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第一章 神が降ってきた
06-2 始めに鴉が鳴く
しおりを挟む「なに?」
それは誰が言ったか定かでない。
どこかから、それも複数聞こえた。男の声も女の声もあった。なに、なんだ、と。思わず、つい口から漏れたと言わんばかりに。
そしてその無意識の問いかけに答えたのは、再びの悲鳴だった。
それは人の悲鳴ではない。誰もが真っ先にそれだけは理解した。これはなにか、動物の鳴き声だと。
そして椿が一番に正体を察してから、次々にフロアの全員が悲鳴の主を悟った。窓際へ吸い寄せられ、あるいは立ち上がり、デスクのパーテーションから見やるだけで。
それは鴉が鳴いているのだった。
それは___異様な光景だった。
鈍色の空の下で、ただ一本の電線にみっしりと連なった鴉が、あれだけ整然と並んでいたのが嘘のように、今は嘴を大きく開閉して鳴いているのだ。ギャー、ギャーと。まるで見えない何かに縊り殺されんばかりで、鳴いているというより断末魔のようだ。
一匹が鳴けば別の一匹が連鎖して鳴き、今度は数匹一緒に鳴く。
ギャーッギャーッと鴉が鳴く。稀に、ゲ、だのゴオ、だのと、下手な鶏の真似のようにも鳴く。
まるで狂った合唱団のように、一列に並んだまま不気味に歌い続けるその姿に、公園にいた人々が蜘蛛の子を散らすようにして逃げていく。悲鳴のようなものを上げているものもいた。その中に子供がいないのは幸いだった。きっと泣いていただろう。
そして人が掃けていくと、段々と鴉の絶叫に不可思議な秩序が生まれだした。
叫ぶような鳴き声が段々と揃い始め、それはやがて、大勢いる鴉を二つの組に分けて交互に鳴きだした。鳴き声も妙な音程差があった。一度目は高く、二度目は低く。また高く、低く。いつしか二組は寸分たがわず、ぴったりと調子を合わせて。
そうすると、鴉の絶叫は狂った鶏が朝の訪れを告げているようにも聞こえた。
何度鴉は鶏の真似を繰り返したか? 数えているものはいなかったが、完璧に調子を揃えてからは、三回だ。
さながら鶏鳴三声。
彼らはそれを終えると、恭しく一斉に飛び上がった。飛び上がり、その軌道は即座に下へ折れ曲がる。低空を這うようして、その姿は足元に隠れる。
「こっちに来てない?」
窓際に張り付くように集まっていた社員の誰かが言った。「ねえ、ちょっと……」
だがそれに誰かが答える前に、黒い巨大な影が舐めるようにビルの正面を駆け上った。
風圧でビリビリと窓が震える。何人かが悲鳴を上げて思わず腰を抜かした。はじめは面白がって携帯のカメラを向けていた社員もいたが、今や面白みのないフロアの床と荒い息遣いを記録している。
何によっても説明できない薄気味悪い三十六度の熱気が充満していた。その人間たりの怯えようを嘲笑うように、鴉の大群の去った後の空は灰色に澄んでいた。
そして、その場にいる全員が「終わった」という漠然とした認識を持っている中、椿は動いた。その場で振り返った。
何かを感じた、というより、始めからそんな気がしていた。
妙な鴉の群れを見たときからか? あるいはもっと前、朝起きて見た空が曇っていたときからか?
