椿落ちる頃

寒星

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第二章 神はいずこ

11-4 神は誰か

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 下すべき沙汰がない限り、春絶は拠点としている飛鳥の山々を日毎見回るほかは己の神域で過ごしている。そこで何をしているかと言えば、ただひたすらに瞑想している。
 ならば瞑想とは、と。
 そう問われたら、春絶は答える。その問いに答えが出てしまうのならば、それは瞑想ではないと。雑念を排し、煩悩を殺して無我の境地へ至る。
 瞑想のなんたるかを常に問われ、しかし言葉で答えず。雑念と煩悩を殺さずには滞在の叶わない春絶の神域は、そういう意味では彼らしく、そしてその彼らしさというのは、虚無そのものだった。
「_______」
 今日も、また。
 深い瞑想に沈んでいた意識が浮上する。凍り付いた湖面がひび割れるように、己が戻ってくる。
 神域に吹き荒れる雪の礫(つぶて)が頬を叩く。凡俗の体ではただ立っているだけでも全身が切り裂かれ、或いはその前に凍え死ぬような猛然とした白の嵐。全てを塗り潰す純白。 その中央、雪原にゆっくりと足をつける。肉、骨、重さ。それらを意識の中に取り戻して。
 それから__瞑想を妨げた原因を探す。
 山に棲む眷属ら、獣の有事とは違う。そもそも広大な山々において、生き死には日常茶飯事であり、時として血の流れるそれもまた、摂理の一部だ。
 春絶を取り巻いていた吹雪がゆるやかに勢いを失い、そうして止む。
 あとに残ったのは、切り立った断崖と、それを染め上げる強烈な西日。現世は今まさに日没の刻らしい。山々の稜線が赤々と燃え、輝いている。色とりどりの紅葉が入り乱れる山肌に朱をそそぐようにして、光は異なる反射の具合によって波打って見える。
 夕日はゆったりと木々の上を行き来しながら、段々と弱く、遠ざかっていく。
 切り立った険しい崖の縁に立って暮れなずむ山々を眺めている春絶の耳がピクリと動く。耳飾りが振れる。
「__何用か。若き神使」
 振り返るまでもなく、春絶は来訪者を言い当てた。「長居は不要と伝えた筈」
 返事はない。春絶はそこで振り返った。
 木々と藪の開けた断崖に至るやや低い位置に、あの白髪の若い神使が膝をついて控えていた。高く結い上げた髪が地面につきそうだ。神使らしい色のない狩り衣を纏い、腰には太刀を佩き、背にはあの大弓がある。
 若い神使はなおも随分長く躊躇したのち、まずは突然の来訪を長々と詫びた。それからようやく「弓の御礼を」と本題に至った。「重ね重ねのご慈悲を賜り……」
「お前を扶けるは道理と、これも言った筈だ。礼は不要」
「しかし、」
「本懐を告げるがいい。礼だけ述べて済むのなら、態々斯様な地へ足を運ぶこともあるまい」
 狂いなく正鵠を射抜かれ、若い神使が口ごもる。春絶はただ「申せ」と繰り返した。「お前が恐れるべきは、私の機嫌を損ねるかどうかでも、私に裁かれるかどうかでもない。おそれるべきは、ただこの山に長居し要らぬ嫌疑を受けてしまうこと、これだけだ」
 神使はなおも躊躇いを振り切れないようだったが、あるときすっくと立ち上がり、その背に負っていた大弓を手に持った。
「修繕していただいた手前、無礼を承知で申し上げます」
「ああ」
「お直し頂いた後、この弓の弦が……満足に引けず……」
 ____弦が引けない。
 弦が引けなければ、矢を放てない。
 矢を放てないのならば、弓の使い出はない。
