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第二章 神はいずこ
10-2 神は何れか
しおりを挟む風呂に入る前から逆上せている。
「……神様」
呼びかけても、青年は硬直したままだ。目を合わせなければ気づかれていないと思っているらしいが、それは違う。
貸切風呂の脱衣所。衣服を入れておく竹の編み籠を備えた棚に向かって深く俯いている青年だが、そのせいで背面の洗面台にある鏡には、血色ばんだうなじが余すところなく映しとられている。
宿にいくつかある貸切風呂は一人から多くとも一家団欒程度の利用を想定しているため、脱衣所も浴槽もそう広くはない。
柔らかな黄色に滲む蛍光灯に照らされ、入室以来、いや風呂に入ろうと部屋を出て以来、もっと言えばその前の夕食の席から、青年はろくに言葉を話していない。
「俺は別の風呂に入ろうか?」
「なっ__ま、また攫われたらどうする!」
くつろぐために風呂へ入るのに、これではさらに疲れるだけだろう。そう思っての提案だったが、言われた青年は即座に反対した。「まだあの狐が近くに……いる、絶対いるぞ! 私たちが此処を離れていないのだ、お前を攫う隙を今も何処かから虎視眈々と狙っているはずだ」
「それはそうかもしれないけど」
「わ、わたしは」青年はうろうろと視線を彷徨わせ、そして背後の洗面台へ足早に近づき、筒状の竹椅子に腰かけた。椿に背を向けて。「私はこの部屋にいる。風呂への戸は開けておけ、それなら万が一があっても今度こそ」
「そういうちょっと離れた隙を突かれたんじゃなかった?」
「うぎゅ……」
洗面台の椅子に座った青年の、そこだけ真っすぐに伸びた背中を眺めながら椿は苦笑した。
「まあ、攫われておいてこんなこと言うのもなんだけど。少なくとも俺に乱暴をしたいという感じじゃなかったから、最悪もう一度攫われても大丈夫だとは思うな」
「馬鹿を言うでない! あんな得体の知れない輩をお前と二人きりにできるか!」
「じゃあ、入るしかないね、風呂。俺と一緒に」
「うっ」
「別に取って食いやしないよ。ちょうど腹は膨れた後だし」
「腹が膨れてなきゃ食うのか!?」
打てば響くような返しに、椿はわざと面食らった顔をした。そしていつもの調子に戻っ拍子に半分腰を上げた状態の青年と見つめあう。三秒。
椿はふふと笑った。わざとらしいほど優しく。
「かもね」
「____ッ、ふ、ふけ、不敬!」
「俺は先に入ってるから、攫われないうちに神様もおいで」
「あっ、え、ま、待て……いや待てじゃなくてえっと、こらカンナ!」
文句が投げ終わらないうちに椿はさっさと服を脱ぎ、外へ続く暖簾をくぐると同時に擦り硝子の引き戸を開ける。
二人の宿泊する四階の部屋から最も近い貸切風呂は三階にあった。階層の一部壁と天井を取り払い、バルコニーのように張り出した板間に檜風呂が埋め込まれた露天風呂となっている。
落下防止用の柵と硝子壁に囲われてはいるものの、眼前には星の少ない月夜と弥山の峰が見える。向きと高さもあって外からの目を気にする必要も無い。
二席用意されたシャワー台で全身を洗い、薄緑に透き通った湯が今もなみなみと駆け流される湯船に浸かる。全身が熱とゆるやかな水圧に包まれ、思わず長い息が漏れた。
そのまま暫くは景色を堪能することになろうかと思ったが、存外早く背後で引き戸が滑る音が鳴った。
振り返らず、声もかけずただ湯に浸かっていると、ぺたぺたと濡れた湯殿の床を歩く音。シャワーのコックがひねられ、水が流れ、跳ね返る音。
再びコックの回る音。きゅっと小気味よく。
少しの間、無音だった。それから勢いよくシャワー台の椅子ががたついて、濡れた足音。
「……なに笑ってる」
「笑ってないよ」
「嘘を吐け」
「冷えるから、先に湯に入りなさい」
「稚児か私は!」
