椿落ちる頃

寒星

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第二章 神はいずこ

13-1 神はうたかた

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 白綺が太宰府へ発って一年が経った。
 季節は晩秋の頃、飛鳥の山々も頂上から徐々に白くけぶり始めていた。何処からともなく霜が踏み砕かれる音が響き、乾いた枝が折れて甲高く鳴る。山伏が火をおこそうと打ち鳴らす石が夕暮れを教えた。
 その日、春絶は常よりも長く深い瞑想に浸っていた。意識は深淵に沈み、肉、骨、皮、そしてこの世という殻すら破って夢境へ至り、山中の獣らは主の気配がまったく聞こえないことに少々心もとなさを覚えるほどだった。
 連綿たる飛鳥の山々を西日が塗分け終えた頃、ようやく春絶はこの世の境から戻った。
 降り立った山頂からは、赤々と落陽に燃える山肌が見えた。
 そして__風に髪を遊ばせる武者の姿も。
「春絶殿」
 武者の手から烏が飛び立つ。振り返った白綺は愛弓を携え、そこに立っていた。「只今戻りました」
 山を発った時と変わらない凛とした風貌に長く結わえた髪。
 身にまとう狩り衣は随分と風雅で傾奇なものになっていたが、半分だけ袖を通した漆黒の上掛けも、ごく僅かな脛あてや帷子もなにもかもがしっくりと様になっている。
 武者というよりも高名な演者の如く艶やかで、しかし隠しようのない、抜き身の刀の様な武の香りを纏って、白綺はそこにいた。
 そして今や大宰府でも音に聞く大神使となった彼の片耳には、少々古風な朱色の耳飾りが変わらずに揺れている。
「息災でなにより」
 春絶が短く返す。間違いなく歓迎の意志を聞き取っても、白綺は凛とした風貌をたちどころに崩した。
「……驚かれないのですね、ちっとも」
「何を驚けと言うのだ。お前ならばきっと立身出世して戻ると知っていた」
「それは、それはそれで、無論嬉しい言葉ですが」
「__それに。お前はこの一年で、随分と策略家になったようだな、白綺」
 春絶が袖内から一通の文を取り出す。大宰府からの通牒を示す印が押されたそれを見て、白綺は言葉を詰まらせた。
 それは大宰府を総本山とする天神からの文。白綺は春絶の神使ではないが、事実上飛鳥の地から優秀な武者を引き受けた手前、これまでもまめに大宰府の神使は春絶に文を送っていたが、一年という一つの区切りに、天神そのひとが筆をとった。
 内容は様々記されていたが、最も重要なことを抜粋すれば___

 ____今や大宰府でも弓の名手となった武者が貴君に懸想していると聞く、話を聞くに、貴君も武者を憎からず想っているだというのに、何故こうも彼を遠ざけようとするのか。

 ____彼はこの大宰府に足跡を残し、多くの武功を立てた。ならばその功績に報いてやらねば、世話を焼かねば、主であり神の名折れというもの。

 ____どうかご一考を賜りたい。若人の未来を憂うことは老兵の嗜みであるが、長きを生きたとて、老いさすらうだけがさだめではないはず。

 ____貴君にとって、今の貴君のように心を閉ざし、ただ明日を憂うことだけが、彼のあるべき未来の姿だとお考えでなければよいのだが。

 つまるところ。
 かいつまんで言ってしまえば、あの天神と名高い永代が、わざわざ世話焼きの老人のように小言を言っているのだ。

 好きなら好きと言え、と。
 皮肉たっぷりに。

 これが知古の言であったり、風評の類であれば春絶は黙殺しただろう。だがあいてはあの天神である。神であると同時にこの国の三本指に入る大怨霊の側面をもその身に宿す奇神。
 大宰府の神使の文では、白綺は手紙を自分で書くこともせずただひたすらに武者修行に打ち込んでいるようだったが、それは同僚のよしみだったようだ。天神からの文には、宴席や憩いの場において、白綺がいつも春絶の話をしていたとあけすけに書いてあった。
 おそらく、白綺は天神が背中を押してくれるなどとは目論んでいなかったはずであろう。戦場の外ではただ素直で、策謀など知らぬ子供のように純真なのだ。
 だが__だからこそそんな純真な振る舞いを見たものは、思わず手を貸したくなるのだろう。目を奪われ、なにかと関わり合いになろうとする。

 とはいえ、学問の神として多くの若人に知恵を授け、その歩みを助けることを掲げる神だとしても、まさかあの天神にこんな手紙を書かせるとは。

 白綺の人柄の良さを誇るべきか。あるいは、素直すぎるその性格と口でそんなに何を語ったのかと問い質すべきか。

「こ、これは言い訳ではなく、真実誠に誓って言いますが! 私は別に、酒に酔ってべらべらと喋ったとか、誰彼構わずあなたの話をしたのではありません!」白綺はもの言いたげな春絶に慌てて弁明した。「寧ろ彼らがあなたの話を聞きたがったから、必要に応じて話しただけで……」

 言い訳でないと言いつつ口調は尻すぼみになっていく。その肩越しに西日が明滅している。春絶は目を細くした。
 金木犀だろうか。ほのかに甘い匂いがした。

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