2 / 51
大嫌いな父からの呼び出し
しおりを挟む
そもそもレティシアがヴィラール卿の結婚相手として彼に対峙する破目になったのは、父から呼び出しがきっかけだった。
「いま、なんと?」
レティシアは低く抑制した声を発し、フードの下から父を睨みつけた。父が発した言葉の意味は理解できたが、信じたくなくてもう一度尋ねる。
大きな応接机を挟んで深く椅子に腰を下ろした父――オルレーヌ公爵は、悠然とした態度を崩さない。
「私の娘は少々耳が遠いようだ。同じ事をなんども言いたくはないのだがな……」
公爵は深いため息をつき、椅子から立ち上がると、窓辺に移動した。そして、窓に顔を向けたままもう一度口を開いた。
「結婚しろ。さもなくば、おまえの研究所に対する資金援助を打ち切る……と、言ったのだ」
「公爵ともあろうお方が、国家の予算を私するのですか?」
レティシアの視界が怒りで真っ赤に染まる。
それでも長年培った鉄壁の仮面のおかげで、嫌いな父の前で感情をあらわにすることは避けられた。
そもそもレティシアは目の前の人物を父などと呼びたくなどなかった。
公爵はレティシアにとって生物学上の父ではあるが、母とのあいだに婚姻関係は存在していない。つまるところ、レティシアの母は愛人という存在であった。
父の公式な妻は有力な侯爵家の令嬢で、ふたりの結婚は典型的な政略結婚であった。
父と公爵夫人とのあいだに子はなく、レティシアの母とのあいだに生まれた娘――つまりレティシアしかいない。
どうして父が妻とのあいだに子を作らず、愛人にレティシアを産ませたのか、レティシアにはわからないままだ。
この国の法律では婚外子が爵位を継ぐことを認めていない。
母が亡き後もレティシアが公爵家に引き取られることはなく、ずっと全寮制の学校で暮らしてきた。学校を卒業し、研究所に勤め始めてからは一人暮らしだ。
こうして公爵家の屋敷を訪れたのも、レティシアには初めてのことだ。
「目的のためならば手段は問わぬ」
冷酷な公爵の宣言に、レティシアはギリリと奥歯を噛みしめた。
呼び出された瞬間から感じていたいやな予感が、現実のものとなった瞬間だった。
レティシアが生まれたロワール王国は、魔法大国として周囲に知られている。その中でも、彼女が籍を置くベルクール魔法研究所は、王立研究所に次ぐ規模を誇る研究所であった。そして、ベルクール魔法研究所は国から多くの資金を得て運営されている。
財務大臣としての地位を持つ父の手にかかれば、補助金を打ち切ることなど容易いだろう。そして父が宣言を実行に移すだけの力を持っていることをレティシアは知っていた。
「そうまでして、私を結婚させたいお相手というのは、いったいどこのどなたですか?」
レティシアは喚きだしたくなる気持ちをどうにか堪え、公爵の背中を睨みつける。
「ヴィラール侯爵だ」
レティシアの脳裏には、かつて遠くから見かけた侯爵の姿が思い浮かんだ。
侯爵位を継承したばかりのヴィラール侯爵は端整な顔立ちをしており、社交界の人気者だ。二十代の半ばで結婚する者が多い中、二十代後半に差し掛かってもいまだ独身で、国王陛下からの覚えもめでたく、結婚相手を探す独身女性たちにとっては垂涎の的となっている。
しかも浮ついた話をほとんど聞かないので、その点も女性たちからの人気が高い理由となっていた。
「あの方であれば相手に困ることはないでしょうに……」
レティシアは内心で首を傾げる。
庶子でしかないレティシアと、将来有望なヴィラール侯爵が結婚する利点が見つからない。
「あちらには陛下から話がいっているだろう」
レティシアの疑問など見透かしたように、公爵が振り向く。
国王からの声かかりと聞いて、レティシアは目を瞠った。
国王から持ちかけられた話となれば、それはもはや命令に近い。
レティシアはこの縁談が覆らないことを痛感した。
「おまえは頑張り過ぎたのだよ。その功績が国王の耳に入り、手の内に囲いたいと思わせるほどに」
「……っ」
レティシアは鋭く息を呑んだ。
