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第二章 神はいずこ
13-2 神はうたかた
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「春絶殿?」
音もなく歩み寄る春絶に白綺が呼びかける。だが春絶はいつも二人が向かい合って話す位置を超えてもまだ歩き続けた。
そうして春絶が歩みを止めたとき、白綺は呼吸が止まった。全身が黒くなめらかな感触に覆われていたからだ。
白綺は春絶に抱擁されていた。
「しゅ、」
一拍遅れて、抱擁されている、という事実をこれ以上なく心身に浴びて白綺の全身がかっと熱を帯びた。喜びを示そうと腕を動かしたいのに、指先のひとつ震えるだけで動きそうにない。
皮膚の下を流れる血がどうどうと流れ、今にも皮を破って噴き出すのではないかと白綺がそんなことを恐れているのに、春絶はただその腕に白綺を抱き寄せ、しまいには白綺の右足になにか柔らかなものが絡みつく。
____まさか、これは尾ではないか。
白綺は一挙怒涛に与えられる刺激と情報に混乱しながらもそう思った。いつも丈の長い羽織を着ているから分かりづらいが、時折羽織の裾から覗いていたそれ。精悍で寡黙な男の体に、獣の耳と尾。
それが今、自分の体に擦りつけられている。
「しゅ、春絶、どの」
ぴく、と春絶の耳が震えた。白綺の目の前で。どんな轟雷にも強風にも反応しなかったそれが。
ゆっくりと春絶がもたげていた首を戻す。二人の身長差ゆえに、白綺はより上背のある春絶の腕のなかにすっぽりと収まってしまって、そうしていると春絶の顔は見えない。ただこめかみに春絶の頬が当てられて、つむじのあたりに耳が当たっていて、それがやけにふわふわとくすぐるから落ち着かない。
抱擁がわずかに緩められる。白綺はどうにか手をぎくしゃくと動かして、目の前の黒い和装の合わせ目に置いた。押しのけるためではなく、その襟元に指先を引っ掛けるようにして。
そうして再び顔を見せあうと、急に言葉が出なくなる。
「あの、その……」
「白綺」
「へぁ」
「何故お前は私を欲しがる」
白綺が瞠目する。だが春絶は質問について、あれこれと付け加えて何か言おうとはしなかった。ただ水面を覗くように、白綺の頭の中すら見通すようにじっと見つめてくるだけだ。
何故春絶を欲しがるか。単純で、そしてあまりに直接的過ぎて、答えなければと思うと白綺は眩暈がした。答えようと考えた言葉が、質問がそうであるようにどれもあけすけで直接的だったからだ。
それでも言い繕えば見抜かれるだろう。出し抜きたいわけではないのだ。
白綺は一度息を吸い、余分な熱を吐いてから言った。
「私……わたしは、あなたの最も近くにいたいだけです。あなたを私の思うがままにしたいであるとか、何処かへ閉じ込めておきたいのではありません。
しかしこう言えば、あなたは好きにせよと仰るのでしょう。そこがたまたまあなたの傍だっただけで、そこにいるのもいないのも自由だ、と。でもそれは、私の求めるものではない」
白綺は鏡合わせのように二人の耳に下がる朱色の耳飾りを見た。大宰府の神使として出で立ちを変え、高貴な服に身を包んでも、一年つけていても、どうもしっくりこなかった。
けれどもこうして鏡に合わせてみると、昨日まで感じていた違和感などない。
そうして気づくのは、白綺は耳飾りを目にするたび、寂しがっていたということだ。昨日までの違和感は、二つに分かたれたもう一方が、目の届くところになかったからだ。
「私は、あなたの傍にいたい。しかしそれは、私だけの意志ではなく、あなたの意志でもあってほしい。それではじめて、私の望みが叶う」
「かつては四つの足で地を這い、言葉もなく吠えていたような男が欲しいのか」
「_____はい」
「大樹の枝葉が如く、お前には多くの道があり、可能性があるというのに。今日それを全て断ち、一つを選ぶと。挙句お前が選んだ道は、お前のように清廉なものではない」
「私とて清廉ではありません」白綺は口をすぼめた。「前々から思っていたのですが、春絶殿も私を稚児のように扱う。私にも欲はあります。こうして此処に戻ってきたのが何よりの証拠でしょう」
「それはそうだが」
