪を口にすると、身体をひるがえした。

(あ、行ってしまう!)

 ブランシュの手が無意識のうちに彼に向かって伸びる。
 けれどルシアンはその手に気づくことなく、あっという間に駆け去ってしまった。
 ブランシュは伸ばした手を引き寄せ、抱え込んだ。
 彼に出会ってからほんの少ししか経っていないのに、離れがたいと感じてしまう。
 これまで感じたことのないおのれの心の動きに、ブランシュは戸惑った。
 自分はこんなに弱い人間だっただろうか。
 ひとりになった途端に、大地が消えてしまったかのような心細さに襲われる。

(ブランシュ、あなたはオルシュの王族よ。落ち着いて状況を整理して、すべきことをなさいと、教えられたでしょう……?)

 自分のあるべき姿を脳裏に思い描き、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
 ブランシュにはようやく、周囲の状況に目を向ける余裕が生まれた。
 横になっている場所が乾いた砂の上であることから、ここが砂浜なのではないかと推測する。
 海の匂いがして、波の音が聞こえるので間違いないだろう。
 すぐ近くでたき火がかれているのに、寒くて仕方がない。
 ブランシュはうようにしてたき火に近づく。
 たき火のそばには、彼が脱がせたというドレスが放り出されていた。生乾きのそれを手に取ると、あちこちがほつれ、ちぎれてしまっている。
 身体のあちこちにもり傷ができていることに気づく。意識するまではそれほどでもなかったのに、意識した途端にずきずきとうずきだす。
 ブランシュは身体を隠すことを諦め、身体を両腕で抱え込んだ。
 いまの彼女にできることはなにもなかった。おのれの置かれた状況を分析するほかにすることもない。
 ここは、どこの海岸なのだろう。最後に確認した時点で、船はグランサムの領海近くに差しかかっていた。だとすれば、ここはグランサムなのかもしれない。
 思い起こしてみれば、ルシアンの言葉にはグランサムのなまりがあったような気がする。

(そうだ……クロエやヴァンたちは無事かしら?)

 随行員や乗組員たち、そしてコンスタンス号の消息が気になった。
 ルシアンは海岸に倒れていた彼女を見つけたと言っていたけれど、ほかに誰もいなかったのだろうか。もし船が大破したとすれば、ブランシュだけではなく乗組員たちも流れ着いているのではないだろうか。次々と心配事が浮かんでくる。

(大丈夫……よね?)

 みんなの消息を確かめるためにも、まずは自分がしっかりとしなければいけない。
 ブランシュは自分がすべきことを考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。


「おい、起きてくれ」

 呼びかけに、ブランシュはハッと目を覚ました。
 どうやら膝を抱え込んだまま眠っていたらしい。顔を上げると声の主が目に入った。
 彼女の視界に飛び込んできたのは、若い男性の獣人の姿だった。
 ブランシュよりも頭二つ分ほどは背が高いだろうか。腰のあたりからは大きなふさふさとした尻尾がのぞいており、白銀色の髪のあいだから二つの三角形の耳がぴんと飛び出している。
 まるで犬のような可愛らしい耳から、ブランシュは目が離せなかった。白い毛皮におおわれ、ぴんと伸びた耳はつややかで、触ってみたい気持ちに駆られる。
 視線を下ろしていくと、彼は精悍せいかんな顔立ちで、男らしい美しさだ。
 彼のき通ったアイスブルーの瞳に既視感を覚え、ブランシュは口を開いた。

「……ッ、ル……?」
(もしかして、ルシアン様?)

 やはり今度もまともに声が出ない。
 けれど彼女の言わんとすることは伝わったらしい。獣人はうなずいて、布のかたまりを差し出してきた。

「ああ。まずはこれを着てくれ」

 ルシアンはブランシュを直視しないように目を伏せている。
 ブランシュは自分がなにも身につけていないことを思い出して、差し出された着替えをひったくるように受け取った。

「あ……と……」

 礼の言葉はやはり声にならなかった。
 ルシアンはすぐにくるりと背を向けて、彼女の姿が視界に入らないように配慮してくれる。
 手渡された布はドレスで、幸いにも誰かの手を借りることなく身につけられる簡素なものだった。
 ブランシュは身体を動かすたびに走るにぶい痛みに四苦八苦しながらも、どうにか服を着る。

「も……」

 ブランシュが声をかけると、ルシアンはすぐに振り向いて水袋を差し出した。

「水だ」

 ブランシュは咄嗟とっさに水袋に飛びつく。のどの渇きはとうに限界に達していた。
 防水性の革で作られた水袋は、漏れないよう飲み口にきつく革ひもが巻き付けられている。
 ブランシュは紐を解こうと爪を立てたが、なかなかほどけない。