大嫌いな父から逃れようと、がむしゃらに研究に打ち込んできた結果、レティシアは厳しい試験を突破し、王国の中でもかなりの魔法の使い手でなければ与えられない『魔導士』の資格を得ている。
父の影響下から抜け出すために、努力を重ねてきた結果が、父に命じられた政略結婚であるのならば、なんとも皮肉な結果だと笑いたくなる。
「まずは来月に婚約式を行い、それから結婚となる。いいな?」
「……はい」
研究所に対する援助を盾に取られてしまえば、レティシアは父の命令にうなずくほかない。
「結婚に必要な準備は全てこちらで調える。話は以上だ」
公爵は鋭い眼光でレティシアを見つめていた。
彼の視線から逃れるように、レティシアは目を伏せ、呟く。
「……承知しました。ご用があれば研究所のほうにお願いします」
「わかっている」
レティシアは無言で軽く頭を下げた。
けれどフードの下のブルーグレーの瞳には、このままでは済まさないという、反骨の強い意思が宿っていた。
そのまま無言で公爵の執務室を出る。
すると扉のすぐ脇に、公爵家の執事が気配を感じさせずに立っていたことに気づく。
「……なにか?」
頭をうしろに撫でつけ、お仕着せに身を包んだ壮年の執事は恭しくレティシアに向かって頭を下げた。
「奥様がお呼びです」
公爵家における奥様――つまり公爵夫人が、妾の子であるレティシアを呼んでいる。
嫌な予感しかしなかった。
「……私が奥様にお話するようなことはありませんが」
「お客様にはなくとも、奥様にはご用がおありなのです。よろしいですね?」
問いかけの形こそ取ってはいるものの、レティシアが執事の言葉に、ひいては公爵夫人に逆らうことなどあり得ないとでも言いたげな態度で、執事は廊下を進み始める。
レティシアはため息を口の中でかみ殺し、ゆっくりと執事のあとに続いた。
彼女が案内されたのは、明るい太陽の光が降り注ぐガラス張りのテラスだった。
あちらこちらに珍しい植物の鉢植えが配置されている。これほどの植物を揃えるには、さぞやお金がかかったことだろう。
季節は初冬に差し掛かろうとしているが、テラスの中はほんのりと温かい。
レティシアは改めて公爵家の経済力に舌を巻いた。
執事が足を止めたのはテラスの真ん中に設えられた白いガーデンテーブルとチェアの前だった。
そこには豪奢なドレスを身にまとった婦人が座っていた。
――あれが、公爵夫人。
執事は公爵夫人の前で優美な仕草で頭を下げる。
「お客様をお連れいたしました」
「下がっていいわ」
公爵夫人は手を振って、執事を下がらせる。
レティシアはフードの下から彼女の顔をじっとうかがった。
皺はなく、とても父親と同世代とは思えない。肌はぬけるように白く、とても美しい。ピンク色の爪先は美しく磨かれていて、丁寧に手入れがされている。
自分の荒れた指先とは大違いだと、レティシアはどこか現実離れした感想を抱いた。
「あなたが、あの下賎な女の娘なのね」
公爵夫人は無機質な水色の瞳でレティシアを睨んでいた。
彼女にとって、レティシアは夫の不貞の証である。
その娘にも良い感情を抱いていないであろうことは想像していたが、ここまであからさまに敵意を見せられるとは思っていなかった。
できるなら侯爵夫人とは係わり合いになりたくなかった。こうして呼び出されなければ、会うこともなかったはずだ。
レティシアは深く息を吸って気持ちを落ち着け、高貴な女性に対する礼をとる。そして、感情を極力排した口調で問いかけた。
「公爵夫人が、私になんのご用でしょう?」
挑発に乗らなかったレティシアに、公爵夫人は一瞬、目を吊り上げた。が、すぐにニヤリと笑みを浮かべる。
「あのひとから縁談について聞いたのかしら?」
「……はい」
レティシアは肯定だけを返した。
「ヴィラール侯爵が望んでの縁談ではないことは、知っている?」
満足そうな彼女の表情に、レティシアの胸に不快感が込み上げる。
「存じませんでした。が、政略結婚とは、えてしてそういうものでは?」
結婚に夢を持っていないレティシアにとって、政略結婚だと知ったところで、特別衝撃を受けることでもない。
「……そうね。私とミカエルも政略結婚だったのだもの。今更ね」