「弓が壊れたのではありません。勿論、むしろ以前より優れた材質になったことは承知しております。それに感謝も。しかし、しかしどうしても__私の力では、弦が満足に引けずに__力量不足を認めたくはありませんが、それ以上に、戦場で弓を扱えぬことのほうが、大事です」
 逐一春絶の顔を立てつつ、神使はどうにか本題を言い切った。その凛とした眉は歪み、どうにかこうにか言い切った後は、沙汰を待つばかりの逆賊でもしないような青ざめた顔で立っている。
 とはいえ神使の言っていることは、単にこういうことだ。神使の扱う弓を春絶が直した際、春絶の力加減で弦を張ってしまったため、神使の力では扱えなくなってしまった。
 結局、このきつく張りすぎた弦をなんとかしてくれと、そういうことを言いたいらしい。
「成程」
 春絶が声を発する。それだけで神使が微かに肩を震わせた。
 そのことをいちいち気遣うつもりはない。恐れるべきものを恐れているのだ、この神使は。それは正しい反応だ。
「弓を」
 春絶がそう言って手を差し伸べると、神使はすぐに駆けより、その手に恭しく弓を献上した。
 春絶は受け取った大弓を持ち直し、試しに一度弦を引いた。すると弓はその身をなめらかにしならせ、弦は鋭く引き絞られる。
 神使が絶句するが、春絶は特に感慨もなく、今度は神使に弓を持たせた。
「構えろ」
「え__は、はっ」
 神使は直ちに従った。見えない矢を番え、そうして弦に指を添え。
 そこで、そこからどうしたものかと神使が指示を仰ごうと顎を浮かす。
 だが一瞬前まで隣にいた春絶はそこにいない。
「そのまま」
「っ!」
 声は神使の真後ろから。驚きに硬直する神使の手に、腕に、外側から黒い手甲と和装の袖に覆われた別のそれが添う。
「力の限り引け」
「……っもう、引いています」
「いや」春絶は弦を引き絞らんとする神使の手の上に自分のそれを重ねた。「お前の手は弦を引いていない。お前の指は弦にすら振れていない。お前の中に、番えるべき矢とその向かう先が無いからだ」
 神使はただ歯を食いしばり、それでも弦を引こうと足掻いている。細い弦を引こうとする右手の甲には蚯蚓のような赤い筋が浮かび上がるが、それはまるで神使の必死さを嘲笑うように何度か引き攣って__そうして平らになる。
 細い弦ひとつ動かせず、弓から手を離した神使は息を切らしていた。
「私は弓を直しはしたが、それ以上のことはしていない。弦を引けぬのは私の力加減ではなく、お前の心次第だ」
 神使は手負いの獣のように短い息を繰り返す。西日に当てられて、そのすぼまった顎から滴る汗が光った。
「神使とは神の先鋒。その力は神に由縁し__神への心に翳りあらば、如何な名刀も剛腕も、枯木に等しい」
 この神使はどうやら、自らが仕えている地母神が自分を見捨てたことを知ったらしい。
 神使は仕えるべき神を選べない。そもそも生前の記憶を失い、空の器となったそれを見初めた神が自らの権能を分け与えて満たし、神使とする。
 与えられた神秘によって神使は神を崇拝し、神はその崇拝に加護を返す。その繰り返しによって双方に強固な結びつきが生まれ、時を重ねた神使は、もはや神使と一括りにした枠に収まらない。自分だけの名を持ち、その名を神に呼ばれるようになる。
 だが、この若い神使は。
 己の神への信仰心が揺らぎつつある。故に、これまで扱えていた弓が扱えず、神使としての力__その器がひび割れ、受ける加護や世に満ちる霊力は器に溜まることなく漏れ出ていく。
 本来であれば、神使の憂いは主が晴らすべきではある。だが、現実問題、こうして彼が真っ先に頼ったのは春絶だ。
 ____神使とは、神の先鋒にして我らが同胞。
 それが春絶の認識だったが、必ずしもすべての神が、すべての神使に対してそうとは限らない。
 この神使の主は、何をもって彼を神使に迎えたか。