「ああ、すまない。ちょっと貸して」

 ルシアンは彼女の手から奪うように水袋を取り上げ、すぐに飲み口を開いてくれた。そして流れるような仕草でブランシュの首のうしろに手を回し、飲み口を彼女の口に押し当てる。
 わずかに口に流れ込んできた水は、まさに甘露かんろだった。
 水はぬるく、かすかに革の匂いがしたけれど、そんなことは全く気にならない。渇いたのどにはこの上なく美味おいしく感じられた。

「慌てて飲んではダメだ。ゆっくりと、少しずつ」

 一気に飲もうとしてむせそうになったブランシュの背中を、ルシアンの手がでる。
 落ち着いた彼の声に、ブランシュの焦りはなだめられた。
 ブランシュは彼の言葉通りに、少しずつ水を口に含んで嚥下えんげする。
 十分にのどうるおしたところで彼女は首をかすかに振って、ルシアンに意思を伝えた。

「ありがとう……ございます」

 ようやくブランシュは感謝を告げることができて、ほっとする。

「もう、いいのか?」
「はい」

 我に返ると、かなりはしたないところを見せてしまった気がする。ブランシュの頬にかっと血がのぼる。

「あの、ルシアン様……ですよね?」
「ああ。遅くなって済まなかった。思ったよりも着替えを手に入れるのに時間がかかってしまってな……。それより、サイズは大丈夫だったか? おまえが着ていたドレスより着心地はおとるだろうが、しばらくはそれで我慢してくれ」
「いいえ、我慢だなんてとんでもありません。サイズもぴったりです。ありがとうございます」

 ブランシュは慌てて彼に頭を下げる。
 お礼をしたいが、いまのブランシュはなにも持っていない。母国の者たちと合流できれば、お礼もできるのに……と、思い至ったところで、ブランシュは乗組員の安否を確認しなければならないことを思い出す。

「あの、私は船に乗っていました。海岸に倒れていたということですが、ほかにはだれもいませんでしたか? 船の残骸ざんがいなどもありませんでしたか?」
「いいや。海岸で見つけたのはおまえだけだ。ほかにはだれもいなかった」

 ルシアンの言葉に、ブランシュの胸に安堵あんどがこみ上げた。
 とりあえず船が難破したという可能性は低い。ならば、皆も無事である可能性が高いだろう。

「それよりも、そろそろおまえの名を教えてもらっていいか?」

 未だに名乗っていなかったと気づき、ブランシュは青ざめる。

「名乗りもせずに申し訳ありません。私は……ブランシュと申します」

 ブランシュは座ったまま、頭を下げて精一杯の礼を示した。自分がオルシュ王国の王女であるブランディーヌ・ロワイエだと身分を明かすか迷ったが、相手の素性がわからないのにそれは不用心だろうと思いなおす。

「ブランシュ……」

 ルシアンは彼女の名を小さくつぶやいた。
 まるで大切な人を呼ぶような甘いささやき声に、ブランシュの胸はざわつく。

「まずは、少し食事をしよう。それから、お互いが知りたいことについて話をしよう」
「……はい」

 見知らぬ土地で、先立つものもなく、ひとりではどうにもできない。ブランシュは自分の無力さを痛感する。
 そのとき、ルシアンがそっとなにかを差し出した。それは手のひらほどの大きさで、丸く、わずかに赤みがかった白色の果物のようだった。

「これはなんでしょう?」

 ブランシュは初めて目にする果物に首をかしげた。

「桃……水蜜桃すいみつとうだ。食べたことがないのか?」
水蜜桃すいみつとう……ですか。初めて見ました」

 ブランシュが知っている桃は、平たくて桃色が濃い。それとはずいぶんと見た目が異なっていた。

「皮をむいてかじるんだ」

 ルシアンは手のなかでくるりと桃を回した。

「か、かじるのですか? 私、切ったものしか食べたことがなくて……」

 これまで直接果物をかじったことのないブランシュは、大いに戸惑う。

「なら、俺が切ってやろう」

 ルシアンは腰のベルトに挟んであったナイフを取り出して、くるりと器用に桃の皮をむいた。そのまま手の上で果肉を一口大の大きさに切ると、つまんでブランシュの前に差し出す。
 彼女は果肉を受け取ろうと両手を伸ばしたが、ルシアンは首を横に振った。

「口を開けて」

 ブランシュは彼の言葉に、ためらいながらも口を開く。
 果肉をつまんだルシアンの指が口元に近づき、彼の手から直接桃を食べることになってしまう。

「ん……ふ」

 口の中に、爽やかな甘みとかすかな酸味が広がった。甘い香りが鼻を抜けていく。
 これほど美味おいしい桃は食べたことがない。
 あまりの美味おいしさに、ブランシュは思わず彼の指についていた果汁をめとった。

