まぼろしの恋

ちづ

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終章 神殺し

46、千の影④

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「うわ、オレの左手、戻らないんだけど、なにしてくれんの」

 蝕神しょくがみの腐食した左手が、べちゃりと地に落ちた。
 御神酒おみきを浴びた肉片や蛆虫うじむしが、じゅっと音を立てて蒸発する。

「御神酒か。オレは清めるものに弱いんだよー……て、別に分かっててやったわけじゃないよな。その様子じゃ」

 御神酒の入った瓶子へいしを振り下ろされて、蝕神は復元しない手首を面白くなさそうに見る。効果があったのは運がよかったが、瓶子は割れて中身はすべてこぼれてしまった。

 それでも、立ちはだかるように蝕神の前に明里は立つ。割れた瓶子の破片を持ち、蝕神に向ける。刀でも弓矢でもない。武器でもなんでもないただの破片を握りしめて、一歩も引く気のない明里は異様ではあった。

「こっわ、そう怒るなよ。オレは本当のことしか言ってないよ?」
「ただの嫌がらせのためだけに襲ってくる人と口なんて利きたくありません。今すぐ出て行って!」
「甘いねえ。理不尽なんて突然降ってかかるものだよ? 運が悪かったと思って諦めな」

 地蜘蛛じぐもが明里めがけて糸を吐いた。
 明里の両腕は糸に巻き取られて身動きできなくなる。

幻神げんしんも嫌いだけど、あんたも嫌い。だから、ちょっと黙っててよ」

 蜘蛛が明里の足元まで迫る。足首を噛み、毒を注入しようとした瞬間。

「黙っていられるわけないでしょ!!」

 明里は右足で思い切り、蜘蛛を踏み潰した。ぐちゃり、と蜘蛛の中身が飛び散る。蝕神はさすがに目を丸くさせた。

「そんなに嫌がらせしたいならすればいい。けど、私がやり返さない理由もない。私だって、あなたが大嫌いです。千影さまを傷つけたこと、絶対に許さないから……っ!!」

 ザワリと明里の黒髪が逆立つ。明里の背後から無数の蛇の影がとぐろを巻いた。蛇影へびかげは千影や明里を羽交い絞めにしていた蜘蛛の糸を食いちぎり、一匹残らず地蜘蛛を丸呑みにし、無数の眼で睨みつけた。

「おっかねえ。もう真蛇しんじゃそのものじゃん。おーい、幻神、変な加護を与えすぎじゃねえの。もともと神様と通じやすい人間に力を与えたら、碌な存在にならないよ?」

 蝕神は肩をすくめて千影に声をかけたが、意識を失った千影は地に伏したままピクリとも動かなかった。明里が身を引けばすぐにでも餌食にされるだろう。これ以上千影にも、この村にも、入り込ませるわけにいかない。

「女は陰。多少はオレに対する耐性はあるだろうけど……あんたもさあ、やめたほうがいいよ。それ以上、化生に身を任せたら戻れなくなるよ」

 ジャの目で睨みつける明里を眺めて、蝕神は憐れむように忠告した。

「オレと平然と会話してるけど、おかしいからね? オレは人間が嫌悪するモノの象徴、塊。そのオレが怖くないってことは、あんたが人間から外れかかってるってことなんだけど大丈夫? そのうち下半身が蛇の尻尾とかになっちゃうかもよ。そんな化け物になってまで、守る価値ある? ねえアカリちゃんはさあ、本当にソイツでいいの?」

 蝕神は倒れた千影を指差した。
 痛ましく流れる血を、未だに蛆が喰らい続けている。

「神様に献身されるのは、力を貢がれるのは嬉しかった? おかげでソイツはあんたのために力を使いすぎて、肝心なときにあんたを守る力もない。考えなしの大馬鹿野郎。ソイツの本性はそんなもんだよ? 無力で愚かで弱い。役立たずの神もどき」

 地に落ち、血にまみれ、虫に集たかられ。とても神様とは言えない。蝕神は見下げて嘲笑したが、明里はいっさい怯まなかった。 

「いいえ、千影さまは役立たずなんかじゃありません。ずっと私のことを守ってくださいました。さっきだってそう。神様の力なんか関係なしに私を助けようとしてくれた。それがどれだけ得難いことか、あなたには分からないでしょうけど」

