椿落ちる頃

寒星

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第一章 神が降ってきた

03-2 タピオカショック

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 もうすぐ昼休憩(端から労働契約書に定められた時刻を過ぎての休憩ではあったが、一時間の定めだ)も終わる。まだやらねばならない仕事はうず高く山を成している。
 山々は椿の帰りを今か今かと待ち侘びていることだろう。

「……タピオカ、飲まないの?」
「む」
「苦手だった?」

 青年の手にはまだ口がつけられていないタピオカミルクティーがある。まろやかな色合いのミルクティの底にはごろごろと黒い球体が転がっているのがカップ越しにも見える。

「これ……」
「ああ、なんだ本当に苦手なのか。悪いことしたな、別のものが良いなら__」
「これを、私に飲めと言うのか」

 何故か目の前の青年は一転、その形の良い眉を顰めてタピオカミルクティーを見つめている。

「いや、苦手ならべつに飲まなくてもいいけど」
「い、いや」青年はちらちらと椿を見た。「こ、これを、これを貴様、貴様は飲んだことがあるのか?」
「俺? 随分前に大流行したときに、一回飲んだことはあるけど」
「飲んだのか!?」
「飲んだよ」椿は不可解そうに「若い人はもっと飲んでると思うよ。そ今は落ち着いたけど、それこそ流行りの頃はあちこちに店が出ていたし、毎日のように行列が」
「かっ……」
「か?」

 喝?
 と椿は身構えたが、青年は寧ろ青褪めた顔に絶望の色を浮かべていた。

「な、何故だ、何故こんな、蛙の卵を……若人たちはそんなに飢えておるのか?」
「蛙の卵?」
「蛙の卵を煮て飲むなど、天明の飢饉でもしなかったぞ!」
「いやそれ蛙の卵じゃないし」
「何処ぞの魔教徒の謀りか! これで病が治るだの、戯言を申して若人たちを騙しておるのか?!」
「君のその瞬間湯沸かし器みたいな想像力、もっと別のことに生かしてくれないかな」

 椿が横から青年の手ごとタピオカミルクティーのカップを掴む。何を! と青年が青ざめる。

「飲め」
「は?!」
「説明するの面倒だから、飲んで」
「き、貴様ついに本性を現したか!! 野に隠れていた魔獣めが! 私がここで討ち取っ、アーーーーーー!! 止めろ!! やめ、この阿呆力!!」

 阿呆力と呼ばれたが、椿の方こそ「この馬鹿力」と言いたかった。

 筋肉はあるようだが全体的にすらりとした体躯に違わず、青年は剛腕だ。外から見れば口元に突きつけられるストローを拒んで暴れる様子はやんちゃ小僧のそれかもしれない。
 実際キッチンカーで前に並んでいた男女グループは騒ぎを聞いて遠巻きに眺めつつ「なにあれー」「かわいー」「ウケる」などと微笑んでいるが、冗談ではない。
 冗談抜きで、気を抜けば体ごとぶん投げられそうだ。

「はい口開けて、ごっくんしようね」
「ごっくんやだーーーーー!!!」
「はいごっくん」
「もぎゅ」

 気道確保の要領で顎を上向きに固定し、頑なに開かない口は鼻を摘んで開かせ。
 そして開いた口にストローを差し込む。

 あとは勝手にミルクティーとタピオカが凄まじい勢いで流れ込んでいくのを見守るだけだ。

「ンン! んーー!」青年は相変わらず馬鹿力で抵抗しているが、腕の長さは椿の方が長い。興奮した犬を抱え込む獣医のように椿は淡々と処置した。
「はい噛んで、よく噛んで」
「む! んぐ! む!」
「よしよしはいはい、甘くて美味しい甘くて美味しい」
「むぐ、む……むん……」
「ごっくんした?」
「した……」
「はい」

 椿が青年の顔と手首から手を離す。手のひらで押さえ込んでいたため、青年の肌に痕は残っていない。

「よくがんばりました」
「はい……って違う!!!! 貴様よくも私を稚児のように扱いおって——ではない、よくも私に蛙の卵を食わせたな!!!!」
「タピオカだって」
「ぐにぐにしてたが?!」
「だからそれがタピオカだって。不味くは無かったでしょ」