レティシアの耳には、彼女の声にわずかな悲しみが混ざっているように聞こえた。
レティシアは公爵夫人がルーベル侯爵家からオルレーヌ公爵家に嫁いだことを思い出す。彼女とて、公爵に次ぐ侯爵家の生まれだ。家のために、自分の意にそぐわなくとも両親の決めた結婚に従ったのだろう。
貴族とはそういうものだ。
けれど正式に公爵の子と認められていないレティシアは、父の言いなりになるつもりなどなった。
研究所を盾に取られてしまったがために、父の命令に従うしかなくなっただけで、本来ならば公爵家とはなんの関係もなく生きていけるはずだった。
「立場をわきまえているのならば、いいわ。ヴィラール侯爵には想い人がいるの。だから、決してあなたが彼から愛されることはない」
「……そうですか」
そもそもこの縁談はレティシアにとって自分の仕事を守るためのものでしかない。ヴィラール侯爵に対する甘い期待など、もとより微塵もない。
それに、遠目に見かけただけで、話したこともない人から愛されなくともかまわなかった。
レティシアには公爵夫人がどのような意図で、このような話を持ち出してきたのだとうと、内心で首を傾げる。
こんなくだらない話に付き合うくらいならば、さっさと仕事に戻りたいというのが、レティシアの本音だった。
「お話はそれだけですか?」
レティシアが落ち着いた口調で確認すると、公爵夫人の様子が急変する。その美しい顔にそぐわない、醜悪な表情でつぶやく。
「ああ、なんて陰気くさい女なの! あの女の娘が幸せになるなんて許されない。私が苦しんだ分、いいえ、それ以上に苦しむべきよ」
彼女の言葉に、レティシアは強烈な憎悪を感じた。
レティシアの母が亡くなってから、すでに十年以上が過ぎている。この様子では公爵と夫人の関係はうまくいっていないのかもしれない。この女性は未だに母のことを恨んでいるのは間違いない。
誰かに強い恋情を抱いたことのないレティシアには、理解し難かった。
「おまえなど誰も愛さない」
呪いのような言葉を吐く公爵夫人の目は、爛々と光っていて、とても正気とは思えない。
彼女の剣幕に気圧され、レティシアは思わず後ずさる。
「奥様、少し休みましょう」
いつの間にか現れた執事が、興奮する公爵夫人を宥める。
「ああ、クレマン! 気分が悪いわ!」
怒鳴り散らす彼女の目に、もはやレティシアの姿は映っていなかった。
「存じておりますとも。あちらに」
執事が公爵夫人を支えながらテラスを出ていく。
あとに残されたレティシアはぶるりと身震いした。
あれほどの憎悪を間近に感じたのは初めてだった。正気とは思えない彼女の言葉を真に受けるつもりはなかったが、それでも彼女の言葉はレティシアの痛いところをついていた。
「そうね。私など誰も愛さない……」
公爵と結婚できないことを嘆いていた母は、あっさりとレティシアを置き去りにして命を手放した。全寮制の学校で母の訃報を受け取ったときには、すでに葬儀が行なわれており、レティシアにはできることはなにもなかった。
そんなときでさえ父はレティシアに会いに来ることも、呼び寄せられることもなかった。
ただ、『勉学に励むように』という伝言を受け取っただけ。
そうしてレティシアは悟ったのだ。
――私は父に愛されていない。
父に愛して欲しいという期待はそのときに捨てた。
それからは生きていく手段を見つけるのに精一杯で、唯一得意と思えた魔法の習熟に明け暮れた。
魔導士の資格を得て学校を卒業し、研究所に職を得たときも、父からはなんの連絡もなかった。
数年ぶりに父から呼び出され、なんの話だろうかとわずかな希望を胸に公爵邸へと来てみれば、なんのことはない政略結婚を命じられた。
胸の奥にわずかに残っていた希望のかけらさえ打ち砕かれ、レティシアは乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
実の父や母にさえ愛されなかった自分を、結婚相手が愛してくれるなどと、期待できるはずもない。
「そんなこと、改めて言われなくてもわかってる……」
レティシアの呟きは、誰もいないテラスにぽつんと零れた。
「いま、なんと?」