そのどれもが結果論で、こじつけに過ぎないとしても。椿は妙に納得してしまった。世界中にいる多くの人が、会ったこともない「それ」を何かにつけて「きっといる」と信じようとすることを。
椿は振り返り、そして彼を見た。
既に一度開けられ、そして閉じたフロアの入り口にあたるドア。
その手前に、青年が立っていた。
「神様」
椿はまったく無意識に、青年をそう呼んでいた。
/
「__かみさま?」
不可解そうにそう繰り返し、遅れて振り返った上司は突然フロアに現れた青年を見てぎょっとした様子だった。無理もないだろう、外からの来客自体は珍しくないとはいえ、今目にしている来客というのは、ビジネススーツどころか時代錯誤に風雅な羽織を片袖に引っ掛けるようにして纏い、矢避けの草刷と帯で胴回りを締め、白と紺色の袴を脛あてで絞り、高下駄を履いているのだ。
今しがたまで演目中の歌舞伎役者が逃げ出して来たにしても、青年の佇まいは異質だった。
高く一つに結わえた癖のある白髪と揃いの双眸は、端から一人だけを見ていた。
「頼もう」
と、青年は歩き出すと同時に告げた。拒絶されることをまったく想定していない、あまりに堂々とした歩みと声だった。「突然の来訪、無礼を許せよ。私は……」
椿の横までやってきて、青年はそこではじめて椿を一瞥した。だが一瞬だった。
「私は、彼の守り神だ」
____わあ。
声に出なかったのはただの偶然だ。内心ですら「わあ」としか言いようがない。
そして椿の反応は、少なくとも周囲の社員や上司からしても同じものだったらしい。突然現れた傾奇者に対し、直前までの異常現象と相まって知らず息をつめていたものまで、青年の名乗りを聞いて、一気に緊張の糸が切れる。
つまるところ、この場におけるこの奇妙な格好をした青年について、彼らは理解した。頭のおかしい若者だと。稀に、しかしよくいる、もてあます情熱と想像力で勘違いした類の人間だと。
だが、彼らにとって想定と違うのは、彼らの失笑を受けてなお、青年が態度を替えなかったことだろう。
それは、堅牢な岸壁に小波が打ち寄せてはあえなく砕ける様子と似ていた。
いつのまにか失笑は止んでいた。
「貴様」
「はっ___?」
青年はまばたきもせず、窓際に集まった社員と一緒になっていた上司を見据えた。
「貴様だな、カンナの上官。その醜悪な顔、違えはせん」
「き、きさま……」
「問答は不要だ」青年は淡々と続けた。「彼にこれまでの暴虐を詫びろ。そして顔を出せ。悪人を誅するにも痛みを伴うからな、最後ぐらいは私が罰してやろう」
「は、はあ?」
「疾くせよ。まずは詫びが先だ。懺悔し、赦しを乞うがいい。その機会までは奪わん」
青年は不服そうにも腕を組み、静観の姿勢を取った。だが目つきまでは取り繕う気も無いのか、剣呑さを隠そうともしない。
その場に誰もがまるで叱られた子供のように萎縮し、大人しかった。この突然現れた青年に対して、誰もが、はじめは嘲笑っていたことを恥じるように、誰かに叱られたでもないのに、何故が自分はとても恥ずかしいことをしたのだと心から信じ切って狼狽えていた。
ただ一人を、いや二人を除いて。
上司が渇いた息を漏らしたとき、椿はそこにまだ活力があることに驚いた。息遣い、溜息の音、そういうものでわかってしまう。次に何を言うつもりなのか。
(あ、)
まずいな、と正直にそう思った。青年をぽかんと見ていた上司の顔が妙な痙攣をおこしたとき。
よしたほうがいい、と言いかけた。特別、上司のことは憎くもなければ好きでもない。本当に何でもないが、椿はそう言いかけた。人間だれしも、顔も名前も知らない赤の他人であろうとその人が足元の深い穴に気づかず歩いていれば、一声かけたくもなるだろう。
だが、結果的には間に合わなかった。
「き__お前、さっきから何を言ってるんだ? 黙って聞いてりゃ、何様だ?」
「なんだその恰好? 今日は学芸会じゃないんだよ、ここは会社で、お仕事をする場所なんだ、ぼく、わかるかな」
