椿落ちる頃

寒星

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第二章 神はいずこ

17-1 神はゆめゆめ

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 「白綺」
 と、春絶はついに呼んだ。「白綺……」

 そうしてようやく呼びかけては、二の句を継ぐことなく、うっすら開いた口は閉じてしまう。
 舞うように降る雪がしんしんと積もる。ただ白く凍った断崖に立って、二人は向かい合っている。随分長い間話し込んでいたような気がしたが、春絶の肩にも白綺の肩にも雪は積もっていない。雪はまるでわきまえたように二人の肩にだけは縋りつくことなく、その表面をなめらかに滑り落ちていく。

 ただし、白綺の頬をかすめた雪花だけは、そこに流れる涙の熱によって溶かされた。拭われることも、堪えられることもなくただとつとつと流れていく大粒。
 嗚咽も何もなく、白綺はむしろ険しい顔をしている。そうして春絶の胸のあたりをただ見据えたその目からはらはらと涙だけが絶えない。

「白綺、」春絶はまたも呼んだ。もう三度目だ。「白綺、泣くな」

 泣くなと言われてそうできるならしたい。白綺は両目に力を込めたが、それはますます涙を溢れさせるだけだった。
 情けない、と白綺は噛み締めた口の中で吐き捨てた。こんな風になるから、春絶が今の今まで過去を明かしてくれなかったのではないか。
 いま白綺が我が事のように感じている悲しみも虚しさも苦しさも、かつて春絶が感じたそれには遠く及ばない。春絶の過去の激情はこの神域へ罪過と共に封じ込め、真神としての責務と権能によって完全に管理されている。
 白綺はこうして、ある意味で最も安全な檻の前からその一部を垣間見ているだけだ。
 そうだと分かっていて、今自分が振り回される激情を乗り越えた本人を前にしても、それでも白綺はぼたぼたと涙をこぼし続けた。

「白綺……」

 春絶が困っているのが分かる。涙を拭うべきだろうかとも思う。
 情けないとは重々承知している____だが、あえて白綺はそれを隠さなかった。

「白綺、そんなに泣くと、目が溶ける」
「……溶けません」
「もう幾ばくか取り繕えると思っていたのだが、気が緩んでいるようだ。お前の心をそこまで乱すつもりはなかったとはいえ、重ねての不手際を詫びる言葉も無い」
「詫びてほしいのではありません」

 白綺は一度口を閉じ、それから言った。「詫びなければならないのは……無力な私のほうだ」
 それに対し春絶が何か言うよりもはやく、その手を白綺がつかんだ。そうしてまるで子供を家へ連れ帰る親のように、先に歩き出す。

 春絶は何も言わずにただ手を引かれるまま歩いた。二人が此処まで歩いてきたときにつけた足跡はもはや雪に覆いつくされている。それでも白綺はまっすぐに歩いた(これは実のところ、驚嘆すべきことだった)。

「春絶殿」

 雪はまだ絶えず降り続いている。先を歩く白綺の顔や肩にそれはぶつかり、大粒なものは砕けてまた足元に積もっていく。

「なんだ」
「あなたは私がこれらのことを知るべきだと言った。先代を討ったことや、神々を裁いて回ったこと……私がそんなはずはないと言ってきた、あなたの異名が真実であることを。
 そうしてそれらを伝えて、伝えたときに__私の気が変わると思っていましたか」

 春絶は黙った。少しの間、二人の足が雪を踏みしめる音だけが聞こえた。それは心臓が締め付けられるような音だった。

「__いいや」

 と、春絶は静かに答えた。「自惚れと言われるかもしれないが……お前はそれでも、心を変えないだろうと、そう思っていた。それでも、もし万が一お前の心が変わるのであれば」
「私の心は変わりません」
 ほとんど即答だった。
「そうか」
「あなたはただ、悲しかったと言えばよかったのです」

 白綺が言った。

「悲しかった、辛かった、苦しかった。寂しくて、虚しかった、と言えばいい。自らの行いを、まるで告解のように打ち明けるのではなく、ただ辛かったから胸の内を聞いてくれと、寂しいからそばにいてくれと、それでいいのです。
 あなたは確かに正しく、そして強大な力を持つ神ですが、私がそれだからあなたと契るのではありません。あなたが神でなくとも、四つ足で地を駆ける獣でも、ただ月を見て鳴いたとて、あなたがあなたなら、それでいい。私は春絶殿を慕っているのです。その春絶殿が、真神だっただけのことです」

 口数は少なく、いつも何を考えているか分かりづらい。
 達観していて、こちらが何かに喜んでいたり腹を立てているのを、いつも一歩引いて眺めている姿を見ると、少々ばつが悪くなる。

 だが、何も感じないわけではないと知っている。寧ろ多くのことに感じ、嘆するから、真神としての責務に向き合うため、心の在り様に厳しく、平らかであることを己に課している。
 心は自由に。
 祈りのように、あるいは呪いのように繰り返すその言葉の意味は、何にも囚われてはならないという訓戒だ。
 囚われれば、公平ではいられない。公平さを失ったものが崩れ、転がり落ちて、行きついた果てを春絶は目の当たりにし、そうして胸に刻んでいる。二重の痛みとして。

「私があなたに対して正しき判断を下せるかどうかなど、あなたのことで損をするか得をするかなど、あなたが気に病むことではありません。誰しも間違い、損をして得をしながら生きていくのです。その全てから私を守る責任は、あなたにはありません。
 あなたはただ、私に言いたいことを言って、私にしてほしいことを言えばいいのです。訳は後でいいし、理由など忘れても構うものか。
 あなたが何かを感じたとき、何かを望むときには、ただまっさきに私を頼ればいい。それで____それだけでいいのです」

 公平でいなければならない。

 公平でいるためには、何かに拠ってはならない。
 事実を並べて、善悪を裁定する。罪を量り、沙汰を下す。審判が終わり、また雪と氷が平らになめした心に、また事実を並べて、重さを量り、裁きを決める。終わればまた事実の石を積み重ね、重さを比べて。
 心は自由に。

 心は。

「私に何かできることはありませんか」

 自由でいなければいけない。
 何に忖度することなく、何を恐れることもなく。

 何かに執着することもなく。

 なにかを手にしても、いつでもそれを手放せるように。

「私にしてほしいことはありませんか、なんでもいいのです」

 いつでも。

 この手を。

「私はいつもあなたに助けてもらうばかりで……」
「____手を、」

 白綺の足が止まる。
 踏みしめた地面を覆う雪が半透明に透けていた。
 振り向けば、春絶の肩越しに見える白一色の曇天に、まるで墨を垂らしたように透き通った夜空が染み出す。

 あれだけ降っていた雪が止んでいることに、足を止めてようやく白綺は気づいた。
 
「手を、握ってくれないか」
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