 千影が明里にしてくれたことは、いくつもある。
 千冬を想う気持ちを分かってくれた。村人の好奇の目から守ろうとしてくれた。好きなものを一生懸命考えてくれた。仮初めの祝言のときに、隣で歩んでくれた。たったそれだけ。
 それは決して神様の超常的な力とは関係がない。千影にはただ人を思いやる気持ちが、理解しようとする気持ちがあっただけだ。

「千影さまが天界の敷居を踏むのが不相応というのなら、あなたこそ誰の許しでこの場に立っているの」

 明里は瓶子の破片を握りしめた。鋭い切り口が明里の肌に刺さり、血がしたたる。本来ならば馴染み深い血のけがれを前にして、蝕神は嫌そうな顔していた。この村の神域は、確かに血の穢れで穢されてはいるが。その鎮守ちんじゅもりを穢したのは、明里の血でもある。場を支配する力は明里のほうが強い。

「この地は千影さまの地で、この村は私の村で──この人は私の伴侶ものです! 余計なちょっかい出さないで!!」

 明里の怒声はかまいたちのように風を引き裂き、蝕神の腕や足をずたずたにした。
 切り取られた肉片がボトリ、ボトリと落ちては蒸発する。

「ほんっとうに煩いな。黙ってくれよ。あんたの言霊はいちいち強い。気を抜くと場から弾き飛ばされかける。不敬で不遜で不相応な──神殺しの娘が」

 千影の名前を呼び続け、『幻神』を殺し続けた明里の神殺しは、もはや、十二柱の神様すらへも届く言霊になっていた。

「参ったな。幻神の神性だけ戻せば、あんたなんかどうだってよかったけど、このまま捨て置くのは危険だなあ。オレに嫌悪を感じないんじゃ、オレに勝ち目がないよ。蛆虫を気持ち悪く感じないなら、人間でも片手で潰せる下等な虫だからね。かといって、このまますごすご帰るのは祟り神として名折れだし」

 「この土地とはやっぱ相性わりいし、力も出し切れないし」と蝕神はため息をついた。腐食した左半身はほとんど切り裂かれてむき出しの骨になっていた。生体をかたどった右半身は無害なため、異能はない。蝕神はわざとらしく悩み、「じゃあ、こうしよう」とにやりと笑った。その瞬間に、千影に集たかっていた数匹の蛆虫が体内に入り込む。「ぁ、ぐっ」と千影が苦悶の声を上げた。明里は振り向いて千影に駆け寄る。痛みに苦しむ千影の顔色は真っ青だった。

「千影さま! 大丈夫ですか!? あなた、いったいなにを……!」
「大丈夫大丈夫、ちょっと体内に穢れを……オレが操りやすい負の感情を戻してやっただけだって。それより」

 蝕神は右手を広げた。
 手のひらの上には、さっきまでなかったはずの見慣れた麻袋が出現する。
 蝕神は──祟り神は、厳かに告げる。

「御覧。これが欲しいだろ?」

 ──千冬の遺灰。
 明里も、そして千影も目を見開いた。偽物ではない、それだけは分かるだけに。

「ただの遺灰じゃねえよ? オレは黄泉の國に住まう神でもある。千冬の魂をコレに入れて連れて来るのも容易い。オレがこの遺灰を握りしめるだけで、千冬の魂は穢れにまみれて永遠に死の國で苦しむことになるけれど、どうする? 助けてやらないのアカリちゃん? もっとも、あんたがこの遺灰を手にすれば──」

 蝕神はおぞましく笑った。

「『千影』との結びが切れる。『千影』を繋いでいるのは、あんたみたいだからな。あんたが死の不浄を手にすれば、辛うじて繋がれているソイツの自我も解けるだろう。オレはどっちでもいいよ」

 明里は驚きと怒りのあまり、身を震わせた。本気で化生に身を任しかけたとき──あかり、と腕の中で声がした。小さな、縋るような、心もとない千影の声だった。
 明里は激しく迷った。迷ったが。唇を噛み締めて、その遺灰から目をそらした。
 目頭も心臓も痛い。痛くてたまらない。けれど──どちらを選ぶのかなんて、そんな答えはもうとっくに明里の中では決まっている。
 けれど、明里の苦渋の選択すらも蝕神にはお見通しだった。

