獣人殿下は番の姫を閉じ込めたい

文月 蓮

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1巻

1-1

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   夜の海


 オルシュ王国の末姫であるブランディーヌ・ロワイエ――ブランシュは、船の上から夜の海を眺めていた。
 昼間は穏やかな海も、夜になるとその表情を一変させる。
 ブランシュは真っ暗な夜の海に、どこまでも沈んでしまいそうな恐怖を感じた。
 夜空には道しるべとなる幾多いくたの星がまたたいている。ふくらんで満月に近づいていく月の姿は、いまは雲に隠れて見ることができない。
 星の輝きが船を目的地へ導いているはずなのに、ブランシュはなんとも言いようのない胸騒ぎを覚えていた。
 オルシュ王国の王族として生まれたブランシュは、半年ほど前に成人として認められる十八歳に達した。そして半年ほどかけた外遊に出されたのだ。
 近隣の国々との親睦を深めるための外遊は、王族として重要な役割を果たす初めての機会であった。
 彼女の母国であるオルシュ王国は、『唯人ただびと』の王が治める地だ。この世界において、他の種族の血が混じっていない純血の人族は『唯人ただびと』と呼ばれる。
 周囲の国のほとんどはけものの血が流れる獣人が治めており、唯人ただびとが治める国はとても珍しい。というのも、この世界では各国で実に様々な種族の者たちが暮らすからだ。唯人ただびとの治める地でも唯人ただびとと多くの獣人が生活しており、それは他国でも同様である。すなわち、各国の王はそれぞれの地であらゆる種族をまとめあげているのだ。
 高い身体能力を誇る獣人は、そのすぐれた能力で大陸の覇者はしゃとなったが、一方で繁殖力の低さに悩まされてきた。そんな獣人たちが目をつけたのは、高い身体能力を持たない代わりに、強い繁殖力を持つ唯人ただびとである。唯人ただびと伴侶はんりょにすることで、その血を繋いでいこうとしたのだ。こうして、唯人ただびとも獣人も平和裏に繁栄してきた。
 様々な獣人の暮らす広大な大陸は、地図で見たときに西側が大きくくぼんでいる。このくぼみの中央あたりに浮かんでいるのがオルシュ王国だ。
 四方を海に囲まれているため、近隣の諸国を訪ねるとなると、必然的に船旅となる。そういうわけでブランシュはいま、船に乗っているのだ。
 ブランシュが乗船しているコンスタンス号は、オルシュ王家が所有する船で、三本の帆柱マストを持つ最新型の帆船はんせんである。
 旅程は前半の予定――南のトゥアーク王国、東のジェノバ王国の訪問を終えたところだ。いまは次なる目的地である北東のグランサム王国へ向かっている。
 天候はよく、あと数日もすればグランサム第二の港街マートンに到着するはずだ。
 航海は順調で、歴訪した国々との間にも外交上の懸念はない。
 それでもブランシュは嫌な予感を振り払えずにいた。

「姫様、風が冷たくなってまいりました。そろそろお部屋へ戻りませんか?」

 すぐそばに控えていた侍女のクロエが、ブランシュに声をかけてくる。

「そうですね」

 ゆったりとい上げられたブランシュの柔らかな茶色の髪を、夜風がでた。
 最上甲板かんぱんの縁の手すりにかけていた手を離し、ブランシュはクロエを振り返る。
 すでに夕食を終えて、あとは寝室で休むだけだ。ゆったりとした部屋着に着替えていたブランシュは、風に舞い上がった薄手のドレスのすそを押さえた。

(胸がドキドキする……)

 先ほどから幾度となく感じる胸騒ぎに、ブランシュは首をかしげる。
 そのとき、ふいに大きな破裂音が夜のしじまを引き裂いた。同時に船が大きく揺れる。
 体感したことのない揺れに、ブランシュは大きくよろめく。

