獣人殿下は番の姫を閉じ込めたい

文月 蓮

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1巻

1-3

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 自分は勉学に励み、王族として恥ずかしくないだけの知識を身につけていると思っていた。けれども外遊の旅に出てみると、それは錯覚だったと思い知る。世界は大きく、自分の足りないところに気づかされてばかりだった。
 そして至らぬブランシュを助けてくれる随行員たちともはぐれてしまったいま、彼女ひとりにできることなどほとんどない。不安がどっと押し寄せてくる。
 ルシアンのいうつがいという言葉は、獣人にとっての伴侶はんりょという意味だったように思うが、さだかではない。けれども彼の態度からすると、知っていて当然のことらしい。

(私は知らないことばかり)

 ブランシュは感情を隠すように目を伏せた。

「いや、唯人ただびとであれば知らないのも無理はない。獣人は、たましい伴侶はんりょがわかるんだ。……相手の匂いで」

 ルシアンのアイスブルーの瞳がギラリと光った。

たましいの……伴侶はんりょ、ですか?」

 ただの伴侶はんりょではなく、『たましい』のというからには特別な関係なのだろう。
 ブランシュは初めて聞いた言葉に注意深く耳を傾けた。

「そう、一生をかけた運命の相手のことをつがいという。我々獣人はつがいに出会うとその香りに心を奪われ、姿に目を奪われる。俺は一目見たときにわかった。おまえは俺のつがいだと」

 ルシアンの大きな手が伸びてきて、彼女の髪をそっとでる。ブランシュはその心地よさに思わず目をつぶった。

「俺がおまえを見つけたとき、死にかけていた。身体は冷たくなって、鼓動も弱かった。どれほど温めてもよくなる気配がなくて、生きた心地がしなかった」

 ブランシュは困惑した。つがいだと告げられたことも、自分が死にかけていたことも、どちらも唐突すぎてうまく理解できない。
 そんななかでも、彼の手の感触は心地よくていつまでも触れていてほしいと思った。
 出会ったばかりだというのに、彼に触れられても嫌悪は湧かず、むしろそばにいることが自然な気さえする。
 ブランシュは初めての感情に戸惑う。

「だからおまえにキスをした。つがいにしか使えない、命を分け与えるキスだ」
「命を分け与える……」

 ブランシュは呆然ぼうぜんと彼の言葉を繰り返した。

「そのキスのおかげで……私は助かったのですか?」
「ああ、そうだろう」

 彼がいなければきっと自分は死んでいたに違いない。命を分け与えるキスというのがどういったものなのかはよくわからないが、彼に命を救われたことは事実だろう。
 ブランシュは改めてルシアンに頭を下げ、最大限の敬意と感謝を示す。

「本当に、ありがとうございました」
「おまえの命が失われなくてよかった。海水をほとんど飲んでいなかったし、きっと海に落ちたときにすぐ気を失ったのが幸いしたのだろう。ようやく見つけたつがいをこんなところで失うわけにはいかないからな」

 ルシアンは愛しげに目を細め、うっとりとした表情で彼女を見つめている。
 そのなまめかしい表情に、ブランシュの胸がざわめいた。

(そんなふうに見つめないで。勘違いしてしまう)

 出会ったばかりなのに、どうして彼はつがいだと確信できるのだろう。獣人ではない自分には、彼のいう匂いはわからなかった。確かに初めて目にした彼のオオカミの姿には目を奪われてしまったけれど、一目ぼれのようなものではなく、命の危機を感じたほどだ。
 いずれにせよ、彼には礼をしなくてはならない。しかしきっとルシアンは、金品で礼を示されることを望まないだろう。

「命を助けていただいたことについては、どれほど言葉を尽くしても足りません。金品で感謝の意が伝わるなら差し上げます。ですが、あなたがそのようなものを求めるとは思えません。どのようなことをすればお礼になるのか……」
「おまえは俺のつがいだ。礼などいらない。俺はもうおまえを離すつもりはないのだから。グランサムの王弟ならばオルシュの王女の結婚相手として、不足はないはずだ。――それとも、もしかしてもう恋人か伴侶はんりょがいるのか?」

 ルシアンは目をけわしく細めて彼女に詰め寄り、急に雰囲気が荒々しくなった。
 その変化があまりに急で、ブランシュは戸惑う。
 伸ばされた手に恐怖を感じ、ブランシュは思わず叫んだ。