「足を滑らせないように」
そう言って椿が湯船に沈めていた右手を高く差し出すと、青年は眉間にしわを寄せ、いらん、と広げられた手のひらを丸めた。
絶えず流し込まれる温泉に波打つ湯船に、新たに右から波紋が立つ。力んで口を閉じていたようだが、青年は耐え切れずはあっと蕩けた息を吐いた。
「ふ、」
「____笑ったな!」
「今度は、はい。認める」
呆気なく薄情されたからか、単に気の抜けたところを見られたのが恥ずかしいのか。その両方だろう。青年が鼻の下まで湯に沈んだ。
青年の長い髪が湯の中に広がった。まるで百合が水中で散るように。
「髪、濡らしておくと傷むよ」
青年の口はまだ水面下に沈んでいる。視線だけで胡乱と睨んでくるのをやりすごし、椿は水中に広がった髪を一筋ずつ集めた。手のひらに集め、束ねて軽く水気を絞る。
そうして引き揚げたはいいが、生憎髪留めは持っていない。青年がもともと使っていたものは脱衣所で外したきりだろう。かといって取りに戻るのも面倒だ。
結局、椿は青年の髪を帯のように束ね、重ねて手に持っておくことにした。
青年の髪に何度か触ったことはある。風に煽られた毛先が手にあたったり、買ってやった雑貨に夢中になっている横顔にかかる髪を耳にかけてやったり。
しかし、濡れてみるとまた感触が変わるものだ。濡れて艶を含み、肌に吸い付いてくるようなこの感触は、小説ならば絹のようとでも記されるのだろう。
「カンナ、」
いつのまにか顔を水面から上げていた青年が小さく呼ぶ。
「なに?」
「その、髪を……」
「髪?」
「か、髪を……あんまり、指で、こう……すりすりするな」
「すりすり」
「だ、だからその、手でこう、ぎゅっ、と__っだああもういい! 貸せ、髪なんぞ適当に束ねておけばいいのだ!」
「傷むから駄目」
「い、」
青年はまだもの言いたげにしていたが、結局その言いたいことは頬を膨らませるに終わった。ややあってから、
「お前は、私をどうしたいんだ」
と、蚊の鳴くような声で言う。青年が水面に口づけするほど体を縮め、俯きがちになっていなければ、その息遣いに波紋が立たなければ、椿はその声を聞き逃してしまったかもしれない。
「どう、ね」椿は水面からくゆる湯気を眺めた。水面の端の方では、青年の足が湯船の底をせわしなく踏んでいる。「とりあえず、そうだな……記憶を取り戻せたらいいね、とは思っているよ」
「それ以外は」
「それ以外?」
「あの……あのときは、何故……」
泣いている私に、とまで言って、青年は口を噤んだ。喉を鳴らして唾を飲み下す。伏し目がちになった上瞼に並んだ睫毛が濡れて、湯気によってこまやかな滴をまとっていた。水をはじく肌の、形の良い耳柄からこめかみにむかって、そこだけ他より一段と赤い。
首筋を伝った水滴は結露だろうか? それとも別の何かだろうか。
「断りもなく、ごめん」
「……謝ってほしいのではない、なぜ、あんな__あんなことをしたのか、と聞いている。それが分からねば、私だって、怒るもなにもない」
「何故、と聞かれると困るな」
椿は頬をくすぐる視線を感じた。振り向けばきっと驚かせると思い、自分は眼下でゆれる淡い緑の水面を見つめたまま。
「泣き止んでほしくて」
「__それだけ、か」青年の声は水気を纏ってかすかに重い。「なら、お前は。目の前で泣いているものがいたら、その全員に、ああしてやるのか」
「流石にそんなことはしない」
「泣き止んでほしかったからしたのだろ」
無意識に指が動く。その指は青年の髪を預かる手のものだった。
髪にまで神経があるのか、青年のほうから細波が立った。
「そう」
と、椿は言った。舌先からつい取り零すような声だった。
「そう。泣き止んでほしかった。神様に。だから、ああした」
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