「姫様っ!」

 ブランシュの護衛を務めるヴァンが駆け寄り、倒れそうになった彼女を支えた。
 猫の血を引く獣人であるクロエは甲板かんぱんに転がったが、すばやい身のこなしで起き上がる。彼女の三角の耳はぴんと立ち上がり、警戒を示す。
 ブランシュはヴァンに支えられながら、マストの中ほどを見上げた。


 マストの中ほどにある檣楼トップという半円型の物見台には、見張りが立っている。揺れる檣楼トップの上で、見張りが前方を示し、大声で叫んだ。

「敵襲! 敵襲だっ!」

 早鐘はやがねが打ち鳴らされ、船員たちがばたばたと甲板かんぱんの上を走り回る。
 かがり火の数が増やされ、コンスタンス号は一気に喧騒に包まれた。
 けわしい表情で周囲を見回したヴァンは、ブランシュに声をかける。

「すぐに部屋へ!」
「はいっ!」

 ブランシュはクロエと共に走り出した。
 まずはブランシュが身の安全を確保しなければ、乗組員たちも安心して役割を果たすことができない。ブランシュは、周囲に目を配りつつ船室を目指す。
 目をらしてみるが、敵の船は灯火ともしびをつけていないようで、船影すら見えない。
 そのあいだも、大きな砲撃音と水音がなんども聞こえた。どうやら敵は砲撃を繰り返しているらしい。
 その音が響くたびにクロエがビクリと飛び上がる。
 ヴァンに先導されつつ、ブランシュは慎重に甲板かんぱんを進んだ。

「姫様、お早く中へ!」
「ええ」

 ブランシュは歩きながら、いったい誰がこんなまねをするのだろうと考えていた。
 オルシュの旗を掲げて航行する船を襲うほど緊張状態にある国は、いまのところないはずだ。だとすれば、海賊かもしれない。けれど、これほど大きな船を襲うような大胆な海賊がいるとしたら、ちまたで噂になっているはず。しかしそんな話は耳にしたことがない。
 ブランシュは必死に思案をめぐらせる。
 そのとき、すぐ近くでなにかがヒューンとくうを切る音がした。

「姫様っ!!」

 クロエとヴァンのするどい叫び声と同時に、ブランシュは背中に衝撃を感じて宙に投げ出された。
 ふわりと浮き上がるような嫌な感覚がして、次の瞬間、海面にたたきつけられる。
 衝撃の所為せいで息ができない。
 頭がぼうっとして、視界が闇に包まれる。波の音と砲撃の音、誰かの叫び声が、遠くに聞こえる。

(クロエ、ヴァン、ごめんなさい)

 ブランシュの意識は、真っ暗な海の中に呑み込まれていった。




   運命の呼び声


 ――つがい
 それは獣人にとって、たましいの半身とでも言うべき引力でもって、きつけられる相手のことを指す。
 獣人のするどい感覚でしかとらえることができず、出会った瞬間に香りで気づくのだという。つがい同士にだけ感じることのできる香りは非常にかぐわしく、相手を魅了みりょうするらしい。
 しかし、すべての獣人がつがいめぐり合えるわけではない。どの種族の獣人もつがいを求めてやまないが、つがいが見つかること自体がまれである。
 獣人たちのあいだではつがいめぐり合えることは奇跡だと憧憬しょうけいをこめて語られる。
 オオカミの獣人が治めるグランサム。この国の王弟であるルシアンも、多くの獣人の例に漏れず、ずっとおのれつがいを探していた。
 けれど家族以上に大切だと思える人には、いまだ出会えていない。
 もちろん国民は大事だし、守るべきれであることは承知している。しかしそれだけでは、ルシアンの胸に巣食う虚無きょむ感を打ち消すことはできなかった。
 おのれのすべてをささげるような恋がしたい。きっとその相手はつがいしかいない。
 成長するにつれて、ルシアンはいつしかそう考えるようになっていった。
 王位を継ぎ、忙しくしている兄には申し訳ないが、幸いにも自分は王弟という比較的自由な立場だ。その立場を利用して、なんどかつがい探しの旅に出た。
 国中くにじゅうめぐってみたけれど、未だにつがいを見つけることができていない。時折ふらりと市井しせいに現れる王弟の姿を、グランサムの国民は『またルシアン様の嫁探しが始まったか』と温かい目で見守っていた。
 ルシアンは自室のテラスに立ち、夜空を見上げる。
 月が雲で隠れた夜空は、星の輝きばかりで物寂しく感じてしまう。

(このまま、俺のつがいは見つからないのか……?)

