椿落ちる頃

寒星

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第一章 神が降ってきた

07−2 神無月

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「まあ、神様が信仰ありきというのはわかるけども……」
「お前というやつは、変なところで疑い深いやつだなあ」
 よし分かった見ていろ、と青年がにわかに意気込むので、椿は一体何が始まるのかと身構えた。
 だが青年は息を吸い、そして椅子に座り直した。
「__まず、鶏が鳴く」
 そのときだ。
 きっとこの店の真上からだと確信できる。そんな鳥の鳴き声がした。
 笛を力強く吹くような、凛として伸びやかな鳴き声だった。一体どんな鳥が鳴いているのか定かでない。
「これを三度」
 青年の声は囁くようであった。現に青年の声と、それに呼応するように山彦のごとく鳴く鳥の声を結び付けなければ__例えば鳥の声だけが聞こえている店主などは、よく鳴く鳥だと聞き流している。
 きっかり三度繰り返すと、それきり鳴き声はぴたりと止んだ。
 否、鳴き声だけではない。
 店内に流れていたバラードがいつの間にか消えている。そのことに気づくまで時間がかかった。ようやく椿と店主がそれに気づくと、椿は眉を寄せ、そして店主は首をかしげながらカウンターの中にしゃがみこんだ(そこに音響装置があるのだろう)。
 まもなく、ふたたびバラードが染み入るように、そしてどこかおずおずと響いてきた。
「もっと分かりやすいことも出来るのだが、他人の家だ。今のはほんの触り、前座のようなものにしておいた。これなるは神を迎えるにあたっての儀礼、古くは天照大神を天野岩戸より誘うため用いた鶏の鳴き声に由縁するものだ」
「……成程」
 椿は小さく呟いた。合点がいった。青年が職場にあわられる寸前に起こった鴉の大群の奇行は、この青年の力だったというわけかと。
 にしても、おそらく最も近くにいた鳥を鳴かせる術なのだろうか? 先ほどは耳に心地よい鳴き声だったからよかったが、それが鴉、しかもあんな大群に作用すると、同じ出来事とは思えないほどの差だ。
「成程、納得した」
「ようやくわかってくれたか!」
「流石にこうまで立て続けに事が起きれば」椿はランチプレートと共に運ばれたカトラリーからフォークを手に取り、サラダに刺した。「ここで反論しようとしたら全部屁理屈になる。納得する方が手間が少ない」
「うむうむ」
 青年はすっかり上機嫌でホットサンドを手に取り、ぱくぱくと勢いよく頬張った。
「ようやく私の偉大さに気が付いたか。全くお前には苦労させられたものだ、この爆イケ天才を前にしてこうも意地をはるとはひねくれものめ。しかしよい、許してやろう、何故なら正真正銘私は神なのだからな! 崇めるといい!」
「そうだな、確かに、それはそうだ」
「だろう!」
「じゃあ崇めたいから教えてくれるかな、神様って__何の神様なの?」
 ぴたり、と青年の動きが止まる。あっという間に最後の一口になったサンドの端をつまんだ指も、今まさにそれを丸のみしようと開きかけた口も。
 椿は完全な静寂の中、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。一口。
「神様ってことは何かしらの理由で崇められるわけだけど、何がそうなの?」
「神様なら寺とか神社とか、祀られている場所もありそうだけど、何処かあるの?」
「神様なのになんであの日あんな水路に落ちてたの?」
 抑揚のない口調は、ただ聞いているだけならば、低くうっとりするような、流れる水のようにとつとつと染みこむ声ではあった。
 だが青年にしてみれば流れるように際限なく浴びせられる弾劾の言葉は水は水でも豪雨のそれだ。顔面に浴びせかけられ、青年は憤慨した。
「私をいじめて楽しいか!?」
「割と」
「不敬かつ性格が悪い!」
「神様が神様だってことが分かって、不思議なこともできるようになって。それで少しは記憶が戻ったりはしないの」
「そ、それは……私も、時間が経てばいずれ、とは思っていたが……」
「戻らないんだ」
 青年は重く頷き、そして右手に摘まんでいたサンドの残りをちびちびと齧った。数秒前とは別人のような落ち込み具合だ。
 椿は特別信仰心が篤いわけでもなければ、かといって熱心な無神論者というわけでもない。世界中の何処かにはそんな生き物もいるだろう、という具合の無関心さで、いたとして自分とかかわることはないだろうから気にするだけ無駄だというスタンスである。
 それがまさか、神を自称し、そして今やいよいよ本当にそうらしい青年が、何の因果か目の前に座ってちまちまとサンドイッチを食べている。
 さてどうするか。椿は考えた。
 だがその思索はそう長くかからなかった。椿の目は吸い寄せられるように、視界の右端から一つの文字を拾い上げた。
 “神“。
「カンナ?」
 おもむろに席を立った椿を訝しむ青年の声。だが椿は振り返らず、そのまま右手の壁に近づいた。そこに吊された月めくりのカレンダーをよく見るために。
 それは上下に分かれており、上に国内名所の写真と、下にはシンプルな暦が掲載れている。今は十月だ。上の写真は出雲大社がやや仰角に切り取られ、見上げるような構図はその尊大な社の風格をよく捉えている。
 そして問題の文字は、その写真の右下に白抜きで印字されていた。