「い、いえ……私には恋人も伴侶はんりょもいません!」

 ブランシュの言葉に、ルシアンはほっとため息をつき、伸ばしかけていた手を下ろす。
 剣呑けんのんな空気が霧散むさんし、ブランシュも息を吐いた。

「――ですが、いきなりつがいだ、結婚相手だと言われても……。私はそもそもつがいがどういうものなのか、よくわかっていません」
「そのうち、わかる」

 ルシアンは自信に満ちた表情で宣言する。
 唐突につがいだと宣言されても、すぐにそうですかと受け入れることなどできない。
 好意を寄せてくれることは嬉しいが、あまり彼に気を許しすぎてはいけないと、ブランシュはみずからをいましめた。
 ブランシュの身は彼女ひとりのものではない。国民のために使われるべきで、そのために外遊に出ているのだ。

「私を助けてくださったことについては、どれほど言葉を尽くしても伝え切れないほどの恩を感じています。けれど、私はまず、共に船に乗っていた者たちの無事を確かめなければなりません。それに……私は与えられた使命を果たし、国に戻らねばなりません」

 ルシアンが命を救った対価として婚姻を求めるならば、彼女の一存では決められない。すべてはオルシュ王とグランサム王が決めることだ。
 ブランシュはじっとルシアンの返答を待った。

「ならば、俺を連れていけ」
「は?」

 ブランシュは一瞬彼の言葉の意味が理解できず――いな、理解したくなかったのかもしれない。少々間の抜けた表情で問い返した。

「おまえの王族としての責務はわからないでもない。だが、一度つがいと出会ってしまえば、離れることなどできはしない。おまえが俺を連れていくというのなら、手助けだってしてやれる」
「ですが、命を助けていただいた上に、国に戻る手伝いまでしていただくなんて……、少し……いえ、かなり厚かましいお願いでしょう」
「だが、おまえひとりで国の者と合流できるのか? 見知らぬ土地で、先立つものもなく?」
「……そうですね」

 確かに彼の言う通りだった。
 ブランシュはしばし、逡巡しゅんじゅんする。彼女の持つ手札はないに等しい。だとすれば返事は決まっていた。

「大変申し訳ないのですが、お力添えをいただけますか?」
「当たり前だ。つがいを助けるのが伴侶はんりょの役目だからな」

 ルシアンは満足そうに笑った。

「ではつがいについては、保留ということにしていただけますか。国の者と合流できれば、お礼もできるでしょう。どうかそのときまで、お願いいたします」
「まあ、それについてはおいおい、だな。どのみち王族としても、国賓こくひんが困っているのだ。できうる限りの助力を約束しよう。まずは情報収集するのがいいだろう。寄港予定の船が到着しているかどうかくらいは、わかるはずだ」
「はい、どうかよろしくお願いいたします」

 ブランシュはルシアンに向かって深く頭を下げようとした――が、制止される。

「契約のしるしだ」

 目の前に彼の顔が近づいてきたと思ったら、ひたいにキスを受けていた。

(え、ちょっと待って、え、どうして?)

 ブランシュはパニックにおちいり、まともに返事ができない。

「あ……、わ、わ、え……と」

 一気に顔が火照ほてり、自分でも真っ赤になっているのがわかる。
 ルシアンと出会ってからブランシュの調子は狂いっぱなしだ。
 少しでも距離を置こうと気持ちを引き締めているつもりなのに、気がつくと彼がそばにいることが当たり前のように感じている。これがつがいということなのだろうか。
 考えてもわからないことが多すぎる。

「まずはゆっくりと身体を休めることだ。つがいのキスを使ったとはいえ、疲れまではいやせない」
「そうなんですね。そう言われてみると少し疲れたような気がします……」

 ふいにブランシュはどっと疲れを感じた。全身が重く、指先を動かすのも億劫おっくうになる。
 彼の手が彼女のひたいに伸びた。わずかに冷たい大きな手がひたいに触れて、熱を確かめている。

「やはり熱が出てきたようだ。もう少し休んでおけ」
「すみません」

 彼の手が心地よくて、ブランシュは目を閉じる。彼の言うとおり、かなり疲れているようだ。

「俺も一晩駆け通しで疲れた。隣で休ませてもらおう」

 ルシアンは宣言すると、ブランシュが口を挟むもなく、隣に身体を横たえた。
 寝袋をへだてているとはいえ、異性と一緒に眠るのは抵抗がある。少し離れてほしいが、疲れている彼にそんなお願いをするのは、わがままだろうか。