 ルシアンが成人してから十年ほどの年月が過ぎても、いまだつがいは見つかっていない。そろそろつがい探しの放浪も潮時かもしれないと、弱気になる。
 つがいさえ見つかれば、この胸にある空虚くうきょを埋めてくれるだろうに、その気配は感じられない。

(もう、この国の中には俺のつがいはいないのかもしれない)

 獣人は同じ種族の相手を求めるのが一般的である。他のけものの血を取り入れ、獣人の特徴――獣相じゅうそうが混じることを嫌うためだ。
 獣相じゅうそうが混じらないためには、同じオオカミの獣人を探さなければならない。ルシアンの知るつがいの夫婦は、ほとんどが同じ種族同士。しかし、時には例外があり、他の種族の中からつがいが見つかることもあるという。ただ、いずれにせよ国内は十分探しつくした。となると、ルシアンのつがいは国外にいるのかもしれない。
 しかし、王弟であるルシアンが軽々しく国を出るわけにはいかない。ルシアンは自分の願いと義務の狭間はざま葛藤かっとうしていた。

「どこにいる? 俺の……つがい

 つぶやいたルシアンの声にこたえるかのように、星がまたたいた。
 突如とつじょとしてルシアンは、ある場所に行かなければならないという焦燥しょうそうに駆られた。
 これまでに感じたことのない強い焦りだ。

(南だ……)

 それは、ルシアンの本能に呼びかけてくるような衝動だった。
 ルシアンは躊躇ちゅうちょなく服の腰帯を外した。素早く寝間着を脱ぎ捨て、テラスの床に落とす。
 一糸まとわぬ姿となったルシアンは、膝をつき、つんいになって低くうめいた。

「……っぐ」

 ルシアンの手足がみるみるうちに白い毛皮に包まれていく。
 とがった耳はより大きく、尾骶びていのあたりのふさふさとした尻尾は更に伸びていく。
 ほんの一呼吸のあいだに、ルシアンの姿は人からオオカミのものへと変じていた。
 完全なけものの姿――獣形じゅうけいを取ることができるのは、王族のように力が強い者のみだ。
 オオカミの姿でも、瞳の色は人の姿をとっているときと同じアイスブルー。銀色に輝く髪はそのまま全身をおおう毛皮に変化している。
 ルシアン自身は、人形ひとがたであろうが獣形じゅうけいであろうがさほど変わりはないと思っているが、周囲に言わせると獣形じゅうけいだと近寄りがたいらしい。
 確かに獣形じゅうけいでは人形ひとがたよりもひと回り以上身体が大きくなる。必要な筋肉だけがついた、しなやかな四肢ししつややかな銀色の毛皮をまとった姿は、オオカミの獣人の中でもまれなほど力強い美しさに満ちていた。
 ルシアンは空に向かって大きくえた。

「ウオオオォーーン!」
(俺はここだ!)