 __十月、神奈月。
 __日本に住まう八百万の神々が縁結びの相談のため出雲へ集うことから、神のいない各地では神奈月は神無月とも呼ばれ、逆に出雲では神在月と呼ばれることが……
 
 当然、ここは出雲ではない。
 椿は顎に手を当てた。いつの間にか青年も席を立って横に並び、カレンダーを眺める。
 カレンダーを眺める不思議な二人客のことを店主も不思議そうに見ていたが、ちょうどその時新たな来客があった。「いらっしゃいませ」と低く落ち着いた声でその一人客を歓迎する。その客は道路沿いのテーブルに座った。
「神様」
「うむ」
 どうやら椿が考えていることを、青年も察しているようだ。椿が顎を引いて隣を見れば、青年はどこか期待に満ちたような目をしている。
 こうしているとただ図体が育っただけの子供のようだ。その目の輝きようを、どう説明したらいいだろう。
「行く? 出雲」
「__神が集うと言うのだ。行かねばなるまいよ」
「はいはい」椿は肩をすくめた。「まあ、俺は慰安旅行ってことで」
「供回りを許すぞ、この私の第一の信者としてな」
「はいはい」
「返事は一回だ」
「ふん」
「ふ、ふん!?」
 絶句する青年を脇目に、椿はカレンダーの端に印字されていた旅行会社の名前を見た。有名な会社だ。CMに雑誌、インターネットでも一番に名前が上がる大手と言っていい。
 携帯を取り出し、早々に旅程を仮定して検索する。陸路、宿泊先、日数、おおよその費用。悲しきかな、急な出張や県を跨いだ移動を強いられることが多く、下調べは手慣れたものだ。
 大型連休もないオフシーズンゆえか、望外のスケジュールが組めそうだ。椿は携帯の画面に開いていた画面を全て閉じ、そしてテーブルに戻った。
「さて……すると、まず何をしなきゃいけないんだ?」
 仕事の出張ならば即座に発てるが、思えば旅行というものは初めてだ。社員旅行がなかったわけでもないが、あれは思えば接待営業のようなものだった。
 何かぶつぶつ言いながら対面の椅子に戻った青年を見る。
 そして椿は、眼前の大きな問題を目の当たりにした。
 青年。
 どうしていまの今まで気づかなかったのだろう。いや、自分にとっては見慣れていて、失念していた。
 その__明らかにこの時代のものではない、時代錯誤で雅な出で立ち。
「なんだ、カンナ。如何した」
「……神様」
「む?」
「近いうちに、服でも買いに行こうか」
 そしてようやく椿は自分用のサンドを手に取った。青年は深く首を傾げて、みせ、とたどたどしく復唱する。
 その動きにつられて、片耳だけにつけられた朱色の耳飾りが揺れた。
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