レティシアは低く抑制した声を発し、フードの下から父を睨みつけた。父が発した言葉の意味は理解できたが、信じたくなくてもう一度尋ねる。
大きな応接机を挟んで深く椅子に腰を下ろした父――オルレーヌ公爵は、悠然とした態度を崩さない。
「私の娘は少々耳が遠いようだ。同じ事をなんども言いたくはないのだがな……」
公爵は深いため息をつき、椅子から立ち上がると、窓辺に移動した。そして、窓に顔を向けたままもう一度口を開いた。
「結婚しろ。さもなくば、おまえの研究所に対する資金援助を打ち切る……と、言ったのだ」
「公爵ともあろうお方が、国家の予算を私するのですか?」
レティシアの視界が怒りで真っ赤に染まる。
それでも長年培った鉄壁の仮面のおかげで、嫌いな父の前で感情をあらわにすることは避けられた。
そもそもレティシアは目の前の人物を父などと呼びたくなどなかった。
公爵はレティシアにとって生物学上の父ではあるが、母とのあいだに婚姻関係は存在していない。つまるところ、レティシアの母は愛人という存在であった。
父の公式な妻は有力な侯爵家の令嬢で、ふたりの結婚は典型的な政略結婚であった。
父と公爵夫人とのあいだに子はなく、レティシアの母とのあいだに生まれた娘――つまりレティシアしかいない。
どうして父が妻とのあいだに子を作らず、愛人にレティシアを産ませたのか、レティシアにはわからないままだ。
この国の法律では婚外子が爵位を継ぐことを認めていない。
母が亡き後もレティシアが公爵家に引き取られることはなく、ずっと全寮制の学校で暮らしてきた。学校を卒業し、研究所に勤め始めてからは一人暮らしだ。
こうして公爵家の屋敷を訪れたのも、レティシアには初めてのことだ。
「目的のためならば手段は問わぬ」
冷酷な公爵の宣言に、レティシアはギリリと奥歯を噛みしめた。
呼び出された瞬間から感じていたいやな予感が、現実のものとなった瞬間だった。
レティシアが生まれたロワール王国は、魔法大国として周囲に知られている。その中でも、彼女が籍を置くベルクール魔法研究所は、王立研究所に次ぐ規模を誇る研究所であった。そして、ベルクール魔法研究所は国から多くの資金を得て運営されている。
財務大臣としての地位を持つ父の手にかかれば、補助金を打ち切ることなど容易いだろう。そして父が宣言を実行に移すだけの力を持っていることをレティシアは知っていた。
「そうまでして、私を結婚させたいお相手というのは、いったいどこのどなたですか?」
レティシアは喚きだしたくなる気持ちをどうにか堪え、公爵の背中を睨みつける。
「ヴィラール侯爵だ」
レティシアの脳裏には、かつて遠くから見かけた侯爵の姿が思い浮かんだ。
侯爵位を継承したばかりのヴィラール侯爵は端整な顔立ちをしており、社交界の人気者だ。二十代の半ばで結婚する者が多い中、二十代後半に差し掛かってもいまだ独身で、国王陛下からの覚えもめでたく、結婚相手を探す独身女性たちにとっては垂涎の的となっている。
しかも浮ついた話をほとんど聞かないので、その点も女性たちからの人気が高い理由となっていた。
「あの方であれば相手に困ることはないでしょうに……」
レティシアは内心で首を傾げる。
庶子でしかないレティシアと、将来有望なヴィラール侯爵が結婚する利点が見つからない。
「あちらには陛下から話がいっているだろう」
レティシアの疑問など見透かしたように、公爵が振り向く。
国王からの声かかりと聞いて、レティシアは目を瞠った。
国王から持ちかけられた話となれば、それはもはや命令に近い。
レティシアはこの縁談が覆らないことを痛感した。
「おまえは頑張り過ぎたのだよ。その功績が国王の耳に入り、手の内に囲いたいと思わせるほどに」
「……っ」
レティシアは鋭く息を呑んだ。
大嫌いな父から逃れようと、がむしゃらに研究に打ち込んできた結果、レティシアは厳しい試験を突破し、王国の中でもかなりの魔法の使い手でなければ与えられない『魔導士』の資格を得ている。
父の影響下から抜け出すために、努力を重ねてきた結果が、父に命じられた政略結婚であるのならば、なんとも皮肉な結果だと笑いたくなる。