 白く長い髪と、精悍で、まだ若く、強く美しいまま死んだ武者を見て。
 神使に迎えれば、この青年は永劫に若く美しいまま____
 そこで、春絶は思考を断った。推測と妄想は分けなければならない。これ以上の推測は邪推になる。
 少なくとも己は、この若い同胞に何をすべきか。
「……心は何処にある」
 神使が顔を上げた。うっすらとまだ汗ばんだ顔に髪がはりついている。
「お前の心は何処にある?」春絶は神使の目を見つめた。「お前の心は何に動く」
 神使は。
 一度は言おうとしたらしい。それは全て主たる地母神の威光によって影を落とし、そこにあると分かると。
 だが、その言葉はろくに音を伴わなかった。彼が口から零したのは、あえかな息だけだ。
 春絶は目を閉じた。断崖へ背を向けて立つその姿は、纏う黒の和装をより一層黒々と、冷え冷えと見せた。だが、間もなく山脈に沈もうとする西日が散らす火花がときおりその頬に爆ぜた。
「心は自由に」
 と、春絶は詩を諳んじるように言った。目を伏せたまま。「迷いを捨て、偽りを恥じよ。ただ己の感ずるままに、己を許せ。そうしてはじめて、心が分かる」
 その言葉が言い終わるとともに__ふと、風が止む。
 全てが静止した。気流の漂いも、沈みかける西日の爆ぜるさまも。
 枝から飛び立とうとした一羽の雀が、羽を広げたまま空を仰いでいる。
 木々から散った落葉を一枚。
 己の顔の横を翻りながら落ちようとしたそれを、春絶が手に乗せた。
「息をしろ」
 言われた神使が目を見開き、そして咳き込んだ。息を止めていた、否、止まっていたのだろう。全ての肉と骨、間違いなく彼の意志によって動くはずのすべてが。
「これは……一体何の……」
「獣に術理が使えるものか」春絶は手に持った鮮やかな黄金色の葉を眺めた。「だが、獣には獣の業がある。人がその豊かさゆえに忘れ、見慣れて、見失ったもの。我らにとっては、あまりに異質で、故に眩しく、見失いようがない」
 踵を返し、春絶は断崖の先へと歩き始めた。中空で止まり続ける紅葉の一枚一枚は、春絶の肩に当たれば押され、そしてその先で止まったまま。
 西日が段々と弱まっていくのは、放たれた最後の火花がこの真空の世界で燃え尽きようとしているからだ。
「心は自由に……」
 春絶が呟く。これは独白だった。
 そうして断崖の果てに至り、半身振り返る。若い神使はただ、すべてが静止した世界に見入っていた。
「邪念を捨て、雑念を払い。悲嘆の波濤を退け、怨嗟の大火を水面に弔えば、凪いだ湖面に月が映る」
 春絶の手がゆっくりと上がる。その手には一枚の葉がある。
 若い神使は、手にしていた弓をゆっくりと構える。まるで二人の間には見えぬ糸があるように、高く浮かび上がる一葉と弓の見据える高さは同じだった。
 あるとき、春絶が掲げた手を開いた。
 その手から黄金色の葉が滑り落ちる__と同時に、真空だった世界に突風が吹いた。抑え込まれていた気流が、まるで檻を破った獣のように四方から踊り出て、木々の葉を食い散らす。
 視界は鮮やかな紅葉に塗り潰された。一寸先も見えないほど。
 だが____
 春絶は赤と橙と黄と、それらが狂乱する世界にあって、白い影が弓に矢をつがえ、弦を引き絞り、そうして放つのを見た。
 飛翔する矢に形はない。鉄の鏃も、塗られた尾羽もなく。だが真っすぐに飛んだ。
 そうしてその屋は過たず、狙った通りの一枚を貫いた。
 視界を埋め尽くし、舞い上がり、舞い狂う同じ色の葉、それのただ一枚も傷つけることなく。
 ただ狙いすました一葉を貫いたとき、喝采するように再び風が吹き、全てを洗い流した。
 そうして一陣の突風が過ぎた後、山の中腹にある断崖には、二人だけが残った。