 この時、ルシアンは気づいた。この焦燥しょうそうかん、衝動は、つがいが呼んでいるからに違いないと。
 つがいの無言の呼びかけに、ルシアンは遠吠とおぼえでこたえた。
 だがその遠吠とおぼえに応じる声はない。
 ルシアンは本能に導かれるまま、テラスから跳躍した。三階分の高さを飛び降り、危なげなく着地する。
 そして兄である王に向け、出かけてくるとひとえした。

「ウオォーーン!」

 ルシアンはすぐさま駆け出す。
 王城の広い庭を駆け抜け、取り囲む城壁をひと跳びで越える。
 そのとき、オオーン、という兄の呆れたような遠吠とおぼえが聞こえた。

(兄さん、すまんな)

 つがいを見つけたあかつきには、きっと埋め合わせをすると心の中で誓い、ルシアンは人通りの少ない夜の城下街を一気に駆け抜ける。
 疾走しっそうするけものを見て、すれ違う人々は目をみはった。けれど銀色のオオカミが王弟だとわかると、黙って道をけてくれる。
 毛皮におおわれた四肢ししは力強く大地を蹴って、景色はあっという間にうしろへ流れる。
 最低限の休憩をはさみつつ、ルシアンは全力で走り続けた。
 国を横断するトレント川を越え、南の海岸線付近に位置する港街マートンも通り過ぎる。このまま南下すれば、ロア公国との国境にぶつかるというところで、ようやくつがいの気配を感じた。
 だがそれは力なく、いまにも消えてしまいそうだ。
 ルシアンがゆっくりと速度を落とし、足を止めたのは、国境手前の海岸だった。
 水平線が暁色ぎょうしょくに染まり始めている。
 早く、早く、とかす本能の声に耳を傾けつつも、慎重に浜辺を進んだ。あたりに人の気配はないが、確かにルシアンの本能は近くだとうったえていた。
 ふと、これまでいだことのない、花のような香りが鼻をかすめた。
 一晩中駆け続けた疲れなど吹き飛んでしまうほど、素晴らしいかぐわしさだ。

(ああ、これがつがいの香りなのか!)

 月光の下でひっそりと咲く白い花に似たかすかな甘さと、深い森の奥に湧く静かな泉のごとく静謐せいひつでひんやりとした香気。それらが入り混じり、ルシアンの胸を騒がせる。
 興奮して速くなる鼓動をなだめながら、彼は匂いをたどってふらふらと進む。まるで光に引き寄せられる羽虫のように、ルシアンはひくひくと鼻をうごめかせて砂浜を進んだ。

(どこだ! どこにいる?)

 海岸に倒れ伏す人影らしきものを見つけた瞬間、ルシアンは息を呑んだ。
 そして、恐ろしいほどの勢いで心臓が脈打ち始める。
 大きく跳躍して人影に近づくと、薄いドレスをまとった少女が浜辺に打ち上げられていた。
 ブラウンの髪は柔らかそうだったが、いまは海水で濡れそぼっており、いくらか頬に張りついている。目は閉じていて、どんな瞳の色なのか残念ながらわからない。小さな唇は可愛らしく、口づけたくなる。
 しかし、なんといってもルシアンをきつけたのはその香りだった。
 一斉に花のつぼみが開いたかのように、甘く爽やかな芳香が立ちのぼる。

(見つけた! 俺の伴侶はんりょ! 俺の、唯一!)

 全身を歓喜が包み込む。心臓が壊れてしまいそうなほど速く脈打ち、血潮ちしおがたぎる。そばにいるだけで、欠けていたなにかが満たされるような存在が、いま目の前にいる。
 この気持ちをなんと言っていいのかわからない。出会ったばかりだというのに、自分でも恐ろしいほどの執着を感じていた。
 薄いドレスのすそからのぞく足は細く、き通るような白い肌はぞっとするほど青ざめている。
 ルシアンは少女の口元に顔を近づけ、一気に冷静になった。
 少女の呼吸は弱々しく、いまにも止まってしまいそうだ。

「オイ! 大丈夫カ!」

 ルシアンは呼びかけるが、少女はぐったりとしたまま意識を失っている。鼻先を頬に押しつけてみても、反応がない。
 ルシアンは慌てた。オオカミの姿では彼女を抱き上げることもできないと気づき、慌てて人形ひとがたへ変じた。