美味おいしいか?」
「はい」

 嬉しそうにほほ笑む彼の表情に、ブランシュの胸が高鳴る。
 同時に、またもやはしたないことをしてしまったと気づいて、彼女の頬が羞恥しゅうちに染まった。

「あの……、自分で食べられます」
「果汁で手が汚れるから、俺が食べさせてやる。ほら」
「あ……」

 その桃の美味おいしさは、すでに知っている。再び差し出された果肉を拒むすべは彼女にはなかった。
 桃ひとつを完食するまで彼の行為は続き、その頃にはブランシュのお腹はいっぱいになっていた。
 ブランシュは結局すべて食べさせてもらったことが恥ずかしくて、彼とまともに目を合わせることができない。
 そんな彼女には全く気づいていない様子で、ルシアンは調達してきた荷物を整理する。そして寝袋を地面に敷いて、その上に彼女を横たえさせると、甲斐甲斐かいがいしく毛布をかけた。

「疲れているだろう。横になったほうがいい」

 全身がだるく、にぶい痛みを感じていたブランシュは、大人しく彼の言うことにしたがう。
 ルシアンはたき火にまきを追加し、彼女のすぐ隣に腰を下ろしたところで口を開いた。

「じゃあ、まず俺がおまえを見つけたときの状況を話そうか」
「はい、お願いします」

 ブランシュは真剣なおもちでうなずいた。

「まず、ここはグランサム王国南部の国境近くだ。マートンの街はわかるか?」
「はい」

 ブランシュたちはマートンを目指していたので、街の名前はわかった。

「ここはマートンよりさらに南に位置する海岸だ。今日の明け方近くに、おまえを海岸で発見したんだ。船から落ちたと言っていたな?」
「ええ」
「周囲にはほかに人の気配はないし、見たところ、船の残骸ざんがいは打ち上げられていない。おまえの乗っていた船はどこへ向かっていた?」

 ブランシュは一瞬、返事に詰まった。それを話すことは、自分の素性を明かすことと同義だ。ここがどこなのかもわからず、彼が敵か味方かもわからない。
 けれども彼は誰とも知れぬブランシュを救ってくれた命の恩人。ならば彼に対して誠実であるべきだろう。
 ブランシュは正直に自分の身分を告げることを決意した。

「私は……オルシュの王女です。ブランディーヌ・ロワイエ……ブランシュと申します。父から半年間の外遊を命じられ、いくつかの国を訪ねました。船はジェノバ王国の港を出て、マートンに向かっているところでした」
「おまえは、王女……だったのか」

 ルシアンは目を大きく見開き、彼女を凝視ぎょうしする。

「はい」

 ブランシュが目を伏せると、なぜかルシアンは笑みをこぼす。

「俺もおまえと同じだ。フランシス・ルシアン・ラ・フォルジュ。グランサム国王の弟だ」
「グランサム国王の弟君……」

 ブランシュは思いがけない告白に、呆然ぼうぜんと彼を見上げた。
 周囲の国々の王族については、予備知識として名前くらいは知っていた。けれど、自分が見知らぬ国でその国の王族に助けられるなどと、全く予想していなかった。

「確か数日後にオルシュの船がマートンの港に到着するという話は聞いた気がする。それで、どうして船から落ちたんだ? ここのところ、海は荒れていなかったはずだが」
「はい。海は静かなものでした。航海は順調だったのですが、もう少しでグランサムの領海というところで、何者かの攻撃を受けました。おそらく私は砲撃が着弾した衝撃で、海に投げ出されてしまったのだと思います」
「よく無事でいてくれた。だが、変だな……。この付近に他国の船を襲うような海賊がいるという話は聞いたことがない。領海内での攻撃となれば、が国の問題でもある。敵の姿は見なかったのか?」

 襲われた状況を思い出すと、恐怖がこみ上げてくる。ブランシュは胸を押さえた。

「いいえ、残念ながら」

 そして首を横に振り、深く息を吸い込んで落ち着いてから、再び口を開く。

「夜ということもあって、襲ってきた船の姿は見えませんでした。明かりもともされていませんでしたし……。改めて、お礼を申し上げさせてください。きっとあなたがいなければ、私は死んでいたでしょう」

 ブランシュはきちんと頭を下げるために起き上がろうとしたが、ルシアンに制された。

「いい。寝ていろ。どちらにしても礼には及ばないさ。つがいを助けるのは当たり前のことだ」
つがい……ですか?」

 耳慣れない言葉にブランシュは首をかしげる。

「まさか、つがいを知らないのか?」

 ルシアンは目を大きく見開いた。

「はい。聞いたことがあるような気はするのですが……。不勉強で申し訳ありません」

 おのれの至らなさに、ブランシュは情けなくなってくる。


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