「見事」

 簡潔に、ただ事実そのとおりに評した。
 神使はただ茫然としている。手に握ったままの弓は、もはや手に余る大弓ではなく、まるで寄り添う旧知のようにその傍らへ馴染んでいる。
「今、のは……」
「風が吹き、木々が揺れた。それだけのこと」
 役目は終わった。春絶はまたゆっくりと歩き出し、崖の際から離れる。方向として神使に近づく向きではあるが、用はない。もう用は終わった。
「____いつも、このような心であるのですか」
 横を通り過ぎる、通り過ぎようとしたその時に。
 悩みに悩んで、神使が口を開いた。
 憂いが晴れ、迷いを脱した者のする顔とは思えなかった。春絶は思わず足を止めていた。
 神使は足を止めた春絶にたじろぎ、すぐに顔を伏せた。「ご無礼を……」
「何が言いたい」
「お許しください……」
「許しを請うようなことをしたのか。罪の何たるかを知らずにただ面従し、虚礼を述べることこそ恥だろう」
 神使はこわごわと顔を上げた。そして、彼の中で想像していたほど春絶の顔に怒りや苛立ちが無いことを見て取ると、安堵したような、あるいはどうしてか、落胆したような顔をした。
「……心は自由に、と」神使は弓を強く握った。「そう仰いました。けれど、自由というものが、先ほど私を満たしたものであるなら。あのような、感覚が研ぎ澄まされ、自分以外の全てが止まり、まるで……この世に一人きりになったような、あれは……」
「おそろしいか」
「__はい」
 神使は偽らなかった。軋むほど強く弓を握り、秀麗な眉を寄せている。「自由というものは、もっと、ただひたすらに果てもなく、心地よいものだと」
 春絶は一度瞼を下ろし、そうしてかぶりを振った。
「神使よ。自由とは、放埓を許す免罪符ではないのだ」
「……私は、罪から逃れようとして自由を謡っているのではありません」
「理解している。理解していて、敢えて言った」春絶は神使の白い髪と白い瞳を見た。「成程貴殿は、生前よほど清廉な武者だったのだろう。質実剛健にして青天白日たる男だったのだろう。故に、自由もまた清らかで、喜びだけがあるのだと信じている」
 神使は真っすぐに春絶を見返した。神使の白い眼は春絶を映して灰色に色づき、春絶の黒い眼は神使を映して白く濁った。
「貴殿が自由を心地よいものであるはずと思うのは、生来貴殿の在り方がそうであるからだ。清く正しく在らんとしてそう振る舞っていたからこそ、なんら縛られることなく、清廉な心のままに、ただ自分が善いと信じることに、立場や環境に囚われず身を投じられたらばどれほどよいかと、そう思うのだろう」
 夕凪の刻だった。風は弱まり、巣へ帰る雁の群れが西日を追いかけて遠ざかっていく。
「自由に在るということは、己の指先ひとつに至るまでの全てが、己ただ一人の信によって動くということ。その全てにおいて、ただ一人、誰とも分かち合わぬ責を負うということ。
 即ち自由とは、誰からも許されるということではなく、誰からも許されぬということなのだ」
 自らこれ由として振舞うならば、その拠るべは己の信条のみ。
 自由の名のもとに振舞うということは、その結果全てを、ただ一人で背負うということ。
「真に自由たらんとするならば、何にも囚われてはならぬ。何者にも縋ってはならない。故に確固たる信を抱き、己の心ひとつを抱き____そしてその心すら棄てられる」
 春絶は羽織の袖から差し出した手のひらを翻した。空気をやわらかく捏ねるような手つきの終わり、その手には一輪の椿があった。
 神使もまた手を差し出した。こわごわと。
 水面へ浮かべるように、春絶は椿を神使の手のひらへ乗せた。
「あ____」
 しかし、椿は神使の手に乗せられて間もなく、ひとりでに花弁を散らし始めた。それは本来、椿という花にあるはずのない散り様だった。椿は枯れるとき、花の根元から丸ごと落ちる。その散り方が、さながら首を落とされるようであるから、椿は「首切り花」とも呼ばれる。
 だからこうして一枚一枚、溶けるように散るさまは、有り得ないと分かっているからこそ目を奪われた。
 やがて最後の一片まで散り終えると、神使はひどくしくじったような顔をした。
 だが春絶は特に顔色も変えず、散った椿の花弁を手のひらで払い落した。
 花弁が散る。そして砂塵のように、それは無風の空に消えた。
 思わず花弁を取り戻そうと神使の手が伸びて。そして掴んだのは虚空のみ。
「散りゆく花に手を伸ばし、虚ろを抱く____自由とは、ほど遠いな」
 それが己への叱責であると、神使はそう受け取った。
 己を見つめるその顔を見るまでは。
 裁きたがり、力に目が眩んだ餓狼。そう呼ばれる存在の、その目を見るまでは。

 暗転。
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