「起きろ! 起きてくれ!」

 少女の肩や頬を軽く叩いて、意識を取り戻させようとする。彼女の身体はぞっとするほど冷たい。
 このままでは危険だと判断したルシアンは、少女の身体に腕を回し、抱き上げた。
 意識のない身体は運びにくいが、獣人であるルシアンにとってはたやすいことだ。
 素早くあたりを見回すが、建物らしきものはない。しかし波打ち際から少し離れた場所に切り立った断崖があり、その根元に洞窟どうくつが見えた。
 あそこならば風を避けることくらいはできるだろうと、ルシアンは彼女を抱き上げたまま慎重に、けれどできる限り急いで運んだ。そして洞窟どうくつに足を踏み入れる。
 洞窟どうくつはそれほど深くなく、ほかに生き物のいる気配はない。地面には、たき火をした痕跡があり、火打金ひうちがねが砂に埋もれていた。
 火があればどうにかなりそうだと、ルシアンはわずかに安堵あんどする。
 そして、乾いた砂の上に少女を横たえた。その身体は変わらず冷たい。
 長いあいだ水にかっていると、低体温症という状態になるらしい。最初は全身が震え、呼吸が速くなるが、その段階を過ぎると今度は逆にほとんど動かなくなり、呼吸の数が減って、意識もなくなっていくという。
 おそらく症状がずいぶん進んでしまっている状態なのではないだろうか。だとすれば、まずは身体を温めなければいけないはずだ。
 ルシアンは記憶の底から対処法を掘り起こす。
 彼女のドレスは、水に濡れて身体に張り付いてしまっている。このままでは更に体温を奪うだろう。
 助けるためなのだと言い訳をしながら、ルシアンは彼女の服を脱がせる。

「くそっ!」

 張り付いた服はひどく脱がせにくい。
 焦るおのれをなだめながら、ルシアンはどうにか少女の服を取り去った。
 あらわになった彼女の手足には、ところどころ赤いり傷ができている。
 その痛々しさにルシアンは眉をひそめた。
 意識を取り戻す気配のないつがいのことが心配でたまらない。
 一刻も早く彼女の身体を温めようと、ルシアンは火をおこそうと考えた。
 幸いにもまきとなりそうな乾いた木が海岸には散乱していた。
 大急ぎで木を集めて洞窟どうくつに戻り、散らばっていた石を並べ、かまどを作る。集めた小枝と木を積み上げ、落ちていた火打金ひうちがねで火をつけた。
 気がくあまり、いつもより少し手間取りつつも、どうにか火をおこすことができた。
 それでも彼女の身体を温めるには足りない。
 ルシアンは意を決し、横たわる彼女の隣にみずからの身体を添わせた。少しでも体温を伝えようと、少女の身体を抱え込む。
 オオカミの姿から人に戻ったばかりで、なにも身につけていないルシアンの素肌と少女の素肌が触れ合った。
 そんな状況でも、触れ合う少女の肌の心地よさに全身がそう毛立けだつ。彼女の身体から立ちのぼる甘いつがいの香りがルシアンの鼻をくすぐった。うっとりと、いつまでもいでいたくなるような香りに包まれて、彼女を抱きしめる腕に力がこもった。
 腕の中の身体は頼りなく、いまにも折れてしまいそうだ。
 彼女のすらりと伸びた手足や、小ぶりながらも柔らかく形のいい胸のふくらみ、股のあいだの淡い茂みに気を引かれる。一方で、その身体の冷たさに、見つけたばかりのつがいを失ってしまうのではないかという恐怖がルシアンの胸にこみ上げた。
 きっと普段は美しくつややかであろう唇も、いまはすっかり血の気を失っている。