「襲うつもりなら、とっくに襲っている。心配せずに身体を休ませることだけを考えていればいい」

 ブランシュの戸惑いをそっくり言い当てられて、彼女は頬を赤らめた。

「なにもしない。ただ眠るだけだ」

 優しい声がブランシュの背後から聞こえた。

「……おやすみなさい」
「おやすみ。俺のつがい

 ブランシュの意識はすぐに眠りに引き込まれていった。



   旅の始まり


 翌朝、目覚めたブランシュは、すっかり体調がよくなっていた。寝袋から抜け出して、身体の状態を確認する。あちこちにあったり傷にはもう薄皮が張っている。
 少々治りが早すぎるように思えて、ブランシュは首をかしげた。

「ああ、それはつがいのキスによるものだな」

 隣で目覚めたルシアンが、大きなあくびをしながら教えてくれた。
 彼には心を読む力があるのだろうか。疑問に思っていたことをズバリと言い当てられて驚きつつ、ブランシュはルシアンに詰め寄った。

「そんな効果が?」
「あのキスは伴侶はんりょの生命力を分け与えるもの。その際、互いの体質が影響し合うことがある」

 獣人の回復力がこれほどなのだとすれば、すごいの一言に尽きる。しかし――

「ルシアン様の命をいただいてしまったなんて……私はどのように恩を返せばいいのですか?」
「その必要はないと言わなかったか? おまえは俺のつがいだ。つがいを助けるのは当たり前だと言っただろう?」
「でも……」

 つがいというだけで命を分け与えるのが普通のことなのか、ブランシュには判断がつかない。

「それほど言うのなら、俺と結婚すればいい。ブランシュを俺だけのものにさせてもらえたら、それだけで大満足だ」
「それは私の一存では決められないと申し上げました」

 したたかなルシアンの態度に、ブランシュは苦笑した。

「ああ、知っている。だからいまはそばにいるだけでいい。ところでブランシュ、一つ提案があるのだが」
「なんでしょう?」

 ブランシュはルシアンの顔を見上げた。

「おまえの安全を確保できるまで、しばらく身分を伏せておきたいが、構わないか?」
「それは構いませんが……、どうしてですか?」
「おまえの船を狙った相手が気になる。相手の目的は不明だが、もしかするとブランシュを探しているかもしれない」
「そういうことならば当分のあいだ、私の素性は伏せておいた方がよさそうですね」
「ああ。そうだな……おまえはオルシュから来た物見遊山ものみゆさんの貴族の子女、俺はおまえの護衛ということでどうだろうか?」

 彼の目がいたずらっぽくきらめいた。面白いことを考えついたという顔をしている。

「それならば、不自然ではなさそうですね。ですが、ルシアン様は王族として顔が知られているのではありませんか?」
「確かに顔は知られているが、獣人は相手を認識する際、まずは獣相じゅうそう――耳や尻尾を見る。マントとフードでそれを隠せばなんとかなるだろう」
「そうなのですか……」

 ブランシュは身を守るために必要なことだと割り切って、彼の言葉に素直にしたがうことにした。

「じゃあ、俺のことは呼び捨てにしてほしい。それから口調も、もっとくだけた方がいいな」

 確かに護衛を様付けで呼ぶのはおかしい。

「ルシ……アン」
「もう一度」
「……ルシアン」

 目を細めるルシアンの表情が嬉しそうで、ブランシュの胸はどきりと高鳴る。

「なら、俺はおまえのことを様付けで呼んだほうがいいか? ブランシュ様?」

 ルシアンの口調と表情は完全に彼女をからかうものだった。呼び方を改めただけなのに、ずいぶんと距離を置かれたようで、少し寂しく感じてしまう。
 呼び名がこれほど相手との距離を変えてしまうものだとは思わなかった。

「……二人きりのときは、呼び捨てでお願いできますか?」
「わかったよ。ブランシュ」

 彼が自分の名前を呼ぶ声が思いのほか甘く響いて、ブランシュは頬が熱くなる。

「はい」
(なんだか、調子が狂ってしまう……。ダメよ、冷静に、冷静に)

 彼の前だと、王族として身につけた立ち振る舞いが、どこかへ飛んで行ってしまう。
 ブランシュは必死におのれの心をいましめた。

「おまえのことは俺が命に代えても守る。護衛として扱ってくれて構わない。互いの役割についても、じきに慣れるだろう」

 こうして、ルシアンはブランシュの護衛として、ブランシュは外国の貴族の子女としてマートンの街を目指し、旅立つこととなった。

「よし、その前に朝食にするか」

 ルシアンが荷物から取り出したのは、水蜜桃すいみつとうだった。

「今日中にマートンまで行くのは難しいが、どこか街には着けるだろう。そうしたら、もう少しきちんとした食事ができると思う。今朝はこれで我慢してくれ」
「食べられるだけでありがたいです。不満なんて!」