「まずは来月に婚約式を行い、それから結婚となる。いいな?」
「……はい」
研究所に対する援助を盾に取られてしまえば、レティシアは父の命令にうなずくほかない。
「結婚に必要な準備は全てこちらで調える。話は以上だ」
公爵は鋭い眼光でレティシアを見つめていた。
彼の視線から逃れるように、レティシアは目を伏せ、呟く。
「……承知しました。ご用があれば研究所のほうにお願いします」
「わかっている」
レティシアは無言で軽く頭を下げた。
けれどフードの下のブルーグレーの瞳には、このままでは済まさないという、反骨の強い意思が宿っていた。
そのまま無言で公爵の執務室を出る。
すると扉のすぐ脇に、公爵家の執事が気配を感じさせずに立っていたことに気づく。
「……なにか?」
頭をうしろに撫でつけ、お仕着せに身を包んだ壮年の執事は恭しくレティシアに向かって頭を下げた。
「奥様がお呼びです」
公爵家における奥様――つまり公爵夫人が、妾の子であるレティシアを呼んでいる。
嫌な予感しかしなかった。
「……私が奥様にお話するようなことはありませんが」
「お客様にはなくとも、奥様にはご用がおありなのです。よろしいですね?」
問いかけの形こそ取ってはいるものの、レティシアが執事の言葉に、ひいては公爵夫人に逆らうことなどあり得ないとでも言いたげな態度で、執事は廊下を進み始める。
レティシアはため息を口の中でかみ殺し、ゆっくりと執事のあとに続いた。
彼女が案内されたのは、明るい太陽の光が降り注ぐガラス張りのテラスだった。
あちらこちらに珍しい植物の鉢植えが配置されている。これほどの植物を揃えるには、さぞやお金がかかったことだろう。
季節は初冬に差し掛かろうとしているが、テラスの中はほんのりと温かい。
レティシアは改めて公爵家の経済力に舌を巻いた。
執事が足を止めたのはテラスの真ん中に設えられた白いガーデンテーブルとチェアの前だった。
そこには豪奢なドレスを身にまとった婦人が座っていた。
――あれが、公爵夫人。
執事は公爵夫人の前で優美な仕草で頭を下げる。
「お客様をお連れいたしました」
「下がっていいわ」
公爵夫人は手を振って、執事を下がらせる。
レティシアはフードの下から彼女の顔をじっとうかがった。
皺はなく、とても父親と同世代とは思えない。肌はぬけるように白く、とても美しい。ピンク色の爪先は美しく磨かれていて、丁寧に手入れがされている。
自分の荒れた指先とは大違いだと、レティシアはどこか現実離れした感想を抱いた。
「あなたが、あの下賎な女の娘なのね」
公爵夫人は無機質な水色の瞳でレティシアを睨んでいた。
彼女にとって、レティシアは夫の不貞の証である。
その娘にも良い感情を抱いていないであろうことは想像していたが、ここまであからさまに敵意を見せられるとは思っていなかった。
できるなら侯爵夫人とは係わり合いになりたくなかった。こうして呼び出されなければ、会うこともなかったはずだ。
レティシアは深く息を吸って気持ちを落ち着け、高貴な女性に対する礼をとる。そして、感情を極力排した口調で問いかけた。
「公爵夫人が、私になんのご用でしょう?」
挑発に乗らなかったレティシアに、公爵夫人は一瞬、目を吊り上げた。が、すぐにニヤリと笑みを浮かべる。
「あのひとから縁談について聞いたのかしら?」
「……はい」
レティシアは肯定だけを返した。
「ヴィラール侯爵が望んでの縁談ではないことは、知っている?」
満足そうな彼女の表情に、レティシアの胸に不快感が込み上げる。
「存じませんでした。が、政略結婚とは、えてしてそういうものでは?」
結婚に夢を持っていないレティシアにとって、政略結婚だと知ったところで、特別衝撃を受けることでもない。
「……そうね。私とミカエルも政略結婚だったのだもの。今更ね」
レティシアの耳には、彼女の声にわずかな悲しみが混ざっているように聞こえた。
レティシアは公爵夫人がルーベル侯爵家からオルレーヌ公爵家に嫁いだことを思い出す。彼女とて、公爵に次ぐ侯爵家の生まれだ。家のために、自分の意にそぐわなくとも両親の決めた結婚に従ったのだろう。
