椿落ちる頃

寒星

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第一章 神が降ってきた

01-2 雨、ときどき神(自称)

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 一本だけ手に持っていた缶コーヒーを開け、中身を一息に飲み干す。カフェインで喉と頭を潤し、道路に缶を置いて鉄柵に手をかけた。

「うーん、っしょ、と」

 ガシャガシャと鉄柵が音を立てるが、近くの家々から人が出てくる様子はない。さっさと鉄柵を超えると、足を先に川の方へ投げ出し__そのまま手を放す。
 
「よ」

 鉄柵の頂上から水路の底へ。着地と同時に膝を曲げて衝撃を殺す。流石に水が派手に跳ねるが、特に構わない。どうせ安物のスーツだ。いつ買ったかも覚えていない。

「すいませーん……」

 バシャバシャと音を立てて水路を歩き(靴も仕事用の安い革靴だが、染みてこない。随分防水スプレーを吹いていたのがまだ効いているらしい)、倒れている青年へ近づく。
 
「そこの、あー、コスプレイヤーの方? 聞こえます?」

 返事はない。どころかピクリともしない。
 もはや隠しもせず深々と溜息をつきつつ、青年のそばに膝をつく。水路に落ちた段階でスラックスはずぶぬれだ。躊躇いもなくその頬を手の甲でぺちぺちと叩く。「もしもし?」強めに肩を揺さぶってみても、やはり反応はない。
 その胸元に手のひらを当てれば、ゆっくりと心臓の鼓動を感じる。口元に顔を横倒しにして近づければ、か細い息が頬をくすぐる。
 そして近づいてみて初めて分かったが、青年の体にはあちこちに小さな擦り傷があった。切り付けられたというよりかは、枝にひっかけたか、擦れて肌が切れたような些細なものではあるが、数が多い。

「駄目だな、これ」

 いずれにせよ、意識が戻らない。
 出来ることなら近くの家にでも突っ込んで警察を呼んでもらうつもりだったが、流石に石のない人間を放り込むのは気が引ける。そんなことをして人攫いだとか、こっちがこの青年に何かしたと思われてもたまらない。
 仕方なしに青年を抱き上げる。右袖だけ通して着ている羽織から露になった上半身にはモデルのような筋肉がついているが、背丈も170そこらで体重はそこまでない。

 青年そのものより、彼が身に着けている着物がやたら大きく、幾重にも重ねられているのでそちらのほうに骨が折れた。どうにか袖を畳んで一纏めにし、肩に担ぐ。

「____?」

 ふと。
 視線を感じて振り向く。
 言葉では説明できない。ただ感覚がそこだと教えている。
 水路を挟んで道路とは反対側の藪の中。そのさらに奥には鬱蒼とした林がある。自然保護区とは名ばかりの人の手入れもされていない場所。

 藪の中にキラリと光るものがあった。四つ。
 
(犬?)

 それにしては大きい。否、大きいというよりも__鋭い。
 混じりけのない金色の目が四つ、それは二つ一組になり、音もなく此方を見つめている。
 夜の闇に木々のつくる影が何重にも折り重なり、その姿は判然としないまでも、頭に三角形の耳を二つ備え、そして大型犬並みの体躯をしていることはわかる。
 まさか、と。

 そこまで考えたところで、四つの目は突然消えた。まるで誰かに呼び戻されたように、突然踵を返して藪の中へ埋もれた。

 __まさか、な。

 青年を抱えて鉄柵を超え、道路へ戻る。そこからもう一度藪の方を見やるが、今藪の中はしんと静まり返り、動くものはない。ただどこまでも深く暗い影を抱えてそこにあるだけだ。
 藪の手前には、進入禁止の立て札があるだけだ。動物注意の立て札も、随分古びてはあるが隣に打ち立てられている。だがその看板に描かれていたのは狸だった。

 _____まあ、いいか。

 何かいたとして、何かされたわけではない。

「う……」
「ん?」

 自販機前に停めていた車の後部座席に青年を寝かせたとき、濡れそぼったその体がにわかに震えた。
 意識が戻ったかと自らも車内へ身を潜り込ませ「気が付いた?」と声をかけた。
 青年はゆっくりと瞼を上げた。半分ほど、ひどく億劫そうに。
 そして淡く、紫とも浅黄色ともつかない色をにじませた色素の薄い瞳がこちらを見る。

「君、大丈夫? 名前は?」
「あ……」
「ああ、無理に喋らなくてもいい。とにかく意識が戻ってよかった、これから警察に……」
「つ、」

 ”つ”?
 瞠目するこちらに構わず、青年は眉間にしわを寄せ、振り絞るように腕を伸ばした。
 身を起こすほどの気力はないのだろう。とにかく腕だけでもといった風に、あんまり必死に震える腕を伸ばすので、思わずこちらからもその手を握った。
 しっかり、と言おうとして。
 それより青年の方が早い。

「つ、ばき……」

 と。

「____は、」

 予想だにしない言葉に思わず低い声が出る。
 驚きのあまり、素の声が漏れる。

「君、なんで……あ?」

 聞き返そうと思ったが、後の祭り。
 腕に感じる重さが増したかと思えば、青年は再び意識を失っていた。それなのにこちらの腕をつかんだその手は強い力を保っている。

 この青年は、何故。
 
「……あ、ああ……そうか」

 図らずも後部座席に沈んだ青年に覆いかぶさるような体制になった自分の胸元で、ネックホルダーが振れている。
 そしてプラスチックのホルダーには社員証が差し込まれている。珍しくもなんともない。タイムカードと入館証を兼ねたICチップ入りのカード。

 そしてそこにはどこを見ているか分からない男の顔写真と、その名前が印字されている。
 急に名前を呼ばれて驚いたが、そういうことか。
 この青年はただ、意識を取り戻して一番に目に入った文字を読んだのだろう。ただ、反射的に。
 
 椿カンナ。
 
 それは当然、自分の名前だった。



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