「頼む、目を開けてくれ! 俺はおまえの名前もまだ知らない。その目を開いて、おまえの瞳の色を教えてくれ……」

 祈るように彼女を抱きしめ、声をかける。
 けれど腕の中の身体はぴくりとも動かない。
 このままでは彼女は助からないかもしれない。けれどこれ以上、ルシアンにできることはない。ルシアンは少女を抱きしめながら考えた。彼女はどうしてあんなところに倒れていたのだろうか。
 彼女のドレスはシンプルなデザインではあったが、とても質がよく、庶民が買えるようなものではない。
 おそらく彼女の身分はかなり高い。
 船から落ちたのか、あるいは海岸で足を滑らせて海に落ちたのか。海岸には彼女のほかに打ち上げられた人影や船の残骸ざんがいらしきものはなかったので、船が難破した可能性は低いだろう。
 いずれにせよルシアンのつがいが彼女だとわかったいま、彼女を手放すつもりはなかった。
 そのためにも、一刻も早く彼女の無事を確認したい。

(どうすればいい? どうすればおまえを助けられる?)

 付近の住民を探し、医者を呼ぼうか? しかし、自分が離れているあいだに彼女になにかが起こってしまったらと考えると、そばを離れることはできなかった。
 なんの進展もないまま時間が過ぎ、洞窟どうくつの中に朝日が差し込み始めても、彼女の体温は低いままだ。
 ルシアンは最後の手段を取ることを決意した。
 それはつがいのキス――獣人の強靭きょうじんな生命力を分け与えることで、たとえ死にひんしていても回復することができるというものだ。
 ただし、つがいのあいだでしか使えず、命を分け与えた際、互いに相手の体質に引きずられることがある。
 どう見ても少女に獣相じゅうそうはなく、種族を判別できるような匂いもしない。
 彼女は唯人ただびとに違いない。
 ルシアンは、おのれつがい唯人ただびとであったことに少なからず驚いていた。異なる種族の獣人がつがいだったという話は聞いたことがあるが、唯人ただびとつがいに持った者の話は聞いたことがない。
 唯人ただびとけものの本能が薄い。つがいのキスが彼女に対して有効なのかもわからない。下手へたをすればルシアンの方が彼女に引きずられて、命を縮める可能性すらあった。
 それでも、現時点でほかに方法はない。
 ルシアンは深く息を吸って気持ちを落ち着ける。

「勝手なことをしてすまない。もしおまえが助かったら、文句はあとでいくらでも聞く。だからいまは、意識のないおまえに勝手に口づけることを許せ」

 ルシアンは意識のない少女にささやき、ゆっくりと顔を近づけた。おのれの生命力を活性化させながら、そっと唇を重ねる。
 触れた彼女の唇は柔らかかった。しかし、やはり冷たい。
 次は意識がある状態で、こんな差し迫った理由からではなく、つがいとして口づけがしたい。
 彼女のあごをつかんで口を開かせると、ルシアンは一気に生命力を流し込んだ。
 全身から力が抜けていく。これが生命力を分け与えるということなのだと、ルシアンは身をもって感じていた。身体が泥のように重くなり、これまで感じたことがないほどの疲労が全身を包む。
 それでも、つがいを助けるためならばどうということはない。少女が感じている辛さを少しでも軽減できているのであれば、むしろ本望だ。
 ルシアンは自身の不調を無視して、少女に生命力を与え続ける。
 すると、少女の顔色が少しずつよくなってきた。触れる肌もわずかながら温まっている。
 時間にすればほんの数分のことだった。自分の鼓動が常よりも遅くなっていると感じたルシアンは、これ以上はおのれの身体が限界だと判断し、ゆっくりと唇を離した。
 見下ろした彼女の顔色は、キスの効果によって先ほどよりもずいぶんよくなっている。
 ルシアンはだるい身体を動かし、彼女の胸に耳を押し当てた。
 あれほど弱々しかった鼓動が、しっかりと規則正しく脈打っている。呼吸も先ほどより多くなっていた。
 押しつぶされそうな不安が若干じゃっかんやわらいだ。

「なあ、起きてくれ。俺の命、俺のつがい。目を開けて生きているのだと、証明してくれ……」

 ルシアンは腕の中の少女に懇願こんがんする。
 そのとき、彼女の身体がわずかに動いた。
 息を呑んで見守っていると、かすかなうめき声が彼女の口から漏れる。

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