「椿、こいつはお前の従弟かなんだか知らんが、子供を会社に連れてくるな、ここは保育園じゃないんだ」
「はあ」
「やっぱり、あれだな」
「キチガイは知り合いもキチガイなん、だ」
「な」
今日は驚かされることばかりだ。
産まれてこの方、誰かを心から尊敬したことはない。よりにもよってその一人目がこの上司になろうとは、椿は想定していなかった。
だが心底尊敬した。よくぞ最後まで言い切ったものだと。罵倒しようと決めて、心にそう決めたことを、例えそれが、どうしたって間違っていて、自分が不利だと分かっていても最後まで主張しきったことを。
とっくに周囲に味方がいないと分かっているのに。
とっくに、おかしい、と分かっているのに。
それでももう止められない。止まらない。陸に打ち上げられた魚が、無駄で、意味がなくて、そうしたところで何が変わるわけでもないのに無様にうち跳ねるほかないように。
その岸壁を崩せないとわかりきっていても、小波は何度でも打ち付けて、そしてやはり身の程も知らず何度でも砕けるのだ。
「____そうか」
青年が組んでいた腕を解く。それだけの動作だ。衣擦れの音がかすかに鳴る。すべてただ、それだけのことだ。
「私は貴様を誤解していたようだ」
「……あ、?」
上司の口の端に溜まっていた泡が溢れそうになっていた。それを舐めとろうとしていた舌が、しかしもつれて意味もなく上唇を舐めた。
「潔いのだな。釈明もせず、極めて短い____そう、短いな」
短い、と青年は繰り替えた。噛み締めるように。
いい、とも言った。間違いなくそれは、賛辞だった。
青年がかすかに目を細めて微笑んだ。
「悪人の遺言にしては、短くて、良い」
青年はすこし俯かねばならなかった。腰を抜かして座り込んだ上司と視線を合わせるには。
「何故恐れる」青年は言った。「私が今していることは、貴様がしてきたことだ。力を振りかざし、屈服を強いる。貴様の救いようがないのは、貴様は力を振りかざしておきながら、服従を強いておきながら、それが自分に向けられえるのは許さぬという愚鈍な醜悪さだ」
朗々と語る青年のこめかみに、音もなく血管が浮き出た。
「何を狼狽えている。何故怯える? それが醜悪だというのだ。他人を疎かにしておきながら、他人に疎かにされるはずがないと、信じ切っている貴様の撒き散らす暴虐が、私にはなにより許し難い____」
青年が体の脇に垂らしていた手をふいに動かす。右手の指先が節くれだち、それは何もない虚空に何かを掴もうとしたようだ。
そして無色の空気がにわかに歪みはじめたときだった。
椿が青年の手を握ったのは。
「そこまで」
決して大きくない声がフロアに響き渡った。まるで電撃打たれたように、青年も、床に座り込んでいた上司も、周囲の社員まで震えた。中には呼吸を忘れていたのか、涙ぐんで咳き込むものもあった。
青年の目が椿を見た。その目は透き通っていて、だが中心に一片ばかりの戸惑いがあった。それを見つけたとき、青年は自分がなぜか安堵していることに気が付いた。
「もういい」
と、椿は言った。言ってから、さらに言い直した。「もう、十分だ」
そうして呆然としている青年と周囲が夢から覚める前に、椿は上司と、そして丁度良く集まっている社員という証人に向けて言い放った。
「急な話で申し訳ありませんが、しばらく休みを頂くことにします。どうも昨日から顔が痛んで仕方ないので。病気休暇を取得する予定ですが、診断が下りるまでは有給休暇扱いとしてください__たしか、入社以来使っていないものが二か月分あるはずです」
椿は青年の手を引いた。青年はまだ呆然としたまま、手を引かれるままつられて歩き出す。
青年を連れてデスクの私物をまとめ、フロアを出るのはあまりに簡単だった。最大の難関だったことといえば、ちょうどフロアを出た矢先で見知らぬ、やたら身なりのいいスーツを着た男とぶつかりかけたのを躱したことぐらいか。
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