 たぴ、と青年がか細く復唱する。椿も頷いた。

「蛙の卵じゃない……?」
「どっちかと言うと芋かな」
「芋」
「芋の粉をこねて小さく丸めて、茹でた団子みたいなものかな」

 青年はそれでもまだ疑わし気にカップを揺らし、ミルクティの底に溜まったタピオカをあらゆる角度から眺めた。
 そうしてそれから、ようやくもう一度ストローに口をつける。なんともじれったくなるような勢いでちびちびと吸い上げ、一粒タピオカが口に入ると、いちいちストローから口を離してもごもごとやっている。

 しかしたかだか飲み物一つで百面相していると思えば愉快なものだ。椿は残っていたクレープを(それは冷め始めてチーズが固くなっていた)食べながら、ついに青年がまんざらでもない風に、それでもおそらくああまで騒いだ手前の自尊心のために眉を寄せ、結果半分にやけたような顔になるまで待った。

「……まあ、蛙の卵でないなら、許してやろう」
「気に入ったならもう一杯頼めば?」
「えっ」

 青年はぱっと顔を輝かせたが__即座に首を振った。「い、いらん! 施しは無用だ」

「そ」椿は食べ終えたクレープの包装紙を小さく畳んだ。伴のコーヒーも飲み干す。「じゃあ、俺は仕事に戻るから」

 __まあお元気で。
 そんな程度の挨拶で別れようとしたところで、ふいに強い風が椿の髪を乱した。周囲からも短く悲鳴とも歓声ともつかない声が上がる。

「人間、名前を教えろ」

 不可思議な風だった。どの方向から吹いているのかが分からない。例えるなら突然小さな台風の中心へ放り込まれたように、空気の流れは一匹の生き物のように連なって渦を巻いている。椿を中心に。

 本能的に拒むべきでないと察した。いや、本能に頼る前に答えていた。
 危機感はあるほうだ。厄介そうな問題には近づかないし、興味本位で首を突っ込むことなどまずない。
 だが、それ以上に椿は面倒が嫌いだ。ともすれば用心する、という行為ですら面倒になる。用心せずに起こった問題に対処する際の手間と、用心そのものを秤にかけて、前者が軽ければ、そちらを選ぶ。
 転ばぬ先の杖はあるにこしたことはない。だが、転ぶその瞬間まで、杖はただの荷物だ。

 __だが、彼はたしか出会ったその夜に自分の名前を呼んだのではなかったか?
 __意識が朦朧としていたときのことだ。覚えていなくとも無理はないか。

「椿」椿は簡素に名乗った。「椿、カンナ」

 椿は風から顔をかばうように腕を掲げていたため、青年の顔は見えなかった。だが数秒、妙な沈黙があった。
 しかし次に聞こえた青年の声は凛としていた。

「カンナ」
 と、青年は椿を下の名前で呼んだ。
「一宿一飯の恩、必ず返す」

 そして風が掻き消える。何処かへ吹きすぎてゆくのではなく、まるで弾けるように掻き消え、あたりは途端に無風空間になった。

 椿が腕を下ろしたとき、既に青年は姿を消していた。あの大弓もだ。周囲では突然の強風にざわめきが残っていたが、逆のその風のため、青年が消えたことに気付いているものはいない。

 椿はゆっくりと空を仰いだ。氷のような薄い青と白がまだらになった空を。
 まるで長い映画を見終わった後のような、抜けきらない非現実感が全身を包んでいた。だがそれも長くは続かない。
 スラックスのポケットに入れていた社用携帯が振動する。無機質で無感動な震えがあまりにたやすく、暴力的に椿を現実へ引き戻した。

 それでも椿はしばらく、ただ空を見上げていた。
 薄い青に、白く煙のように漂う雲があったはずの空。
 __そこだけ、まるで射貫かれたようにぽっかりと大穴を空けた奇怪な形の雲を見上げながら。

 もしかすると、本当に彼は神なのかもしれない、などと馬鹿馬鹿しくも思った。

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