白綺が春絶の手を握った。思えば、これまではいつも春絶の方から白綺の手を取るばかりで、引っ張るばかりで、白綺からその手を取ったのは初めてだった。
既に人間としては死んだ白綺の体は、老いることも成長することも無い。
それでも春絶は自分の手に感じる白綺の手が、すこし厚く、硬く、そして広くなったように思われた。
白綺、と春絶が呼べば、はい、と響くように返事があった。
春絶がわずかに黙った。それが最後の逡巡だった。
「____お前の意志に応えよう。他ならぬ、私の意志で。
____お前の心に答えよう。他でもない、ただひとり、ただ一匹の獣として」
祖を真神原の老大狼。かつてはその荒ぶる牙と爪とで神格化された真神という存在。
弱肉強食は獣の法。その頂点に立つ狼神は、人の世の移り変わりを俯瞰し、思い、そうしていつからか祈り__神性を得た精神に義を宿し、この地にある悪を誅し、善を勧む。
悪逆非道を罰し、善法正道を導く。
獣であるからこそ、本能に勧善懲悪を刻まれたならば、それに従う。
獣が本能のままに食らい、駆け、眠るように、真神が本能のままに罰するように。
その本能を研ぎ澄まし、己の心を「自由」という律令に捧げる。
すべてはただ、正しき沙汰のため。
けれども。
けれども、真神ではなく、そこにただ一匹の獣としての心があるのならば。
春絶としてこの世を儚み、想う「自由」を僅かばかり許されるのであれば。
そのかすかな自由は、向けられた情に報いるために使いたい。
「時の流れなど、そんなものにはもう頓着しない気でいたが」春絶は茫漠と呟いた。「このひととせは……なんとも長い、一年だったな」
「____ふ、」
白綺は頬を染め、噛み締めるように小さく笑った。「あなたでも、そんな草臥れた顔をするのですね」
「私のそばにいるということは、そうした小さな失望を浴びるということだ。そう遠くないうち、お前が私に抱いていた憧憬は幻想であったと思い知るだろう」
「失望と引き換えにあなたが知れるのなら、それでいい」
春絶は目を伏せ「奇特な男もいたものだ」とぼやいた。綴じた瞼越しに白綺が動くのがわかる。顎のあたりに息遣いを感じてすこし首を傾げて俯くと、少々遺憾そうな空気を感じたものの、すぐに思った通りの感触を口元に感じた。
音もなく歩み寄る春絶に白綺が呼びかける。だが春絶はいつも二人が向かい合って話す位置を超えてもまだ歩き続けた。
そうして春絶が歩みを止めたとき、白綺は呼吸が止まった。全身が黒くなめらかな感触に覆われていたからだ。
白綺は春絶に抱擁されていた。
「しゅ、」
一拍遅れて、抱擁されている、という事実をこれ以上なく心身に浴びて白綺の全身がかっと熱を帯びた。喜びを示そうと腕を動かしたいのに、指先のひとつ震えるだけで動きそうにない。
皮膚の下を流れる血がどうどうと流れ、今にも皮を破って噴き出すのではないかと白綺がそんなことを恐れているのに、春絶はただその腕に白綺を抱き寄せ、しまいには白綺の右足になにか柔らかなものが絡みつく。
____まさか、これは尾ではないか。
白綺は一挙怒涛に与えられる刺激と情報に混乱しながらもそう思った。いつも丈の長い羽織を着ているから分かりづらいが、時折羽織の裾から覗いていたそれ。精悍で寡黙な男の体に、獣の耳と尾。
それが今、自分の体に擦りつけられている。
「しゅ、春絶、どの」
ぴく、と春絶の耳が震えた。白綺の目の前で。どんな轟雷にも強風にも反応しなかったそれが。
ゆっくりと春絶がもたげていた首を戻す。二人の身長差ゆえに、白綺はより上背のある春絶の腕のなかにすっぽりと収まってしまって、そうしていると春絶の顔は見えない。ただこめかみに春絶の頬が当てられて、つむじのあたりに耳が当たっていて、それがやけにふわふわとくすぐるから落ち着かない。
抱擁がわずかに緩められる。白綺はどうにか手をぎくしゃくと動かして、目の前の黒い和装の合わせ目に置いた。押しのけるためではなく、その襟元に指先を引っ掛けるようにして。
そうして再び顔を見せあうと、急に言葉が出なくなる。
「あの、その……」
「白綺」
「へぁ」
「何故お前は私を欲しがる」
白綺が瞠目する。だが春絶は質問について、あれこれと付け加えて何か言おうとはしなかった。ただ水面を覗くように、白綺の頭の中すら見通すようにじっと見つめてくるだけだ。
何故春絶を欲しがるか。単純で、そしてあまりに直接的過ぎて、答えなければと思うと白綺は眩暈がした。答えようと考えた言葉が、質問がそうであるようにどれもあけすけで直接的だったからだ。
それでも言い繕えば見抜かれるだろう。出し抜きたいわけではないのだ。
白綺は一度息を吸い、余分な熱を吐いてから言った。
「私……わたしは、あなたの最も近くにいたいだけです。あなたを私の思うがままにしたいであるとか、何処かへ閉じ込めておきたいのではありません。
しかしこう言えば、あなたは好きにせよと仰るのでしょう。そこがたまたまあなたの傍だっただけで、そこにいるのもいないのも自由だ、と。でもそれは、私の求めるものではない」
白綺は鏡合わせのように二人の耳に下がる朱色の耳飾りを見た。大宰府の神使として出で立ちを変え、高貴な服に身を包んでも、一年つけていても、どうもしっくりこなかった。
けれどもこうして鏡に合わせてみると、昨日まで感じていた違和感などない。
そうして気づくのは、白綺は耳飾りを目にするたび、寂しがっていたということだ。昨日までの違和感は、二つに分かたれたもう一方が、目の届くところになかったからだ。
「私は、あなたの傍にいたい。しかしそれは、私だけの意志ではなく、あなたの意志でもあってほしい。それではじめて、私の望みが叶う」
「かつては四つの足で地を這い、言葉もなく吠えていたような男が欲しいのか」
「_____はい」
「大樹の枝葉が如く、お前には多くの道があり、可能性があるというのに。今日それを全て断ち、一つを選ぶと。挙句お前が選んだ道は、お前のように清廉なものではない」
「私とて清廉ではありません」白綺は口をすぼめた。「前々から思っていたのですが、春絶殿も私を稚児のように扱う。私にも欲はあります。こうして此処に戻ってきたのが何よりの証拠でしょう」
「それはそうだが」
白綺が春絶の手を握った。思えば、これまではいつも春絶の方から白綺の手を取るばかりで、引っ張るばかりで、白綺からその手を取ったのは初めてだった。
既に人間としては死んだ白綺の体は、老いることも成長することも無い。
それでも春絶は自分の手に感じる白綺の手が、すこし厚く、硬く、そして広くなったように思われた。
白綺、と春絶が呼べば、はい、と響くように返事があった。
春絶がわずかに黙った。それが最後の逡巡だった。
「____お前の意志に応えよう。他ならぬ、私の意志で。
____お前の心に答えよう。他でもない、ただひとり、ただ一匹の獣として」
祖を真神原の老大狼。かつてはその荒ぶる牙と爪とで神格化された真神という存在。
弱肉強食は獣の法。その頂点に立つ狼神は、人の世の移り変わりを俯瞰し、思い、そうしていつからか祈り__神性を得た精神に義を宿し、この地にある悪を誅し、善を勧む。
悪逆非道を罰し、善法正道を導く。
獣であるからこそ、本能に勧善懲悪を刻まれたならば、それに従う。
獣が本能のままに食らい、駆け、眠るように、真神が本能のままに罰するように。
その本能を研ぎ澄まし、己の心を「自由」という律令に捧げる。
すべてはただ、正しき沙汰のため。
けれども。
けれども、真神ではなく、そこにただ一匹の獣としての心があるのならば。
春絶としてこの世を儚み、想う「自由」を僅かばかり許されるのであれば。
そのかすかな自由は、向けられた情に報いるために使いたい。
「時の流れなど、そんなものにはもう頓着しない気でいたが」春絶は茫漠と呟いた。「このひととせは……なんとも長い、一年だったな」
「____ふ、」
白綺は頬を染め、噛み締めるように小さく笑った。「あなたでも、そんな草臥れた顔をするのですね」
「私のそばにいるということは、そうした小さな失望を浴びるということだ。そう遠くないうち、お前が私に抱いていた憧憬は幻想であったと思い知るだろう」
「失望と引き換えにあなたが知れるのなら、それでいい」
春絶は目を伏せ「奇特な男もいたものだ」とぼやいた。綴じた瞼越しに白綺が動くのがわかる。顎のあたりに息遣いを感じてすこし首を傾げて俯くと、少々遺憾そうな空気を感じたものの、すぐに思った通りの感触を口元に感じた。
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