貴族とはそういうものだ。
けれど正式に公爵の子と認められていないレティシアは、父の言いなりになるつもりなどなった。
研究所を盾に取られてしまったがために、父の命令に従うしかなくなっただけで、本来ならば公爵家とはなんの関係もなく生きていけるはずだった。
「立場をわきまえているのならば、いいわ。ヴィラール侯爵には想い人がいるの。だから、決してあなたが彼から愛されることはない」
「……そうですか」
そもそもこの縁談はレティシアにとって自分の仕事を守るためのものでしかない。ヴィラール侯爵に対する甘い期待など、もとより微塵もない。
それに、遠目に見かけただけで、話したこともない人から愛されなくともかまわなかった。
レティシアには公爵夫人がどのような意図で、このような話を持ち出してきたのだとうと、内心で首を傾げる。
こんなくだらない話に付き合うくらいならば、さっさと仕事に戻りたいというのが、レティシアの本音だった。
「お話はそれだけですか?」
レティシアが落ち着いた口調で確認すると、公爵夫人の様子が急変する。その美しい顔にそぐわない、醜悪な表情でつぶやく。
「ああ、なんて陰気くさい女なの! あの女の娘が幸せになるなんて許されない。私が苦しんだ分、いいえ、それ以上に苦しむべきよ」
彼女の言葉に、レティシアは強烈な憎悪を感じた。
レティシアの母が亡くなってから、すでに十年以上が過ぎている。この様子では公爵と夫人の関係はうまくいっていないのかもしれない。この女性は未だに母のことを恨んでいるのは間違いない。
誰かに強い恋情を抱いたことのないレティシアには、理解し難かった。
「おまえなど誰も愛さない」
呪いのような言葉を吐く公爵夫人の目は、爛々と光っていて、とても正気とは思えない。
彼女の剣幕に気圧され、レティシアは思わず後ずさる。
「奥様、少し休みましょう」
いつの間にか現れた執事が、興奮する公爵夫人を宥める。
「ああ、クレマン! 気分が悪いわ!」
怒鳴り散らす彼女の目に、もはやレティシアの姿は映っていなかった。
「存じておりますとも。あちらに」
執事が公爵夫人を支えながらテラスを出ていく。
あとに残されたレティシアはぶるりと身震いした。
あれほどの憎悪を間近に感じたのは初めてだった。正気とは思えない彼女の言葉を真に受けるつもりはなかったが、それでも彼女の言葉はレティシアの痛いところをついていた。
「そうね。私など誰も愛さない……」
公爵と結婚できないことを嘆いていた母は、あっさりとレティシアを置き去りにして命を手放した。全寮制の学校で母の訃報を受け取ったときには、すでに葬儀が行なわれており、レティシアにはできることはなにもなかった。
そんなときでさえ父はレティシアに会いに来ることも、呼び寄せられることもなかった。
ただ、『勉学に励むように』という伝言を受け取っただけ。
そうしてレティシアは悟ったのだ。
――私は父に愛されていない。
父に愛して欲しいという期待はそのときに捨てた。
それからは生きていく手段を見つけるのに精一杯で、唯一得意と思えた魔法の習熟に明け暮れた。
魔導士の資格を得て学校を卒業し、研究所に職を得たときも、父からはなんの連絡もなかった。
数年ぶりに父から呼び出され、なんの話だろうかとわずかな希望を胸に公爵邸へと来てみれば、なんのことはない政略結婚を命じられた。
胸の奥にわずかに残っていた希望のかけらさえ打ち砕かれ、レティシアは乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
実の父や母にさえ愛されなかった自分を、結婚相手が愛してくれるなどと、期待できるはずもない。
「そんなこと、改めて言われなくてもわかってる……」
レティシアの呟きは、誰もいないテラスにぽつんと零れた。
0
あなたにおすすめの小説
贖罪の花嫁はいつわりの婚姻に溺れる
マチバリ
恋愛
貴族令嬢エステルは姉の婚約者を誘惑したという冤罪で修道院に行くことになっていたが、突然ある男の花嫁になり子供を産めと命令されてしまう。夫となる男は稀有な魔力と尊い血統を持ちながらも辺境の屋敷で孤独に暮らす魔法使いアンデリック。