 恐縮するブランシュに、ルシアンがほほ笑みかける。

「なら、よかった」

 ルシアンは昨日と同様に素早く桃の皮をむき、切り分けた欠片かけらを差し出した。

「もう身体はすっかりよくなりました。食べさせてもらう必要は……」
「手が果汁で汚れるだろう」
「でも……」

 ルシアンは、ブランシュの手が汚れるからと言って渡そうとしない。
 仕方なくブランシュは羞恥しゅうちをこらえて、口を開く。

「それでいい」

 ルシアンは満足そうに目を細め、彼女の口元に桃を運んだ。
 ブランシュが桃を咀嚼そしゃくしたのを確認して、彼も桃を口にする。
 桃を食べ終えるころには、ブランシュはだいぶ気力を使い果たしていた。
 それでもどうにかおのれふるい立たせ、たき火を消して、移動の準備をする。
 ブランシュは気がついてから初めて、洞窟どうくつの外に足を踏み出した。砂浜の先には、なだらかな丘が続いている。
 空は青く、とても天気がいい。太陽はすでに高くのぼっており、思っていたよりも時間が過ぎている。
 洞窟どうくつから出たルシアンは、マントを着込んでフードをかぶり、荷物の詰まったかばんを背中にかついだ。

「私も持ちます」
「俺とおまえでは体力が違いすぎる。このくらい、俺には大して重くない。おまえは気にせず歩くことだけに集中していればいい」
「わかりました。がんばってみます」
「歩くだけなのに、がんばらなければならないのか?」

 ブランシュにとっては、移動といえば馬車が当たり前。長距離を歩いたことがないので、正直どうなるかはやってみなければわからない。

「普段は歩いて移動ということがほとんどなかったので……」

 申し訳なさそうに告げるブランシュに、ルシアンはバツが悪そうに後頭部に手を伸ばした。

「すまない。俺を基準に考えていた」

 白銀色の尻尾も頼りなげに揺れている。
 聞けば、けものの血を引く獣人の場合は、馬車に乗るよりも自分で走ったほうが速いのだという。そのため、馬車に乗って移動する習慣がないらしい。

「いいえ。私の方こそすみません」
「馬車は、マートンまで行かないと手に入らないな……。近場で農場を探せば、馬くらいは見つかるかもしれない。だが、借りられるかどうか……。おそらく歩いてマートンまで行くのが現実的だ」

 ルシアンの気遣いに、ブランシュの心は温かくなる。

「大丈夫です、歩きます。何事も経験ですから!」

 ブランシュは元気よく宣言した。

「辛くなる前にちゃんと言えよ?」
「はい」

 優しいルシアンに、ブランシュは笑みを返して歩き始めた。
 このまま海岸線を北上していけばマートンに着くらしい。けれど、せっかくの機会だから内陸部を案内したいというルシアンの希望により、内陸を進むことになった。
 なだらかな丘陵きゅうりょうが続き、畑や放牧地が広がっている。
 牧草地で初めて羊に出会ったブランシュは、まっしぐらに羊に近づいた。羊は真っ黒な顔をしていて、体全体がもこもことした毛におおわれている。
 柔らかそうな毛に触れてみたい。でも、逃げたり、嫌がって暴れたりするかもしれないと思うと、ブランシュはなかなか踏ん切りがつかなかった。

「触ればいいだろう?」
「でも……」

 なかなか手を出そうとしないブランシュにしびれを切らして、ルシアンは彼女の手を掴むと強引に羊に触れさせた。
 思っていたよりも羊はおとなしく、全く抵抗しない。

「わ……柔らかい、けど、意外と硬いような?」

 羊の毛は、見た目よりも弾力があり、面白い感触をしていた。
 戸惑うブランシュを、ルシアンは楽しげに見つめる。彼の尻尾はぴんと立ち上がり、こちらに興味を示していた。ふさふさとしたその尻尾に触れたくてうずうずしたが、さすがに不遠慮すぎるだろう。
 その代わりブランシュは、ふと思い浮かんだ疑問を口にした。

「そういえば、ルシアンの種族はオオカミなんですよね? 似た特徴を持つ他の種族をどうやって見分けているのですか? 種族による違いが大きいから一概には言えないと習ったのですが……」