「明里」

 唐突に、名前を呼ばれた。蝕神から名前を呼ばれた。神様から呼ばれた。
 ただの普通の村娘である明里の名前。むきだしのままの、いみなでもある明里の名前。
 明里の意識は一瞬奪われた。

 ──諱を知れば霊的に結びつき、呪うことすらできる。

 そう話してくれたいつかの巫女の言葉が脳裏に霞めた。

「受け取れ」

 ぽん、とお手玉のように遺灰が空中を舞った。ぐん、と両腕が引っ張られて、明里はその遺灰に向けて両手を広げ──受け取った。受け取ってしまった。触ってしまった。意識を取り戻し、胸の中にある千冬の遺灰を見た時の感情は、やっぱり安堵だった。千影の目が大きく開く。絶望の色に染まる。

 ──ブツン、となにかが千切れた音がした。

 それは千影との結びであり、縁であり、絆であり、千影の感情の栓。

「お前……っ! まだ死に縋るのか……!!」

 気がついたら世界が反転して、地に背中を打ち付けていた。
 千影は明里の上に馬乗りになり、その細い首を両手でぎちぎちと締め上げる。

「ち、」
「まだ千冬の名を呼ぶのか、まだ千冬を選ぶのか、まだ千冬が好きなのか!?」
「ちが……ちかげさ、」

 苦しくて、声が出ない。
 千影のヒビ割れた左半身から憎悪が噴き出す。血が滴したたり、黒い靄が渦を巻く。明里が繋いだ結びが千切れて、千影の姿が何重にもブレる。蝕神はけたけた笑った。

「うんうん、やっぱり本物には敵わないよなあ? さっきだってアカリちゃん、この墓に話しかけてたもんね、大好きだって」

 蝕神が煽る。千影の手の力が増す。単純な挑発すら、嫉妬で我を忘れた千影には火に油だった。体内に入り込んだ蛆うじは穢れとなって、千影の負の感情を増幅させていた。

「ちょっと煽っただけでこの通り。ご大層なこと言ってたくせに、もろい絆だなあ」

 蝕神が愉快そうに見物する。千影の耳には何も聞こえておらず。千影の目には明里しか映っていなかった。暗く。正気を失い。嫉妬と孤独にまみれた目。長い指が明里の肌に食い込む。神様の右手も、人間の左手も渾身の力で絞め続けていた。

「お前が呼んだんだろ、お前が引き留めたんだろ、お前が、好きだって、言ったんだろ!」

 明里の頬に、雫が落ちる。血と涙が、雨のように降ってくる。

「俺は、俺が……っお前の伴侶だぞ……!」

 千影の姿がブレる。男にも女にも、たおやかな姫君にも屈強な武士にも見えた。何重にも影がブレては重なる。その中には、“千冬”もいた。真似るのがへたくそだった、出会った頃の幻神の姿だった。苦しみ喘ぎ、憎悪をぶつけられても、明里は千影のその寂しい目の色が脳に焼き付いた。どんなに姿が変わろうとその瞳の色だけは同じ。

「どうして、俺を見てくれないんだ。俺はここにいるのに、」

 贄のために、伴侶のために、心どころか、姿形まで変える人。
 その言葉はきっと今までの贄に向けた叫びでもあって、千影の、幻神の本音には違いない。

わたしはこんなに、愛しているのに。どうしてわたしを──愛してくれないんだ」

 ぽろぽろと、落ちては降り注ぐ、感情の雫。
 蝕神の言う通り、きっと千影の本性はこんなものだ。
 弱くて、ちっぽけで、淋しいと、そんな感情にも気づかないでここまでやってきてしまった神様。
 千冬にも全然似ていなかったけれど、きっと『神様』だって向いてやしない。

 そんな人を、明里は傷つけてしまった。目の前で裏切ってしまった。
 迷った瞬間を祟り神に付け込まれた。
 薄れゆく意識の中で、千影が抱えてきた寂しさも恨みも、明里に全部吐き出して、それで少しでも千影の気持ちが晴れるのなら、それもいいかと、そう思ってしまった。
 明里は自分の首を絞め続ける千影の手に触れた。
 千影を傷つける存在は誰であろうと許せない。千影本人であろうと、明里自身であろうと。

 ふ、と明里が抵抗をなくし、息が途切れた瞬間に。

「ちょ、ちょっと! なにしてるのよ!? 明里ちゃん!!」

 本当に場違いな、聞き馴染んだ声が邪魔をした。
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