数奇な運命で結婚する事になった二人が呪いをとくように幸せになる物語。
書籍化作業にあたり本編を非公開にしました。
【完結】新皇帝の後宮に献上された姫は、皇帝の寵愛を望まない
ユユ
恋愛
周辺諸国19国を統べるエテルネル帝国の皇帝が崩御し、若い皇子が即位した2年前から従属国が次々と姫や公女、もしくは美女を献上している。
既に帝国の令嬢数人と従属国から18人が後宮で住んでいる。
未だ献上していなかったプロプル王国では、王女である私が仕方なく献上されることになった。
後宮の余った人気のない部屋に押し込まれ、選択を迫られた。
欲の無い王女と、女達の醜い争いに辟易した新皇帝の噛み合わない新生活が始まった。
* 作り話です
* そんなに長くしない予定です
勘違い妻は騎士隊長に愛される。
更紗
恋愛
政略結婚後、退屈な毎日を送っていたレオノーラの前に現れた、旦那様の元カノ。
ああ なるほど、身分違いの恋で引き裂かれたから別れてくれと。よっしゃそんなら離婚して人生軌道修正いたしましょう!とばかりに勢い込んで旦那様に離縁を勧めてみたところ――
あれ?何か怒ってる?
私が一体何をした…っ!?なお話。
有り難い事に書籍化の運びとなりました。これもひとえに読んで下さった方々のお蔭です。本当に有難うございます。
※本編完結後、脇役キャラの外伝を連載しています。本編自体は終わっているので、その都度完結表示になっております。ご了承下さい。
カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~
伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華
結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空
幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。
割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。
思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。
二人の結婚生活は一体どうなる?
片想いの相手と二人、深夜、狭い部屋。何も起きないはずはなく
おりの まるる
恋愛
ユディットは片想いしている室長が、再婚すると言う噂を聞いて、情緒不安定な日々を過ごしていた。
そんなある日、怖い噂話が尽きない古い教会を改装して使っている書庫で、仕事を終えるとすっかり夜になっていた。
夕方からの大雨で研究棟へ帰れなくなり、途方に暮れていた。
そんな彼女を室長が迎えに来てくれたのだが、トラブルに見舞われ、二人っきりで夜を過ごすことになる。
全4話です。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
夫婦戦争勃発5秒前! ~借金返済の代わりに女嫌いなオネエと政略結婚させられました!~
麻竹
恋愛
※タイトル変更しました。
夫「おブスは消えなさい。」
妻「ああそうですか、ならば戦争ですわね!!」
借金返済の肩代わりをする代わりに政略結婚の条件を出してきた侯爵家。いざ嫁いでみると夫になる人から「おブスは消えなさい!」と言われたので、夫婦戦争勃発させてみました。
愛しい人、あなたは王女様と幸せになってください
無憂
恋愛
クロエの婚約者は銀の髪の美貌の騎士リュシアン。彼はレティシア王女とは幼馴染で、今は護衛騎士だ。二人は愛し合い、クロエは二人を引き裂くお邪魔虫だと噂されている。王女のそばを離れないリュシアンとは、ここ数年、ろくな会話もない。愛されない日々に疲れたクロエは、婚約を破棄することを決意し、リュシアンに通告したのだが――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる