椿落ちる頃

寒星

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第二章 神はいずこ

15-2 神はたまゆらに

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 次に何が起こったか。

 世界が水の中に沈み、その水が凍り付いて、最後には罅割れて砕ける。
 辛うじて感知したことを例えるならばそのようになる。

 そうして白綺は、気づけばただ白銀の雪原に立っていた。
 風もなく、ただちらちらと雪が降り続いている。地面と空の境目が分からない。何処を見ても、どちらを向いても___そもそも自分が今どの方向を向いて立っているかも定かでない。それほどまでに全てが白一色だ。

「_______」

 あまりに突然の出来事に呆然とするが、すぐに白綺は周囲を見回した。春絶を探したのだ。だがこの白い世界にあれば見落としようのない黒い出で立ちは何処にもない。
 
「____、___」

 春絶殿、と。
 呼んだつもりだった。だが声は音にならなかった。いいや喉から空気が流れている感触はあるし、喉の震えもわかる。
 もう一度、今度は首に手を当てて声を出してみた。やはり喉仏が震えている。声は出ているようだ。だが周囲の膨大な雪があっというまに熱と音を吸い込み、掻き消してしまう。

 白綺は息を吐いた。白い世界では、吐いた息が空気中で結露する様子もわからない。
 空気は肌を切るように冷たい。もはや吹雪に凍える人の身でもないというのに、それでも気を抜くと歯が勝手にカチカチとぶつかりあって音を立てる。

 これは現実の世界ではない、と白綺は早々に察していた。ここは、きっと春絶の神域だろう。神ならば誰もが持つ己だけの領域。力の大きな神であればあるほど、神域は広く、そして精緻にも出来るという。

 春絶の神域は、明らかに広大である__が、精緻かと問われたら、否だ。構造物も何もない一面白銀の世界に、精緻も粗雑もない。

「!」

 ともかく春絶を探さねば、と改めて辺りを見渡した時。
 流れる視界に一瞬なにかがよぎった。
 それは不自然な雪の舞い上がりだった。
 まるで誰かが、今まさに雪原を走っていったような。

「____待っ___!」

 白綺は咄嗟にそれを追いかけた。はっきりとした姿は見えない。だが等間隔で雪原に小さな穴が開き、なめらかに積もっていた雪が跳ね返され、舞い上がる。
 その白い飛沫を追った。白綺は足の速さは自他ともに認められたものであったが、先を走る透明な影もまた足が速かった。油断すればあっというまに引き離されてしまっただろう。 
 走る白綺の視界には、垂直に降る雪は吹雪のように見えた。実際に動いているのは白綺の方で、雪が自分に向かって吹いているように見えるのは、白綺が前に前にと進んでいるから__

 そうであったはずなのに、いつしか本当に周囲が吹雪き始めた。
 白綺はどうにか目を開けていようとしたが、ひときわ強い一陣の風が視界を埋めた。

 そしてその風が過ぎ去った後、景色は一変していた。

「____春絶殿?」

 そこには春絶がいた。
 吹雪など何処にもない。赤く、黄色く熟れた木々の葉が木漏れ日を返し、おだやかに舞い散る川辺だ。その川べりに積みあがった大岩の縁に春絶が立ち、川面を見つめている。
 こちらに背を向けるようにして立っていたが、その後ろ姿や獣の耳、朱色の耳飾りは間違えるはずもない。
 濃い果実や土の匂いと共に、おおい、と何処からともなく声が響く。

 ____おい、春絶____

 そして声の主は、白綺の両隣を追い越した。まるで白綺など見えていないかのように。
 一人、二人、三人が白綺を追い越し、追い抜き、あるいは通り抜けた。

 一人目は先ほどの声の主であり、獅子のような大男だった。たてがみのような長く豊かな髪に、山伏のような袈裟と武士のような額当てや甲冑をちぐはぐに纏っている。
 二人目は額に大きな鹿の角を生やした男だった。黒い袴に白い陣羽織を纏い、左右非対称に大きく生え出た角には擦り切れた赤い布がひと巻きされている。
 三人目は翁の面をつけた細身の男だった。襟がついた、袖に膨らみのない奇妙な形の着物を身に着けていて、履物のかわりか手足の指先まで黒い帯を巻きつけている。
 
 そして。
 呼びかけを受けた春絶が振り返る。
 そして春絶は三人を認めると__ふっと笑った。優しげでも穏やかそうでもなく、どこか意地の悪い、気安い笑みだった。

 ____今日は誰だ。慶夏けいかか、秋唄しゅううか?
 ____なんで毎回毎回俺の名前が一番に上挙がる! 俺は先週やらかしたばかりだろうが!
 ____自分で答えを言っていると思うのは僕だけか? 慶夏よ。
 ____待て。慶夏はいいとして、何故その次が我なのだ。
 ____呵々! てめえは先月大一番やらかしたろうが! あれに比べりゃ俺の喧嘩なんぞかわいいもんよ!
 ____そもそもあのならず者どもはお前へ仕返しに来たところ、貴様の知人だということで我に絡んできおって……
 
 獅子のような男と仮面の男の言い合いが熱を帯びる。
 春絶は慣れた様子で川べりの岩へ腰を下ろす。その隣に鹿の角を生やした男がちょこんと腰かけた。

 ____よう、今日も今日とて考え事か。山はこんなにも色づき、最後の盛りとばかりに花が香っているというのに。
 ____冬巌とうがん
 ____慶夏がずっと前からいたこと、気づいていなかったろう。お前が難しい顔をしているから、どう声をかけたものかと向こうの藪で頭から湯気を出して悩んでいたぞ。
 ____山霧かと。今朝通り雨があったからな。
 ____僕は、慶夏が川上からどんぶらこどんぶらこと流れていくなんてどうだろうと言ってみた、秋唄がすぐ後ろまでやってきているのにも気づかずにな。危うく僕が簀巻きにされて流されるところだったぜ。あの二人、いつもは喧々しているくせに、ああいうときばかり意気投合しやがる。
 ____何をしているんだお前たちは。
 ____何をしているか? 単純明快、友人を心配しているのさ。

 鹿の男が足を組み、頬杖をついた。あえて目線は木々を見て、春絶には向けられていない。

 ____嗚呼、我らが飛鳥のなんと美しいことよ。

 鹿の角に巻かれた赤い帯が揺れる。それは随分古く、そして煤けていた。

 ____これほど美しい風景を、どうして愛さずにいられようか。如何にすれば、この美しき思い出のよすがを、易く捨て去れようか。いいや、出来るはずなどないさ。

 冬巌、と。
 短く友を呼ぶ春絶の声には、その先を言わせまいとするしずかな力があった。
 だが鹿の角はゆっくりと振れた。横に。

 ____耳を澄ましてみろ、水面を覗き込んでみろ。お前がいくらここで待ち侘びたところで、そこには小鳥の一匹も、小魚の一匹もいやしない。いまも川が流れているのは、彼らが去り際に流した涙が枯れないからだ。

 いつしか口論の声は止んでいた。そうすると、あたりはしんと静まり返る。
 木々の葉が散る。降り積もる。水が流れる。だがそこに、なにかの息吹を感じることはできない。木の葉の一枚とて、それは最後の力を振り絞り、老いさすらえながら去り行く。

 ____勧善懲悪。

 誰かが呟いた。誰か一人が、あるいは誰かと誰かがまったく同時に。
 もしくは、四人が全員。

 ____獣が道理を語るかよと、そう嗤ったのは誰だったっけな。慶夏、お前が地面に頭から埋めてやったあの”ごうまんちき”だ。やたら長い名前だったよな。
 ____大言壮語抜かすわりに軟だったことしか覚えてねえな。尻穴のように窪んだ顔では誰かもわかるまい。

 獅子の物言いに、仮面の下から深いため息が漏れる。だが言葉でどうとは言わなかった。鹿の男はからからと笑った。

 ____弱肉強食は獣の法。だが、それは暴虐と悪政の免罪符にはならん。

 翁の面の下から朗々と声が届く。面とは裏腹に、その声は若くのびやかで、静かな熱を孕んでいた。

 ____強きものは、強きものこそ善でなくてはならん。力には常に、徳が伴わねばならんのだ。位高ければ徳高く在れ、と。
 ____然り、然り!
 ____と、まあうちの秋唄先生と門下の慶夏くんはこんな具合だ。勿論僕もな。

 誰が門下だ! と獅子が吠える。だがすぐにその顔はニッと笑い、隆々とした腕が春絶を立ち上がらせた。
 四人は互いの顔を見合った。もう出会って何年になるだろう。出自も来歴もばらばらで、時には互いの血を見たこともある。諍いも、決裂だって一度や二度ではない。
 それでも、ただ一つ志だけが常に同じだった。

 飛鳥の山が巡る四季。優劣をつけるべくもなく、語るに落ちる美しいその季節すら、友が望むのなら喜んで分けてしまおう。
 その友誼の証は四人の名にあらわれている。

 春を絶ち、夏を慶び、秋を唄い、冬の巌を超えても、きっと変わらず。
 善を勧め、悪を懲する。悪を憎み、善を愛する。

 ____たとえ大罪人に成り果てようと、我らできっと……

 そこで春絶の声がふいに掠れ、濁った雑音にうずもれた。
 白綺はハッとして、目の前の光景に自分が没入していたことに気づいた。そして白綺の覚醒と連動するようにして、秋の山、紅葉と小川、そして四人の姿は急速ににじみ、ぼやけていく。
 まるで水が凍り付いていくように、景色が白濁と遠ざかっていく。
 
 ____そして次の一陣が吹きすさんだ後、全てが一変する。
 
 そこは赤黒くあたたかで、滴るほどにみずみずしく濡れた、かぐわしいにおいのする場所だった。

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