 同じ質問を侍女のクロエにもしたことがある。猫獣人の場合は主に匂いで見分けているそうだが、オオカミ獣人はどうなのだろう。

「俺たちの場合は匂いだ。獣人にとって匂いはかなり重要な判断材料になる。たぶんおまえよりも数倍、いや数十倍は鼻が利くぞ?」
「なるほど……」

 ルシアンはくわっと口を大きく開いて、あくびをした。

(なんだか、ちょっとかわいく見える……)

 そんな会話を交わしつつ、少々寄り道もしながら、ふたりはマートンに向かってひたすら歩いた。
 そしていくつかの小さな村や町を通り過ぎ、気づけばわずかに日が傾き始めていた。

「暗くなる前に、あのあたりで宿やどを取ろうと思うが、いいな?」

 ルシアンが前方に見える街を指し示した。
 ブランシュは内心、助かったと安堵あんどする。歩き続けた足が棒になり、痛みをうったえていた。限界とまではいかないが、かなり疲れている。
 けれどルシアンに多大な迷惑をかけているので、疲れたと言って彼をわずらわせたくなくて、泣き言を言わずにここまで来たのだ。

「ええ。護衛であるあなたの判断にしたがいます」

 ブランシュはルシアンの提案にうなずいた。よほどのことがない限り、明かりのない夜に進む旅人はいない。ゆっくりと宿やどで休息をとり、明日の移動に備える方が賢明だろう。
 街に入ると、酒場や商店が立ち並ぶ通りを過ぎて、ルシアンは一軒の建物の前で足を止めた。扉の上には、立ち上がった熊の絵の横に金熊亭きんくまていと書かれた看板が下がっている。
 石造りの二階建ての建物の横には、屋根のついた厩舎うまやがあり、馬車も停められるようになっていた。

「ここだ」

 ブランシュには、ルシアンがどのような基準で宿やどを選んでいるのかがわからない。反対する理由もなく、宿屋やどやの扉をくぐったルシアンのあとに続いた。
 内部は一階が食堂、二階が客室になっているようだ。ルシアンは迷いのない足取りで奥へ進んでいく。すると、女将おかみらしき人物が、厨房ちゅうぼうの奥から前掛けで手を拭きつつ出てきた。

「料理かい、それとも泊まりかい?」
「泊まりだ。部屋はいているか?」
「個室は残り一つと、大部屋がいてるよ。個室ならふたりで銀貨八枚、大部屋なら三枚だ」
「では、個室を頼む。それから夕食も」
「食事は別料金だよ。湯は食事中に用意をしておくからね」
「わかった」

 ルシアンは返事をすると、さっさと代金を支払う。
 ブランシュはルシアンに負担をかけてばかりで申し訳なくなるが、彼は気にする様子もなく女将おかみから鍵を受け取った。

「ブランシュ様、どうぞ」

 ルシアンは、護衛らしい態度で彼女を二階へとうながす。ブランシュは客室に向かいながら、宿やどの内部に視線をめぐらせた。
 食堂となっている一階には、テーブルがいくつかと、カウンターが並んでいる。食事だけでも利用できるらしく、食堂はにぎわっていた。
 ぎしぎしときしむ階段をのぼりきると、廊下をはさんで扉が向かい合っている。大部屋の大きな扉の反対側には、個室の小さな扉が四つ。ルシアンは小さな扉の一つを開けて、部屋の中に入った。
 部屋の中央にベッドが二つ置かれていて、ほかには小さなテーブルセットと荷物をしまうための、小ぶりなクローゼットがあるくらいだった。
 ブランシュは公務で地方を訪れたこともあるが、その土地を治める貴族のやかたに泊まることがほとんどで、宿やどに泊まるのは初めてだ。
 ルシアンにうながされ、二つ並んだベッドのうちの一方の上に腰を下ろした。そして、ぐるりと室内を見回す。
 建物自体は古めかしいが、室内は清潔だった。ベッドの上にはキルティングのカバーがかけられ、カバーの下のシーツもパリッとのりがきいている。
 部屋は少し狭いけれど、眠るだけなら十分。
 ふと隣に視線を向けると、ルシアンがもう一つのベッドに荷物を下ろしていた。

「同じ部屋に泊まるのですか?」

 ルシアンと同室なのだと気づき、ブランシュは戸惑う。

「個室にきがなかったからな。仮にいていたとしても部屋を分けると護衛に支障が出るし、周囲にあやしまれる。同じ部屋で我慢してくれ」
「……わかりました」


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